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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

2011.8.27ホームページ更新

制作日誌で記録した西洋中世史の私的研究をまとめて、ホームページに仕立てました。

ホームページ版の方は、かなり加筆をして容量が増えてしまったので、番外編を設けました。後から考えてみると、オカルト関係(錬金術やカタリ派など)でかなり興味深い様相が展開していたのも中世史の特徴だったので、この部分も盛り込んでみればよかったかなと、反省です。

星巴の時空4.・・・諸国暁闇ノ章
直通アドレス=[http://mimoronoteikoku.tudura.com/garden/history/europe_4.html
星巴の時空・番外・・・中世ルネサンス関連の添付資料
直通アドレス=[http://mimoronoteikoku.tudura.com/garden/history/europe_5.html

西洋中世史の私的な研究:

西洋中世研究の参考:

《以上》

◆歴史研究の付録【カタリ派をめぐる南仏情勢の覚書】=2009.11.29メモの再掲◆

【カタリ派をめぐる南仏情勢の覚書】

12-13世紀のプロヴァンスなど南仏地方では、地中海を通じた商業が盛んで、ユダヤ社会も繁栄していた。当時のナルボンヌ諸都市の記録に、ユダヤ人裁判官や商業者の名が見える。

また、中世カバラー思想(10のセフィラを持つセフィロトなどの神秘思想)もここで発生した。古代ユダヤ神秘思想とは系列が異なるものであったらしいが、『ゾハル(光輝の書)』、『セフェル・イェツィラー(創造の書)』、『バヒール(光輝の書)』などの主要なカバラ文献が、ユダヤ神秘思想史の表舞台に出てきた事は、注目される。

ユダヤ神秘思想の中心地は、スペイン、アキテーヌ、プロヴァンス、ラングドック、レヴァント、ナルボンヌなどの地中海沿岸であったらしい。ここからは、当時の地中海の南で急激に広がったイスラーム勢力との、広汎な交流の様子が透けて見えるものである。

(歴史説話の分野になるが、「トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)」を想起されたい。特にフランク軍がイスラームに反撃した際は、ラングドック地方は砂漠と化した、というくらいに大きな被害を受けたそうである。初期フランク人は野蛮人であったらしい。だからこそ、後に広大なフランク統一帝国を作りえたのではあるが…)

同じ頃、異端カタリ派も南仏、特にラングドック地方で繁栄しており、ユダヤ社会とは友好関係にあったらしい。小アジアやコンスタンティノープルを拠点とする東方教会とも、直接の交流があった。カタリ派の流れには、ユダヤ神秘思想やスーフィズム、オリエント神秘思想の要素が、確実に含まれてあったわけである。正確にマニ教グノーシス系統であったかどうかは、未だに議論のテーマであるらしいが、いずれにせよオリエント神秘思想を受け継ぐ「グノーシス的異端」だったのだと言えよう。

ここで、アルビジョワ十字軍1209-1229のきっかけについて記しておく。

教皇インノケンティウス3世が派遣した使節ピエールが、カタリ派の盛んなトゥルーズ伯レイモン6世の土地でカタリ派を根絶しようとしたが、結局、トゥルーズ伯の手の者に、背後から槍で突き殺された…という事件による。説話によれば、この顛末を聞いた教皇は、2日間、声が出ないほど怒り狂った後、フランス王に破門者トゥルーズ伯の討伐を訴えた。これがアルビジョワ十字軍の始まりである。

(ちなみに、トゥルーズ伯レイモン6世は、異端カタリ派支援貴族として、破門を受けた人物である。この破門宣告という代物は、最近の北朝鮮やイランなどの、テロ支援国家の指定に似てなくも無い。…いちじるしいデジャビュを感じるのは多分、気のせいでは無い筈だ…)

アルビジョワ十字軍はユダヤ排除も含んでおり、南仏ユダヤ・コミュニティーの弾圧も行なわれたと言われている。実際、十字軍とは、とどのつまり、欧州社会における一大ヒステリーであり、大規模なユダヤ排斥運動の一様式であったらしい、ということが指摘されている。

フランス・カペー朝は、この教皇からの討伐依頼を利用し、莫大な資金と軍隊とを運用して、南仏穀倉地帯を支配していた諸侯を制圧し、フランス統一を図ったのである。ブルゴーニュ、イル=ド=フランス、ノルマンディー地方の騎士たちは、過去の十字軍とは異なり、海を渡る必要も、他国の騎士と競争する必要も無く、南仏の豊かな商業の富が容易に手に入る事を夢想して、アルビジョワ十字軍に参加したのであった。

