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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

伊勢参詣の記録・前篇

14時間くらい寝ておりまして…旅の疲れも何とか取れたかと…;^^ゞ

2010年3月22日~23日にわたる1泊2日で、お手ごろ価格で適切&充実スケジュールで提供されていた旅行会社の団体プランがあり、それで伊勢参拝を兼ねて、伊勢志摩エリアの観光に行ってきました。

春分の日と隣り合わせに重なったのは、お勤めの都合と私的な都合と旅行会社スケジュールの兼ね合いから決まった、ただの偶然の日程ですが…

1泊2日で伊勢志摩を回ろうという訳ですから、大急ぎのスケジュールになる事は覚悟しておりましたが、制限時間内に、土地勘の無い未知のスポットを全速力で走り回るという感じになったので…けっこう疲れたわけです(伊勢志摩エリアの神域の敷地って、思ったより広い)…^^;;

まずは1日目。お天気が良く、冷たい風があるものの陽射しは暖かでした。

新幹線の豊川駅で下車し、団体観光バスに揺られて、豊川稲荷を参拝。

ガイドさんの説明を聞いてビックリしたのですが、豊川稲荷は、本当は稲荷神社ではなく、仏教のお寺の方がご本尊様でいらっしゃるのだそうです。いわゆる神仏習合かも。オキツネさまは、本来は門番的な存在だったのだけど、そちらの方が有名になってしまわれたのだとか…

※聞くところによれば、豊川のお寺は曹洞宗らしいです。そうは見えないのですが…^^;

豊川稲荷にて

写真はケータイのものなので小さいのですが、記念に豊川のオキツネさまを撮影。何だか、今にも動いて「コーン」と鳴きそうな雰囲気でした。もう1枚は、門扉に使われている留め金装飾(?)の付いた扉板です。金物装飾の細工と、扉板の模様が面白いと思って、パシャリ。

ガイドさんの説明によれば、樹齢130年のケヤキの1枚板をキレイに2枚に分割して、扉の板に使っているのだそうです。木の模様もキレイに分かれていて、向かって左側の板は凹形、右側の板は凸形の凸凹模様になっていて、2枚を重ね合わせると、今でもぴったり凸凹が合致するらしい(是非、見てみたい…)

滑らかな扉板をナデナデしつつ、昔の職人技に感心したのであります…^^

他にもいろいろ撮影しましたが、去年の台風で倒れた境内の木が再び立てられて、たくさんの支え棒をセットされつつも、しっかり根付いていると言うお話は、ちょっと感動モノでした(パッと見て枯れ木みたいだった)。

薄墨桜

後は、豊川稲荷の境内を抜けた向こう側の、公園みたいな空き地(?)の端に、岐阜県から持ってきた…という薄墨桜が生えており、ちょうど桜の花がきれいに咲いていて、目の覚めるような思いを致しました。

ケータイなので色再現が限られておりますが、ちょうど正午の頃で、陽射しも差していたお蔭か、本当に幻のような、限りなく白に近いスモークピンクに光っているのです。暫くの間、時間を忘れて見とれておりました…*^^*

次に三河に移動して、八丁味噌の施設を見学。宮内庁ご用達だそうです。明治40年代の味噌のお樽がごろごろとあって、ビックリでした(しかも見上げるほど大きくて、味噌の匂いがすごいのです…^^;)

徳川家康の生誕地という三河、今でもパワーみなぎる土地らしく、不思議な印象のあるところでした。今ゆっくりと思い返してみれば、味噌ソフトクリーム(珍味?)は食べたかったかも?(制限時間が短いので、ソフトクリームを買う時間は無かったのですが・笑)…^^;

豊川&三河訪問の後は、団体観光バスに揺られ揺られて、途中の高速道路の渋滞に巻き込まれつつも、四日市・鈴鹿・津・松阪と移動して、伊勢外宮に到着(微妙に、制作中のコミックで採用予定になっているコースですね)。

…そういえば、途中で四日市コンビナートの光景が見えたのですが、港湾施設や煙突が大きいので、とても感心しました。大きな川が何本も横たわっており、その川にかかった吊橋をいくつも通りまして…、近代都市において、港湾と橋脚は深い関係にあるという…今更ですが、ちょっとした知見を得たのであります。印象に残ったのは大きな丸屋根の建築物。正体不明で、なんとも不思議な建物でした。

で、伊勢外宮を参拝。制限時間が40分で、敷地を目一杯に走り回りまして…

現地の位置関係や距離関係をつかめたのは、大きな収穫でした。歴史資料マップや写真集だけでは広さの感覚が具体的に想像できませんでしたし、例えば亀石が本当に亀の形をしているとか、多賀宮が本当に山の上にあるとか…(階段を全速力で駆け上りました・笑)、その辺を実際に見られて良かったです…*^^*

