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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

2023年1月こぼれ話:中国ゼロコロナ解除と渡航ビザのヒト悶着

将来なにかに役立ちそうな、こぼれ話:元ネット記事の消滅に備えて記録保存
「政治はアートなり、サイエンスにあらず」―陸奥宗光(外相)
※外交はアートなり、とも言えそう

「外交交渉を、やれ自主外交、やれ協調外交と区別するほど無意味なことはない。どの国の外交だって自主的でないものはない。だが他国と交渉するかぎり他国との意見の一致を得ようと努力しない外交もない。その点どの国の外交だって協調的ならざるを得ない」幣原喜重郎(首相)

「諸国民、とくに共和制をとる諸国民、または、大衆がその国の運命に影響を与え、あるいはそれを左右している諸国民の場合においては、彼らは利益によってよりも激情によって格段に甚だしく昂奮する」パーマストン子爵(英首相)


中国“報復解除”の理由…ビザ発給「ボタンの掛け違い」と日本の「ファインプレー」(ANN、2023.02.01)
https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000285652.html

2022年12月にゼロコロナ政策を撤回した中国で、1〜2カ月の間に起きた新型コロナのすさまじい感染爆発。感染した人の数は、14億人の総人口のうち、9億人とも11億人とも言われている。 2023年1月25日までの全世界の累計感染者数が6億6000万人強であることを考えると、3年間の全感染者数を優に超える人たちが、一気に感染したことになる。
懸念されるのが、変異株の発生で、当然各国は水際対策の強化に乗り出したが、中国当局は「差別的だ」と猛反発。
そこで起きたのが、日本と中国の、ビザをめぐる「せめぎ合い」だ。
だが、実はそれは、勘違いから始まり、日本側の“あるメッセージ”がきっかけで、何もなかったかのように修正されたと思われるのだ。
■口火を切ったのは日本 駐在の日本人に影響も
最初に口火を切ったのは日本だった。12月30日から、中国からの渡航者に対して抗原検査の実施を発表、陽性の場合は原則7日間の施設隔離とした。
この時点までに中国国内では、火葬場に行列ができるなど、コロナによる死者が急増していた。しかし、中国当局の発表する死者数はいつまでも1桁台。情報提供の姿勢に懸念が出るのは当然で、日本が自前で科学的な予防措置を取るのは合理的だといえた。
しかし皮肉にも、この措置で一番影響を受けたのは、正月の一時帰国を予定していた中国駐在の日本人だった。中国での隔離がなくなったと思ったら、母国で隔離されてしまうかもしれない不条理。日本に自宅があっても、原則は施設隔離という点も、不興を買った。隔離の影響で、中学受験ができなかった子供の話は、新聞でも大きく取り上げられた。
さらに、日本は1月8日から、検査のレベルを、PCR検査もしくは抗原定量検査に引き上げた。この措置はさらなる反発を呼び、今度は中国が「報復措置」に踏み切ることとなる。
■韓国から始まった報復 日本にはさらに厳しい「全面停止」
1月10日、まず報復措置が発表されたのは韓国に対してだった。韓国は日本と同じ到着時のPCR検査に加え、中国人に対する短期ビザの発給停止に踏み込んでいた。
そこで中国も、韓国人に対する短期ビザの発給を、同じく停止した。この時点までに、中国外務省は「差別的な」入国制限を行った国には「相応の措置」を取ると示唆していた。
私は日本が、中国人へのビザを停めていない以上、報復措置があるとしても、ビザの発給停止はないだろうと踏んでいた。しかし、その予想はあっさり裏切られた。
同じ日に発表された日本への報復措置は、長期も短期も含めた全ての「一般ビザの発給停止」という、韓国よりもさらに厳しい内容だったのだ。
