忍者ブログ

制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

シナ研究:中原の呪縛・4

黄老思想と陰陽五行説・・・漢代における神秘哲学思想

戦国時代、諸子百家において「陰陽説」「五行説」と呼ばれる古代神秘哲学が流行しました。五行説が陰陽説に同化し、陰陽五行説が完成したのが、漢代であったと言われています。

【陰陽説】
生命の根源である「気」は、陰と陽とから成る。宇宙の万物は陰陽によって形成される。人間界(政治・道徳・日常生活など)も陰陽によって変動する。道家が天に重点を置いて主張した。
【五行説】
宇宙のあらゆる事象は、「五行」(木火土金水=五元素)の働きによって生み出されている。五行相生と五行相剋によって自然界の秩序が回っている。儒家が人に重点を置いて主張した。
【陰陽五行説】
陰陽家が陰陽説と五行説の折衷を行なって成立した思想。この思想を実践に移すのが方士であり、神仙術(錬金術・不老不死の術)や医療などを行ない、儒教・道教の成立要素となった。この他、3世紀頃に伝来した仏教と習合して密教形成の要素となり、民間信仰や新興宗教へも影響を及ぼした事が知られている。

漢初の政界においては、無為自然を尊ぶ道家の思想(=黄老思想=)が流行していました。これが、後に儒教と結びついて、陰陽五行説の完成につながりました。

この時期に黄老思想が流行した原因は、法家を信奉した秦の政治があまりに苛酷だった事への反発ではないかと言われていますが、実際はあまりよく分かっていません。いずれにせよ、漢初の政治がきわめて消極的な態度に終始した事により、秦末の深刻な疲弊と混乱からの回復が進んだと言われています。

漢代において、陰陽五行説は十干十二支と結び付いて天文・気象を取り込み、暦法・暦術へと発展する一方、易・卜筮・八卦などとも結び付いて、歴史思想や占術・戦法の変化を生み出しました。

王朝革命思想(易姓思想)は、五行の相生、相剋の理を背景にしています。

戦国時代、諸子百家の鄒衍(すうえん)が提唱した五徳終始説は、「五行相剋説」に基づく王朝革命思想でありました。各王朝は五行のいずれかに相当する徳を有しており、土・木・金・火・水の順による五行の徳の推移によって王朝が交替するというのが、「相剋説に基づく五徳終始説」が説く内容でした。

これに対して、木・火・土・金・水の相生関係によって王朝の交替を説くのが、漢代に唱えられた「相生説に基づく五徳終始説」です。漢は火徳の王朝とされましたが、「漢=火徳」は、五行相生説によって定義付けられたものです。

  • 「相剋説に基づく五徳終始説」/土⇒木⇒金⇒火⇒水⇒土…
  • 「相生説に基づく五徳終始説」/土⇒金⇒水⇒木⇒火⇒土…

漢代の「相生説」に基づく歴史的な議論(=正閏論=)においては、秦は短命だったので無視され、周=木徳とし、漢=火徳とする、と決められたそうです。しかし実際は、帝王一人に一つの徳を割り当てたり、何代か飛ばして相生に基づく徳を割り当てたりする場合もあり、易姓革命を合理化するための理屈として使われた節があります。

いずれにせよこうした歴史議論の中で、神話の帝王であった五帝を、神々としてではなく、実際の歴史上の古代の帝王と考えるようになったのは明らかであります。陰陽五行説を通じて、神話・歴史・科学における神秘思想的合体が行なわれたと言えます(…資料を読んで、こういう結論に至りました。正しいかどうかは、ちょっと自信無いですが…^^;)。

三皇(※唐代に確定):
【包犠】=伏羲、天皇とも言い、庖犠とも書く。八卦や文字をつくり、結婚の制を定め、その身体は人頭蛇身であった。
【女媧】=地皇とも言う。女の神で、傾いた天地を元に戻し、笙や簧(コウ)という管楽器をつくり、その身体は人頭蛇身であった。
【神農】=人皇とも言う。農と医を始め、五弦の瑟(シツ)(=琴)をつくり、商業を始め、八卦をもととして易をつくり、その身体は牛頭人身であった。そして毎日百草を食(な)め、七十の毒に当り茶を食(な)めてその毒を消したという(西安の西北の地が神農の生地とされていて、この地方は晋や周の発生地でもある)。
五行から発生した五帝:
秦の時代・・・太皥(タイコウ)、炎帝、黄帝、小皥(ショウコウ)、顓頊(センギョク)
漢の時代・・・黄帝、顓頊(センギョク)、帝嚳(テイコク)、帝堯、帝舜(※名称・順序が変化)