…後は、この日の外宮のオカルトなお話を追加:

外宮にて

伊勢外宮のご本体の写真は、何故か上手く撮れませんでした。

周りを取り巻く塀とかは、ちゃんとクリアに撮影できたのですが、鳥居と、鳥居の内を含む部分は、注意深くカメラを固定していても、画像がぼやけたようになってしまうのです…(勿論、撮影許可されているエリアから、遠慮深く遠巻きにして撮影しました。無神論的センスではありますし、霊感もありませんが、神域で無礼を働く勇気は無いです・汗)

使える時間ぎりぎりまで粘って、3回くらいトライしておりましたが、やっぱりユラユラとした感じの画像しか撮れなかったので、クリアな画像は諦めました…(そんなオカルトな…とは思うのですが、神さまは実在していて、神秘的な振動をしていらっしゃるのでしょうか…???)

ここにあるのは、ぼやけてしまったものの、1番クリアに近い感じの画像です…^^;

※クリアに撮影できれば、制作中のコミック背景に応用が利くので、そういう画像が欲しかったのですが…このたびのケータイ写真3枚(ボヤケが大きいものの、ひととおり形態は読み取れる状態)と、近所の図書館にある資料写真集を参考に、という事で…

伊勢にて春分の日没

こんな感じで1日目が終了し、ホテルに到着…^^

写真は、宿泊ホテルのエレベーターホールの窓から撮影した日没の様子です。ちょうど山の向こうに日が沈んでゆく瞬間で、ラッキー・タイミングでした(部屋に入った後で、もう一度同じ場所を見てみたら、もう夕日が見えなくなっていました)。

この日没シーンは印象に残ったので、制作中のコミックでも、山の向こうに日が沈む夕暮れのシーンを仕込んでみる予定です。

ちなみにホテルはビジネスホテル様式で、その日の夕食も、翌日の朝食もバイキング様式でした(この辺りは、フトコロの都合によっています。夜のご馳走にかける予算が無かったのです)。でも、バイキングに「伊勢うどん」がついていまして、伊勢の風味を堪能しました(笑)

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古代の祭祀/三月・鎮花祭

『事典 古代の祭祀と年中行事』2019吉川弘文館

三月・鎮花祭

概要

大和国城上郡に坐す大神大物主神社と、そのすぐ北に位置する狭井坐大神荒魂神社(奈良県桜井市三輪に鎮座)に対する国家祭祀である。大神神社と狭井社の祭神はどちらも大物主神であるが、狭井社は大物主の「荒魂」を祭るとされる。

祭祀の目的は、疫病をもたらす疫神を鎮圧するためであるが(「令釈」『令義解』)、その祭りの名称が「鎮花(はなしずめ)」とされた理由には、濃厚行事が疫神退散の行事に転じたとするものと〔西田:1967〕、散る花びらに疫神が宿るとする二説が存在する〔宮地:1957〕。

前者は、花を稲花の咲く予兆とみて、その散ることを一日でも遅らせようとする農耕に関する行事がもとであるとし、後者は、花の飛散する様が疫神の分散に思われ、花を鎮めることは疫神を鎮めることであると連想されたものと考える。

『延喜式』に見える祭料に、薬草と思われるものが含まれていることから、春に花が散るころは疫病の流行しやすい時期であって、花の飛散と疫病の拡大が連想され、疫病をもたらす疫神を鎮めることを「はなしずめ」と称したとするのが妥当であろう。

また、『令集解』に引く「令釈」が「古記」(天平10年≒738頃成立)と同内容であることから、鎮花祭は「大宝令」に規定された国家祭祀であり、その開始期も「大宝令」制定時(大宝元年≒701年)ごろとされる。祭祀への幣帛は神祇官において準備され、神祇官所属の在地神職である祝部(はふりべ)によって神社まで運ばれ祭祀に備えられた。

祭日は「神祇令」に「季春」(3月)とあるのみで具体的に定まってはおらず、臨時に日にちを選んで行なわれていたが、平安時代後期~鎌倉時代初期ころに至ると3月晦日に固定された(『年中行事秘抄』『神祇官年中行事』)。近世では旧暦3月18日を用いていたが、明治30年(1897)ごろから新暦4月18日に改められている。


祭祀の淵源

三輪山に鎮まる大物主神への国家祭祀の淵源は、崇神朝に存在する。

崇神天皇の御代、疫病がはやり、多くの民が亡くなった。天皇の夢に大物主神が現れ、災いの原因は我を祭れば解決するという。天皇は神の教えの通りに、大物主神の子孫である大田田根子を祭主(神主)として三輪山で大物主神を祭った。すると疫病が初めて止み、五穀が豊穣になったという(『日本書紀』『古事記』崇神天皇)。

