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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

《3.11大震災》取り急ぎ生存報告。

◆《深森の帝國》あらためて、当サイトの制作委員会は全員、生存中です。

※電話不通エリアに居る親戚の安否=12日のお昼頃やっと確認できました。家の中がメチャクチャになったけど元気だということで、ひとまずホッとしました。※

◆この記事を編集している現在=3月12日/朝08時25分

以下、被災状況と現在状況を端的に。

現在、余震は減りつつあるようです。帰宅に成功しまして、状況が落ち着くまで自宅にて待機中であります。停電エリアが自宅の傍まで迫っており、節電中です(=暖房無し。一番あったかそうなコート着て毛布かぶってます)。コンビニとかは停電エリアの方にありまして、動いていないです。当分は水・食料は、手持ちのものでサバイバル予定です。

地震が来たとき、お勤め先(横浜湾岸エリアの一角にあります)が、完全に停電しました。TVも、停電エリアでは、地上波は映らないです。知り合いの情報ですが、電力を確保できれば、衛星TVとかワンセグは映るようです。

湾岸エリアのため、津波警報が来ていたらしく(その時は何が何だか緊急避難、というようなことしか分からなかった)。そのときは、お勤め先の生存者確認とか点呼とかで混乱してたので、情報確認してないので分からないのですが、実際に津波が来ていたらしいです(ずっと後の情報になりましたが、海面が上昇したそうで。浸水被害は免れたようです)

お勤め先の一帯のエリアは軟弱地盤で地震動が大きく、停電が広範囲に見られたようです。

◆追加カキコ=3月12日14時00ごろ

近所の停電エリアで電力が復活しました。ガス・電気・水道ともに問題無いようで、スーパー商品の販売開始がありましたので、買い出しに行ってきました。すごい行列で既に品薄が始まっていてビックリしましたが、ホッとしました。まだガスが止まっているエリアがあるようで、カセットガスボンベの箱詰めを購入している方もいらっしゃいました。

かなり体調が参っておりまして、本日は早めに横になる予定です。TVで東北の被害状況を拝見して、愕然しております(汗)

◆2011年3月13日08:10カキコ《メモ》

震源図

@「想定超える超巨大地震」=宮城観測点、東へ4メートル移動-政府調査委(時事ドットコム2011.3.12)

政府の地震調査委員会(事務局・文部科学省)は11日夜、今回の大地震(マグニチュード=M8.8)の震源域は岩手県沖から茨城県沖まで広範囲に連動しており、想定外だったとの見解を発表した。阿部勝征委員長(東大名誉教授)は記者会見で「東海、東南海、南海地震が連動する地震を超える超巨大地震が東北沖で起きるとは想定していなかった」と述べた。

東北沖の地下では、太平洋プレートが日本列島の陸側プレートの下に沈み込んでいる。今回の大地震はプレート境界が急に滑り、陸側プレートの海底付近が上へ跳ね上がる逆断層型だったため、大津波が起きた。

関東地方の震度が他地域に比べ相対的に大きかった理由は、「太平洋プレート内部を揺れが減衰せず遠くまで伝わる『異常震域』現象ではないか」(阿部委員長)という。

また、国土地理院は、宮城県石巻市・河北の全地球測位システム(GPS)観測点がほぼ東へ4メートル3.4センチ、下方へ69.9センチ移動したと地震調査委に報告したと発表した。水平方向の移動幅は、1994年の観測開始以来最大。

地震調査委はこれまで、三陸沖北部から房総沖まで南北7領域を設定し、個別に地震を想定。さらに宮城県沖地震(想定M7.5)とその東側の「三陸沖南部海溝寄り地震」(同M7.7)については、連動した場合にM8.2と想定したが、南北方向に連動する地震は想定していなかった。

@福島第1原発、3号機も冷却機能失う-緊急事態通報(日経2011.3.13-07:10)

東京電力は13日午前6時すぎ、福島第1原子力発電所3号機の原子炉の冷却機能が失われたと発表した。前日からの電源喪失の影響で高圧注水系と呼ぶ装置が自動停止したため。

東電は午前5時、原子力災害対策特別措置法に基づいて国に対し緊急事態(特別事象)を通報した。今回の地震での緊急事態の通報は6機目。注水を可能にするため、安全弁を開放して原子炉格納容器内の圧力を低下させる措置などを検討するという。

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李賀の詩「苦昼短」鑑賞

@『中國詩人選集-第14巻・李賀』(岩波書店/昭和48年/荒井健・注)より…

★《個人的感想》・・・中唐と言うと、すごく暗いイメージのある時代ですが、それでも、こういう詩歌作品を生み出すような社会環境が繰り広げられていたのだと言う事を考えると、それなりに深い意味のある時代だったのかも。

李賀は奇妙な厭世観を持っていた変人みたいですが、案外、「斬新かつ真っ当な見方が出来る」というか、「見えない世界が見える眼」を持っていたのかも…と想像されるところがあります。中世に発達した無常観と響きあうところがありそうだなと思いました。