最も凶暴な十字軍で知られたのは、イル=ド=フランス出身のレステル伯シモン・ド・モンフォール勢力である。十字軍の殆どが帰郷したにも関わらず、シモンは新トゥルーズ伯になる事を望んで略奪と圧制の限りを続け、配下の騎士たちは血の海の中で、カタリ派の財産を奪ったのであった。インノケンティウス3世自身、自らの名において発した十字軍の残虐行為の有様に、不安になったそうである(ちなみにその後、フランス情勢は動乱を続け、圧制者シモンは、トゥルーズ伯の反撃の際に投石で殺された)。

同じ頃に、カトリック=スコラ学の尖兵としてドミニコ修道会が結成され、アルビジョワ十字軍に随行し、カタリ派を異端審問にかけ、殺害した事が知られている。皮肉なことに、「転向した元カタリ派」による異端審問が、最も苛酷なものだったそうである。

(ドミニコは死後わずか13年で聖人に列せられた。この辺りにローマ=カトリックの「清らかではない政治事情」を見てもよいと思われる。当時の聖職者の堕落ぶりは、大きな話題になっていた。その折に現世を悪と見るカタリ派が人気を博したという事実は、ローマ=カトリック側に深刻な危機感と醜い嫉妬心とをかきたてた筈である。ついでながら、ドミニコ会は中世スコラ学の巨人アルベルトゥス・マグヌスと、その弟子トマス・アクィナスを輩出した事で知られている。)

このアルビジョワ十字軍から始まったフランス南北戦争により、豊かな土地であった南仏は荒廃して大勢の死者を出した。南仏で最も有力であったトゥルーズ伯の子孫(圧制者シモンからトゥルーズを奪還した人物の息子)が、抗戦の末にフランス王に降伏し、上着を脱いだシャツ1枚の姿となり、「カタリ派の一掃、及びフランス王室との政略結婚に応じる旨」をノートルダム広場の前で誓った事をもって、南仏は正式にカトリック系フランス領土となることが運命付けられた。

こうした政治情勢の激変と並行して、魔女裁判があったことも、南仏カタリ派の崩壊に拍車をかけた。更に14世紀ペストの大流行があり、わずかな残党も壊滅したのである。カタリ派が完全に断絶し、異端審問所が無くなったのは、1350年頃のことである。

この後、カタリ派と同じくオリエント・グノーシスの影響を受けたユダヤ神秘思想(カバラ中心)が、スペイン=レコンキスタ運動に追われたユダヤ人のイタリア移住後、イタリア・ルネサンスの波に乗って一気にヨーロッパ全体に拡散し、中世崩壊以後の西洋オカルト思想に大きな影響を与えたのは、これまた皮肉な現象である。

最後になるが、この100万人以上にのぼった南仏大虐殺の歴史は、フランスではあまり重要視されていないらしい。フランス南北戦争の末に、強大な大陸型権力と、豊かな領土とが手に入った…というメリットの方が大きかった、という事であろう。

この辺りは、文革大虐殺の歴史を、共産党の歴史学界があまり重要視しないのと、構図は似ているのではあるまいか。いささか「シラケ」の感も否めないが、人間は、本来、直視したくない事象は捨像するものなのである。それが人格崩壊を防ぐのに必要な方法でもあるからだろう。

人間は、事実と「ありのまま」に向き合えるほど強い生き物ではないのである。

流行りのスピリチュアルが「事実をありのままに見る」…と言うとき、そこに、惨めに屈折した「幻想への隷従」を見ずにはおれない。

逆に言えば「いわゆる新世界秩序」は、各種宗教法人や2012年終末版スピリチュアルブームを通じて、そういう終末幻想の心理を煽っている、という事だろう。「彼ら」が、何の目的でそういう事をするのかは知らないが、社会歴史を紐解いてみる限りでは、総じてこういう心理が群集心理となった時が危険である…と、はっきりと述べることが出来る。

扱い方を間違えれば、アキバ事件の拡大版や文革など、十字軍的ヒステリーを爆発させる事になるからである。ついでながら、霊感商法や霊感コンサルタントなどの商売の場合は、それが商売になるから、終末幻想の流行をいっそう煽るのではあるまいか。彼らに明確な「霊的な意味での使命/自由意思」があるとは思えないのである。

必要なのは、時代の激変に耐えうる安定した精神(禅的流体的な精神)を鍛え養う事であって、ラディカルな革命思想に走る事でも、終末幻想にのめりこむ事でも無い、のである。日本人の精神は、元来、そういう高い境地を目指していたのである。