この伝承は三輪山の祭祀と国家との関係を象徴するものである。

古くより、三輪山の大物主神は国内の疫病を鎮圧する大きな力を持っていると考えられ、大和朝廷にとって無視できない重要な神祇であった。

その祭祀は大田田根子の子孫である三輪(大神氏)が担当し、国家が直接その祭祀に介入することはなかった。国家祭祀である鎮花祭も、その幣帛は国家が準備して祝部が運搬するが、神社での祭祀執行に関する具体的な規定は存在せず、祭司そのものは神社側に任されていた。〔藤森:2008〕。


祭祀の性格

『延喜式』に規定された祭料は、布帛類や海産物、祭器類などで構成されているが、全体的に見て、大神社より狭井社に対する祭料の方が数を多くする。

この理由は、狭井社の神が大物主神の「荒魂」であるためであり〔西田:1967〕、疫病を鎮めるために、より荒々しい霊威の発動に期待したものと想定される。

狭井社は俗に「華(花)鎮神社(けちんじんじゃ)」「華(花)鎮社(けちんしゃ)」とも呼ばれ、鎮花祭は狭井社への特殊神事の様相を呈している。

「狭井」は古くは「佐為」(『大倭国正税帳』、『新抄格勅符抄』所引「大同元年牒」)と書かれることから、狭井社の神は「幸神(さいのかみ)」=「障神」「塞神」「道祖神」であり、疫病を鎮圧する神であったとする説もある〔西田:1967〕。

鎮花祭の祭料の特徴として、他の祭祀には容易にみえない枲(からむし=繊維)、黄檗(きはだ=染料、健胃薬)、茜(染料、薬)や、弓、篦 (の=矢柄)、羽、鹿皮などといったものが用意されたことが挙げられる。

黄檗、茜は薬であり、疫病鎮圧という祭祀の目的のために特別に用意されたのであろう。この2種に鹿皮を加えたセットは、鎮花祭以外では龍田風神祭のみしか祭祀には用いられず、災いを鎮めるための供献品であったと想定される。

現在の鎮花祭の神饌においても、薬草の忍冬(すいかずら)・笹百合の根が添えられており、製薬・医療関係者からたくさんの薬品が奉られ、鎮花祭は「くすりまつり」とも呼ばれている。

なお、山百合の本の名を「佐韋(サヰ)」と言い、狭井河の名はその河辺に山百合が多くあったためであるという話が『古事記』に存在する(神武天皇がその后、伊須気余理比売のもとで一夜を過ごした時)。

狭井河は、大神神社と狭井神社の間を流れている川であり、伊須気余理比売は『古事記』で三輪山の大物主神のm済めとされる。天皇と三輪山の関係は大和朝廷の黎明にまでさかのぼり、鎮花祭に奉られる笹百合も古くより三輪山の麓に自生していたのであろう。

また、枲(からむし=繊維)・弓・篦 (の=矢柄)といった供献品のセットも、鎮花祭以外は三枝祭、龍田風神祭、大祓のみにしかみえていないことが注意される。

枲(からむし=繊維)と弓矢は、鎮祭・祓に効果のある供献品であったのであろう。特にこの中で、鎮花祭への弓の数が他の祭祀に比べて多いことが指摘されている(三枝祭が3張、風神祭が4張であるのに対し、鎮花祭では7張)が、これは、弓が邪霊・邪鬼を鎮める働きを持つと考えられていたため、鎮花祭に特に多く奉ることとしたのであろう〔西田:1967〕。

なお、大和国を中心に山城国・近江国などの近畿地方一帯で「けちん」(「花鎮」「気鎮」「結鎮」)と呼ばれる宮座行事が行われており、これらは大神神社の鎮花祭と同じ民俗信仰の一端であるとされている〔西田:1967〕。


参考文献

宮地直一「上代神道史要義」『宮地直一論集』五、蒼洋社、1985(初出1957)

西田長男「鎮花祭一斑」『日本神道史研究』三、講談社、1978(初出1967)

藤森馨「鎮花祭と三枝祭の祭祀構造」『古代の天皇祭祀と神宮祭祀』吉川弘文館、2017(初出2008)

(塩川哲朗)

前シナとシナとその後・前篇

メモ程度ですが、頭の中でグルグル回っている思索を書き出してみました。

いわゆる「中華」世界の幕開けが、秦の始皇帝による天下統一、紀元前221年。

統一前には幾つかの王国が群雄割拠していた(…というより、この時代を考えると、むしろ都市国家の覇権争いというイメージで捉えると良いのかも…^^;)

これらの諸国家が出現したのは平均して前4世紀半ば。

  • それまでは、黄河流域一帯においては、「周王」だけが「王」を名乗っていた。
  • 長江流域で散発的に「楚王」「越王」「呉王」という大きな勢力があった。
  • 「諸侯」と称される首長を戴いた小国が、わらわらと分布していた…

