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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

思案:匿名・実名と社会責任

8月メール事件で思案した内容を整理。

匿名と実名に関して、どちらの情報が信頼できるのかと言う議論が発生しました。

結論から言えば、「責任を取ることと、実名公表はリンクしない」。

実名だろうが匿名だろうが、その「名前」は、特に「社会的意味」「社会的責任」を持っているもので無ければ意味が無いという事です。

※逆に言えば、サイバースペースにおいて、プライバシーポリシーや正当な理由も無く実名を要求するサイトは、怪しいという事です。犯罪のための個人情報収集が目的…と疑われるに値する程の疑惑の濃い行動なのです。ところが、新興カルトとなると、この敷居が下がってしまいます(主に信者の盲目的な行動によって)。

「実名を表示する」という事は、「責任の所在を明らかにする」事です。

あくまでも、「社会的責任を取る」事とは結びつかないのです。

これを混同してはならないのです。

実名公表はしていても、それに相応する社会的責任を取らない、という行動は普遍的に見られます。例えば一部のマスコミは、記者が署名入り記事を書いていても、その内容に責任を取らなくなりました。

誤報や捏造記事が氾濫する現状。それに対して社会的責任を取らなくなってきたという事実。そして、中立な立場を表明していながらも、その現実はダブルスタンダード。現在のマスコミへの信頼低下の、理由のひとつです。

これは、我々個人にも当てはまる事です。

実名を明記し、責任の所在を明らかにしていても、その発言や行動が一貫しないという人物を、「社会的な意味で」信じることが出来るのでしょうか?

いきなりの逆切れ(「レイシスト」呼ばわり等)、過剰なレッテル張り、筋の通らぬ誹謗中傷、粘着…そのような行動が見られるという人物を、「普通」と見なせるのかどうか。自分の発言や行動に対して、社会的責任を全うする覚悟があるのか?それとも、「自分だけは」責任を免れると確信しているから、その人物は、そのような行動を繰り返す事が出来るのか。

新興カルトの教祖と、その信者の、歪んだ関係。それは「教祖の発言などの社会的責任を問わない」という、異常な状態が続く関係でもあります。信者は教祖を疑わない…妄信する。そこに、多くの死傷事件に繋がるという、かつてのオウム真理教事件が発生する要因がありました。

繰り返しますが、「責任を取ることと、実名公表はリンクしない」のです。

人物の匿名性/実名性よりも、その人物の信頼性で判断しなければなりません。これが、「普通」の社会人としての基本です。「普通」とは、そういう基本的な判断を含む、極めて広い領域に渡るモノゴトなのです。

「普通」とは何か。自らの人生経験の全てをかけて、よくよく思案しなければなりません。

匿名記事と実名記事。いずれも、情報の信頼性を保証するものではありません。

実名公表を通じて責任の所在を明らかにしていても、その人物が事実を述べているという証拠にはならない…これをきちんと押さえておく必要があります。

実名が公表されていれば、その記事が信頼できる…という判断は、極めて危険なのです。個人ジャーナリスト界における誤報・捏造記事の氾濫と言う、明らかな事実があります。

文章を読み、その書き手の判断行動を通じて人格を推し量り、その内容が信頼に値するか判断する。その「判断」がどれだけ的確なものになるかは、やはり本人の見識、人生経験、直感…などという複数の要素に左右されると言えます。

その道に通じた達人の判断が、非常に信頼性の高い確実なものになるのは、着実に考え悩みつつ歩んできた、その経験値が豊富だからです。「高貴は、高貴を知る」のです。直感だけに頼る者や、社会から逃げてばかりでまともに生きてきた経験が浅い者には、到底辿り着けない領域であります。それは「普通」という事を極めた、その更に奥にある領域なのです。

一般的な領域においては、人の状態が普通であれば、おおよそ社会的に意味のある、正常な判断がもたらされます。人の状態が異常であれば、やはりその判断も普通では無くなります。

