忍者ブログ

制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

マニ教に関するノート(2)

『マニ教』(講談社選書メチエ2010)青木健・著より、ノート覚書

◆マニ教の特徴◆

【人工の宗教】・・・ただ一人の教祖マニの頭脳の中で組み立てられた宗教。

教祖マニ自身がコスモポリタン的な環境の中で育った人物だったため、マニ教もコスモポリタン的な性格を持っており、どの民族にも受け入れられやすい傾向があった(※例えば、ゾロアスター教はイラン土着性が強く、生活文化の異なる他民族にとっては受け入れがたい性質を持つ)。

【書物中心の宗教】・・・マニが作成した書物を中心とする宗教。

一般に、ある宗教の聖典は後世の信徒たちが個別に編集してしまうのが常で、何処から何処までを聖典の範疇に含めるかで大論争が勃発するが、マニ教の場合は、教祖マニ自身が自分で聖典を執筆し、自分でその範囲を定義していた。最初から、後世の信徒が改変できないような完璧なスタイルを備えていたといえる(しかも、マニは絵も描いていた)。

【神話的表徴の宗教】・・・マニが指定した聖典は7冊だが、そのうち5冊までが神話論。

キリスト教の教義のような、一貫した論理性は無かった。マニは、同時期に広まっていたユダヤ・キリスト教、仏教、グノーシス主義、ゾロアスター教などに出てくる神話キャラクターを自由に組み合わせて、マニ独自のストーリーを持つ壮大な神話世界を作り上げていた(今のファンタジー系のパロディ作品や、二次創作のオリジナル作品に近いかも知れない)。

  • 『大いなる福音』=マニを最後の預言者とする預言者論
  • 『生命の宝庫』=マニ教の教義体系
  • 『伝説の書』=神話論。神々と人間の創造
  • 『奥義の書』=神話論。バル・ダイサーン派やユダヤ教神話への反駁
  • 『巨人の書』神話論。マニの教義を神話的に表現
  • 『書簡集』=マニが各地に派遣した使徒たちに与えた書簡集
  • 『讃歌と祈禱文』=アラム語の韻律による詩篇と祈禱

既存の大宗教の神話キャラクターを利用しつつ、その改変によって既存の物語の枠組みを崩して、マニ教の神話世界に連れ込む…という布教方法になっていたため、既存の大宗教から見ると「いかがわしい邪教」というイメージがあったらしい。

マニ教が栄えた範囲は既存の大宗教の栄えていた範囲と一致しており、「二次創作のオリジナル作品(但し、既存の宗教よりは、ずっとドラマチックで魅力的)」の地位を超える事は無かったと考えられる。

マニ教の場合、冠婚葬祭などの宗教儀式は既存の宗教に比べてずっと欠落しており、修行生活の他には、信徒の生活パターンを変えるほどのものでは無かったらしい。

但し、教祖の死をきっかけに始まった「べーマ大祭」は、教祖が冬の寒さのため食欲が無くなって獄死(病死)したことを記念して断食を含む祭礼となっており、時期的にも、イスラムの断食(ラマダーン)の原型になったのでは無いかという議論がある。教祖を称える春先の大祭という事もあり、アウグスティヌスは「キリスト教の復活祭の模倣だ」と非難している。

◆マニ教が語る、預言者と救済の歴史◆

マニ自身は、自分の教えを「キリスト教・ゾロアスター教・仏教を止揚した最後の宗教」と解説していたらしい。マニ教が語る世界的宗教史(のようなもの)は、以下のようになる:

【神聖史の時代】

我々の宇宙がまだ始まってもいない頃、北方・東方・西方では「時間の神(バイ・ズルヴァーン)」またの名を「偉大なる父(ピド・イー・ウズルギーフ)」が君臨していた。この光の王国は、平和で争いも無かった。南方では「悪の王アフレマン」が君臨していた。この暗黒の冥界には秩序が無く、互いに争い、荒れ放題に荒れ果てていた。しかし、ある時アフレマンは光の王国に気付き、侵入を企てた。神聖史はここに始まる。

