忍者ブログ

制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

西洋中世研究2ゲルマン諸国文化

ヨーロッパは500年前後を中心として、ゲルマンの諸王国に分割されました。

北西地域では(つまり現在のフランスやドイツでは)フランク族とブルグンド族が建国。その南東に当るイタリアでは、ロンバルド族と東ゴート族、南西方面(スペイン)では西ゴート族が建国。アングル族及びサクソン族は、ケルトの地ブリテン島を侵略し始めていました。

ついでに言えば、ヴァンダル族はスペイン、ついで北アフリカに渡来し、各々王国を打ち立てた事が知られています。しかしその寿命は短く、「国」未満の軍事統治体でしかなかったであろうと言われています。

一方、東ローマ帝国は、オリエント風の君主政治体制を整備しつつありました。4世紀頃からビザンツ中心となったこの帝国は、皇帝を神とする宮廷政治を展開し、人民は古代版の行政官に奉仕するのでは無く、皇帝に直接奉仕するのだという中世的な思考を普及させていました。

そして法律によって定められる階級制度を発生し、皇族、貴族、名士、長老、騎士といった中世的な階級社会を構築したのであります(6世紀頃『ローマ法大全』完成)。

そうした時代的変化に伴い、網の目のように構築された官僚機構が、強力な政治介入パワーを以って階級社会を侵食するようになりました(官僚の特権など)。

人民は租税を免除してもらうために、或る程度の自治権を認められていた大土地支配者の下に保護を求めるようになります。これが荘園領主、すなわち封建領主の発生を促しました。こうして中央と地方の政治パワーが逆転しました。この後、帝国は軍管区に代表される軍事的統制を強めましたが、何度も経済的分裂の危機に見舞われることになります。

総じて4世紀から5世紀は、欧州における巨大な東西変容の世紀でありました。

第1にキリスト教が東西で異なる発展をした事、第2に蛮族侵攻の衝撃が東西で異なる様相を来たした事が挙げられます。これらの東西のねじれは、現代に至ってもなお、宗教・民族の東西問題として、ヨーロッパを揺さぶっています。

特に修道院制度の発達があった事は、後世の欧州社会に大きな影響をもたらしました(テンプル騎士団の発生など)。

更に辺境へのキリスト教の拡大もありました:グレゴリウス開明者によるアルメニア布教、フルメンチウスによるアビシニア布教、ウルフィラによるゴート社会への布教、ネストリオス派によるペルシャへの流入などです。

さて、西ヨーロッパにおいて、ローマ帝政と並行する時代のゲルマン諸族は、狩猟生活から脱したばかりであり、原始的な農法しか持ち合わせていなかったと言われています。ローマ帝国の滅亡後も、彼らは都市に住みたがらず、多くのローマ都市が荒廃したのであります。

しかしながら、ゲルマン諸族が知性と活力に欠けていたわけではありません。彼らの置かれていた状況からして、彼らの関心は、都市設備の維持よりも、まず基本的な物質生活面での要求にあった筈です。

中世初期のヨーロッパは深い森に覆われており、狼や熊が出没するような環境の下にありました。そうした中で、細々と森を切り開いて建てられた教会が点在しており…、という光景であったろうと想像されます。

かろうじてローマ時代の知的遺産が保存されたのは、北西の最果て、アイルランドでありました。そのため、アイルランドは「学者の島」とも呼ばれたのであります。

彼らゲルマン諸族が諸王国を打ち立てるにあたり、ヨーロッパに持ち込んだものは、毛皮、ズボン、フェルト、スキー、樽や桶の製造、クロワゾネ七宝、オート麦やライ麦、ホップ、鷹狩などが知られています。

※…驚くべき事に、従来のローマ・ファッションには、「ズボン」というものは無かったのです!…^^;

中世前期のヨーロッパの生産基本は、農業でした。ゆえに、中世ヨーロッパにおける革命的な変化は、早くから注意と努力が払われていた農業分野からスタートしたのであります。