俗にそれはクラスタという形を取ります。「似たもの同士」「類は友を呼ぶ」「同じレベルのスピリチュアル的要素があって引き寄せあう」と言われる状態です。

「その場における平均的な判断」で固まるクラスタが、(種族)集団依存、国家依存…運命共同体です。一方、異常な判断で固まるクラスタは、カルト集団でもあります。「依存症」で成り立つクラスタです。

ここで問題です。個人が、ある情報を流した。別の個人がその情報を信じて拡散した。

ツイッターで良く見られる光景です。

もし、それがデマだった場合、その「個人」である彼らは、「デマを流した」という行動に対して責任を取れるのでしょうか。デマの影響で、各種の被害を受けた人々が、多方面にわたるものだった場合は?(根拠の無い「持ち上げ」「称賛」についても共通)

(匿名・実名に関わらず)「デマを流した奴等は責任を取らない」。或る人物の指摘です。

そして、自己保身のために更に余計な装飾を加えたり、不都合な情報を操作したり、という情報発信者は、基本的に信頼できません。ダブルスタンダードを取るマスコミが信頼できないのと、同じです。

特にネットの中では、言葉で幾らでも飾る事ができるのです。

その身分や言葉では無く、その行動で判断すること。行動は誤魔化しが効かないから。

(とは言え、既に「普通」を失い魔境に落ちた者には通じない…という諦観も、無きにしも非ず。これ以上近づく気も起こらないし、何か指摘したいとも思いません)

各種の件については、真に色々とありましたが…、これにて思案を終えます。

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2011.7.8暁の夢

最近見た奇妙な夢

自分は、お風呂を掃除する職人でした。

コンクリート打ちっぱなしの公共建物っぽいところへ、「見えない存在」に導かれて出張しておりました。結構モノは良いお風呂なのですが、基礎が傾いている上に、湯船にはびっしりと汚れがへばりついており、思わず「き、きたない…」と敬遠するほどのものでした。

しかし何故か職人であるからして、黙々とお掃除。完全に汚れが取れたとは言いがたいものの、何とか入浴可能なレベルと言えるくらいには、綺麗にしました。

その後、建物の管理人っぽい人と、「このお風呂は、もう取り替えろ」と言うようなことを議論していたような気がしますが、夢の中だけに、記憶はおぼろです…(ニガワライ)

…その後、何故か分からないのですが、問題のお風呂の傍で、「このお風呂は絶対に問題なんだからね」とぼやきつつ、一人でピョンピョン縄跳びしていました。

場面も登場キャラもしょっちゅう転換するという、奇妙な夢でした。脈絡の無いストーリーの割には記憶に残っているので、夢的には、意味があるのかも知れませんが


三陸沖でマグニチュード7.1(後に7.3に修正された)の地震が発生

発生日時=2011.7.10-09:57
震源地=三陸沖(北緯38.0度、東経143.5度、牡鹿半島の東180km付近)
震源の深さ=約10km

津波警報が発令されていたそうですが、小規模(10cm程度)で済んで良かったと思います。

その時、自分は図書館におりまして、あちこちの本棚の間を歩き回っていたせいか、気が付きませんでした。図書館の中も、節電中で暗くて少し暑いので、ちょっとしたお化け屋敷風なのであります。