偉大なる父ズルヴァーンは自分の中の光の要素に「大いなる呼びかけ(ウルズグ・フローフ)」を行なって「生命の母(マーダル・イー・ズィンダガーン)」を呼び出し、次いで「生命の母」が「最初の人間オフルマズド」を呼び出した。

※マニ教は生殖を邪悪な行為としていたので「呼び出し」という形になったらしい

呼び出された最初の人間オフルマズドは、エーテル(フラワフル)、風(ワード)、光(ローシュン)、水(アーブ)、火(アーテシュ)の光の5要素で武装し、暗黒の5要素で武装した冥界の軍勢と戦ったが、光の軍勢は敗北してしまった。

※光の5要素は「アマフラスパンダーン」と言い、ゾロアスター教では大天使に相当する

ズルヴァーンは再び「大いなる呼びかけ」を行なって「生ける精神(ワーフシュ・ズィンダグ)ミフル神」を呼び出し、「生命の母」と共に、冥界に落ちていたオフルマズドを救出させる。

研究によれば、ミフル神とオフルマズドとの詩歌的相聞のシーンがあり、マニは、ここで東アラム語韻文の美しい詩を挿入したらしい。この詩歌的相聞の結果、オフルマズドは「自分が何処から来たのか、何者なのか、何処へ帰還すべきか」を悟り、光の王国に救済された。しかし残りの光の要素は、他の人間たちの中に捕囚されている状態であった。

「生ける精神ミフル神」=光の要素を救済する使命を持つ(冥界の物質で形成された人間の中に光の要素が捕囚されている)。

ミフル神は「叡智の世界の主(西方系資料によれば「光のイエス」)」に依頼して、アダムに「光の王国」を啓示した。啓示を受けたアダムはイブに宣教するが、逆にイブの誘惑に負けて、人間が増殖した(カインとアベルを生んだ)。

【人類史の時代】…「生ける精神ミフル神」から「光の要素の救済」を依頼されていた「叡智の世界の主=光のイエス」は、次々に人間界に預言者を送り込むが、失敗が続く。

  1. アダムに続き、セト、ノア、アブラハム、シェーム、エノシュが送り込まれる…皆々失敗
  2. ニコテオス…マニ教でだけ預言者とされているグノーシス主義者である…失敗
  3. エノク…失敗
  4. ザラスシュトラ…ゾロアスター教によって部分的に成功したが、弟子たちが誤解
  5. 仏陀…仏教によって部分的に成功したが、弟子たちが誤解
  6. イエス…キリスト教によって部分的に成功したが、弟子たちが誤解
  7. マニ…「イエスの使徒」にして「預言者の封印」であるマニが、人類への最後の呼びかけを行なっている

・・・《コメント&考察》・・

マニ教が語る神話物語や思想が、当時の西アジアの人々にどう受け入れられたのかを想像してみると、1990年代後半の「エル・カンターレ」布教のような感じだったのでは無いか?…と考えられる部分があります。

…ウィキペディアでざっと調べただけですが、1996年から1997年にかけて、「エル・カンターレ=大川氏(?)」は『太陽の法』や『黄金の法』など、数々の壮大な神話論的な書籍(=聖典?)を発行しているそうです。その主張パターンの内容を見る限りでは、殆どマニ教と同じパターンだと思われます…^^;;;

(ウィキペディア注釈より引用)・・・経典『黄金の法』で著者の大川は約2800年後に再び下生すると予言しているが、それはエル・カンターレ意識の分身であると解釈される。簡単に説明すれば、幸福の科学の理論においては、人の魂は一個体で生まれ変わるのではなく、特に九次元霊(人間の霊界で最高位の次元の霊)のような巨大な意識体では、意識体全部が人体に宿ることはなく、意識体を分割した一部が魂として人体に宿り、地上に誕生すると考える。大川隆法は、釈迦やヘルメス等の魂として分割して生まれた、元の意識体と同一意識体であり、その同一意識体の中心の存在とされている。(引用・終)

