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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書ノート『鷲と蛇』恩寵と救済

『鷲と蛇』―シンボルとしての動物/マンフレート・ルルカー著/林捷訳
《叢書・ウニベルシタス531》法政大学出版局1996

「第十一章 恩寵と救済のシンボル」より必要部分を抜粋

トラキア・フリュギア地域起源の神サバジオス(Sabazios)の祭祀において、蛇は特別な役割を演じていた。サバジオスはヘレニズム時代に別の様々な神と合体し、その神名との類似から、ユダヤの神ゼーバオト(Zebaoth)とも混合した。蛇はサバジオスの化身とみなされた。この神の秘儀において、1匹の蛇が神官の胸の中に押し込まれ、再び懐から引っ張り出された。「性交を暗示するこの行為によって、明らかに神と秘儀者との合体が表現されていた」。カナーン・シリア地域において、蛇が神の聖なる動物であったという例証は数多くある。ベールシェバ(イスラエルの都市で、近郊に古王国時代の遺跡がある)の近郊で、紀元前8世紀の燔祭の祭壇が発掘されたが、その礎石のひとつに、1匹の曲がりくねった蛇が描かれていた。

旧約聖書に明らかなように、ヒゼキヤ王の時代に青銅の蛇が崇められていた(烈王記下18,4)。それはモーゼが荒野で造った蛇と、同じものと考えられていた。神と口論したため、その罰として神は「火の蛇」(ヘブライ語でサラフsaraph=「燃える」の意)を送り込んだ。「蛇は民を咬み、イスラエルの民の中から多くの死者が出た」。モーゼのとりなしに応じて、神は、青銅の蛇を造ってそれを高い棒の上にかかげよと命じた。「蛇に咬まれた者がそれを見上げれば、命を得る」(民数記21,6-8)。(中略/モーゼによる棒(杭)の製作を描いた11世紀の聖書挿絵)

蛇は死と生をともにもたらすことができ、それゆえヒゼキヤ王の時代に、その青銅の蛇はネフシュタン(Nehuschtanヘブライ語で「青銅の蛇」の意)という名前の偶像になり、その前で香が焚かれたのである。たんに蛇を仰ぎ見るからではなく、それと結びついた神への信仰が救済をもたらすのであるが、このイメージは、新約聖書の重要な箇所に再び登場する。「そして、モーゼが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ3,14-15)。それゆえ立てられた棒上の青銅の蛇は、キリストの十字架の死と、それに結びついた救済の一類型である。教父アンブロシウス(333-397,ミラノの司教で四教会博士のひとり)は、青銅の蛇とキリストをまったく同一視している。この同一視は、蛇のヘブライ語(nachasch)が、メシアのヘブライ語(Maschiach)とよく似ていることも根拠になっている。中世後期には、ミラノのサン・アンブロジオ教会の円柱上に置かれた青銅の蛇が、奇蹟を行うといって崇められた。16世紀になると、そのモチーフは最終的に、個人的な救済願望の象徴となり、紋章(例えばドイツの宗教改革者メランヒトン)やエンブレムやプロテスタントの墓碑銘に取り入れられた。

ユダヤ・キリスト教やヘレニズムやイランの教説に影響を与えた、後期ギリシア・ローマ時代のグノーシス運動には、様々な宗派が属していたが、それらは拝蛇教(オフィス派Ophite)の名の下にまとめられ、蛇(ギリシア語でophis)の像を神とみなしていた。ナーセネ派(Naassene)はまさに蛇(ナースnaas=nachasch)以外の何ものをも崇めなかった。ペラテ派(Perate)は、父と子と物質の三位一体を知っていた。「父と物質の中間に、ロゴスである神の子イエスが位置している。神の息子である蛇は、不動の父を受け取った後、今度は物質に向かう。質も形体ももたない物質に、予め父から子に伝えられた理念が、その子によって刻みこまれる…蛇である子がいなければ、何人も救われることも、昇天することもできない」。セト派(3世紀、特にエジプトで広まったグノーシスの一派)の教説によれば、人間はデモーニッシュな曲がりくねる蛇と自然の子宮の共同作業によって生まれたという。天からやってきた完全な神の子イエス(ロゴス)は、おのれを蛇に似せて、不浄な母胎に入った。神の子イエスは、曲がりくねる蛇に似ていることで母胎を欺き、完全な精神(nous)を縛りつけている束縛を断ち切った。神のロゴスが処女の子宮に下りたつのは、下僕の挙措である。ここでは、神的なものは蛇の上位に位置しており、前者は後者に打ち克つために、その姿を取ったにすぎない。