マニ教に関するノート(3)・終

『マニ教』(講談社選書メチエ2010)青木健・著より、ノート覚書

マニ教の中国伝来・・・一般には「684年に伝来」とされている

南宋時代の『仏祖統記』の記事より
・・・唐王朝第3代皇帝高宗(在位649-683)の時代に、ある慕闍(ぼうじゃ※1)が長安を訪れ、唐王朝が夷教を国家の統制下に置こうとしているのを知り、弟子で払多誕(ふたーだーん※2)の密烏没斯(ミフル・オフルマズド)を呼び寄せたという。彼が『二宗経』を携えて到着したのが則天武后(在位684-705)の初年に当たっていた。
  • ※1・・・慕闍(ぼうじゃ)=ソグド語「モーザク」。パフラヴィー語の「フェレスタグ」に相当するマニ教教会の第二位階。
  • ※2・・・払多誕(ふたーだーん)=ソグド語「アフターダーン」。パフラヴィー語の「イスパタグ」に相当するマニ教教会の第三位階。
【補足】・・・マニ教教会の位階制度(中世ペルシア語単数形/中国語表記)
デーン・サーラール/法王・・・クテシフォンの本部に1名
フェレスタグ/承法教道者・・・12名
イスパタグ/伝法者・・・72名
マヒスタグ/法堂主・・・360名
ウィズィータグ/一切純善人・・・無制限
――聖職者と一般信徒の仕切り――
ニヨーシャグ/一切浄聴者・・・無制限

則天武后の時代には「則天文字」なるものが使用された(689-705の間だけ)。敦煌出土の漢文のマニ教文献の一部には、則天文字を多数使って書かれたものがある。則天武后は自分を称える新しい宗教的イデオロギーを求めていたので、マニ教の需要もあったらしく、快く迎えられたと言われている。

しかし、則天武后の時代以降の、中国国内におけるマニ教の実態は謎であると言われている…(実際に来たのはソグド人商人であり、マニ教徒としての活動よりも商売活動の方に熱心だったためかも知れない)。しかし、それなりに布教活動はしていた模様。

唐王朝第6代皇帝玄宗(在位712-756)になると、マニ教の活動は皇帝の不信を買ってしまい、731年には朝廷がマニ教の教義の説明書の上程を求めた。これに応えて同731年7月16日に集賢院に提出されたのが『摩尼光佛教法儀略』。しかし、朝廷の高官を余り説得できなかったらしく、翌732年には、朝廷がソグド人やウイグル人を除く中国人へのマニ教布教を禁じる勅令が発せられた。

しかし、安史の乱(755-736)が勃発すると、乱の平定にウイグル人が活躍し、しかもそのウイグル人がマニ教を国教としたため、マニ教は一転して東アジアにおける黄金時代を満喫した。

※744年ウイグルの懐仁可汗が可汗を称し、遊牧ウイグル帝国(744-840)を建国。763年、第3代・牟羽可汗が、洛陽にてマニ教に帰依。長安で大雲光明寺(マニ教)が建てられた。

その後、中国ではウイグル人の勢力が弱まり、キルギス人の勢力が強まった。同時にマニ教も中国で弾圧される。ウイグル人は西へ敗走し、トルファンを首都として天山ウイグル王国を作る。そこでマニ教は、組織的なスタイルとして最後の繁栄を迎えた(後世、仏教勢力の反撃があってマニ教は衰退した。最終的には、モンゴルの襲撃に伴い、マニ教の書籍や芸術はトルファンの砂の中に埋もれる事になった)。

(参考)中国のマニ教のお寺・・・(写真あり)
「世界で唯一残ったマニ教のお寺へお参りに行く」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9613/yomimono/mani1.html
『摩尼光佛教法儀略』(唐代)の要約:
・・・摩尼光仏(マニこと光の仏陀)は、蘇隣国(バビロニア)の抜帝(パティーク)の王宮で、金薩健種(カムサラガーン家)の満艶(マルヤム)から生まれた。それは、後漢の献帝の建安13年2月8日(西暦208年3月12日)に当たる。彼の母は斎戒潔斎して、清浄なまま胸からマニを生んだ。彼は神験九徴、時代の人々に抜きん出ており、道を熟知していた。彼の体質は孤秀で、彼の叡智は日月を貫いた。彼は二宗三際の教義を開元し、その言葉は明快、その理論は直截、その品行は方正、その証拠は真実だった。

このように中国では、「仏陀生誕」をモデルにした「マニ生誕」が語られた。光の啓示や預言者としての召命、殉教といった西アジア的な要素はすっかり削除され、自分で優れた教義を作ったことになっている。