苦昼短(昼の短きを苦しむ)・・・李賀・作

飛光飛光
勧爾一杯酒
吾不識青天高
黄地厚
唯見月寒日暖
来煎人壽
食熊則肥
食蛙則痩
神君何在
太一安有
天東有若木
下置銜燭龍
吾将斬龍足
嚼龍肉
使之朝不得廻
夜不得伏
自然老者不死
少者不哭
何為服黄金
呑白玉
誰似任公子
雲中騎碧驢
劉徹茂陵多滞骨
嬴政梓棺費鮑魚

★《読み下し》

飛光よ 飛光
爾(なんじ)に一杯の酒を勧めん
吾は識らず 青天の高きを
黄地の厚きを
唯だ見る 月は寒く日は暖かく
来たって 人寿を煎るを
熊を食えば すなわち肥え
蛙を食えば すなわち痩す
神君 いづくにか在る
太一(タイイツ) いづくにか有る
天の東に 若木(じゃくぼく)有り
下に燭を銜(ふく)む龍を置く
吾 将に 龍の足を斬り
龍の肉を 嚼(か)み
之をして朝は廻(めぐ)るを得ず
夜は伏(ふく)するを得ざらしめんとす
自然 老者は死せず
少者は哭せず
何(なん)為(す)れぞ 黄金を服し
白玉を呑む
誰か任公子(じんこうし)の似(ごと)く
雲中 碧驢(へきろ)に騎(の)る
劉徹(りゅうてつ) 茂陵(もりょう) 滞骨(たいこつ)多く
嬴政(えいせい)の梓棺(しかん) 鮑魚(ほうぎょ)を費す

★《意味》

飛び去る光、飛び去る光よ。/お前に一杯の酒を勧めよう。/私は知らぬ、青空の高いことも、黄色い大地の厚いことも。/ただ目にするのは、月は寒く日は暖かく、代わる代わるめぐってきては人の命を縮め、熊を食えば肥え、蛙を食えば痩せ、ということだけ。/
神君は何処だ。太一は何処にいる。天の東には生命の木(扶桑樹)があり、下には世界の灯火・太陽をくわえた龍が控える。/
私は龍の足を斬り、龍の肉を食おう。/これをして、龍を、朝が来ても駆け巡らさず、夜になっても休めなくさせよう。/すると当然、老いたる者は死なず、年若き者は嘆かずに済む。/
どういうわけで、黄金を服用したり、白玉を呑んだりするんだ。/いったい誰が任公子みたいに、雲の中で緑色のロバを乗り回し得たか。/迷信家・劉徹(漢の武帝)の墓の茂陵には、昇天しそこなった彼の骨がゴロゴロしており、不老不死を願った嬴政(秦の始皇帝)の棺桶には、死体の腐臭を消すための干物がどっさり使われたのだ。

※秦の始皇帝が死んだ時、その死を誤魔化すために、魚の干物が車に積載されたと云われている。『史記』より。「梓棺」は梓の木で出来た棺桶で、天子だけに使われた。

★《解説》・・・『中國詩人選集-第14巻・李賀』(岩波書店/昭和48年/荒井健・注)より転載

※歴史と文化の研究のため、興味を持った部分を転載です…^^;

・・・李賀の詩のスタイル・・・

李賀の詩は「注なしでは読めない」などと称され、昔から、李商隠と並んで中国歴代の詩の中でも、最も難解とされている。その理由は、彼の詩のスタイルにある。

  1. 詩の各句の、或いは各部分の孤立性。それらの間には有機的なつながりが無い。これは李白とは対照的である。(※以下略。「李白の詩は論理的構造をしており、途中の句をちょん切ったり出来ない」と解説されてある。李賀の詩は非論理的で、途中の句をちょん切ってもそんなに変わらないらしい)
  2. 凝固的流動性。「各分子の性質は、どれも重く凝って堅固だが、全体の運動は、一方迅速に移り変わる。だから部分のみ見つめると言葉づかいは重く凝固しているが、全体として詠ずると、気体のように揺れ動く。これは昌黎(韓愈)の詩が長江の秋の流れのように、千里もある一筋道を突っ走るのとは違うのだ。東坡(蘇軾)の詩が満々とたたえた泉のみなもとのように、至る所から湧き出すのとも違うのだ。これは氷山のたちまち倒れ、ゴビの砂漠がにわかに移動するように、その勢は細かく砕けた石塊もろともまっすぐに進み、固体であっても流動性を備えているのである」(銭鐘書「談芸録」1948上海・開明書店)。
  3. 時間空間に関しての超越性。同一の詩で、春かと思えば突然七夕の牽牛・織女が現れたり、行動の主体が今家に入ったかと思えば天の川の落ちる辺りをさ迷ったりする。
  4. 比喩の屈折性。どちらも光るものだから太陽をガラスにたとえ、更にガラスから連想して太陽をムチ打って音を立てさせる。涙を水にたとえ、更に涙を流す者が金属製の仙人像だから鉛の水と言う。
  5. 代用語の愛用。剣のことを玉竜、酒のことを琥珀、秋の花を冷紅、棗の実を垂朱などなど。これが極端になると一篇の詩全体が代用語であり、剣を描いても剣が見えず、虎を描いても虎が現れない。
  6. 新語。中国の文学者は一般に先人の手垢のついた言葉を使い、新しい言葉はむしろ避ける。が、彼は新奇な熟語を作る。…「彼は創作における踏みならされた道筋を全く無視した(杜牧)」。

