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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

習作イラスト「太夫」

いろいろ、赤面する部分が。反省して、今後に生かすと言う事で。

花街の「太夫」/「太夫」というのは遊女・芸妓の中で最高位の位階(身分格差は厳しかったらしい…)

採用した髪型=「吉野髷」。定番の豪華な髪型「横兵庫」よりシンプルですが、その分、スッキリ粋な感じ


【メモ】

キャラ視線が左上(自分から見て右上):過去の光景を想起中。

キャラ視線が左横(自分から見て右側):過去に喋った内容を想起中。

キャラ視線が左下(自分から見て右下):ロジックを思案中。推理&分析の目線。左手を頬や顎に当てる仕草も。

キャラ視線が右上(自分から見て左上):未知または未来の光景を想起中。または構想&想像中。

キャラ視線が右横(自分から見て左側):ウソをつく時。妄想する時。創造の目線。

キャラ視線が右下(自分から見て左下):言葉で表現しづらい感覚、感情。または鬱屈。

※左利きの場合は反転するケースが多いので注意

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伝統和歌で見る愛国論・雑考

先日、いつもお世話になっている丸山さまから和歌を頂きました。

m(_ _)m <ステキなお歌を、どうもありがとうございます

夏草の茂り茂れるその道を君と歩みし日暮れさびしき

これを見て、ふと思い出したのが、若山牧水の短歌いくつか…:

  • けふもまたこころの鉦を打ち鳴らし打ち鳴らしつつあくがれて行く
  • 幾山河越えさり行かばさびしさの果てなむ国ぞ今日も旅行く
  • 忘却のかげかさびしきいちにんの人あり旅をながれ渡れる
  • 山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく

…ちまたで、愛国論とか愛国教育とか色々言われておりますが、昔からの日本人が抱いてきた愛国感情(の、ようなもの)は、現在もてはやされている熱烈な愛国感情とは、少しばかり感情の向いてゆくベクトルが違っていたのではないかな…と、思われるこの頃です。

伝統和歌の世界は、ことさらに目立つ形で、現代的な意味での燃えるような愛国の心は歌いませんが、機会があるごとに、ひっそりとした形で、祈るように表現してきた愛国の心があったのではないか…と、想像しています。古くは神代の時代まで遡るのですが、素戔嗚尊の和歌とか。

八雲立つ出雲八重垣つま籠みに八重垣つくるその八重垣を

この歌の解釈は広く知られていますが、万葉仮名バージョンは以下:

夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曽能夜幣賀岐袁

この歌を取り巻く物語から切り離してみると、別の光景が見えてきます。

「つま」に当たる「都麻」といえば「都麻津姫」という神。「都麻津姫」は樹木の神として知られておりまして、伊太祁曽神社の祭神・五十猛命の妹神という位置づけになっています。「ツマ」は建物を築くために製材した材木。

…以上の意味で鑑賞してゆくと、「建国の歌」と言えなくも無い…

(伊太祁曽神社の系統の神々は、伊太祁曽三神とも言われ、五十猛命、大屋津姫命、都麻津姫命という風になっています。昔はそれなりに、小ぶりといえどもちゃんとした国の神さまだったそうですが、今は、林業や建築業の神さまという事になっています。五十猛命は、「八雲立つ」を歌った素戔嗚尊の御子にあたる神さまだそうです)

日本の神々は、その神話も来歴もえらく錯綜しておりまして、万葉仮名というのも、結構、謎に満ちています(研究者は意味を定められなくて悩んでいらっしゃるかも知れませんが、色々な解釈が出来て、怪しくて、楽しいです…)^^;

一種の曖昧な仮説になりますが、「八雲立つ」は、かつては国を愛でる歌であり、王ないしは祭司王にあたる人物が、何らかの国家的な祭祀で、国を守護する大いなる神に捧げた歌だったのではないか…と、想像しております(個人的には、「始祖の歌」というにふさわしい、スケールの大きさを感じます)。

つらつらと述べましたが、「八雲立つ」は、おそらく文献に記録された中では、最古の愛国の歌(…というよりは、神に捧げる歌…)とも結論できる…と、思っています。

…時代を下って、ヤマトタケルの和歌。

やまとはくにのまほろばたたなづく青がき山ごもれる大和しうるわし

これもまた、ジャンルとしては愛国の歌であります(神話の筋を考えると望郷&鎮魂の歌)。

思うに、日本人の伝統的な愛国心というのは、数百年の時を超えて、こういった詩的な「漂流のかなしみ」「さびしさ」を湛えた和歌群に集約されていったのでは無かろうか…(と、大胆に思考してみる)…;^^ゞ