「一般ビザ発給停止」の発表を受けて、北京駐在の日本人には、再びショックの波が押し寄せた。家族が呼べなくなってしまう…後任が来られなくってしまう…様々な不安の声が飛び交った。
なぜ、中国は日本に対して、ここまで厳しい措置を取ったのか、中国側の色々な人に聞いたが、はっきりした理由はわからなかった。しかし多くの人が誤解して口にしたのは「だって、日本だってビザを止めているでしょう?」という答えだった。繰り返すが日本は「ビザ発給」は停止していない。
もしかしたら、どこかでボタンを掛け違えたまま、不要な「せめぎ合い」をしているのではないか。そんな思いが確信に変わったのは、この言葉を耳にした時だ。
「中国のビザ、出ていますよ」
■非公式に出ていたビザ 振り上げた拳の行方
中国政府による「ビザ発給停止」の発表から数日たって、「実はビザが出ている」という話が、色々な筋から聞こえてきたのだ。商用ビザ、留学ビザ、就労ビザ…様々なビザが、政府の招聘状を用意するなど、一定の条件を満たせば、日本のビザセンターや領事館で通常通り申請できるという。ネット予約はできないが、窓口に行けば1月30日の発給再開の前でも受け付けてもらえたというから驚きだ。
中国経済が減速する中、日本との関係を悪化させたくないというのが中国政府の「本音」だろう。しかし、拳を大きく振り上げてしまった以上、「建前」としてはビザ停止を貫くしかなく、非公式に苦しい運用をしているのではないか?
そして、拳を大きく振り上げる原因となったのは「日本がビザを止めている」という、中国の人たちの誤解にあったのではないだろうか?
確かに現在、中国人に対する観光ビザの発行は、一部を除いて止まっている。しかしそれは、日本政府が止めているのではなく、中国側の文化旅行部が日本への観光旅行を認めていないため、代理店による申請ができない状態が続いているためだ。
そのあたりを誤解している中国の人たちの不満に応えるため「勇み足」で、中国政府が、全面的な「一般ビザの発給停止」に踏み切ったのではないかと、次第に思えるようになってきた。
■「ビザ再開」呼び水となった1行の通知
「ボタンの掛け違い」を感じていたのは、北京の日本大使館も同じだった。1月20日、春節休みを前に、日本大使館は不思議な一行の通知を出した。
「日本大使館はコロナの影響でやむを得ずビザ業務を縮小していたが、コロナの状況が変わり、ビザ業務はすでに正常に回復している」
実はこの一文は、一時期縮小していたビザの窓口が、今は元通りに戻っていますよと通知しただけのもので、新しい内容は何もない。事実、1月4日には、日本側は縮小していた窓口を元に戻し、通常通りの来館が可能としていたのだ。
しかし、大事なのは「正常に回復」という文言にあった。
日中関係筋によると、この文言の狙いは2つ。1つは、「日本はちゃんとビザを出していますよ」と、誤解している中国の人たちにアピールすること。そしてもう1つは、日本側から先にアクションを起こし、中国側が、振り上げた拳を下ろしやすくすることだ。
そして、その狙いは的中した。1月30日、中国側が「一般ビザの発給再開」を発表したのだ。再開の理由を問われた中国外務省の報道官は、「1月20日の日本大使館の通知」を挙げた。新しい内容は何もない通知が、発給再開への呼び水となったのだ。メンツを重視する中国側の心理を読んだ、日本側のファインプレーと言ってもいいだろう。
こうして、1カ月近くに及んだ「せめぎ合い」は、ひとまず幕を降ろした。中国の感染状況がこのまま落ち着いていけば、航空便は徐々に増便され、人々の往来も少しずつ回復していくだろう。コロナで止まっていた交流が再開し、改めてお互いを知る機会が増えることで、日中関係の基礎がしっかりと固まっていくことを期待したい。

検察の捜査指揮権66年で廃止 警察に権限一部委譲=韓国国会で関連法可決2020.01.13 21:55
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20200113004600882

