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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

伝統和歌で見る愛国論・雑考

先日、いつもお世話になっている丸山さまから和歌を頂きました。

m(_ _)m <ステキなお歌を、どうもありがとうございます

夏草の茂り茂れるその道を君と歩みし日暮れさびしき

これを見て、ふと思い出したのが、若山牧水の短歌いくつか…:

  • けふもまたこころの鉦を打ち鳴らし打ち鳴らしつつあくがれて行く
  • 幾山河越えさり行かばさびしさの果てなむ国ぞ今日も旅行く
  • 忘却のかげかさびしきいちにんの人あり旅をながれ渡れる
  • 山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく

…ちまたで、愛国論とか愛国教育とか色々言われておりますが、昔からの日本人が抱いてきた愛国感情(の、ようなもの)は、現在もてはやされている熱烈な愛国感情とは、少しばかり感情の向いてゆくベクトルが違っていたのではないかな…と、思われるこの頃です。

伝統和歌の世界は、ことさらに目立つ形で、現代的な意味での燃えるような愛国の心は歌いませんが、機会があるごとに、ひっそりとした形で、祈るように表現してきた愛国の心があったのではないか…と、想像しています。古くは神代の時代まで遡るのですが、素戔嗚尊の和歌とか。

八雲立つ出雲八重垣つま籠みに八重垣つくるその八重垣を

この歌の解釈は広く知られていますが、万葉仮名バージョンは以下:

夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曽能夜幣賀岐袁

この歌を取り巻く物語から切り離してみると、別の光景が見えてきます。

「つま」に当たる「都麻」といえば「都麻津姫」という神。「都麻津姫」は樹木の神として知られておりまして、伊太祁曽神社の祭神・五十猛命の妹神という位置づけになっています。「ツマ」は建物を築くために製材した材木。

…以上の意味で鑑賞してゆくと、「建国の歌」と言えなくも無い…

(伊太祁曽神社の系統の神々は、伊太祁曽三神とも言われ、五十猛命、大屋津姫命、都麻津姫命という風になっています。昔はそれなりに、小ぶりといえどもちゃんとした国の神さまだったそうですが、今は、林業や建築業の神さまという事になっています。五十猛命は、「八雲立つ」を歌った素戔嗚尊の御子にあたる神さまだそうです)

日本の神々は、その神話も来歴もえらく錯綜しておりまして、万葉仮名というのも、結構、謎に満ちています(研究者は意味を定められなくて悩んでいらっしゃるかも知れませんが、色々な解釈が出来て、怪しくて、楽しいです…)^^;

一種の曖昧な仮説になりますが、「八雲立つ」は、かつては国を愛でる歌であり、王ないしは祭司王にあたる人物が、何らかの国家的な祭祀で、国を守護する大いなる神に捧げた歌だったのではないか…と、想像しております(個人的には、「始祖の歌」というにふさわしい、スケールの大きさを感じます)。

つらつらと述べましたが、「八雲立つ」は、おそらく文献に記録された中では、最古の愛国の歌(…というよりは、神に捧げる歌…)とも結論できる…と、思っています。

…時代を下って、ヤマトタケルの和歌。

やまとはくにのまほろばたたなづく青がき山ごもれる大和しうるわし

これもまた、ジャンルとしては愛国の歌であります(神話の筋を考えると望郷&鎮魂の歌)。

思うに、日本人の伝統的な愛国心というのは、数百年の時を超えて、こういった詩的な「漂流のかなしみ」「さびしさ」を湛えた和歌群に集約されていったのでは無かろうか…(と、大胆に思考してみる)…;^^ゞ

その心は「かなしき落日の国」、「さびしさの果てなむ国」。鎮魂の心。

…鎮魂の心というのは、およそ人類が到達しうる中では、非常に複雑で、高度な感情だと思います。日本語の「かなしみ」というのも、概ね二通りの意味がありまして、「悲しみ」と「愛(かな)しみ」とがありますが、本来は、その二通りの感情の入り交ざった、淡くて深い、透明な情操のことを言い表していたようです。

※メジャーな言葉で言えば、日本語での「あはれ」が、だいたいそれに相当するのだと思います。個人的な考えですが、「あはれ」という詩的な情は、神々の感情とか、限りない広さと深さを持つ世界に、とても近いものであるように思っています。何か霊妙なものと共振している雰囲気といいますか、あまり上手く言えませんが…