(※本の著者コメントより引用)・・・中国へやってきたマーニー教聖職者たちは、光と闇の神話の中の神格を孔子や孟子に置き換えるよりは、手っ取り早くマーニーを仏陀と見なすことにしたのである。孔子が冥界の軍団と戦って気絶したり、孟子が悪魔の間で全裸になって踊ったりするのでは、確かに中国人を呆然とさせただろうから、これは賢明な措置だった。(=非常にツボにハマッた、面白いコメントだったので、引用しました…^^;)

マニは、パフラヴィー語で「光の使者/フレーシュタグ・ローシュン」となり、中国語に音訳すると「仏夷瑟徳烏慮詵」となる。しかし中国語には、発音を重視すると字義が全く不明になるという問題があり、結局「摩尼こと光の仏陀」という風に提示する事になったらしい(ちなみに、マニ自身は「光の神の最終預言者」という立場で、仏陀とは名乗らなかった)。

更に西晋時代の頃には仏陀を老子の裔とする『老子化胡経』が書かれていたが、唐代になって、この書物にマニ教によるひそかな加筆が行なわれた。いわく、「老子は西方に赴いてマニとして誕生するであろう」という「再臨の予言」的な内容になっている。

『老子化胡経』(唐代の加筆部分)・・・450年後、私は蘇隣国(バビロニア)の宮廷に降下して、太子として誕生するだろう。私は家族を残して道に入り(捨家入道)、出家して末摩尼(マール・マニ)と称するだろう。私は大法輪を回し、戒律と智慧を説き、二宗三際の教えを宣教するだろう。マニから450年後、私の教えは西域からやってきて、儒教・道教・仏教は再び私に帰一するだろう。こうして、生きとし生けるものは全て救われるのである。

肝心のマニ教の教義の説明はわずかしか無く、「マニ=老子の生まれ変わり」に力点が置かれている。仏教徒からも道士からも反論された内容だったが、結果的には『老子化胡経』は、マニ教の名称と若干の儀礼が中国に根付くきっかけとなったと評価されている。この辺りは、後の弥勒教(弥勒下生=救世主待望論)と混同される原因になっていたかも知れない…

【補足】・・・他の地域へのマニ教の影響
759年作成の『宿曜経』・・・「マニ教徒は密の日に精進潔斎し、彼らはこの日を決して忘れない」
日曜日はマニ教の祭日であるが、「密」はソグド語の「mir」に由来しており、明らかにソグド人マニ教徒の影響であると考えられている。この表記方法は日本にも導入され、平安貴族の日記の具注暦でも日曜日が「密」と記されている。

唐代半ば以後、マニ教は道教の一種と見なされ、中国の民間信仰として広まった。特に「会昌の廃仏」など華北での宗教弾圧が激化した後は、江南地方への流入が大きくなったと言われている。宋代になると、中国東南部の福建省・浙江省の下層農民の間で、「明教」を名乗る「中国版マニ教」が復活していた。1120年の記録では「温州の明教徒は、暦の中に密日を導入していた」という言及がある。

明教は、下層農民の支持を得て、秘密結社化していった。良くも悪くも、宋代は宗教と民間呪術の時代でもあった。仏教や禅、道教、朱子学といった、東アジアを代表する多様な宗教思想が発達したのは、宋代になってからの話。媽祖信仰など、雑多な民間信仰が新しく生まれていた。明教も例外ではなく、おそらく道教と同じようなやり方で、多くの信徒を獲得したと想像される。

南宋の陸游(1125-1209)『渭南文集』いわく、宋代の官憲の認識では明教=宗教結社:
・・・「妖幻邪人が良民を誑(たぶら)かし、朝廷の憂となること、福建の明教が最もはなはだしい。その神号は明使で、肉仏、骨仏、血仏などの称号もある。白衣烏帽で偽経や妖像を流布し、怪しい術を駆使している。」