韓国国会は13日の本会議で、刑事訴訟法改正案と検察庁法改正案を賛成多数で可決した。検察の権限の一部を警察に委譲する両法案が可決されたことで、警察は第1次捜査権と捜査の終結権が付与され、捜査における裁量権が大幅に増えた一方、検察は捜査指揮権の廃止により権限が縮小される。検察の捜査指揮権は1954年に刑事訴訟法が制定されてから66年で廃止となる。
従来の刑事訴訟法では検事を捜査権の主体とし、司法警察官は検事の指揮を受ける補助者と規定されていた。同法の改正で検察と警察の関係はこれまでの「指揮」から「協力」に変わる。
また、警察をもう一つの捜査主体と規定し、警察に第1次捜査権と捜査の終結権を付与する。警察は嫌疑が認められる事件のみを検察に送致し、嫌疑が認められないと判断した事件は終結できるようになる。
事実上、制限のなかった検察の直接捜査範囲も制限される。検察が直接捜査する事件は、腐敗犯罪、経済犯罪、公職者犯罪、選挙犯罪など大統領令が定める重要犯罪などに限定される。
政治家・政府高官らの不正を捜査する「高位公職者犯罪捜査処(公捜処)」設置法案に続き今回2法案が可決されたことで、文在寅(ムン・ジェイン)政権が目指す検察改革に関する立法は完了した。

(コメント)

「警察に第1次捜査権と捜査の終結権を付与する。警察は嫌疑が認められる事件のみを検察に送致し、嫌疑が認められないと判断した事件は終結できる」

政治家や自治体の首長が行政指導レベルで捜査や裁判ができる=自分に都合の悪いことは捜査を止めさせたり、逆に敵を告訴したりすることが可能

ナチス的国家の継承者と言われても致し方ないレベル。歴史上の中華帝国の類の方が、司法機関についてはもうちょっとマシだったかも知れないという指摘あり

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中国史の迷宮・おまけ

章学誠についてまとまった文章

「章學誠の史學」(内藤湖南・著)/青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/2244_14526.html

あと、「正閏論」の紛糾の奇怪さは、わが国でも、「南北朝正閏論」から雰囲気を読み取る事が可能かと思われます。足利幕府の頃に、わが国の朝廷も南北朝に分裂しましたが、吉野の南朝と、京都の北朝と、どちらが正統か?…で、延々と、話は明治時代までこじれています(帝国議会も政治論争で紛糾したそうです)。

こういう微妙な、陰湿な確執が易姓革命ごとに繰り返し続いていたとしたら、それは、中国「史学」というものが、ものすごく微妙な状態になっていても致し方ない、と感じる部分もありますね^^;

2009.10.22追記=章学誠について、アムゼルさまよりコメントをいただきました。どうもありがとうございます

http://marcooichan.blog.shinobi.jp/Entry/107/#comment5

章学誠については一時、家内が<側例>という一種のドキュメント(そのほとんどは大工さんなどの仕事の手順や材料とその仕入先などを手書きで残したメモのようなものですが)の研究に必要のため勉強していて章学誠の研究が大いに役立ったようです。西尾幹二氏の『江戸のダイナミズム』にも少し触れられていますが、章はいわゆる「清朝考証学」の中心人物で文献学を学問の中心にそえ「近代」的な学術スタイルを実現しました。学問と縁のないわたしにはあまり関係のない話なのですが、尊敬している学者です。そんなところからもわたしの「シナの変容」への切り口になるかなあ、とも考えていたのですが、どうも生齧りではよくないと思ってそのままにしてあります。ただそんなことを述べようと思っていました。

以上


お題:中華って何千年?

本題です。「なんちゃって」な疑問ですが、〝中国史の迷宮〟を考えているうちにふと浮かび上がってきたお題で、考えれば考えるほど分からなくなってきたので、この際「なんちゃって」考察をさ迷ってみました(「フマジメだ」と怒らないでくださいまし^^;)。

◆「中華五千年」説

現代もっともポピュラーな言い回し。陳舜臣・著『中国五千年』という本があります。現代の科学考古学を援用して、仰韶文化から竜山文化のあたりに「中華」のスタート時期を定めたものと考えられます。言い回しの歴史が浅いだけに殺風景な雰囲気ですが、如何にも現代らしいです。数字も一番大きいですし、たぶん、現代中国人がもっとも好む言い回しではないでしょうか。

…とは言え、最近は「世界一誇り高い半万年の歴史」という言い回しが隣国で出ているようで、これからどうなるのかは、甚だ不明です。微妙な思いを持って眺めるところであります。