…今、ちょっと心配しているのは、世の中はずい分複雑になってきたけれども、人によっては、感情とか感受性の方は、ずい分単純化しているらしい、という風潮です。

世の中の出来事を観察すると、「喜怒哀楽」への共感どころか、「快・不快」という極めて原始的なレベルで、行動や反応を決めているとしか思えない…という人も、それなりに見られるのではありますね…(「イジメやアオリ炎上が楽しい」とか「邪魔な人はポアする」とか、そういう類の人々は、特に共感能力や霊能力が退化してしまっているように感じます…アセアセ)

…色々考えてみましたが、生活環境や文明条件の変化が大きいようです。鉄筋コンクリートとアスファルトに囲まれた大都市の中で、「あはれ」の感情をはぐくむのはとても難しいものがあると思いますし、今の日本人に要求されているのは、そうした伝統文化&経済活動では無く、『モダン・タイムス(byチャップリン)』のごとき近代経済活動であります…

そのうち、権力や金銭の多寡とか、口をはばかる夜の娯楽の度合いだけで、「快・不快」を決める人も出てくるんじゃ無いかと思っています。そうなったら、この発達したコンピュータ社会システムや、高度経済社会を考えると、笑うにも笑えない悲喜劇でありますが…(あ、もしかしたら、闇のスピリチュアル世界政府とか、そういったフリーメーソン的・陰謀論的な方々は、そういう世界を創造しようとしているんでしょうか☆)…^^;

…何だか、表題からどんどん、ブレていってしまいました…(しかも混乱してるかも・苦笑)

スピリチュアルブームの方では、「悲しみや苦しみや怒りを手放して、嬉しさや幸せだけを感じなさい」というような、ちょっと発信者の人間性のありようについて悩んでしまうような呪文パターンが流行っておりますが…^^;;;;;;

(普通の日本人が、その類の呪文に呪縛され、流されているままである…というのは不思議ですが、それくらい現代社会でのストレスが強くて、人によっては自殺を考えるほどに切羽詰まっている、というのが現実なのかも知れない…)

グローバル化、急激なバブル経済の後に続く長い長いデフレ、急速に進む少子高齢化(人口減少社会)、災害多発の時代というのは、およそわが国が初めて出会う事態ではあります。その急速な社会の変化が、もしかしたら、日本人の伝統的な情操の基底構造をも、揺さぶっているのかも知れません。

…とはいえ、ふと振り返れば、日本にはまだ緑の山があり、流れる川があるのです。

「喜怒哀楽」や「大自然」への豊かな共感能力は、崩れないでほしいと祈るものであります…

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シナ研究:中原の呪縛・6終

三国/南北朝・五胡十六国時代・・・退嬰と混沌の果ての「華夷秩序」

ますます混迷を深めてゆく後漢末の社会の中で、新興宗教が盛んに活動し始めました。当時、官僚登用試験に落ちた知識人の多くが、民間秘密結社や新興宗教教団の中で活動しており、その知識人の血縁のつながりで、反乱軍を起こせるほどの財力のある富裕な宗族(門閥豪族)にもツテがあった事が指摘されています。

道家思想を奉じる下級民間団体が本格的に教団活動を始め、一時は軍閥割拠の一角を占めるほどの勢力を誇ったのは、こうした社会背景がありました(※例えば、清朝末期に太平天国の乱を起こした洪秀全も、官僚登用試験に落第した知識人でした)。

後漢末で有名なのは道教教団である「太平道」(開祖・張角)、「五斗米道」(開祖・張魯)です。太平道は黄巾の乱を起こし、三国時代のきっかけとなりました。五斗米道は、曹操と劉備の間にあって独自の宗教王国を形成しました。開祖・張魯の子孫は代々「張天師」を名乗って教団に君臨し続けたと言われています(後に「天師道」と名を変え、現代も台湾で活動を続けているそうです)。

184年、太平道の頭目である張角・天公将軍、張宝・地公将軍、張梁・人公将軍は、「火徳である漢王朝は、易姓革命によって土徳の王朝に替わるべし」として、数十万の信徒ともども黄色の頭巾をかぶり、黄巾の乱を起こしました。二度にわたる党錮の禁で宦官優勢になっていた政府では、黄巾の乱に対応するため党錮の禁を解き、清流派官僚及び外戚勢力を反乱鎮圧に差し向けました。

黄巾の乱は同年の内に急速に鎮圧されましたが、その後、全国で多くの内乱が相次ぎました。涼州では韓遂、辺章、王国の乱、東北遼東では張純、張挙が烏丸族と結んで反乱、四川では馬相が反乱。いずれも軍閥であり、割拠の末に皇帝を名乗りました。