上の考えは、物語のシナリオで少しずつ提唱してゆく予定であったが、現代社会のヒステリー状態にさすがに不安になったので、あらかじめ、まとめて提唱しておくものである

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詩歌鑑賞「犬吠岬旅情のうた」

犬吠岬旅情のうた/佐藤春夫

ここに来て
をみなにならひ
名も知らぬ草花をつむ。
みづからの影踏むわれは
仰(あふ)がねば
燈台の高きを知らず。
波のうねうね
ふる里のそれには如かず。
ただ思ふ
荒磯(ありそ)に生きて松のいろ
錆びて黒きを。
わがこころ
錆びて黒きを。

西洋中世研究3中東の学芸文化

※中東エリアの話ですが、こちらも「西」なので、西洋カテゴリに

【ジュンディー=シャープール学派の成立/5世紀-7世紀】

当時のキリスト教神学は、ギリシャ哲学を使っていました。従って、各地にキリスト教を布教する場合、必然として、ギリシャ哲学も一緒に紹介する事が必要になってきました。

431年のエフェソス公会議で異端宣告を受け、追放されていたネストリオス派は、東ローマ帝国に迫害されていた事もあり、ギリシャ語を積極的に捨てて、土着のシリア語で布教を行なっていました。彼らは、シリア語に訳された聖書、神学書、哲学書を用いて布教していました(北方ではアルメニア語・グルジア語への翻訳運動がさかんに行なわれていた事が指摘されています)

その結果としてネストリオス派は、シリア語訳されたアリストテレス哲学や新プラトン主義、それにヘレニズム科学技術の各種を、西アジアに普及するという事になったのです。

シリア化された各種の科学・学術は、ササン朝ペルシャの冬の離宮のあった都市、ジュンディー=シャープール(スサ近郊)に集中し、洗練されてゆきます。

元々ジュンディー=シャープールとは、ササン朝ペルシャ初期の王シャープール1世が、260年エデッサの戦いでローマ皇帝ウァレリアヌスの軍と戦い、これを徹底的に撃破し、皇帝を含めたローマ捕虜を収容したところです。「シャープールのキャンプ」という意味ですが、このときローマ技術が相当に流入したと言われています。

このような経緯から始まったジュンディー=シャープールの町でしたが、早くからネストリオス派の学者を招聘して、シリア語訳を通じて、ギリシャ=ヘレニズム文化が盛んに学ばれていたのであります。

特にこのギリシャ=ヘレニズム文化の愛好者でもあったホスロー1世(在位年:531-579)が即位すると、この町にアレクサンドリアのムーセイオンを模した立派な研究所が作られました。付属病院や天文台も設置され、医学、天文学、数学などの研究が奨励されました。

※ホスロー1世は、首都クテシフォンにも学問の都を作りました。ジュンディー=シャープールがローマ風建築だったのに対して、クテシフォンは純粋なオリエント・イラン建築だったと伝えられています。ちなみに、クテシフォンの宮廷を彩ったペルシャ人貴族たちは、夏の避暑用に膨大な量の氷を保存していたそうです

ジュンディー=シャープールでの教育は、エデッサやニシビス同様に、当時のリンガ・フランカ(共通文化語)であったシリア語で行なわれました。カリキュラムの必要に伴い、当時最先端の学術のシリア訳が、大量に作られる事になったのです。

525年に東ローマ帝国ユスティヌス1世(在位年:518-527)がアテナイの学校を閉鎖した際にも、ギリシャ本土の学界から追われた第一線の学者たち―シンプリキオス、ダマスキオス、プリスキアノス等―も、ジュンディー=シャープールに受け入られています。

更にインドの学者も多く招聘されています。このようにして、ジュンディー=シャープールにおいてシリア・ヘレニズムの頂点が築かれたのであります。シリア・ヘレニズムとは、ギリシャ、インド、ペルシャ各地から到来した最高の伝統文化の、統合の試みに他なりませんでした。

アレクサンドリアが衰退した後の時代においては、シリア・パレスチナ・ペルシャが、世界随一の学芸文化の先進地帯でありました。シリア・ヘレニズムを通じてジュンディー=シャープールに花開いた一大総合文化こそ、後のアラビア科学の成立と発展の基礎となったものなのです。

実際、アッバース朝の科学文化の大きな支柱となったものの中に、ジュンディー=シャープールの学派がありました。アラビアの高い文化は、ジュンディー=シャープールに結集したペルシャ文化を、アッバース朝の時代になってバグダードに移転する事によって、初めて可能になったのです。