9世紀ないし10世紀、それまで主流であったローマ時代由来の二圃式農業(冬雨型の気候のもとで小麦の冬作と休閑を繰り返す農法)が、次第に三圃式農業(北ヨーロッパの気候風土・夏雨型に適する農法)へ切り替わりました。簡単に言えば冬穀・夏穀・休耕地(放牧地)のローテーションを組んだものであります。

以上のような農業スタイルの切り替えと並行して、古典的な「くびき」から近代的な「はみ」への移行が起こり、農業用役蓄の牽引エネルギー効率が急に高まりました。

牽引エネルギーの効率化は連繋用馬具の発明にも繋がり、四頭立て馬車・六頭立て馬車と言った大規模な輸送形式をも可能としました。また、蹄鉄の発明は馬の足を保護することにより、荒れた地面における輸送コストを下げ、ヨーロッパ交易路のいっそうの拡大に寄与したのであります。

中世前期における各種の技術向上は、このような無名の職人達の発明によっているのであります。

工業用動力としては、水車が登場しました。ローマ時代(及びガロ・ローマ時代)は奴隷が安価に使えたため、動力としての水車の活用は乏しいレベルに終わっていたのでありましたが、ゲルマン諸国においては穀類を挽いたり、大工の鋸や鍛冶のふいごを動かすのに積極的に用いられ、車輪動力の技術が伸びてゆきます。

12世紀になると、ノルマンディ地方において、風車の使用が始まりました。このようにして産業における機械化は急速に進みます。こうした変化は、後の建築技術の進展にも、大きく関わりました。

建築では、高度な石造建築の技術が急速に普及しました。とりわけ石造建築は、後のカール大帝によるゲルマン統一王朝を生み出した世紀を経て、急速に技術を深めてゆきました。これらの建築と資材の流通を担ったのが、各地の職人・商人グループであったろう(中世ギルドの前身)と言われています。

当時、教会建築に関わった職人達が、教会の傍に建てられた集会所で、グループ結成のための友愛の儀式を行なった事が知られています。これが中世のギルドの始原であったと言われています(別の説によれば、ギルドはローマ時代に由来すると言われています。主に宗教団体・友愛団体としての形で存続し、交易・商業・手工業に手を染めるようになっても、宗教的結社としての特徴が残されていたという事になっています)。

最も勢力を誇ったギルドこそが、中世のフリーメーソンのように、大規模建築に関わったギルドであろうと言われています(近代オカルト結社の思弁的フリーメーソンとは別)。築城、大聖堂、橋梁といった大規模建築は、石材、モルタル、鉛、材木、鉄といった大量の物資を必要とし、広範囲の流通経路と人脈とを開きました。

フリーメーソンを含めて、ある種のギルドは最先端技術者を抱えた集団でもあり、未知の問題に対応するために、錬金術などの様々なハイテク分野と深く関わっていました。「大学」が登場する前のヨーロッパ中世の科学技術は、このような場で体系化されていったと推測されます。

そして11世紀から12世紀にかけ、モン・サン・ミシェルやノートル・ダムなどの巨大な教会建築に見られるような、建築技術のブレークスルーがありました。著しく伸びた車輪動力の技術を利用して、中世後期には建築用クレーンや荷揚げ用クレーンも設置されるようになったのであります。

ちなみに12世紀ルネサンスによってアラビア学術が流入した時、大翻訳運動が起こり、イタリアを中心に大学が増加した事が指摘されています。この頃は卑金属から黄金を作る変成技術や占星術的な関心が大多数であり、更にその中心には、錬金術による「哲学者の石(エリクシール)」の探求がありました(この神秘主義的傾向は『聖杯探求物語』などの騎士道文学に影響を与えています)。