もはや権威が地に落ちてしまった後漢王朝の都で、189年に「董卓の乱」と呼ばれる激しい内戦が続きます。董卓は先の皇帝であった少帝を廃し、異腹の弟・陳留王を皇帝に立てました。これが献帝です。そして董卓自らは、相国(=宰相よりも上の地位=)として権力を振るいます。董卓は公孫度を遼東大守、劉表を荊州牧に任じた事で、意図せずして後の群雄割拠時代への道を開きました。

ちなみに董卓は、東方勢力(=反董卓派の官僚連合である関東諸侯=)が結集すると、都を長安に移しました。内輪もめから瓦解する東方勢力を尻目に帝位簒奪の手筈を進め、いよいよ後漢に替わる自らの王朝を立てようという時に、部下の呂布に裏切られて殺されたと言われています(192年)。天下は麻の如く乱れました。

長い戦乱と飢饉のために、漢人の人口は、2世紀半ばの5600万人から3世紀初めには400万人に激減したと言われています。後漢王朝は220年に滅亡。三国分裂が60余年も続いたのは、三国ともに人口が極端に少なく、長い間戦争を続ける力が無かったからだそうです。

人手不足を補うために、三国はそれぞれの辺境で異種族狩りを熱心に行なったという記録が残っています。魏の曹操は、内モンゴル西部の南匈奴を支配下に置き、彼らを山西省の高原に移住させて私兵とし、また内モンゴルの烏丸という遊牧騎馬民族を征服し、直属の騎兵隊としたという事です。なお、烏丸は鮮卑と同族だそうです。

遊牧騎馬民族の傭兵戦力を手に入れた魏は早速に蜀を併合しましたが、その後、魏の実力者の司馬炎が曹操の子孫に代わって皇帝となり、国号を晋と改めました。この晋が呉を併合し、天下統一を果たしたのです。

しかし晋の天下はあっという間に乱れました。「八王の乱」という内戦になります。

この間の304年に、南匈奴の単于の後裔の劉淵が独立を宣言し、漢(前趙)を建国しました。これが五胡十六国時代の始まりである、とされています。

五胡とは、匈奴、鮮卑、羯、氐(テイ)、羌の五種類の遊牧民の事をいい、みな中国内地に移住させられていたのでしたが、彼らは次々に、16の王国を建国しました。この時代に、中原は全く遊牧民の天下となってしまったのでありました。

わずかに生き残った漢人は、今の武漢を中心とする長江中流域と、今の南京を中心とする長江下流域に集まり、南朝と呼ばれる亡命政権を維持しました。

この時代は、東アジアの周辺民族が急速に独自の王国を構成していった時代でもあります(=五胡十六国、大和朝廷の成立、高句麗の独立、百済・新羅王国の成立etc.仏教の拡大も見られたそうです)。

ますます混迷する国際的状況の下で、いっそう先鋭化してゆく陰陽五行説と中華思想は、遂に〈シナ文明〉独創の、中華至上主義を基盤とする国際関係の概念を完成しました…いわゆる「華夷秩序」です。その言葉は、南北朝の対立と混乱の中で、正統な中華王朝を特徴付けるための堅牢な呪文となったのであります。

〝いわゆる「華夷秩序」によれば、「中華」が世界の中心で、それをとりまく「東夷西戎南蛮北狄」は、「中華」の文化に畏れ入り朝貢をなし、「中華」の天子から封ぜられる、という形をとります。〟
〝シナ的「世界」では、天子が諸侯を各地の王侯に封ずることを「封建」といい、その詔書を「封冊」といいます。その権力分配の制度にちなみ、「中華」周辺の蛮夷が、「中華」の権威をみとめ投降するさい、「封建」の形を後から整えるわけです。〟

出典: 「世界の中心」の田舎芝居 /ブログ『シナにつける薬』より

《おしまい》

シナ研究:中原の呪縛・5

今回は、ものすごく突っ込まれるだろうな…と思いつつ、冷や冷やのエントリです。

資料をもとに浮かんできた想像と、現代的占い的な考察をいっぱい入れて、「おっかなびっくり」状態でまとめております。間違ってるところがあれば、ご指摘よろしくお願い致します(=経済のお話は、全く専門じゃないのです。文字通り一夜漬けなので、恥ずかしいばかりの矛盾があるかも…全部間違っていたら、目も当てられないですが…)