◆「中華四千年説」

『史記』に述べられた神話的始祖・夏王朝をスタート時期に持ってきたときに、この言い回しになるようです。従って、幾分か、「中華の中華なるところ」というか、そのあたりの神話的な雰囲気の基準を持っている数字と申せましょうか。夏王朝の存在の怪しさ、そしてこの数字の微妙さを見ると、現代はヒビが入り始めている説であると言えそうですが、特に文化的に「中華」伝統を強調する時に便利なようで、この数字は捨てられないようです。

◆「中華三千年説」

殷王朝をスタート時期に持ってきたときに、この言い回しになるようです。戦前はこの言い回しが多かったようです。殷墟の発見が大きかったものと思われ、昔の書籍では、この数字がよく使われたものであったようです。

以上

並べてみれば、考古学調査の進展と共に「三千年」、「四千年」、「五千年」と、白髪三千丈よろしく数字が膨らんできたと言えますでしょうか。ひとつずつ丁寧に、「中華」や「中国」という主格ラベルを付けてゆくところが、いかにもいかにも、漢語様式に忠実で、納得です(漢語はその「独唱型」という性質上、トップに「宗族」ラベルを付けてゆく傾向を持っている、と考察しています)。

あと、四千年という数字は、とりわけ、料理関係でよく用いられるようです。文化的カテゴリで頻繁に使われている事もあり、「中華料理の四千年の伝統」を強調するからかも知れません。

  • 現代科学的中華を強調するときは五千年。
  • 文化伝統的中華を強調するときは四千年。
  • とくに中華王朝の歴史を強調するときは三千年。

この色分けは興味深いと思います。笑

さて興味深いのは「中華王朝三千年説」で、これをマジメに考察すると、

殷周革命は前1024年あたりとされているので、-1024年+3000年=1976年

(前1027年革命を採用するなら1973年。ちなみに愛新覚羅溥儀は1967年に死去されている。あとで「1976年」を調べてみてビックリしましたが、周恩来・毛沢東の死去、唐山地震など、大きな出来事が相次いだ年だったようですね。これまた意味深です)

※四千年説をとってみても、-2070年+4000年=1930年・・・ですが、この数字も意味深かも。(夏王朝が始まったと「主張」されているのが、前2070年、あるいは前2069年のようです)

「三千年」説・・・幅はありますが、だいたい1976年をもって、「中華」は終了したと、「中国」人みずからが、高らかに、宣言しておる訳ですね。。。

「易」をよく研究した孔子いわく、五十にして天命を知る。1976年+50年=2026年

いわゆる「中華」呪縛も終わるのが、この年代なのかも知れません。

殷墟も既に見つかって、秦の始皇帝のお墓(兵馬俑)まで暴かれている訳ですし・・・

ここに「プロ・シナ」を長く重く呪縛していた「中華王朝史」終わり、「ネオ・シナ」はじまる、と考えてみると、いかにも意味深であります。

以上、冗談のような(というか、本当の冗談なのですが)、なんちゃって思考実験でした。

物語的・占い的に考えるならば、余りにも《強い運命》は、《自らの滅び》を準備せざるを得ないものです。この《強い運命》を、易では、「命」とか「乾為天/龍神/中華」とかいう風にラベリングし、易姓革命をその果てに見ていたのではないか…と、思われます。

そして、「乾為天」自身にも、メタ運命として、自らの「易姓革命」を定めるところがあるのならば。その寿命が、あの大地の場合、三千年に設定されているのではあるまいか。「地球の大地」自身が、その三千年の時間しか「乾為天ワールド=中華王朝ワールド」を支えられなかったのだ、とすれば。

傍目から見ても、「中国」人は余りにも大地の「命」を浪費し、使い捨ててきた…

物語や占いが好きな者としては、この程度の「こじつけ」しか思いつかないなあ、というのが辛いところですが、シナ変容・救済につながる「こじつけ」の、ささやかなきっかけになるなら、それはそれで光栄な事であります…

中国史の迷宮・後

正閏論/政治イデオロギーとしての史観

《テキスト=『「三国志」の迷宮』(文春新書1999)山口久和・著》

中国の歴史書の叙述スタイル:

  • 編年体・・・時間の流れに従って事件を叙述してゆく/経書の『春秋』が濫觴
  • 紀伝体・・・司馬遷が『史記』を記す事で創出される
    • 本紀・・・天子の行動を中心に国家の大事を記す
    • 列伝・・・臣下や学者、庶民の伝記、諸外国の出来事を記す
    • 志・・・地理、法制、経済など、文化史と経済史をまとめる
    • 表・・・年表、功臣表など
  • 紀事本末体・・・一つの事件を中心に記事を纏め上げ、時間の経過に従って事件の推移が分かるように記す/宋の袁枢が編年体の『資治通鑑』を元にして『通鑑紀事本末』を書いたことに由来

正閏論:

中華世界に君臨する「正統」の皇帝は、ただ1人のみである。この議論は漢代に本格化し、「正閏論」としてまとめられる。

元はといえば、始皇帝の秦が中華文明の正統の後継者だったかどうか、という議論から始まったものであったが、この「正閏論」の結果、真の中華皇統の皇帝は「正位」として「本紀」に記されるべし、そして、皇帝を僭称する者は「閏位」として「列伝」に記されるべし、という措置が取られるようになる。

陳寿の『三国志』は、こうした因習の中で、魏を正統として書かれたものである(もちろん異なる立場の下で、蜀を正統として史書を編む者も居た)。


・・・《以下、考察》・・・

秦の始皇帝の時代、諸夏思想といいますか、封建的な王権思想が弾圧され、焚書坑儒の露と消えました(と、考えられます)。孔子は、焚書坑儒の前の時代の、人物です。従って、前編に引用した孔子の「董狐の筆」コメントは、秦の始皇帝より後のシナでは、まったく別の意味心理で理解された可能性もあるわけです。

漢文の解釈というものの難しさを考えると、この辺は、シナ版リテラシーなる独特の「ねじくれた才能」が必要な世界だと推察しているのですが、いかんせん中国語(シナ語)のリアルの世界を知りませんので、この考察が正しいかどうかは、分かりません。

ただ、現代、源流を同じくする漢字を使っているのに、日本と中国とでは意味が異なる単語が多いです。優秀な留学生を媒介にした、ある程度の緊密な交流のある近現代にして「この事態」ですから、古代の春秋戦国と秦との間では、時代・地域をまたいでの書記言語の意味変化は、もっと深刻だったのではないかと・・・(何故に後に「科挙」が選択されたのか、大変よく分かるような)・・・^^;

・・・さて、「紀伝体」は、伝統的に、古来より「天子たる王統」を正統(=中華)として記してきたとされています。この手法は、おそらく、陰陽五行説が整備され、強制的な歴史時空ダイヤグラムの中で、地方の王権神話を滅ぼしていったプロセスに学んだものではないか、と思われる節があります。実際に『史記』を記した司馬遷は、陰陽五行説の知識に通じていたようです。

だからこそ、それ故に、三国(魏・呉・蜀)時代のように複数の王朝が乱立した場合、「紀伝体」で前の王朝を記す、という行為は、歴史認識の上で、極めてナーバスな問題をはらむ事になった・・・と想像されます。確か、後に政権を取った王朝が、先代の王朝の歴史を編纂する事で、自らの中華の正当性を証しする、というのがあったような・・・

参考テキストによれば、

〝宋の時代の司馬光の『資治通鑑』は、魏を正統として記されたものであったが、曹魏政権の用いた年号を記述に使っている言い訳として、単に年号が無ければ事件の日時を記す事ができないだけで、決して「正閏論」に関わりのあるものではないという主張を行なった〟

となっています。おおむね、王朝乱立が続いた頃に、「正閏論」もまた、集中して論じられたのではないでしょうか。それが漢代以後の、いわば秦漢時代の遺産の中に生きた〈後シナ文明〉の、「史」の実情ではなかったか・・・と、推察されます。

「正閏論」は、歴史観の問題以上に、「中華正統」を巻き込んでの政治的イデオロギーの紛糾をも含む、複雑な問題となりつつあった・・・というのっぴきならぬ背景が、この司馬光の屈折した主張に読み取れると思われます。