・・・李賀の生きた時代《中唐》・・・

安史の乱を境として、唐王朝の勢力はすでに下降を始め、地方政権へと転落しつつあった。宮廷内部では、皇帝の側近く仕える宦官が幅を利かせて政治を左右する。各地に派遣された守備隊の司令官、節度使の中には、武力に物を言わせてその地方の実権を握り、公然と政府に反抗して独立国家の観を呈するものさえ出てくる。ウイグルやチベットなどの異民族が北方・西方から侵入し、或いは物資を強要する。

宰相・李吉甫(758-814)が元和3年(808)に編した「元和国計簿」によると、戸数は唐朝最盛時の3割以下に減ったのに、兵力は3割増えて2戸に1人の兵士を出していたと言う。この窮状を打開しようと、中央政府は懸命の努力を重ねていた。

徳宗の治世には財政が一応立て直された。次の順宗皇帝の1年足らずの在位の間には、内政全体の大改革が企てられたが、結局失敗に終わった。その後を受けた憲宗皇帝(在位805-820)は節度使に対して強硬政策に転じ、或る程度の失地回復は出来たが、年中行事のように大小の討伐戦が繰り返され、国境地帯の紛争がこれに加わり、毎年毎年不安な情勢が続いていった。

・・・李賀の詩の影響《近現代》・・・

李賀自身は非行動的な一詩人であったが、その作品にはかえって、行動を拒否されて深く沈下せざるを得なかった諸勢力がみなぎっている。さすがに魯迅はそれを見抜いていた。…(中略)…李賀は確かに「刺客になろう」と志したことがあるのだ。

彼の非行動は単なる無気力そのものではなく、彼が心血を注いだ作品には、各時代の反逆者・憂国の志士たちを引きつけるだけのエネルギーが隠されていたのだ。そのエネルギーはおそらく革命的エネルギーに転化する可能性をすらはらむものであった(譚嗣同と魯迅の、陶淵明と李賀への傾倒は、そうとしか解釈できない)。

初期のニヒリスト魯迅が後期の革命文学者に変貌したように、完全な唯美主義者として出発した詩人の聞一多(1899-1946)が右翼のテロリストの銃弾に倒れる劇的な最期を遂げたように、中国の文学者に共通する矛盾は、「鬼才」李賀の内部にもまた存在していた。


コメント・メモより転載

岩波の『中国詩人選集』、わたしめも高校生のころ愛読したものであります。この李賀と、高橋和巳による翻訳解説の李商隠がとくに好きでした。そんなこともあり「中国文学」を選択してしまったのかもしれまへん、一生の不覚~!俗に「三李」といわれるのはこの二人にあの李白を加えたものですが、個人的にはそこに李煜と李清照を加えて「五李」と勝手に呼んでいます。♪ - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます^^この本は、近所の図書館でひっそりと並んでいるのを見つけて借りてきた本でした。とても古い印象のある本でした。旧字体とかがちょっと読みにくかったのですが、読んでいて面白かったです。丸山さまが中国文学に魅了されたとおっしゃるのも納得、と思いました。「三李」という言葉があるのは知りませんでした。お勉強になります。確か李商隠のお名前もあったかなと記憶しておりますので、今度は李商隠のシリーズを読んでみようかなと思っております。

私製和歌まとめ「さまよえる」他

◇さまよえる-旅人多き-現葉(うつしよ)に-時は経巡る-宇宙(そら)の標(しるべ)を

◇烈日の-熱の凝(こご)れる-夕道に-幽(あや)しく立てる-その人誰そ彼

◇海青し-さ青(を)なる水に-誘われて-身を投げ果つる-岸辺のその人

◇千早振る-神の如くに-鳴り響く-夏の大雨-四方(よも)の雷(いかづち)

◇古き世の-人を見送る-鳥の野辺-心波立つ-秋の夕暮れ

◇木の下の-緑の闇を-廻(もとお)れば-細き日影の-あやしく思ほゆ

◇せせらぎに-笹舟軽く-漂ひて-水の彼方の-行方知らずも

◇咲き誇る-躑躅(つつじ)よ躑躅-うら若き-乙女の如く-明るき花よ

◇見上げれば-日影まばゆし-空青し-天の底なす-夢深きかも

◇天(あま)がける-鳥よと見初め-思ひ初め-乙女我が枝に-寄り寝て通れ

◇君我を-見初めと云ひ-思ひ初め-と云ふ松葉に-秋の風吹く

◇松が枝に-天の羽衣-見ざりせば-我が心-安からましものを

◇一筋の-風か雲かや-松が枝の-身に留まらじ-消ゆべき露よ

◇遠白(とおしろ)き-永遠(とわ)の大河も-一滴の-露に始まり-来たれるものぞ