誤字脱字、単語の間違い、文字のタイプ間違いがあれば、それはきっと、おっちょこちょいな書き手が、連日の徹夜勉強でちょっとおかしくなっていたからだ、という風に、笑っていただければ幸いです^^;;;;;


「新」帝国の貨幣政策・・・古代東アジアの巨大デフレ・スパイラル

前漢末期、経済界には貨幣不足の兆候が現われ始めていました。従来は、『貨殖伝』にも〝末を以て財を致し、本を用(もつ)て之を守る〟と書かれたように、投機で儲けた資金を農業に投資するというのが最も安全な財産運用の方法だと思われていたのですが、その貨幣の流通が、著しく欠乏してきたと言われています。

春秋戦国時代以来の好況の原因は何かと言えば、それはやはり、鉄という新たな金属の流通が農器具の発達と相まって好況の下に拡大したこと、それに国土が広がったことによる、未開の地での新たな銅鉱山や金鉱山の開発と運営といった、一種の開拓ブーム(=今で言えばゴールドラッシュ=)が大きかったと申せましょうか。

後世の歴史家は、前漢時代の黄金流通の豊富な事、それゆえの黄金価格の低廉の事について、頻繁に言及しています。前漢時代の都中央部及び支配領域において、非常な好景気があった事を暗示しています。

ところが前漢以降、匈奴帝国との交易の市場が開かれ、西域との流通が大きくなってくると、前漢よりもずっと経済活動が盛んだった西域に向かって、黄金が流出したのです。それが前漢末期の貨幣不足として現われてきたと言われています(=古代であるからして、その流通の速度も変化の度合いも、現代に比べると非常にゆっくりとしたものではあった筈ですが、それだけに不景気は一旦始まると、非常に長く続いたものと思われます)。

漢代の貨幣制度は、ほぼ銅銭を基本通貨とし(五銖銭が正貨)、その補助貨幣として黄金が用いられるというスタイルでした。黄金一斤が銅貨一万銭に相当するという交換レートで運用されていたという話です。

西域との交易によって黄金が大量に西方に流出すると、流通貨幣の不足が起こりました。経済が回らなくなった前漢は、大不況に陥ったのです。この影響をもっとも受けたのが前漢の豪商・知識人たちでした。彼らは王莽を支持し、王莽は「新」帝国を樹立し、貨幣制度の改革を行ないました。

※興味深いことに、同時期(後1世紀頃)に、ローマ帝国でも黄金の東方(インド方面)への流出があった事が知られています。西方では、むしろ銀貨の方が高い価値を持っていたそうです。

復古主義であった王莽による経済再建は、概ね、武帝の経済政策をなぞったものとなりました。貨幣総量を増すため、銀に貨幣価値を付与して銀貨二品を作りました(朱提銀:重さ八両=銅貨1580枚相当/它銀:重さ八両=銅貨1000枚相当)。しかし、その結果は、武帝の失敗をもう一度なぞるものとなったのです。

※武帝の場合は、充実した国力を背景に、匈奴攻略に膨大な資金を注ぎました。この結果、国内の貨幣流通の不足が生じ、財源不足に陥りました。新たな貨幣「五銖銭」の鋳造や、鉄・塩の専売制度は、この財源不足を補うために始まったものでしたが、かえって密売などのヤミ流通が横行し、私腹を肥やす外戚・宦官が増加し、民間の窮乏が広がったと考えられます。

王莽はその後、銅貨の改鋳を盛んに行ないました(様々な王莽銭が発掘されています)。彼は大小の様々な銅貨を作りましたが、その目的は銅を小分けにして流通量を増やすという事であって、今で言えば貨幣価値の無謀な切り下げ作戦…政府が銅の国内総量をコントロールできないままに施行された、巨大デフレ・スパイラルの中のインフレ政策に他なりませんでした(…と、考えてみたのですが、だいたい大丈夫かな…^^;)

旧銭の所持者は、銅貨の価値が下がる事を恐れ、手持ちの銅銭を放出を惜しみました。ひとたび悪貨(=私貨や密造貨幣=)が市場に溢れて良貨を駆逐し始めると、ますます銅貨の流通量が欠乏し、「新」帝国の経済情勢は、いっそう悪化したのです。地方の軍閥・農民への影響は甚大なものとなり、赤眉の乱が起こりました。