更に、ルネサンスの立役者となった封建領主の中に、名君と呼ばれるべき領主がいた事は興味深い事です。例:神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世(在位1215-50)。それまでの神学研究がメインだった修道院的な大学とは全く異なる大学をナポリに建立しました(=ナポリ大学)。この新しい大学では、政治を研究して「有能な官僚集団」を輩出する事と、種々学術を研究して「有能な技術者集団」を輩出する事を目的としていたと推察されているそうです。官僚とテクノクラートの力を使って領地を活性化するという点で、現在の政治スタイルにも通じる部分があります。

後世、13-14世紀に火薬が伝わってくると、大砲の開発が始まりました(当時の大砲は青銅製ですが、真鍮製という説もあり)。また大砲の登場によって、築城術も造船術も、大いに変容を遂げる事になります。

中世は、ゲルマン諸族の国王・諸侯とヴァイキング、更にはアラブ勢力による群雄割拠の時代でありましたが、職人・商人ギルドの登場、交易ネットワークと技術革命の時代であったとも言えるのです…

★「中世」の完成に至る要素が整理できたと思います。次は中東です^^

PR

西洋中世研究1スラブの黎明期

ゲルマン諸族の大移動は4世紀。スラブ諸国の黎明期もまた、4世紀にさかのぼるものであったようです。ゲルマン諸族が移動した後のエルベ川以東の地やバルカン半島には、スラブ民族が広がりました。

スラブ人社会の成立は古く、ゲルマン人の社会成立とほぼ同時期に進行したと言われていますが、遊牧騎馬民族の侵入が繰り返され、情勢が長く安定しなかった事もあり、その歴史ははっきりしていないそうです。

現代のポーランド及びロシア地域に相当するヨーロッパ部分一帯は、森林に覆われた広大な平原であり、境界を定める事の難しい地勢となっていました。この大平原の領有を巡って、古来、様々な民族が入り乱れてきました。この地域の民族勢力図が、現代に近い状態で安定したのは、13世紀になってからの事です。

紀元前からのスラブ人の移動先は東方、すなわちロシア地域がメインだったと言われています。そして、紀元後5世紀から6世紀にかけてスラブ人は方向を変え、西方と南方に大移動を始めました。ゲルマン勢力が西欧に定着し、東欧からすっぽり抜け落ちたというのが大きい理由の一つですが、もう一つの理由は、東方(ロシア方面)に強大な騎馬民族勢力が出現し、東方への移動が阻まれたという歴史的事実にあります。

まずフン族=匈奴勢力が東方に立ちふさがり、フン族が内紛で解体すると、その場所に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が再び勢力を伸ばしてきました。一方、はるか東方では気候変動と群雄割拠とが進み、突厥・ハザールなど、遊牧騎馬系の巨大勢力が登場してきました。その突厥に追われて西進してきたのがアヴァール人であり、スラブ人はアヴァール人の侵入にも悩まされる事になったのです(後にはヴァイキングにも追われる事になる)。

続く7世紀、ハザール族とブルガール族(=フン族の残党勢力)とに圧迫され、スラブ人はバルカン半島を南下し、エーゲ海方面へ押し出されてきます。殆ど毎年のようにスラブ人の集団がドナウ川を渡り、都市テッサロニケ(マケドニア王国の中心都市)に続々と入り込んでいた事が知られています。

やがて彼らは、アドリア海沿岸に沿って北上し、モラヴィア、クロアチア、スロヴェニア、セルビアへも移動しました。10世紀には、バルカン半島で最も人数の多い民族になっていたという事です。彼らは遂にバルカン半島全体に広がり、ここに、「バルカン半島におけるスラブ問題」が根を下ろしたのです。

突厥帝国とアヴァール汗国が勢力を誇ってスラブ人を西方・南方へと追い出していたのが6世紀末であり、7世紀後半にスラブ人による第1次ブルガリア帝国が出来ましたが、この頃にはスラブ人とブルガール族は既に同化していたと考えられています。ブルガリア帝国は東欧の雄として、長い間ビザンツ帝国を悩ませました。