これらを一口に三皇五帝と言い、黄老思想・神仙信仰の対象となりました。

豆知識・・・東西南北を守る四神について
〝中国古代の『堯書』に「堯をついだ舜が天下を治めるにあたり、悪神を四方に放つ」とある。悪神は内では邪悪の神であるが、敵に対しては之に祟るので、四境の守護神となった。その神の名は「渾敦(コントン)」「窮竒(キュウキ)」「檮杌(トウゴツ)」「饕餮(トウテツ)」である。このうち「饕餮(トウテツ)」は、殷周の銅器の主としての文様になり、これを「饕餮文」と読んでいる。以上の四方の守護神が、後に麟、鳳、亀、龍と変化した〟・・・出典:『茶の湯と陰陽五行』淡交社1998

※武帝時代に董仲舒が活躍した事が知られています(=董仲舒は、オカルトな讖緯モデルを考案した人でもあるらしいです。このあたりはうろ覚えなので、資料を確認中です…^^;=追記=董仲舒は、讖緯思想の基盤となる、天人相関説・災異説の権威でした…^^;)

武帝の頃に、儒教と結びついた陰陽五行説が中華概念の荘厳化に利用されるようになり、現代に繋がる中華帝国スタイルや『史記』などの歴史記述スタイル、華夷秩序などのパターンが立ち上がってきたと考えられます。武帝の匈奴政策はあまりに有名ですが、彼を動かした要素の中には、当時ますますカルト化を強めていた中華思想も存在していたのではないかと思います。

これらの神秘思想が最も発達したのは王莽の「新」帝国の時代であり、その後の東アジアの歴史哲学に、大きな影響を残しました(王莽自身は、「新」=「土徳」と考えていたそうです)。「新」の失政に対して「赤眉の乱(後18年)」という反乱が起きた事が知られていますが、これは「赤=火徳の復活=漢王朝の復興」という五行の理論が根底にあったと言われています。

PR

シナ研究:中原の呪縛・3

資料を読み込んで、それなりにまとめられたかな?と思っています。

学生時代は分からなかった事もいろいろあって、驚愕の連続でありました。歴史はあまり得意な科目じゃ無かったですが、じっくり調べてみると、奥が深くて面白いものですね。特に、建国初期の匈奴戦争の後の漢帝国の事情は、今の日本の状況と照らし合わせてみて、何だか身につまされる部分がありました…;^^ゞ


【匈奴大帝国】・・・後篇

冒頓単于率いる匈奴帝国と劉邦率いる漢帝国は、必然ながら激突しましたが、漢帝国は当時、秦末の混乱をサバイバルした後で、それ以上戦う余力が無かったそうです。

紀元前200年、「白登山の戦い」で敗北した漢帝国は、和睦の条件をのみ、匈奴帝国の属国になってしまったと言われています(=幾つかの資料はそういう解釈になっていて、結構ビックリしました。兄国と弟国という関係になったというのは有名ですが、属国とも解釈できる、という状況があったんでしょうか…アセアセ…^^;☆)。

和睦の条件として以下の4つの条項があったと言われています:

  1. 漢は皇女(=公主)を匈奴の単于の妃に差し出す
  2. 匈奴の単于を兄とし、漢の皇帝を弟として兄弟の約束を交わす
  3. 漢は匈奴に絹・酒・米などの品々を献上する
  4. 国境に貿易場(=関市)を開く

この国際関係は、両国が作成する国書の様式に影響を及ぼしました。例えば、文帝が匈奴に送った国書では、「先帝の制に、長城以北は弓を引く国、命を単于より受く。長城以南は冠帯の室、朕またこれを制す。漢と匈奴は、鄰敵の国…」と言う風に書かれたそうです。

※「鄰敵」とは隣り合った敵国という意味でありますが、今日でいう「敵」の意味ではなく、「匹敵する」などというような「対等の国」という意味で使われていたそうです(=当時の論理では、対等な国=敵国となるそうです)。

ここでは、匈奴の方が兄という事になっていたので、漢側の国書では「皇帝、敬(つつし)みて匈奴大単于に問う、恙無きや」と書き、匈奴側の国書では「天の立つる所の匈奴大単于、敬みて皇帝に問う、恙無きや」、または「天地の生む所、日月の置く所の匈奴大単于、敬みて漢の皇帝に問う、恙無きや」と書いて交わしたという事です。

国書が書かれた木牘の長さも、漢側が一尺一寸で匈奴側が一尺二寸だったそうです。この国書のスタイルは、後世に受け継がれる事になったという話です・・・(例:わが推古朝から隋に送った国書=「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」)

さて漢帝国では、西域経営(=西域の征服=)に乗り出す力が無くなりましたが、その分、辺境の安全保障に割く膨大な人員・軍事費が浮くというメリットがあったと考えられます(=何だか、第二次世界大戦直後の日本を思わせる部分があります…^^;)。