マニ教は、古代社会の終焉という、不安定な社会環境の中で生まれた宗教であります。マニ教が広がった時代は、ユーラシアの東西でゲルマン族やフン族、エフタル・突厥・ソグド人といった、人々の大移動があった時代でもあります。コスモポリタン的な人々が急速に増えていたのです。そしてマニ教は、ソグド人などのコスモポリタン的な人々に支持された宗教でした。

ヘレニズム時代以来、ひっきりなしに古代王朝の交代が起こり、更に民族大移動の結果、それまでは無かったような、複雑で混沌とした社会が形成されていたという事実があります。ユーラシア大陸交易に関わる騎馬民族や商人の活動も活発化していました。「中世」という新たな時代の幕開けに向かって、〈世界〉は変容を続けていました。

そして同時に、自然環境も不安定になっており、「将来の見えない漠然とした不安」が覆っていたと考えられます(=グノーシス神話に見られる「この世=悪」という反宇宙的な内容は、この不安感を見事に反映しています)。古代の生活基盤は現代に比べるとずっと貧弱なものであり、気象変動に非常に敏感でした。医学などの学問も、十分に発達していたとは言いがたいものでした。

こうした、奇妙に平衡を欠いた世界の中では、様々なタイプの終末論が流行しやすいのでは無いでしょうか。宇宙論を含む壮大な神話体系を組み上げたマニ教が爆発的に広まる素地は、当時の〈世界〉には、十分にあった…と考えられるものであります(キリスト教の論理学さえ、まだ無かった時代だった…)。

PR

マニ教に関するノート(1)

『マニ教』(講談社選書メチエ2010)青木健・著より、興味深い部分を抜粋&覚書。

マニ教の教祖は「マーニー・ハイイェー」と尊称する人物で、216年4月14日出生、メソポタミア平原南部のバビロニア地方マルディーヌー村。ハマダーン出身のパルティア貴族の父パティークと、パルティア王族カムサラガーン家出身の母マルヤムの間に生まれた(「ハイイェー(ハイヤー)」=東アラム語で「生きている」の意。つまり「生けるマニ」)。

マニ8才のとき、中央アジアのイラン系遊牧民パルティア人による連合王国支配(前247-後224)が終わり、イラン系定住民ペルシア人による中央集権を旨とするササン朝(224-651)が始まった。ササン朝はゾロアスター教を国教としていた(※パルティア時代は多くの宗教に寛容で、ミトラ教が流行。パルティア語「ミフル」、アヴェスター語「ミスラ」)。

マニは多くの文献を残したが、パルティア王国の言語だった中世パルティア語は使わず、ササン朝の言語だった中世ペルシア語を新たに覚えた(書記言語はセム系東方アラム語)。ササン朝治下においては、前王朝の残党という政治的に微妙な立場だったためだと言われている。

(補足)中世ペルシア語は書記文字が確立していなかった。アラム文字系のパフラヴィー文字を使用したが、正確な表音文字では無く、解読が困難。イスラム時代には、言語そのものが既に死語となっていた。現在、マニ教が書物に残したマニ文字を通じて、中世ペルシア語の再建が研究されているらしい(=マニ文字は、パフラヴィー文字に比べて比較的正確な表音文字であると評価されている)。

また、教祖マニは、絵を描くのが上手かったと言われている。絵画作品は残っていないが、周辺の言及からすると、中世パルティア美術の系統をひくものであったらしい。なお、その当時、周囲にはグノーシス主義諸派のシモン派、カルポクラテス派、マンダ教などがあった。特にマンダ教は「ディーヴァーン・アバートゥール」と呼ばれる絵画で可視的に教義を示す伝統があって、マニ教の布教様式(書物と絵画を使って布教)との類似関係が指摘されている。