ブルガリア帝国で有名なのは、ビザンツの正教会によるキリスト教布教と、キリル文字の普及です。後世のスラブ文化に、決定的な影響を与えたと言われています。

一方、8世紀頃のキエフでは、スラブ人が部族社会を構成して住んでいたと言われていますが、実態はよく分かっていません。8世紀キエフのスラブ人社会を蹂躙したのがヴァイキング(=ノルマン人)でした。ノルマン人は多くのスラブ人を捕獲し、奴隷交易の商品として南方(アラブ方面)に売り払ってゆきます。

いずれにせよ、彼らノルマン人がロシアの地に持ち込んだのは、先進的な航海術、飽くなき戦闘力、交易術など、様々な分野に及ぶものでありました。ロシアに巨大なヴァイキング交易権が構築されたという事象を無視する事は出来ません。

当時のロシアは、ビザンツ帝国からの呼称で「ルス」ないし「ロース」と呼ばれた最果ての辺境でした。

ロシア建国神話は、このヴァイキングのうち、ヴァリャーグと呼ばれた一族の王、リューリクから始まります。ヴァリャーグは極めて強大な一族で、何度も黒海方面に遠征し、846年にバグダード襲撃、860年にコンスタンティノープル襲撃など、大きな事件を起こしてきました。最終的にはハザール汗国と関係を持ちながら、キエフに定着したと考えられています。

リューリクの代、ノヴゴロドに、複数のヴァイキング部族による連合国家「ルス」が建国されました(後に、スラブ民族に同化したとされています)。リューリクの時代から50年ほど後には、コンスタンティノープルを襲撃し、有利な条件で通商条約を結んだ事が知られています。日本学術文献では「キエフ大公国」としていますが、当時の正式呼称は「ルーシ(亦はルス)」で、ビザンツ帝国は「ルーシ」という呼称を使っていたという事です。

歴史的に見ると、10世紀のルーシ(キエフ大公国)は富強の大国でした。ビザンツ帝国との通商で豊かになったのに加え、ビザンツ文化が大量に流入したからです。

10世紀当時のヨーロッパは、東西教会分裂の兆候が明らかになっていました(1054年東西教会分裂/ギリシャ正教会成立)。キエフ大公国は基本的にはヴァイキングの神々を信奉する多神教の国で、この豊かな大国が、東方の正教会と西方のカトリックと、どちらに改宗するかが注目されていました。

ちなみに、ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)のカトリック教会は盛んに東方布教を行なっており、バルト海沿岸やボヘミアまで勢力を拡大していました。スラブ系の王国ポーランドは、この頃、既にカトリックを国教とする国になっていたという事です(966年:西欧キリスト教界により「ポーランド公国」承認)。

★次回は、ゲルマン諸族の動向についてであります…^^

空海と水銀・後篇

歴史の研究のため、保存メモ(fideli d'Amore様による著作、サイト消滅にも備えて)

以下、《http://blog.livedoor.jp/hsmt55/archives/50807253.html》より必要部分を抜粋


空海が唐に留学した経緯とその当時の日本という国の宗教的環境をどのように表象するか

まずは、伊藤義教氏の研究からも知られるように、孝徳天皇期(654年)や斉明天皇期(657年)には、すでにトカラ国(ソグド人の国ソグデイアナとダブっています)から高位の者が、妃を連れて来朝したという記録が日本書紀にも残されている。伊藤氏は、大胆にも日本書紀に記されている「乾豆波斯達阿(けんずはしだちあ)」なる人物を、ササン朝最後の王、ペーローズであると断じている。伊藤氏は、また香具山から12キロの水路を曳くという斉明天皇時の一代土木事業「狂心渠」にも言及し、イランやアフガンのカナートの土木技術士も日本に来ていたことを示唆している。こんなことからも西域や中東との人的交流、技術交流は現在一般にイメージされているよりも、ずっと濃厚であったことが伺われる。また753年に鑑真和上と来日した弟子の安如宝も、今でいうペルシア人、多分ソグド人であった。そのソクド人だが、もともとはゾロアスター教徒であったといわれている。