その心は「かなしき落日の国」、「さびしさの果てなむ国」。鎮魂の心。

…鎮魂の心というのは、およそ人類が到達しうる中では、非常に複雑で、高度な感情だと思います。日本語の「かなしみ」というのも、概ね二通りの意味がありまして、「悲しみ」と「愛(かな)しみ」とがありますが、本来は、その二通りの感情の入り交ざった、淡くて深い、透明な情操のことを言い表していたようです。

※メジャーな言葉で言えば、日本語での「あはれ」が、だいたいそれに相当するのだと思います。個人的な考えですが、「あはれ」という詩的な情は、神々の感情とか、限りない広さと深さを持つ世界に、とても近いものであるように思っています。何か霊妙なものと共振している雰囲気といいますか、あまり上手く言えませんが…

…今、ちょっと心配しているのは、世の中はずい分複雑になってきたけれども、人によっては、感情とか感受性の方は、ずい分単純化しているらしい、という風潮です。

世の中の出来事を観察すると、「喜怒哀楽」への共感どころか、「快・不快」という極めて原始的なレベルで、行動や反応を決めているとしか思えない…という人も、それなりに見られるのではありますね…(「イジメやアオリ炎上が楽しい」とか「邪魔な人はポアする」とか、そういう類の人々は、特に共感能力や霊能力が退化してしまっているように感じます…アセアセ)

…色々考えてみましたが、生活環境や文明条件の変化が大きいようです。鉄筋コンクリートとアスファルトに囲まれた大都市の中で、「あはれ」の感情をはぐくむのはとても難しいものがあると思いますし、今の日本人に要求されているのは、そうした伝統文化&経済活動では無く、『モダン・タイムス(byチャップリン)』のごとき近代経済活動であります…

そのうち、権力や金銭の多寡とか、口をはばかる夜の娯楽の度合いだけで、「快・不快」を決める人も出てくるんじゃ無いかと思っています。そうなったら、この発達したコンピュータ社会システムや、高度経済社会を考えると、笑うにも笑えない悲喜劇でありますが…(あ、もしかしたら、闇のスピリチュアル世界政府とか、そういったフリーメーソン的・陰謀論的な方々は、そういう世界を創造しようとしているんでしょうか☆)…^^;

…何だか、表題からどんどん、ブレていってしまいました…(しかも混乱してるかも・苦笑)

スピリチュアルブームの方では、「悲しみや苦しみや怒りを手放して、嬉しさや幸せだけを感じなさい」というような、ちょっと発信者の人間性のありようについて悩んでしまうような呪文パターンが流行っておりますが…^^;;;;;;

(普通の日本人が、その類の呪文に呪縛され、流されているままである…というのは不思議ですが、それくらい現代社会でのストレスが強くて、人によっては自殺を考えるほどに切羽詰まっている、というのが現実なのかも知れない…)

グローバル化、急激なバブル経済の後に続く長い長いデフレ、急速に進む少子高齢化(人口減少社会)、災害多発の時代というのは、およそわが国が初めて出会う事態ではあります。その急速な社会の変化が、もしかしたら、日本人の伝統的な情操の基底構造をも、揺さぶっているのかも知れません。

…とはいえ、ふと振り返れば、日本にはまだ緑の山があり、流れる川があるのです。

「喜怒哀楽」や「大自然」への豊かな共感能力は、崩れないでほしいと祈るものであります…

シナ研究:中原の呪縛・6終

三国/南北朝・五胡十六国時代・・・退嬰と混沌の果ての「華夷秩序」

ますます混迷を深めてゆく後漢末の社会の中で、新興宗教が盛んに活動し始めました。当時、官僚登用試験に落ちた知識人の多くが、民間秘密結社や新興宗教教団の中で活動しており、その知識人の血縁のつながりで、反乱軍を起こせるほどの財力のある富裕な宗族(門閥豪族)にもツテがあった事が指摘されています。

道家思想を奉じる下級民間団体が本格的に教団活動を始め、一時は軍閥割拠の一角を占めるほどの勢力を誇ったのは、こうした社会背景がありました(※例えば、清朝末期に太平天国の乱を起こした洪秀全も、官僚登用試験に落第した知識人でした)。

後漢末で有名なのは道教教団である「太平道」(開祖・張角)、「五斗米道」(開祖・張魯)です。太平道は黄巾の乱を起こし、三国時代のきっかけとなりました。五斗米道は、曹操と劉備の間にあって独自の宗教王国を形成しました。開祖・張魯の子孫は代々「張天師」を名乗って教団に君臨し続けたと言われています(後に「天師道」と名を変え、現代も台湾で活動を続けているそうです)。