▼20世紀に発見されたマニ教の文献

  • 『タイトル不明』(ラテン語)3世紀末か4世紀にパウロ文書を活用してグノーシス主義の意義付けをしたマニ教文献
  • 『シリア語・コプト語辞書』(シリア語・コプト語)3-4世紀のマニ教教会が翻訳活動に使用した辞書
  • 『大いなる福音』注釈(コプト語)400年頃にコプト語訳されたマニ教聖典の注釈
  • 『生命の宝庫』注釈(コプト語)400年頃にコプト語訳されたマニ教聖典の注釈
  • 『ケファライア』(コプト語)400年頃にコプト語訳されたマニ教教義概説書
  • 『マニ行伝』(コプト語)400年頃にコプト語訳されたマニの行伝
  • 『マニ教讃歌』(コプト語)400年頃にコプト語訳されたマニ教聖典の讃歌
  • 『マニ説教集』(コプト語)4世紀のマニ教教会がエジプトで受けた迫害を反映した説教集
  • 『彼の肉体の成立について』(ギリシア語)5世紀頃にシリア語からギリシア語に翻訳されたマニの前半生の伝記
  • マニ教讃歌(中世パルティア語)6-10世紀に属すると考えられるマニの涅槃を詠った膨大な量の讃歌。断片資料である
  • マニ教讃歌(中世ペルシア語)6-10世紀に属すると考えられるマニの涅槃を詠った讃歌。断片資料である
  • マニ教信仰告白文(ソグド語)6-10世紀に属すると考えられるソグド人マニ教徒の信仰告白文。断片資料である
  • 『摩尼光佛教法儀略』(中国語)731年に唐王朝政府に提出された教義の説明書
  • 『老子化胡経』(中国語)唐代の加筆部分にマニ教の痕跡がある
  • 『波斯教残経』(中国語)10世紀頃に仏教と混淆したマニ教神話
  • 『下部讃』(中国語・韻文)ソグド語またはウイグル語から中国語訳されたマニ教の讃歌
  • マニ教徒書簡(ソグド語)10世紀の西ウイグル王国のマニ教徒による書簡3通
  • マニ教徒書簡(ウイグル語)10世紀の西ウイグル王国のマニ教徒による書簡5通
  • 『ハーストワーニーフト』(ウイグル語)10-11世紀頃にソグド語からウイグル語に翻訳された懺悔祈禱文
  • 「泉州摩尼教草庵石碑」(中国語)14世紀に創建されたとみられるマニ教寺院の石碑
  • 「選真寺記」(中国語)元代に造刻されたとみられるマニ教碑文

特にマニ教の聖典(20世紀以降)

  • 『シャーブフラガーン』・・・トルファンから中世ペルシア語原文がほぼ完全形で出土。D.N.マッケンジーとM.フッターが多くの断片を付け加えて校訂
  • 『大いなる福音』・・・ケルン・マニ・コーデックスの中にギリシア語訳断片が3つ保存されている。トルファン出土の断片のいくつかも、本書に属すると考えられる。コプト語文献では「マニの新約聖書」と呼ばれている。本書の中で、マニは「イエス・キリストの使徒」と名乗っている
  • 『生命の宝庫』・・・ベルリン国立博物館所蔵のコプト語注釈は未公開
  • 『伝説の書』
  • 『奥義の書』
  • 『巨人の書』・・・ヘニンクがトルファン出土のソグド語訳断片から全体を復元。かなりの部分を旧約外典の『エノク書』から抜粋したと考えられている
  • 『書簡集』・・・コプト語コーデックスにコプト語訳が含まれていたが、ベルリン攻防戦(1945)の際に消滅。その後、ケリスで一部分が発見
  • 『讃歌と祈禱文』・・・コプト語、中世パルティア語、中世ペルシア語、ソグド語、中国語で膨大な讃歌の断片が現存しているが、それらがマニによるアラム語讃歌の翻訳なのか、各言語でのオリジナルなのかは不明
  • 『アルダハング』・・・マニが描いた原画ではないが、その系統をひくと考えられる日本国内所蔵のマニ教思想絵画7点

宗教の比較(最高神、宇宙論、神々、二元論、人間論、使徒論、倫理、終末論の項目を比較)