蛇が人間の幸福に役立つという考えは、シュメール時代にまで遡ることができる。例えば角の生えた蛇は、ニンギシュツィダ神(Ningischzida)の象徴動物であるが、その神は一方では冥界に属し、他方では天の門の番人とみなされている。「真の樹木の主」というその名前は、蛇によく似合う生命樹を想起させる。ニンギシュツィダ神の父の名前ニナズ(Ninazu)は、「医師」を意味している。

ホメロスを引きあいに出して、アスクレピオスが本当に医者として生きていたのか、という問いはさておき、彼の崇拝が紀元前5世紀以来、テッサリアからギリシアの全文化圏に広がっていたことは確かである。恐らくアスクレピオスの中に、もともと予言と治癒力をもつ、蛇として崇められていた古代の治癒神が生き長らえていたのであろう。

エピダウロスのアスクレピオス神殿(Asklepieion)は、アスクレピオスの聖所として有名だった。そこでは、その神は人間の姿で表されていたが、崇拝はその神に捧げられていた蛇にまで及んでいた。アスクレピオスの聖所を新たに造る際、蛇は神の化身として、荘厳な行列をつくって運ばれた。紀元前291年に、ローマのアスクレピオス神殿がテヴェレ川の川中島に落成した時、そのためにわざわざ動員された使節団が、エピダウロスから聖なる蛇をローマに運んだ。

アスクレピオスの最古の描写は、紀元前4世紀にまで遡るが、その姿は、蛇が巻きついた杖によりかかり、ヒマチオン(古代ギリシア人が羽織った四角布)を羽織り、髯を生やした中年の男として表されている。蛇の巻きついた杖(枝)のモチーフの背後に、広い意味での生命樹を認めることは、さして困難ではない。

「アスクレピオスの杖」はラテン語化されて、「エスクラプの杖」(Äskulapstab)と呼ばれているが、今日でも医者や医術の象徴となっている。その神の娘は特徴的なことに、「健康」を意味するヒュギエイアという名前である。古代の献納レリーフでは、彼女は蛇が飲食するために、蛇にカンタロス(古代ギリシアの両側に取っ手のついた杯)を捧げもつ姿で表わされている。ローマ帝国では、ヒュギエイアはサルスという名で、社会の安寧の守護者(salus publica)になった。17世紀には、蛇形の皿や杯が薬学の独立したエンブレムとして登場した。ヒュギエイアはまた、古代において賢い動物としての蛇を伴って描かれたアテネ女神の姿に移行することもあった。締めくくりとして、今度は中世の描写であるが、プルデンティア(Prudentiaラテン語で「分別」「思慮深さ」の意)に言及しなければならない。彼女は分別の擬人化であり、イエスの「蛇のごとく賢くあれ」(マタイ10,16)の言葉に依拠して、蛇の巻きついた杖を描いた盾をもっている。近代において、彼女は「医者の分別」(prudence médicale)の意味を引き継ぎ、その盾は今度は、蛇がその柄に巻きつく鏡に取って代わっている。

