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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

twitter覚書:英雄凡才物語論

英雄の息子で天才の物語論《http://togetter.com/li/117243》

「なぜ少年マンガの主人公の少年は『英雄の息子』で『天才』なのか?」という意見とマンガ論に対する、個人的な疑問を書いてみました。正しい・正しくないではなく、現状の作品作り(漫画に限らず映画も)への疑問です。

ある編集者「なぜ少年マンガの主人公の少年は『英雄の息子』で『天才』なのか?少年が読むものだから。子どもが読むものだからです。子どもは誰もが『英雄の息子』で『天才』だからです」tanakayutak 2011-03-23 00:56:22

そして甘やかし漫画が氾濫。 RT @izumino: 少女ならジュエルペットでいう「女の子は誰でもステキな魔法使い!」ですね RT @tanakayutak: ある編集者「なぜ少年マンガの主人公の少年は『英雄の息子』で『天才』なのか?少年が読むものだから。子どもが読むものだから…mogura2001 2011-03-23 17:48:42

作品がその子どもにとって、甘やかした害毒になるか、一生を勇気付ける大切な宝物になるか、その境界は常に危うくデリケートですね。だからこそ、一人ひとりの子どもと作品の出会いがより良いものであって欲しいと願わずにいられません。@mogura2001 tanakayutak 2011-03-23 18:07:37

@tanakayutak 現状、あまりに安易な「君にも何か隠された天府の才能があるかも」式の甘やかし漫画が氾濫しすぎです。凡人が必死の工夫や努力や発想の転換、なけなしの勇気を振り絞って立ち向かう作品は、一生を勇気づける大事な宝物になりますが(ちばてつや・あきお両先生の作品とか)。mogura2001 2011-03-23 18:16:51

昨日の「子どもは誰もが『英雄の息子』」は、少年マンガにおける幼児性の肯定に対する批判への反論、という文脈の中で編集者から伝えれた言葉でした。 「現実」を描くと言いながら、挫折や無力感を描くことは本当に正しいのか、それは子どもの読者にとって‘本当に’「現実」なのか?tanakayutak 2011-03-23 18:30:20

「男の子はみんな『英雄の息子』だし、女の子はみんな『お姫さま』です。クラスの中のどんな冴えない子だってです。一人ぼっちの子だってです。『お前なんかダメだ』って言葉なら世の中からいくらでも浴びせられます。マンガまでそっちの側についてどうするんです」(※セリフメモ、田中ユタカ創作)tanakayutak 2011-03-23 18:32:41

今回の大震災で、世界がもろい壊れ物で、親も自分も為すすべなく痛めつけられてしまうことがあるのだと体験した子どもたちに、私たちはどんな物語やヒーローやヒロインを差し出すことが出来るか?tanakayutak 2011-03-23 18:33:23

「誰も救いに来てくれなかった子どもの頃の僕自身に向けて、僕は今、ヒーローを描いてあげているんです。『生き延びなさい。君自身がヒーローになって救いに来る時まで。君のヒーローは必ずやって来るから!』」(※作品用セリフメモ、田中ユタカ創作)tanakayutak 2011-03-23 18:34:33

人生は挫折の連続であり、思い通りになることは数少ない。マンガ家デビューもできない投稿者から見たら羨ましい限りの人気作家も、内実は未来への不安や、己の才の乏しさに呻吟し、絶えざる競争に苦悩している。そんな時に心の支えになるのは、天才がその力を発揮する作品ではない。mogura2001 2011-03-23 18:24:01

凡人が凡人として、何も無い自分を変えていく、危機的状況を切り抜けていく物語は力になる。少なくとも今を生きるヒントになる。ダニエル・デフォーの『ロビンソン漂流記』は1719年に発表された古典中の古典だが、未だに子供たちの旨を熱くさせる。彼は英雄の息子でもなければ天才でもない。mogura2001 2011-03-23 18:29:55

『英雄の息子』で『天才』というのは、『スターウォーズ』の悪しき解釈。以前も書いたように、同作は敗北したベトナム戦争の癒しの物語。悪の帝国に民主主義勢力が勝つ、それも田舎の純朴な青年(ジェダイとしては訓練開始時期も遅い)が銀河を救うというモチーフは、『フォレスト・ガンプ』も同じ。mogura2001 2011-03-23 18:33:23