インドの古代ヴェーダの神々は、もうひとつの古代イラン文明と活発な交換があったようだ。松岡正剛氏は、『空海の夢』で、古代ヴェーダのアスラが、古代イランの最高神、アフラとなり、後にゾロアスター教のアフラ=マツダとなり、そして大日如来になった経緯を懇切丁寧に説明してくれている。栗本氏も言っているように、大日如来そのものが、イラン起源なのだ。

さてソクド人は、キャラバンを組んで商人として活躍し、また道教の練丹術のパトロンでもあった。(ヨゼフ・ニーダム「中国科学の流れ」参照)、イスラーム勃興後は、イスラームに改宗した者やイスラームから逃れて山中に隠れ住み現在に至った人たちもあるようです。イスラーム時代のソグド商人は、アジア各地の香料を求めて海洋航海にも乗り出し、アラビアと中国を結ぶ海洋航路を開拓していきます。きっと鑑真和上の日本渡航に際しても、そうしたソクド人ネットワークが、なんらかの役割を果たしたのではないだろうか。現在では、ソグド語は、フランスのバンヴェニストなどディメジルなどよって研究されていて、現在でもバルフ近郊の発掘は、フランス人が現地の住民にフランス語から教えて発掘要員を確保しているという。フランス恐るべし。

ところでソクド人が仲介したと思われる中国道教の錬金術は、

  1. 金液丹によって長寿を生み出すこと。
  2. 錬金術において赤い硫黄の成分を生み出すこと。
  3. 他の金属を黄金に変成させること。

が三大特徴とされているが、ソグド人は、もともとアラビア錬金術にはなかった錬金薬液理論「エリクシール」をアラビアに伝播させただけではなく、この道教錬金術は、当時の日本の宗教文化を考える上でも決して小さくない潮流だったことが伺われる。726年には藤原不比等ら(不比等は悪い)の陰謀で、陰陽道という呪術に耽っているという廉で長屋王が自害させられるという事件がおきているが、これなどもその真偽のほどは疑わしいとはいえ、当時流布していた道教的要素を伺わせる。

東大寺の盧舎那仏建立は、741年に聖武天皇が、大仏建立の詔を発し、752年には大仏開眼供養会が行われた。その後、大仏建立に携わった職人が、多数死んだことは有名です。その原因は、大仏を鍍金(金メッキ)した際に、多量の水銀を使用したための水銀中毒であったといわれている。大仏の鍍金は、以下のように行われた模様である。水銀5に対して金1の割合で少し加熱した水銀に金を溶かし込むと、二つの金属は簡単に混ざり合いゴム状の状態=アマルガムになり、このアマルガムを地金に塗り付け、最後に地金を火で炙り水銀だけを気化・蒸発させ地金の表面に金の皮膜を作り鍍金したという。

ところで大仏を鍍金するという発想は、遊牧民族の鮮卑が作った国、北魏の都、洛陽の北魏仏の特徴で、道教錬金術の影響であることは明らかである。先に触れた栗本氏は、日本の「平城京」という名称のもとは、遊牧民族の鮮卑が作った北魏の都の名称「平城京」から取ったものであるといっているが、大仏の建造の手法からも、栗本説は、説得力があるように思える。

門柱を朱に塗るというのも道教の影響であったと思われる。硫化水銀の粉末から作られる「朱」は、上述の道教錬金術の三大特徴である2にあたる。また不老長寿の金紅丹も、水銀を希釈して作ったものであった。現代風にいえば、ホメオパシーにあたる。そういえば、シュタイナー医学も不眠症の治療に水銀を使う。話を戻せば、道教的なシャーマニズムの土壌は、空海を考える上でも当時の日本仏教を考える上でも無視できないものがある。空海自身は、水銀鉱脈を捜しまわる鉱山師の側面をもち、水銀鉱脈を多数掘り当て相当な財を築き、それを宗教組織の維持拡大の資金にしたといわれている。空海は中央構造線の存在を既に知っており、後世の寺院による資源の開発を期して、そこに遍路道をめぐらし真言寺院を配置したと云われている。高野山や四国八十八霊場なども水銀鉱脈の上を通っており、霊場の付近には水銀の採掘口の跡が多く残っているという。また「朱」=水銀は、生命の象徴とも考えられ、丹生一族は「朱」=水銀を取り扱う山岳修行者の技術者集団でした。丹生一族の家系は古いようである。このあたりのことは、名古屋大学の武田邦彦教授のサイトが詳しい。丹生一族の来歴は以下のように記されている。