フランスの文献において、アスクレピオスの杖が、「アスクレピオスのカデュセ」(caducée de l'Esculape)と表記されるのは、必ずしも正しくない。アスクレピオスの杖には、よく見れば1匹しか蛇はいないのに、ローマの神メルクリウスの杖には、2匹の蛇が巻き付いているからである。蛇杖の一種の先駆を、シュメール王グデーアの奉納の壺に見ることができる。さらには、石柱上のギリシアのヘルメス神に付与されたアトリビュートは、杖の上で絡み合う2匹の蛇と解釈されるが、この解釈に異論の余地がないわけではない。カール・グスタフ・ユングは、これらの蛇が「性的合一の行為にある」ものと捉え、2つの世界の仲介者としてのヘルメス神の役割を強調している。ホメロスにおいて、ヘルメスの持つ黄金の杖は、人間を眠らせることのできる魔法の杖であった。後にそれは、神々の使者の持つ「伝令の杖(ケリュケイオン)」(kerykeion)となったが、その先端は、2匹の蛇とも解釈できる、絡まりあった8字形をしていた。ローマの神メルクリウスのアトリビュートとして、この杖は「カドゥケウス」(caduceusはラテン語で伝令使の杖の意)と呼ばれ、近世において、独立したモチーフとして、商業のシンボルとなった。

杖のまわりに絡み合った2匹の蛇に、異なる両極の力を認めようとする試みは、恐らく間違っていない。上述したC・G・ユングの見解に従い、男性原理と女性原理が考えられよう。神やその仲介者のアトリビュートの配列において、太陽と月の意味、すなわち宇宙の2つの基本的な力を指摘することも可能であろう。ナイルの川中島のフィーレ(アスワンの南にあった島で、古代エジプトのイシス・ホルス崇拝の巡礼地)の神殿入口の側柱(紀元前1000年頃)には、杖に巻きついた蛇が、各々1匹ずつ描かれている。一方の蛇は上エジプトの、他方は下エジプトの王冠をかぶっており、古代エジプト人の二元的な思想がそっくり、この二分された王国に反映している。

ヘルメスないしはメルクリウスの杖において、互いに対立し睨み合う2匹の蛇は、より高い段階で1つに合体する。ある古い伝説によれば、神が「争っている2匹の蛇を杖で打ったところ、蛇は従順になって、杖にまとわりつき、結びつけたり、ほどいたりする呪術的な能力を神に授けた。この伝説は、区別すると同時に1つにする精神的行為の開始によって、無秩序が秩序に、不和が調和に変容することを語っている」。神々の使者の靴に翼が生えているのと似て、一対の翼がメルクリウスの杖に生えているゆえに、その杖は、すべての対立が止揚される真の全体性の象徴となりうるのである。錬金術において、両性具有のメルクリウスは、そこに全エレメントが含まれ、そこから全形態が派生する第一質料(prima materia)を交互に象徴することができる。

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2008.9.27ホームページ更新

隠れ里サイト『深森の帝國』の更新情報です。

あちらをちょっと、こちらをちょっと、の更新でしたが、或る程度の量がたまってきたので、まとめてお知らせです。気が向いたら、どうぞお楽しみにいらしてくださいまし

資料集にある『ニーチェ・セレクション』をちょっと修正追加
http://mimoronoteikoku.tudura.com/appendix/book/Nietzsche.html

「葉影和歌集」のパートで、「道(宇宙の寂静の底に)」という長詩を公開しました。現在時点で制作中の章、「坂下宿」の下敷きとなっているポエジーです。

道(宇宙の寂静の底に):直通アドレス
http://mimoronoteikoku.tudura.com/garden/waka/57sinobi_02miti_jakujo.html

異世界ファンタジー試作20

異世界ファンタジー6-2降る雪:《霊送り》

ユーフィリネ大公女の墓穴発言をきっかけとする、王宮における捕り物劇がピークを迎えていた頃。

王宮内部の騒動など全くあずかり知らぬ平民たちの日常は、冬本番の到来と共に、穏やかに過ぎて行った。強烈な寒気に包まれると、灰色の分厚い雲の下、早くも初雪がチラホラと舞い始めた。