このような情勢で、諸国(=というよりは「城郭都市」=)の間で適当に交易したり紛争したりしていて、何をどう間違ったのか、秦の始皇帝がいきなり、天下統一を果たした…

もっとも、この辺で既にアレクサンドロスの大帝国が西方に出現はしていたのですね。正確には秦の始皇帝の祖父の時代。アレクサンドロス大帝国はすぐに滅んでしまいましたが、遙か西から襲来してきた異相の軍団は、かなりのショックをアジアにもたらした筈…

個人的には、「大帝国(=覇道の国)」という概念が急激に東方に広まったのが、大きいのでは…と思っています。つまり、今で言う「中華」とか「統一帝国」とか「皇帝」という概念は、シナ人が自力で生み出した概念じゃないのかも知れない…というのが、当サイトの仮説になります…

「天下統一」。これ、実は極めて西アジア的な…というよりは、オリエント的な概念らしいのです。

そのグランドデザインを描いたのが、おそらくアケメネス朝ペルシア(前550年-前330年)。支配者はインド=ヨーロッパ語族、ないしはインド=イラン人。アケメネス朝ペルシアの祖先の土地はイラン高原南部で、公用語は古代ペルシア語とアラム語。ゾロアスター教が成立した時期でもある。

ついでながら、アケメネス朝ペルシアは「パジリク絨毯」で有名です。パジリク絨毯は、永久凍土の中で発見された世界最古のペルシャ絨毯で、ペルシャの誇りではないかと推察するところです(現在はエルミタージュ博物館にあるそうです)。同時に絹織物やフェルトが出土しており、こんな昔から遊牧・通商・騎馬の文化が確立していたのだ…という事実に驚かされるものです…^^

…余談でした:

アケメネス朝ペルシアは、それまで微妙に4つの国に分かれていた、オリエント世界を統一してしまいます。これが、後々にまで影響を及ぼす「天下統一」「帝国主義」のモデルになったのではないかと考えられます。微妙に4つの国と言うのは、リディア(現トルコ)/サイス朝エジプト/新バビロニア(現イラク~シリア)/メディア(現イラン~中央アジア~インダス川)のことです。

アケメネス朝ペルシアの統治機構は:

  • 全国の各州におかれた知事(サトラップ)
  • 「王の耳」「王の目」と呼ばれた監察官
  • 「王の道」と呼ばれる国道

秦の始皇帝の統治機構と似ています:

  • 全国に広がる郡県制(ブレーンの李斯が強く勧めたらしい)
  • 役人を中央から派遣して政治を行わせる
  • 度量衡の統一&国道の建設

秦の始皇帝を取り巻くブレーン…というか、祭祀を司った頭脳集団の来歴が、気になるところです。まして秦は、オルドスに居た遊牧騎馬系の民族をメインとする西方混血の国で、秦の始皇帝は、実はユダヤだった?という噂も流れているところ。真偽はともかく、アケメネス朝ペルシア帝国やアレクサンドロス大帝国について詳しい知識情報を持っていた、隠れミトラ=ゾロアスター教徒、またはユダヤ教徒が居たのではなかろうか…

《豆知識》アレクサンドロス大王はミトラ教徒だったらしい・・・征服地でミトラ=アポロ崇拝を奨励したので、ミトラ神話とギリシア神話の融合が進み、ヘレニズム風ミトラ神話が成立。天上からの王権継承を主張する神話となっている(=いわゆる中華王権神話の、「天命」の原形?)。もともとのミトラ神話の源流はヒッタイト・ミタンニ帝国の時代に遡り、ゾロアスター教の成立よりずっと古いという話です。

《余談》

秦の始皇帝の後、中華王朝はいろいろ出てきましたが、ざっくりとまとめると:

  • 秦、隋などの強烈な独裁弾圧型の統一帝国
  • 南朝、宋、明などの漢民族中心の弱小帝国(=漢帝国は非常に稀なケース)
  • 唐、元、清などの異民族皇帝を迎えた巨大帝国

現在の中華人民共和国(北京閥)は、独裁弾圧型パターンではあるまいか…と想像…^^;

中南海を支配する勢力(上海閥)は、弱小帝国のパターンのようで、これからどういう国家スタイルを目指すのが良いのか、必死で模索しているのではないだろうか…という推測も、無きにしも非ずです。

もし「東アジア共同体」が云々…という事になると、日本の皇室が中華皇帝になって、大陸の巨大帝国を支配してムフフ…という風に血迷いそうな気がして怖いです。その場合は、異民族皇帝支配下の巨大帝国というパターンになるかと…、そして鳩山首相は、そういう「ダース・シディアス」的オカルト満載な野心を抱くには、あまりにも最適すぎる人物だと思われます…(個人的な感想ですが…)

…たぶん後篇に続く…^^;