※同時期に寒冷化が始まっていたという気象データがあり、悪夢のようなスタグフレーションや食人(カニバリズム)が起きていた可能性がありますが…どうなんでしょうか…(冷や汗)

※王莽の外交政策も、過度の中華思想の下に武帝をなぞったものとなり、匈奴や高句麗の反発を買いました。

・・・《ポスト「新」としての後漢の文化と経済についての小記》・・・

王莽を倒して天下を取った赤眉の軍と覇権を争い、後漢王朝を樹立した事で知られる光武帝・劉秀は、漢委奴国王の金印を奴国(1世紀-3世紀前半、福岡市付近に存在した国)に授けた皇帝でもあります。

讖緯(予言書)を利用して帝位についた光武帝は、中国史上、稀な名君として知られています。その治世は、民間の活力が上昇し、最高識字率を達成した事でも注目されます。

『三国志』の時代は、それまでの時代とは異なり、檄文などの文書戦や知謀戦のスタイルが新たに発生してきますが、こういった現象は、光武帝の遺産と考えても良いかも知れません。

一方で、王莽のもたらした甚大なる経済混乱とデフレ不況は、その後の豪族や商人たちの経済的サバイバルに影響を与えたと思われます。彼らは、なるべく銭を使わない経営をする、つまり荘園などの自給自足の経済圏を築き、塩と鉄を買う時にだけ金銭を放出するというような対策を取るようになりました。

必然の流れとして、彼らの旺盛な消費活動は、もっぱら素材購入に集中し、加工品に出来るだけ手を入れたものを自分の車船に積み込んで、荘園外に出向いて商品として販売し、少しでも余剰利益を大きくするという方向に向かったと言われています。

(★想像ではありますが、このような経済サバイバル習慣が、おそらく、現代中国に蔓延する偽ブランド商売や密輸の習慣に、密接に関連しているのではないでしょうか…?? …とすれば、こうした偽商品や商売詐欺の習慣は、ゆうに2000年の歴史を持っていることになります…冷や汗)

このような消極的な経済活動は、一箇所に蓄積される貨幣の量を増加させる一方で、ますます市場における貨幣流通を少なくし、デフレ・スパイラルを強め、不況や経済格差が更に拡大・長期化する原因となった筈です。後漢頃には、こうした「上に政策あれば下に対策あり」経済活動が定着したものであり、そのまま三国・南北朝(五胡十六国)の時代へと突入したのだと考えられるのです…

・・・・・・《補遺》・・・・・・

「新」帝国は短かったですが、中華変容へのディープインパクトだったと想像しています。

興味深いのは、政権交代で鳩山政権となった2009年の年末に、「今年の漢字by清水寺」が「新」という漢字を書いているのですね。鳩山政権も、後々の時代から見れば、王莽なみの中華ディープインパクトだったと評価されるようになるのかも…と、「占い的に想像」しています。

でも、日本が商売詐欺の大国&中華バージョン食人列島化するのは、やっぱり嫌です。もし自分が日本で一番えらい神さまだったら、すぐにでも八百万の神々を動かして、そういう恐ろしい変容をストップさせるのになあ…と、思いました…^^;;;;;


FriendFeedコメントより転載

【2010.7.17-管理人メモ】コメントが無いので、この静けさが、いささか不安(アセアセ)…エントリの趣旨は、論理の組み立ても、すごく変だったのだろうかと、ちょっと焦っております。今の自分の経済知識ではこのレベルの理解が精一杯ですし、このまま、ホームページ用に編集してみます。勘違いがあれば、いつでもご指摘お待ちしております、というメッセージだけ残しておきます…
さてお呼ばれしているような(♪)気がするので少しだけ。シナ社会の経済に関する研究は資料が存在する宋代以降からに集中しているような気がします。漢代となるとほとんど想像の域なのではないでしょうか。専門外なのでよくは知りませんが。家内がある研究プロジェクトで明末清初を担当していましたがそれでも資料がすくなくて大変そうでした。 - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます。「中国史」の記録は山ほどあるのに、経済の記録の方はやっぱり薄いみたいですね。古代から経済活動がものすごく活発な印象があるので、何だか意外です。当時の役所の記録や日常に関する記録は、木簡や竹簡に記録されたと思いますし、発掘調査の進展を待つしかないみたいですね。六朝時代を調べていて、「中国人は日常の役所の定例的な記録は重要視せず、技術を尽くした巧緻な文章(詩文&名文etc)を後世に残そうとする傾向があった」という文章がありました。そのあたりの気質も影響しているみたいですね…