それ以後の漢帝国の内部では、呂后一族の専横(前180年、呂后没)や呉楚七国の乱(前154年)といった政情不安が続きましたが、匈奴帝国による安全保障があったため、後漢末のような、大規模な異民族侵入の脅威は皆無であったと言われています。漢の中央政界にとっては、対外的には非常に平和な時代でした。

・・・この部分は、わが国の安保闘争や「あさま山荘事件」などの政治混乱を思わせました。あれだけの騒乱が起きたけれども、アメリカによる強力な安全保障や内政干渉があったので、ソ連からの軍事侵略などの脅威は無かった…ように思われました。…当時の安保闘争さなかの世代の中には、こういう部分をちゃんと考慮した方もいるのでしょうか?…この部分、なかなか善悪つけがたい部分で、とっても複雑な気持ちです…^^;;;;

・・・しかし、辺境の人々にとっては、匈奴の脅威は続いていたのであり、毎年のように人間と家畜が略奪され続けたという記録があります。当時の西域には人身売買および家畜売買のルートが確立していたという話もありますが、現在は、「帝国」支配スタイルにおいて普遍的な、強制移民政策であったという説が有力です。

匈奴だけでなく、秦、鮮卑、柔然、突厥など遊牧騎馬民族の間では、国家的な政策として、住民を集団で強制移住させるという事が行なわれていたそうです(=中国語では、「徙民(しみん)」と言う)。三国時代でも魏の曹操による移民が知られており、五胡十六国の時代も、北魏など遊牧系王朝が栄えた華北で、強制移民が行なわれていたという記録があります(屯田制。後世のキタイ=遼帝国も同様)。

・・・これは20世紀でも、国土拡張および防衛のための植民地政策、移民政策という形で続いていたらしい節があります。ことさらに遊牧系だから、中国だから…という訳でも無いように思います(=でも、現在の北朝鮮による拉致問題は、解決したいと思いますし、現在のチベットへの漢人浸透は、非常に憂慮すべき問題だと思います…)。わが国でも、松前藩の設置などという形での北海道への移民政策があり、アイヌとの軋轢が生じたという苦い歴史がありました…^^;

遊牧騎馬系による監視の下、漢人を中心とした定住民は川沿いなどの小規模な集落に住み、鉄の精錬などの手工業や農業に従事したのであろうという事が、発掘結果から推測されています。

前1世半ば以降、武帝の匈奴政策の激化により、匈奴帝国は次第に、前漢の弱体化と同調するように、分裂の度合いを深めてゆきます。そして2世紀半ばごろには、モンゴリアの支配権を鮮卑に奪われる事となりました。

しかし、5世紀にも及んだ匈奴帝国の繁栄は、単于一族を中心とする多民族連合体の帝国支配スタイル、分封制、十進法的軍事体系、国会、シャーマニズム的世界観、金属文化など、多くの影響を後世に及ぼしました。

更に、分裂した匈奴の一部は、西方へ移動を始め、フィン族・スラブ族などの諸民族と融合して新たな民族ヴォルガ・フン族を形成し、4世紀に南ロシアに現われ、ゲルマン諸族の大移動のきっかけとなりました。そして5世紀にはアッティラに率いられてヨーロッパに現われ、西欧情勢に大きな影響を及ぼす事になったのであります…

・・・以上、匈奴大帝国について、まとめてみました…;^^ゞ

シナ研究:中原の呪縛・2

【匈奴大帝国】・・・前篇

中央ユーラシアないし、内陸アジアに広がる草原の世界は、シナ=東アジア世界ともオリエント=西アジア世界とも接触しており、政治的にも経済的にも、ユーラシアの東西を結びつける、重要な役割を果たしてゆきました。

したがって、華夷秩序が成立してゆく古代の東アジア世界を考えるとき、この内陸アジアに繁栄した遊牧騎馬民族の影響を抜きにして考える事は、不可能であります。

歴史的には、匈奴(フン族)は、前3世紀末から約500年間に渡って、モンゴリアに繁栄した、多数の遊牧騎馬民族による連合体の総称と申せますでしょうか。周の記録に見える異民族「獫狁(ケンイン)」の子孫であろうと言われていますが、確証は無いそうです(夏の時代には「獯鬻(クンイク)」と呼ばれたという記録がある)。

匈奴は戦国時代、オルドスを根拠地として、燕、趙、秦の北境を侵犯していた事が記録されています。スキタイに発生した騎馬戦法を東アジアに持ち込んだのは、彼らでした。従来、馬に引かせる戦車と歩兵とを用いた車戦と歩戦が一般的だった中原の人々は、彼らから騎馬戦の技法を学んだのでした。