後の研究では、儒教や道教、仏教といった既存の大宗教が統合し切れなかった雑多な民間信仰を統合するシンボルとして、マニ教=明教の名称が利用されたのだという議論がある。「光の国への救済」という教義だけは伝わっており、下層農民の間での秘密結社化に都合が良かったのかも知れない。

当時の道教文献『道蔵』にいわく:
・・・「其教(=明教)大要在呼、清浄、光明、大力、智慧、八字而已」。

この「清浄、光明、大力、智慧」という八文字が、明教を示す有名なキャッチフレーズで、他の文献や泉州の摩尼教草庵の碑文でも確認可能だという。民衆の間でのマニ教の最終的な理解は、こういうものだったらしい。

いずれにせよ宋代末の明教は、何らかの誤解があって恐ろしげな妖術集団と見なされた。当時のマニ教徒は、周りの平均的シナ人とは生活習慣を全く異にしており、「喫菜事魔」と称された。北宋末の方臘の乱(1120-1121)では、リーダーの方臘は「明教の妖術を操る怪人」というイメージが固着している(=後世、明王朝の時代に書かれた『水滸伝』にも、そのイメージを見ることができる)。

ついでに言えば、元代においては、明教の一部は合法的宗教に転化していた節がある。モンゴル人は「雑多なローカル宗教」には、さほど関心が無かったらしい。福州と泉州に立ち寄ったマルコ・ポーロによって、「ゾロアスター教でもキリスト教でも仏教でもイスラームでも無い宗教集団を目撃した」と記録された。

元代の頃の明教は弥勒教とも混同される有様で、「涅槃(=マニ教で言う光の国?)への救済」を説いており、世間的には、仏教か道教の一種という理解がされていたらしい。明教と弥勒教は、「この世の悪からの救済を説く」という点で類似性を持っており、モンゴルに対する農民反乱の際は、合体しやすかったと考えられる(=紅巾の乱)。

明代の明教の記録については、明末の何喬遠・著『閩書』に言及あり:
・・・老子が西域の流砂の中に消えてから500年後、後漢の献帝の建安13年2月8日(西暦208年3月12日)に、抜帝(パティーク)の妻満艶(マルヤム)が清浄なまま胸から生んだのが末摩尼(マール・マニ)である。彼は大食(アラビア)、仏林(ローマ)、吐火羅(イラン高原東部)、波斯(ペルシア)で宣教し、西晋の司馬炎の泰始2年(西暦266年)に波斯で没した。彼の著書は7巻で、彼の教えは大慕闍に託された。

明代になると、明教は「王朝と同じ名前を使っていて不敬である」という理由で弾圧されたと言われている。清代に至って明教の記憶も失われてしまい、清朝の知識人の間では、明教は景教(ネストリウス派キリスト教)と混同されていたと言われている。

★ここで、マニ教に関する読解&研究ノートは、終わりです…^^ゞ


コメント・メモより転載

余談を一つ。日月教というのが明以降に改名された明教であります。「明」を「日」と「月」に分解したわけであります。この日月教は、香港の武侠小説の一人者・金庸の代表作の一つ『笑傲江湖』の背景に使用されています。南シナでは明教は比較的ポピュラーな存在であることがこれでわかります。また温州出身者が欧州の華人の大部分を占めることは幾度も提起しました。さる温州人オーナーのレストランが「日月」という名前なので、もしや明教信者かと訪ねてみたらどうもちがうようでした。ただしそのオーナーが自分でそういったのでどこまでほんとうなのかは不明でありますが・・・凹凸 - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます^^『笑傲江湖』…「魔法使い・東方不敗」が出てくる作品ですね。映画のTV配信があった時にチラッと見ただけですが、人が空を飛んでいるシーンには驚かされました(笑)。話を聞いて、何となくですが、華北と華南の文化を分ける、もう一つの要素がマニ教らしい…と感じております。温州人とマニ教との間には、微妙な縁があるみたいですね。相性が良いのでしょうか…^^