養老アパートの一室、ほとんどの家具が運び出されて広々となった居間の床に、熟練の神祇官の手によって、《霊送り》のための魔法陣が描かれた。魔法陣の中央に移動させられたベッドの上には、老女が穏やかな顔で横たわっている。

天寿を迎えたロージーの祖母は、最後の覚醒をしていた。シッカリとした眼差しは、意識が明瞭である事を示していた。

「私たちが分かりますか?リジー様」
「ええ、バッチリ分かるわ」
「天寿の日に、意識がハッキリしている方は珍しいんですよ。よっぽど思い残しや未練があったりします?」

ライアナ神祇官は驚きながらも笑みを浮かべ、祖母の様子を窺っていた。ファレル副神祇官は安静効果のある香料を練り込んだ蝋燭を燭台にセットし、魔法陣の周りに配置している。ロージーは終始、その時が近づいているのを感じて緊張していた。ファレル副神祇官が用意した蝋燭の香りは、祖母だけでなく、ロージーをも落ち着かせるはずである。

祖母は「えーえ、未練は無いけど、大きな思い残しがあるのよ」とユーモアたっぷりに呟いた。

「ロージーの《宿命図》が変な事になってると言うじゃないの。恋愛運が歪んでたなんて、ああ成る程と思ったけど」
「それは、対応済みですよ。王宮に報告に行ったら、即日で王宮の書庫が開いたので、その日のうちにロージー様の成人時の記録コピーを持ち帰る事が出来ましてね――前にも話しましたよね」

ロージーも、その時のことは覚えている。あの日、祖母は珍しく一日中、意識がハッキリしていたのだ。ロージーは、好奇心で目をキラキラさせた祖母の促しに応えて、あの監察官との馴れ初めから最近に至るまでの恋バナ――あるいは相談――を祖母に披露する羽目になり、恥ずかしいやら落ち込むやらで、混乱し通しだったのである。

その日の昼下がりを余程過ぎたころ、ライアナ神祇官とファレル副神祇官は、戻ってくるなり『《宿命図》の歪みが大きく、このままでは不自然な形で《死兆星》が再発する危険があるため、成人時の記録にさかのぼって修正を施します』と説明した。

恋愛運を中心に、通常の範囲に収まらぬ異常変位が見られたと言う。祖母は目をパチパチさせ、『じゃあ、ロージーに《運命の人》が出来たのも、そのせいなの?』と、ロージーの疑問を代弁した。

ライアナ神祇官は、それを否定した。《宿命図》に《死兆星》が発生したことで、《運命の人》との関係に何らかの変化は起きたとは思うが、ロージーが禁断の恋に落ちたのは、それよりも前である。《宿命図》を修正して過去の状態に戻したとしても、あっという間に、現在の状態に合致する自然な《宿命図》となって落ち着くはずだ。

『恋がどうなるかなんて私にも分かりませんが、《死兆星》の影響は弱まりますから、将来に向けてどんな決定をしたとしても、不自然な危機に見舞われることは無くなると思います。AのふりをしたB、Bに見せかけたC、なんていうような不自然な危機にはね』

ファレル副神祇官がライアナ神祇官の補足をした。

あの襲撃事件は、初期の取り調べでは、「公費流用や横流しがバレるのを恐れた業者の企み」という結論が出ていたのだ。実際、ロージーは、「公費流用による不正購入、及び品々の横流しがバレて逃走し、正義の追っ手によって無残な死体にされる」予定だったのである。しかし、真相は全く違う可能性がある――恋愛関係のもつれ、ないしは誤解が、底にあるのかも知れない。ロージーには全く思い当たりが無くても、先方にはそれだけの強い理由があるという事態は、十分に考えられるのだ。

(全く身に覚えのない事で殺されかけるなんて、私ってホントに運が悪いのかも…)