★3-5世紀のゾロアスター教ズルヴァーン主義
=最高神=時間の神ズルヴァーン
=宇宙論=ズルヴァーンから、自然発生的にアフレマンとオフルマズドが誕生し、前者が後者に挑む
=神々=アマフラスパンドたちがオフルマズドに助力。アフレマンも「最悪の7悪魔」で対抗
=二元論=善は精神界(メーノーグ)と物質界(ゲーティーグ)の両方に宿るが、悪は物質界に限定される
=人間論=善神に創造されたが、悪魔と共に死ぬことで、悪魔を滅却する悲劇的存在
=使徒論=ザラスシュトラが聖呪を伝えて悪魔に対抗
=倫理=聖呪を唱えて聖火を拝む。善の勢力を増すために子孫を繁栄させる
=終末論=善悪の闘争は、人類史以前に決着がついている。人間が悪の要素と心中して世界を浄化し、最終的な復活がある
★3世紀のマニ教
=最高神=偉大なる父ズルヴァーンと暗黒の王アフレマン
=宇宙論=アフレマンがズルヴァーンの王国へ侵入。ズルヴァーンは最初の人間オフルマズドを派遣して対抗
=神々=オフルマズドとアマフラスパンドたちは敗北し、ミフル神が主力になる
=二元論=光は精神を代表し、闇は物質を代表する
=人間論=転落した光の要素を捕囚するために悪魔が創造した呪われた存在
=使徒論=ザラスシュトラを含む使徒多数。マニが最終預言者
=倫理=殺生・暴力・肉食・性交などを禁止し、禁欲主義を推奨する
=終末論=ズルヴァーンが光の要素の大部分を吸収し、宇宙は崩壊、人類は死滅する
★6-9世紀の二元論的ゾロアスター教
=最高神=善神オフルマズドと悪神アフレマン
=宇宙論=アフレマンがオフルマズドの王国へ侵入
=神々=アマフラスパンドたちやミフル神がオフルマズドに助力
=二元論=善と悪が精神界(メーノーグ)と物質界(ゲーティーグ)の両方で対峙
=人間論=悪との闘争のために善神が創造し、最終的に勝利する存在
=使徒論=ザラスシュトラが聖呪を伝えて悪魔に対抗
=倫理=聖呪を唱えて聖火を拝む。善の勢力を増すために子孫を繁栄させる
=終末論=善が悪を圧倒して封印。宇宙と人間は至福に包まれる

時間軸に沿った影響関係としては、「ゾロアスター教ズルヴァーン主義⇒マニ教⇒二元論的ゾロアスター教」と変容した…という風に議論することが可能であるという。近年ではマニ教をグローシス主義の範疇に含めるべきかどうかの再検討も迫られているらしい(=どちらかというと、「グノーシス主義とは別らしい」という意見が半数?)


コメント・メモより転載

マニ教は、ユーラシアにまたがる世界宗教だったのに、ゾロアスター教、キリスト教、シナ教すべてから異教として弾圧されたために消滅してしまったのでした。『シナにつける薬』で若干の考察を試みたのですが、なにしろ資料が不足、十分なことはできませんでした。美月さまもどうか無理はなさいませぬように♪ - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます*^^*(先ほど=2011.7.15-21:01=関東地方で震度5弱の地震が発生して、ギョッとしていたところです。幸いこの近所は震度3でした)資料にしている書籍は随分いろいろ書いてあって、興味深く読み直しているところです。マニ教はどちらかと言うと、当時の様々な宗教を混交した、人工的なハイブリッド宗教だったようです。何となくピンと来る部分があるので、また思案してみる予定です…^^ゞ

詩歌鑑賞:萩原朔太郎(廣瀬川)

「廣瀬川」

廣瀬川白く流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん。
われの生涯(らいふ)を釣らんとして
過去の日川邊に糸をたれしが
ああかの幸福は遠きにすぎさり
ちひさき魚は眼(め)にもとまらず。

「宿命」の中の「物みなは歳日と共に亡び行く わが故郷に歸れる日、ひそかに祕めて歌へるうた」より

物ものみなは歳日(としひ)と共に亡び行く。
ひとり來てさまよへば
流れも速き廣瀬川。
何にせかれて止(とど)むべき
憂ひのみ永く殘りて
わが情熱の日も暮れ行けり。