http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/3.html
『日本の水銀の女祖、丹生都比売(にゅうとひめ)が誕生したのは日本の水銀鉱脈の西のはずれ、九州の邪馬台国の伊都国でした。この一族は、熊本の八代や佐賀の嬉野の水銀を押さえていた氏族でかなりの勢力を持っていたようです。でも実際には「伊都国」というのはあまりに古すぎてほとんどその歴史は知られていませんが、官を爾支(にき)と呼んでいたらしく、これは丹砂という水銀の砂の意味であるとも言われています。九州で邪馬台国が衰え始めたとき、この一族は大分から、四国、広島へと移動し、丹生都比売が率いる氏族は四国を進み、さらに淡路から和歌山へと進出したのです。和歌山にも優れた水銀鉱脈があったので紀の川流域にも住みつきました。とくにその中でも丹生一族は紀州、吉野・宇陀、伊勢の豪族と一緒になって、一大勢力になったようです。また、丹生都比売の別動隊は、広島から石見・出雲、播磨、そして丹後へと東進して福井に至っています。古代の水銀鉱山は地表から斜め下に掘って行きましたが、掘る長さはせいぜい50メートル程度で、掘り進んだ水銀鉱脈が尽きれば移動しなければならなかったわけです。つまり鉱脈が小さかったので、移動が頻繁だったことが日本の主要な神社が高千穂、出雲、紀伊、吉野、伊勢、諏訪、そして鹿島と続いている原因になったのです。』

こうした記述からは、空海の背後には、大和朝廷の成立などよりずーと古い、古代日本のシャーマニスティックな世界が広がっている様子が伺われる。そればかりではない。冒頭の栗本氏の「王権や律令国家の基礎は曽我氏が作って今日に至るのだ。また北日本を中心にして、金属高山関係者、水利事業者、運搬事業者、山岳信仰関係者、遍歴の商人など、非主流に回った曽我氏や聖徳太子の一統が残されたのである。」という発言と出雲の流れを考えるとき、(中略)明治維新(中略)がでっち上げた「国家神道」や「国体」思想が、いかに日本の原像を歪めてきたかということも見えてくるのである。

話がまたもや脱線したのでもとに戻すと、こんなわけだから空海ばかりでなくその当時の日本文化全体においても中央アジアの影響は見逃すことができない。当時の唐招提寺の境内では、中央アジアの蛇使いやら中央アジアのシャーマニズムが見世物としてよく行われていただろうと杉山二郎氏なども『天平のペルシア人』などで当時の唐招提寺の境内の様子を描写している。また774年に東大寺の要職についていた「修二会」の創設者で有名な実忠和尚もペルシア人であった。お水取りの儀式は、ゾロアスター教の影響というのは定説である。このように空海以前にもイラン系の人との人的交流は盛んで、また中央アジアのシャーマニズムの影響も大きかったようだ。

もうひとつ気にかかる問題は、空海の出自である。松岡氏は、空海は遣唐使船に乗り込むまでは優婆塞、つまり在家仏教者であり、山林に籠って修行する、要するに山伏であったという五来重氏の説を援用している。また空海の家系である佐伯部は、5,6世紀ころ、大和朝廷の征服によって捕虜になった蝦夷(アイヌ人)であったという仏教者の渡辺照宏氏等の説を紹介している。(中略)

こうした記述から伺われるのは、空海を取り巻く仏教の環境が、必ずしも天竺からのだけのものではなかったということである。そんなことからも先にも見てきましたように、空海には中央アジアのシャーマニズムに対するアンテナがあったように思われるし、ソグド語も解したという説もある。空海は、語学の天才でもあったから、さもありなん。