『スターウォーズ』では、エピソード5での、実はルークがベイダーの息子という設定のインパクトがあまりに大きく人口に膾炙したため、その部分のみを安易に模倣する作品が、以後量産される。その直系子孫が『ハリー・ポッター』。ただ、スターウォーズの設定自体は、よくある物語のパターン。mogura2001 2011-03-23 18:36:33

物語のパターンとして、エディプス・コンプレックスの克服はそれこそ何千年も前からある物語。エディプス(オイディプース)とは、自分の父親を殺し母親を妻として娶ってしまった悲劇の王の物語。ギリシャ神話に出てくるこの物語を元に、フロイトはエディプスコンプレックスという心理的抑圧を説く。mogura2001 2011-03-23 18:40:53

フロイトの学説の是非はともかく、人間は古来から肉親同士で争うこともしばしば、特に男の子にとって父親とは乗り越えるべき最初の壁にして、永遠の壁。梶原一騎の作品には『巨人の星』や『人間凶器』『斬殺者』など、数多くこのモチーフが語られる。それは、梶原と厳格な父親との実際の相克の反映。mogura2001 2011-03-23 18:43:45

スターウォーズも本来は、父子相克の物語。父親というのは、超えるべき理想であり、同時になってはいけない未来の自分。スターウォーズは本来、なってはいけない父親を克服し、克服された父親と息子の和解の物語である。菊池寛『恩讐の彼方に』も形は変えているが擬似父子による相克と和解の物語。mogura2001 2011-03-23 18:47:56

にも関わらず、「友達のような親子関係が理想」と言い放つ現代にあって、民主的な父親は克服すべき対象ではなく、結果的に「英雄の息子」で「天才」が、その力を発揮するだけの物語が大量生産されることに。その悪しき解釈の一番の被害者が、平成版巨人の星としてリメイクされたマガジンの作品。mogura2001 2011-03-23 18:51:14

そこで描かれた星一徹は、ひたすら理不尽な怪物・理解不能な化物として描かれており、そこには梶原一騎が欲してなお得られなかった、父親との和解はない。ただひたすら怪物から退治されるべきドラゴンの如き存在となっている。平成版が花形満の視点から描かれるのは当然。彼は金持ちの御曹司で天才だ。mogura2001 2011-03-23 18:54:25

その梶原一騎と、ちばてつや先生が描いた矢吹ジョーは、天才ではない。英雄の息子でもない。天才は力石。ジョーは、肉を切らせて骨を断つという、己の中の勇気という武器でクロスカウンターを放つ。ちば作品は基本的に、そういう凡人が頑張る物語。実弟のちばあきお作品は、さらにその傾向が顕著。mogura2001 2011-03-23 18:58:36

東大合格者は親も裕福な家庭が多いという調査結果が出ているが、結果的にそういう有名大学を卒業した高学歴の子弟が出版社に入り、自分の人生を肯定しようとしたら、「英雄(金持ち)の息子」で「天才(受験戦争の勝ち組)」という物語を好むのも必然か。日雇い労働者の息子より御曹司に共感して当然。mogura2001 2011-03-23 19:02:34

藤子不二雄作品は、一見するとドラえもんという万能の存在で、楽して成果を得る物語であるが、基本的にそれを暴走させてしまったのび太が、しっぺ返しを食う。『笑うセールスマン』もその応用系。必ずバランスを取るための毒を、幼年向け作品であっても忍ばせている。一方的な甘やかし漫画ではない。mogura2001 2011-03-23 19:05:04

ジェフのサッカーコーチである池上正氏が、小学生に紅白戦をやらせると、チーム分けで奇妙なことをするという。自分らの感覚ならば、戦力を均等に分けてチームをつくるのに、1番目から11番目に上手い子のチームと、12番目から22番目までの子のチームと。当然、試合内容はワンサイドになる。mogura2001 2011-03-23 19:08:42

10点も20点も点差がついた試合になるので、池上氏が途中で弱いチームに入って立て続けに得点すると、子供たちは「ずるい」と言い出す。仕方が無いので池上氏がキーパーになって得点しない代わりに、強いチームのゴールをたてつづけに止めると再び「ずるい」と批判するそうだ。ずるいのはどっちだ?mogura2001 2011-03-23 19:11:39

自分たちだけ有利な条件を一方的に決め、弱い者いじめ同然の試合をすることを恥ずかしいと思わない子供たち相手なば、なるほど「英雄の息子」で「天才」が一方的に勝つ物語を、嬉々として受け入れるのかもしれない。ゲームばかりやってる小学生よりも健全と大人が考えているサッカー少年の不健全性。mogura2001 2011-03-23 19:14:21