184年、太平道の頭目である張角・天公将軍、張宝・地公将軍、張梁・人公将軍は、「火徳である漢王朝は、易姓革命によって土徳の王朝に替わるべし」として、数十万の信徒ともども黄色の頭巾をかぶり、黄巾の乱を起こしました。二度にわたる党錮の禁で宦官優勢になっていた政府では、黄巾の乱に対応するため党錮の禁を解き、清流派官僚及び外戚勢力を反乱鎮圧に差し向けました。

黄巾の乱は同年の内に急速に鎮圧されましたが、その後、全国で多くの内乱が相次ぎました。涼州では韓遂、辺章、王国の乱、東北遼東では張純、張挙が烏丸族と結んで反乱、四川では馬相が反乱。いずれも軍閥であり、割拠の末に皇帝を名乗りました。

もはや権威が地に落ちてしまった後漢王朝の都で、189年に「董卓の乱」と呼ばれる激しい内戦が続きます。董卓は先の皇帝であった少帝を廃し、異腹の弟・陳留王を皇帝に立てました。これが献帝です。そして董卓自らは、相国(=宰相よりも上の地位=)として権力を振るいます。董卓は公孫度を遼東大守、劉表を荊州牧に任じた事で、意図せずして後の群雄割拠時代への道を開きました。

ちなみに董卓は、東方勢力(=反董卓派の官僚連合である関東諸侯=)が結集すると、都を長安に移しました。内輪もめから瓦解する東方勢力を尻目に帝位簒奪の手筈を進め、いよいよ後漢に替わる自らの王朝を立てようという時に、部下の呂布に裏切られて殺されたと言われています(192年)。天下は麻の如く乱れました。

長い戦乱と飢饉のために、漢人の人口は、2世紀半ばの5600万人から3世紀初めには400万人に激減したと言われています。後漢王朝は220年に滅亡。三国分裂が60余年も続いたのは、三国ともに人口が極端に少なく、長い間戦争を続ける力が無かったからだそうです。

人手不足を補うために、三国はそれぞれの辺境で異種族狩りを熱心に行なったという記録が残っています。魏の曹操は、内モンゴル西部の南匈奴を支配下に置き、彼らを山西省の高原に移住させて私兵とし、また内モンゴルの烏丸という遊牧騎馬民族を征服し、直属の騎兵隊としたという事です。なお、烏丸は鮮卑と同族だそうです。

遊牧騎馬民族の傭兵戦力を手に入れた魏は早速に蜀を併合しましたが、その後、魏の実力者の司馬炎が曹操の子孫に代わって皇帝となり、国号を晋と改めました。この晋が呉を併合し、天下統一を果たしたのです。

しかし晋の天下はあっという間に乱れました。「八王の乱」という内戦になります。

この間の304年に、南匈奴の単于の後裔の劉淵が独立を宣言し、漢(前趙)を建国しました。これが五胡十六国時代の始まりである、とされています。

五胡とは、匈奴、鮮卑、羯、氐(テイ)、羌の五種類の遊牧民の事をいい、みな中国内地に移住させられていたのでしたが、彼らは次々に、16の王国を建国しました。この時代に、中原は全く遊牧民の天下となってしまったのでありました。

わずかに生き残った漢人は、今の武漢を中心とする長江中流域と、今の南京を中心とする長江下流域に集まり、南朝と呼ばれる亡命政権を維持しました。

この時代は、東アジアの周辺民族が急速に独自の王国を構成していった時代でもあります(=五胡十六国、大和朝廷の成立、高句麗の独立、百済・新羅王国の成立etc.仏教の拡大も見られたそうです)。

ますます混迷する国際的状況の下で、いっそう先鋭化してゆく陰陽五行説と中華思想は、遂に〈シナ文明〉独創の、中華至上主義を基盤とする国際関係の概念を完成しました…いわゆる「華夷秩序」です。その言葉は、南北朝の対立と混乱の中で、正統な中華王朝を特徴付けるための堅牢な呪文となったのであります。

〝いわゆる「華夷秩序」によれば、「中華」が世界の中心で、それをとりまく「東夷西戎南蛮北狄」は、「中華」の文化に畏れ入り朝貢をなし、「中華」の天子から封ぜられる、という形をとります。〟
〝シナ的「世界」では、天子が諸侯を各地の王侯に封ずることを「封建」といい、その詔書を「封冊」といいます。その権力分配の制度にちなみ、「中華」周辺の蛮夷が、「中華」の権威をみとめ投降するさい、「封建」の形を後から整えるわけです。〟

出典: 「世界の中心」の田舎芝居 /ブログ『シナにつける薬』より

《おしまい》