文明や国家様式といった色分けで考えると、秦・漢帝国は農耕シナ型の都市国家を結んだ固定帝国であり、匈奴帝国は牧畜オリエント型の、オアシス諸都市国家との交易を前提とする移動帝国であったと言う事ができます(そして実際、匈奴の文化は、スキタイ文化の影響を強く受けていました)

中原に近い遊牧部族ほど、「中国」の製品を手に入れる機会は多く、それを交易に回す事も出来て裕福になった事が知られています。中原をめぐって起きた民族移動としては、北方から常に新たな遊牧民が南下し、南方の遊牧民はこれに襲撃されて、更に南方か西方に移る…という流れが、ずっと優勢でありました。

中原を通過した遊牧民は、支配階級は支配階級のまま、一般の遊牧民は牧畜をしながら、農業も行なうようになります。農耕民の領域と遊牧民の領域とがまだらに入り交ざる…という、中原という〈場〉における複雑怪奇な政治模様は、こうして形成されていったと考えられます。

・・・紀元前210年に始皇帝が死ぬと、中原の統一が破れ、各地で反乱が起きます。

その中で、項羽と劉邦が天下を二分して争っていた時期、北方の陰山山脈の匈奴部族の冒頓単于が、ペルシャのダレイオス大王やマケドニアのアレクサンドロス大王に匹敵する程の、世界征服を行ないました。

冒頓単于の指導の下、匈奴帝国の勢力は、東方では大興安嶺山脈を越えて、今では中国領になっている遼寧省、吉林省、黒竜江省一帯の狩猟民に及び、東の遊牧民東胡・他を服属させました。北方ではバイカル湖、西方ではアルタイ山脈にまで及んで、月氏・他の遊牧民を全て支配下に置きます。

「匈奴帝国」は、モンゴル高原を最初に統一した遊牧騎馬民族による、空前の大帝国でもありました。将来「五胡」と呼ばれる事になる多くの民族、つまり鮮卑などのトルコ系、韃靼などのモンゴル系、柔然などの東ツングース(後の金や満洲)系などをまとめ上げた大国だったのです。

※「マンシュウ」って、「満洲」と「満州」と、どちらが適切な漢字なのか、ちょっと分かりませんでした。パソコンで変換すると、どちらも変換候補に出てくるので、どちらも正しいのかなと思っていますが…、手元の教科書では「満州」になっていました。古い漢字とか、常用漢字を拡張した場合に、「満洲」になるのかな…^^;;

「冒頓」はモンゴル語で「バガトゥール」ないし「バートゥル」と発音し、「勇者」という意味を持っています。「単于」とは「テングリコト単于」の略です。「テングリ」=「天」、「コト」=「子」で、つまり「テングリコト」とは「天子」の意味。続く「単于」とは、「広大」という意味。

要するに「単于」は、中国の「皇帝」に相当する、匈奴帝国の最高指導者の称号です。ちなみに、冒頓単于は、戦士30余万人を率いた大王だったと言う事です。

※参考資料《引用始め》・・・『モンゴルの歴史』宮脇淳子、刀水書房2002より:

モンゴル高原の遊牧民にとっての方位は、南(実際はやや東南)が前、北(実際はやや西北)が後ろである。今のモンゴル語でも、左と東、右と西は同じ言葉を使う。匈奴でも、左翼(左方)の部族長達は東方におり、北京以東、満州・朝鮮半島の前線を担当した。右翼(右方)の部族長達は西方にいて、陝西以西、中央アジア方面の前線を担当した。単于の本営は中央にあって、山西の前線を担当した。
単于以下、それぞれ割り当ての土地があって、その範囲内で水と草を求めて移動するのである。24人の部族長はそれぞれ、千長(千人隊長)、百長(百人隊長)、什長(十人隊長)などの官を置いた。この匈奴帝国の仕組みは、後の13世紀モンゴル帝国と全く同じである。遊牧騎馬民自身が残した記録はこの時期はまだ無いが、伝統は受け継がれていったのだ。
匈奴が史上初めて遊牧帝国を作ったのは、秦の始皇帝が中国を統一したために、それまでのように遊牧部族が個別に中国の農村を略奪する事が難しくなったからだと言う意見がある。

《引用終わり》

図書館&資料&アドバイスに感謝。おかげさまで、だいたい、まっとうで、おかしくない、まとめ文章に仕上がったのではないか…と、こっそりと自画自賛しております。間違って理解している場所もあるかも知れませんが、その際は、よろしゅうご指摘くださいまし…という訳で、次回(=匈奴帝国の後篇=)に続く…^^ゞ