〈シナ文明〉を特徴付ける中華思想を完成したのが、おそらく漢代。漢代に興隆した「正閏論」の呪縛の重さが、見て取れるものであります。それはまた、「中華」という呪縛の重さでもあったかも知れない、と思われる節があります。政治的イデオロギーと史書の伝統とが交錯し、複雑にねじれ、異形の「歴史時空」を生み出していた・・・

それは「史」を重要視した〈シナ文明〉~〈後シナ文明〉ならではの、独特な事象に違いない・・・

更にもっと先鋭的な政治的イデオロギーとして現れたのが、南宋の朱子が主張した「蜀漢正統論」であります。漢王室の皇統を継ぐものは劉氏であるべしという理念を尊重し、現実に天下13州の殆どを領有した曹操政権を、「あってはならぬ現実」として糾弾するという内容でありました。

ちなみに、朱子は、司馬光の『資治通鑑』に対して、理念(理)に照らして現実(気)を糾弾するという思想「理先気後」の下に、『資治通鑑綱目』を記した人だそうで・・・要は、「魏は中華の簒奪者だ」という立場でありますね・・・^^;

朱子学が官学として栄えた近世以降にあっては、「観念」が「現実(リアリズム)」よりも重んじられたそうです。陳寿や司馬光の「曹魏正統論」は、割と歴史的現実を反映したものではありましたが、「異形の歴史時空」の中で、異端の現実(?)として押しやられる運命にあった・・・と申せましょうか。

とはいえ、朱子の立場にも同情すべき余地はある訳です。北宋が満州族の「金」の侵攻によって滅び、長江の南に亡命して出来たのが南宋であり、朱子はこの南宋の人物でありました。

ついでながら南宋はその後、「金」と、さらには蒙古族の「元」の侵攻を受けて領土を縮小してゆき、滅亡する運命にありました。朱子が、かつての古代の蜀漢の運命に深い共感と同情を抱き、「蜀漢正統論」を主張したのは、歴史観に名を借りた政治的イデオロギーに過ぎなかったとしても、充分うなづけるものではある、と思われます。

そして更に陳寿の立場を振り返れば、陳寿は魏の後を継いだ西晋の役人だったのであり、陳寿が「曹魏正統論」の立場で史書を記したのも、必然と申せましょうか。司馬光もまた同様の政治的立場にあったようです(司馬光の場合は、後周の禅譲を受けた北宋の人物であり、かつての魏の禅譲を受けたと主張する西晋と、事態が似ているといえる)。

清朝の歴史家・章学誠が、「諸賢地を易(か)うればみな然り」と述べているそうです。人物の立場を入れ替えれば、その人物の主張もまた入れ替わるであろう、というような意味だそうです。

〝章学誠は、人間が記録した全てのテキストは(経書であれ史書であれ詩文であれ)、イデオロギー的偏向を内在しており、したがって読者はテキストの文字面を超えて著者の心術にまで入り込む豊かな共感能力と想像力を身に付けなければならないと主張し、この能力を「文徳」と呼んでいる〟

・・・現代のシナは、と言いますと、これまた噂の江沢民教育が効いていて、コチコチの「中華」理念優先主義であるようです。「文徳」があるかどうかは・・・ちょっと分かりません。あったとしても、「ダーティー文徳」の方が強いように思えます・・・^^;

【添付ノート】

種々の文献資料から判断するに、陳寿は比較的公平な歴史記述家であったようです。

陳寿は、北伐における諸葛孔明の軍事的能力には疑問が付く、という記述を行なっていますが、それは個人的怨恨からではなく、単に、当時の一般的な軍事的評価がそういう内容であった(後世になっても長いこと、孔明の北伐作戦は愚策であると評価されていた)、という理由に基づくものであったそうです。

そして、「曹魏正統論」の立場にある史官であったとは言え、諸葛孔明の人格に深く傾倒し、孔明の遺文を集めて『蜀相諸葛亮集』を編んだのも、陳寿でありました。

なお、お金のかかる遠征を繰り返した上に魏に大勝する事も無かったために、「軍事的暴挙」と評されていた孔明の「北伐」が、実は「攻撃的防衛(以攻為防)」戦略の一環であった、という事を見抜いたのは、17世紀の王夫之になってからである・・・という事です。

《終》