しかし、これは子供たちの責任だろうか? 子どもたちの姿は、今の大人達を写す鏡である。放射能怖い怖いと煽るマスコミが、必死に「買い占めは辞めましょう」と一日に何回何十回と呼びかけても、安全な東京でガソリンやコンビニの食料を買い占めて恥じない大人達の、影響を受けていないと言えるか?mogura2001 2011-03-23 19:16:47

「漫画なんてしょせん娯楽、小難しいこと言っても誰も読んでくれません。かつての名選手の息子が小学生でプロになって大活躍するようなストーリ、書きましょうよ」と編集者に言われたとき、マンガ家はどうするべきか? 自分なら「それで行きましょう! ところで原稿料はずんでくださいね」(終)。mogura2001 2011-03-23 19:20:56

今回のつぶやきの予備知識として。 http://togetter.com/li/114406 mogura2001 2011-03-23 19:48:07

あれはまだ成功した部類で、編集の口車に乗って消えた作品なんて山の様にありますからね(笑)。 RT @masaki_sss: @mogura2001 童夢くんだ!mogura2001 2011-03-24 05:28:29

300年前の作品も、150年前の作品も時を超えて生きる。消費されるだけの作品でいいのか、古典を読むたびに思います。ポーの作品も百年後も読まれてるでしょうし。 RT @gishigaku: 『月長石』で人生のあらゆる指針を『ロビンソン漂流記』に求める人物が好意的に描かれていますねmogura2001 2011-03-24 05:27:09

@izumino 物語の構造とモチーフと配役、神話素はまた違う型取りが必要ですから…。まぁ、そこらへんはマンゼミではやらない可能性が高いのですが。今回のtweetはライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフルでも語られていた作品論を参考にしてあります。興味があったら聞いてみては。mogura2001 2011-03-24 05:33:07

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詩歌鑑賞:ヘルダーリン「追憶」

詩歌鑑賞:ヘルダーリン「追憶」

Andenken / Friedrich Hölderlin

Der Nordost wehet,
Der liebste unter den Winden
Mir, weil er feurigen Geist
Und gute Fahrt verheißet den Schiffern.
Geh aber nun und grüße
Die schöne Garonne,
Und die Gärten von Bourdeaux
Dort, wo am scharfen Ufer
Hingehet der Steg und in den Strom
Tief fällt der Bach, darüber aber
Hinschauet ein edel Paar
Von Eichen und Silberpappeln;

Noch denket das mir wohl und wie
Die breiten Gipfel neiget
Der Ulmwald, über die Mühl,
Im Hofe aber wächset ein Feigenbaum.
An Feiertagen gehn
Die braunen Frauen daselbst
Auf seidnen Boden,
Zur Märzenzeit,
Wenn gleich ist Nacht und Tag,
Und über langsamen Stegen,
Von goldenen Träumen schwer,
Einwiegende Lüfte ziehen.

Es reiche aber,
Des dunkeln Lichtes voll,
Mir einer den duftenden Becher,
Damit ich ruhen möge; denn süß
Wär unter Schatten der Schlummer.
Nicht ist es gut,
Seellos von sterblichen
Gedanken zu sein. Doch gut
Ist ein Gespräch und zu sagen
Des Herzens Meinung, zu hören viel
Von Tagen der Lieb,
Und Taten, welche geschehen.

Wo aber sind die Freunde? Bellarmin
Mit dem Gefährten? Mancher
Trägt Scheue, an die Quelle zu gehn;
Es beginnet nämlich der Reichtum
Im Meere. Sie,
Wie Maler, bringen zusammen
Das Schöne der Erd und verschmähn
Den geflügelten Krieg nicht, und
Zu wohnen einsam, jahrlang, unter
Dem entlaubten Mast, wo nicht die Nacht durchglänzen
Die Feiertage der Stadt,
Und Saitenspiel und eingeborener Tanz nicht.

Nun aber sind zu Indiern
Die Männer gegangen,
Dort an der luftigen Spitz
An Traubenbergen, wo herab
Die Dordogne kommt,
Und zusammen mit der prächtgen
Garonne meerbreit
Ausgehet der Strom. Es nehmet aber
Und gibt Gedächtnis die See,
Und die Lieb auch heftet fleißig die Augen,
Was bleibet aber, stiften die Dichter.