(中略)どうも真言密教には、インド以外の中央アジアのシャーマニズムやグノーシスが紛れ込んでいる(中略)。そもそもグノーシス思想の故郷は中央アジアにある(中略)。アレキサンダー大王以来、太古の東方の身体技法と西方の論理が混交してできたものだろう(中略)。それに中央アジアの部族には、蛇をトーテムに持つ部族や、鳥をトーテムに持つ部族がいたようです。たとえば、真言密教の胎蔵会曼荼羅には、孔雀明王というのが出てくるが、…これはクルド人のイエジディーの「メレク・タウス(孔雀王)」(孔雀は蛇を撃退する)からきているものではないか(中略)。クルド人の起源は古く、イスラーム以前に遡る。クルド人は、ジンという土俗の悪霊の子孫と自称したり、またイスラーム以前のジャーヒリアの時代にアラブ世界からはそう思われていたようである。でもジンは、日本の鬼のような存在なのだろうか、鬼が一概には「悪」とも言えないように、ジンもまた一概に「悪」とはいえないようだ。詩人はマジュヌーンつまり、ジンが憑依しなければ、詩人にはなれないという話だ。ムハンマドも始めは、ジンに取り付かれたのだ、と言われていた。

また話がそれたので戻すと、このカドケウスの杖、またはメルクリウスの杖(水銀=メルクリウス=ヘルメス=女性原理)の杖が、どのような経路で高野山にあるのか(中略)…シリアのハラーンにその中心地があるサビ教徒からの伝播ではないか(中略)。

サビ教徒は、星辰崇拝が特長で、バビロニアの星辰信仰と数学研究(ピタゴラスも影響を受けている)そしてエジプトに向かって礼拝する宗教で、ヘルメス学のメッカです。このサビ教徒は、メルクリウス=水銀の流れとも言われている。一説では星を見てイエス誕生を告げにきた、聖書の東方の三博士、後のシャルルマーニュの時代ケルンの聖堂では、シリア資料からこの三博士の名前を、ガスパール、バルタザール、メルヒヨールと名づけたが、これはサビ教徒からの情報ではないか思っている。ちなみにエジプト錬金術の伝達者のスーフィー、マアルーフ・カルヒーの両親はサビ教徒で、中央アジアのスーフィーのアッタールが、彼の伝記を書いているくらいだから情報は伝播していたのだと思う。

どうして高野山にヘルメスの杖があるのかはその経緯はよく分からないが、まったく無縁とも思えない。あの両界曼荼羅だって、西欧的文脈で言えば、かなりヘルメティツクなものとの親和性は強いように思う。中央アジアで発生した知識や技術が、一方では西欧錬金術を生み、もう一方では、中央アジアから中国を経由して日本に伝わったのではないだろうか、という憶測も可能なような気がする。それに長安(今の西安)には、今でも景教碑が建ち、それによれば635年には景教(ネストリウス派キリスト教:その本部は、ホラーサーン地方のメルブにあった)が伝わり波斯寺が建ち、その後にササン朝崩壊となったのだから、ペルシア人の来朝とともに日本にはすでにキリスト教も入ってきていた可能性も高い。また道教の修法の中には、太乙金華宗旨」のように景教のイメージが入り込んでいることは、よく知られていることなので、長安までそうした「水銀の流れ」の情報が届いていたとしてもおかしくないように思えてくる。

このように確かに空海が伝えた密教は、だいぶ仏教以外の要素が混交しているように思えるが、(中略)世界がキリスト教化される以前の(中略)ユダヤーキリスト教の古層に横たわる、より古い原始の宗教的な意識を知る上でも、…興味深いものがある。かつてギリシア人は、バクトリアというオアシス国家を世界の辺境にして中心と呼んでいたが、古代日本は、世界の諸潮流が交じり合うもうひとつの中心であったように思える。