ロージーの手のひらに浮かび上がる《宿命図》は、成人時の記録データを元に、数日にわたって修正と言う名の「オマジナイ操作」を施された。歪みが大きすぎたため、微小修正とは言っても、かなりの変位を修正する羽目になったためだ。特に、無関係と思われた金運にまで不自然な歪みが及んでいたのは、ライアナ神祇官を仰天させたようだった。

ライアナ神祇官は腹に据えかねるといった様子で、『不良神祇官のヤツ、一体どんな《係数》を使ったのよ。全てが終わったら、私が直々に拷問してやろうかしら』などと、物騒なことを呟いていたのであった。

――閑話休題。

祖母は、差し出された孫娘の手を取り、「ロージーが心配なのよ」と呟いた。「ロージーと《運命の人》との間で決着が付くまでは…と思ったけど、こればかりはしょうがないわね」

祖母は遠くを見るような目をして、意味深な笑みを浮かべた。

「ロージーの話を聞いてビックリしたのは、リリーが《運命の人》を感じた時の状況と割と似てるって事なの。季節も場所も全く違うんだけど――人付き合いの都合で、《運命の人》と出会ったと言う他の人の話も割と小耳に挟んできたんだけど、《運命の人》との恋は、雪の影を思わせるイメージ――ひっそりとしたイメージで、共通しているみたいね」

ライアナ神祇官とファレル副神祇官は少し離れたところで様々な作業を続けていたが、祖母の話が佳境に入って来た――今なお謎の多い《宿命図》の話題にも触れて来る――事に気付き、そっと聞き耳を立てていた。

「これは元々リリーのための作品だったけど、友達に結構褒められたのよ。ロージーの方がピッタリしてるかも知れないわ」

そう言って祖母は息を整えると、静かな声で朗唱を始めた。

*****

運命のアストラルシア――
そは 根雪の底に 秘めし星
《宿命》の光の影なす わが命

かの佳き日
澄み明らかなる 青空に
いやが上にも 冴え渡る
――雪白の連嶺よ!

願わくは今しばし 雪な踏みそね
我に微笑む 美(よ)き人よ!

我が恋は 底つ根にこそ 結ぶ恋
涼しき影の 去る前に
汝 意あらば 花とやすらへ

*****

朗唱が終わり、感慨深い沈黙が満ちた。

やがてライアナ神祇官がハッと息を呑んだ。

「リジー様、それは"無名詩人リゼール"の作ですよね?――あら…もしかして…?!」

祖母は恥ずかしそうに顔を赤らめて微笑み、「まあ、私の名前は思ったより有名だったのかしら」と応じた。

「夫や親友に誘われて余暇に始めた趣味の活動だったから、プロじゃないの。流石に本名は、そっち方面に詳しかったら…と思うと恥ずかしかったし、あなたがたの事は一目で気に入ったから、愛称の自己紹介になっちゃったのよ――最後の最後で申し訳ないんだけど、堪忍してちょうだいね。《霊送り》報告書の名前の欄はロージーがサインするから、"まあいいか"と思ったし」

ちなみに"無名詩人リゼール"は、かつての権力闘争のピーク時、殺伐とした世相の片隅で活動開始した抒情詩人として記録されている。辺境出身を思わせる何処か「流行おくれの詞」と「のほほんとした雰囲気」、特徴のある抒情性が、数少ないとはいえ一部の人の関心を引いた。多くの作品はハッキリ言って「ヘボ」であったが、たまに「おや」と言えるような作品があったのだ。先ほど朗唱した小品は、その一つである。

――祖母の変わった秘密主義とユーモアは、最後の最後になっても健在であった。

「何よ、それ」と泣けるやら笑えるやら、不思議に陽気な雰囲気の中で、祖母は穏やかに息を引き取ったのである。竜人の標準的な最期、つまり一片の鱗を残して肉体は光の粒となって蒸発し、夕方の光に同化して行った。もっとも、これは賑やかな見送りを望んでいた祖母の、狙ったことであったかも知れない。

ある意味、祖母もまた、人生の達人と言うべき人だったのだ。