「追憶」

北東の風が吹く。
風のうちでも最も好ましい
熱き心と
良き旅を舟人に約束する風だ。
だが今は行け そして言問いせよ
美しいガロンヌの流れに
ボルドーの数なす庭園に。
そこでは岸辺の断崖に
細い道が通じ 大河の深みに
小流は落ち込み その上に
槲(かしわ)と白楊(ポプラ)の
高貴な一対の林が見晴るかす。

私は思い出す
楡(にれ)の森が広やかな梢を
水車の上へ傾げているのを。
中庭には無花果(いちじく)が生い茂り
祝祭の日には
褐色の肌の郎女(いらつめ)たちが
絹のような地面を歩む。
時は三月
夜と昼の長さを等しくする頃のこと。
ゆるやかに延びてゆく道野辺
金色の夢を重く載せ
ひとを眠りに誘う微風が流れる。

恵みたまえ わが憩いのために
暗い光に溢れた
香り立つ盃(さかずき)を。
木蔭に結ぶまどろみの甘さよ。
好くないのは
魂も虚ろに 死すべき
思いに沈むこと。
好いのは ひとと語らい
内なる情熱を述べること。
愛の日々について
いにしえの諸々の業について
耳傾けること。

しかし友はいずこ? ベラルミンと
彼の仲間は? 水源に遡るのを
恐れる者は多い。
豊かなものが集い始めるのは ほかならぬ
海なのだ。人々は
絵師が描き込むように 地上の美を
蓄積し 帆を翼のように翻す
海上の戦をも厭わず
むき出しの帆柱のもと
長い孤独の中にも住む。
夜を照らす街の祝祭も
絃楽も 郷土の舞踏もない所で。

今や天竺へ
男らは赴いた。
葡萄の山々に寄り添う
風吹き通う岬から。
ドルドーニュが流れ下り
そして壮麗なガロンヌと交わり
海のような広さとなり
注ぎ出る所。そして 記憶を奪い
また与えるのは海。
そして ひたむきな眼差しを きざすのは 愛。
しかし うち残るものを樹(た)てるのは 詩人たちである。

参照:『ヘルダーリン詩集』川村二郎・訳/岩波文庫

(殆ど川村氏の訳を参照していますが、一部、当サイト解釈による言葉の変更が混在)

2011.4.17ホームページ更新

《2011.4.22メモ》・・・ホームページにファイルをひとつ、追加。

◆詩歌制作/神々の身土=http://mimoronoteikoku.tudura.com/garden/waka/57tutae_03kami_sindo.html

・・・東日本大震災への、鎮魂の詩歌です。添付の解説は、過去ブログ記事の転載。

「身土」は「しんど」と読みます。「身土不二」という仏教用語があり、そこから採用しました。

Wikipediaによれば、〝身土不二(しんどふに)=仏教用語。「身」(今までの行為の結果=正報)と、「土」(身がよりどころにしている環境=依報)は切り離せない、という意味〟…という記述になっておりますね…

【身土不二(しんどふに)】
「因果応報」「世は人を映す鏡、人は世を写す鏡」と説明されることもある。
唐の僧・妙楽大師湛然の『維摩疏記』、北宋の僧・智円の『維摩經略疏垂裕記』(「二法身下顯身土不二-由依正不二故便現身即表國土-離身無土者荊溪云-此是法身身土不二之明文也」)、日蓮の『三世諸仏総勘文教相廃立』、無住道暁の『雑談集』(1305年(嘉元3年)頃)、親鸞の『教行信証』にもこの用語がみられる。
山下惣一の著作『身土不二の探求』(1998年(平成10年)、ISBN 4-88340-057-3)に『廬山蓮宗寶鑑』(普度法師、1305年)が初出であると記述され、広まっている。
「変容」、これこそ世界理解のキーワードであるとここ数年考え続け、そして「シナの変容」「世界の変容」について駄文を弄してまいりました。さてその「変容」の主体ですがご指摘のように、「神の力=大自然の力」であろうし、またその一部である人の意識でもあろうと思います。「百匹目の猿」の「変容」、これが期待されるシナですが、その培養となったのが皮肉にも東日本大地震であった、ということにでもなるのでせうか。またこの未曾有の大災難こそ変容の力が作用していると感じるのはわたしだけでせうか? - 丸山光三