【ペルシャ・ヘレニズム&アラビア・ルネサンス/7世紀-9世紀】

ジュンディー=シャープール学派を育てたオリエントの強国、ササン朝ペルシャは、642年ニハーヴァンドの戦いで、新興勢力の正統カリフ=イスラーム軍と衝突し、敗退・滅亡します。

当時のイスラームは「大征服の時代」のさなかにあり、アラビア半島を中心に急速に領土を拡大。第2代カリフ、ウマル・ブン・アルハッターブ(634即位-644没)は中東の広範な地域を征服していきました。

イスラーム=アラビア語圏の著しい特徴は、その急激な拡大速度にあります。

イスラームという新興宗教がもたらした情熱は、『コーラン』によって特徴付けられたアラビア世界をアラビア半島部に留めるものでは到底なく、たちまちのうちに多くの世界を巻き込んでいったのであります。その極大期のイスラーム世界は、東はシナに達し、西は地中海沿岸、南はアフリカ、北はハザールに達するものでありました。

アラブの大征服に伴うイスラームの急激な拡大は、必然、イスラーム圏に壮大な思想潮流を巻き起こさずにはおきませんでした。それはまず、マホメット死後の『コーラン』の法的解釈の分裂を引き起こし、次いで、思弁神学の分派(スーフィズム等)を生み出してゆく事となります。

またビザンツ帝国と接触した折、輝かしいビザンツ文化も吸収したのであります(初期のモスクは、征服した土地の東方キリスト教の聖堂を借用したものです。それを祖にして、モスク建築が生まれました)。

やがてイスラームはウマイヤ朝(661-750)の時代を迎えます。そして、重要な事件が起こります。ヒジュラ暦61年(西暦680年)のアーシューラーの日に、シーア派の第3代イマームとされるフサインが、カルバラーのムスリムと共にウマイヤ朝軍に虐殺された、いわゆる「カルバラーの悲劇」が発生したのです。

これによって、スンナ派がイスラーム世界における覇権を確立する事になりましたが、シーア派との深き対立の始まりでもありました。ちなみに、スンナ派イスラームのウマイヤ朝そのものは、次第に世俗化してゆきました。

ウマイヤ朝は、「征服王国」という性格上、強烈なアラブ至上主義の王国であり、イスラームに改宗したペルシャ人含む外国人(マワーリー等)は疎んじられる傾向にありました。アラブの伝統的な文法や韻律、コーランに伴う法律といった「固有の学」は研究されたものの、いわゆる「外来の学」である哲学や科学には殆ど関心が払われなかったと言われています。

さて、シーア派の主力は、ペルシャ東方のホラーサーン地方にありました(ちなみに、ウマイヤ朝の首都はシリアのダマスカスです。故に、当時のスンナ派の主力はシリア・パレスチナ方面に集結していたと考えてよいだろう、と思われます)。

イスラーム世界における反体制諸勢力を含めてウマイヤ朝の支配に不満を抱く人々は数多く、750年、ホラーサーン地方のシーア派の反乱に始まる「アッバース革命」が発生します。

「アッバース革命」と同時に、イスラームの中心を担うカリフの都も、バグダード、コルドバ、カイロの三都市に分かたれたのだ、といっても過言では無いようです。このアッバース朝(750-1258)の成立を以って、イスラーム世界に大きな転回点が形成されました。

転回点とはどういう事かといいますと、「アラブ人による征服王朝」から「普遍的世界帝国(イスラーム帝国)」への拡張が起こったという事です。その中で、イスラーム世界のペルシャ化が急速に進行しました(751年、タラス河畔の戦で唐の軍隊を撃退し、中央アジアへのイスラーム拡大も同時に進行しました。ちなみにこの時に、シナ人捕虜を通じて、製紙技術が西方に流入したのは、有名なエピソードです)

初期アッバース王朝の歴代宰相を輩出したバルマク家は、ホラーサーン地方の都市メルヴの出身ですが、都市メルヴの古名は「アレクサンドリア・マルギアーナ」、即ちヘレニズム諸都市の1つでありました。アッバース朝の有力な豪族であったバルマク家のギリシャ文化愛好は、やがてアッバース朝の中枢にペルシャ・ヘレニズム運動を巻き起こすまでになったのであります。

762年からバグダードに新都マディーナ・アッ=サラーム「平安の都」が造営され始めると、イスラームの学問の中心となりつつあったバスラやクーファから著名な学者が集結しました。シリア・ヘレニズムの頂点を形成していたジュンディー=シャープール学派もまた、多く移り住みました。

ペルシャ・ヘレニズム運動における文明移転に際して特に重要な役割を果たした、翻訳の巨人として有名な学者が、フナイン・イブン・イスハーク(808頃-873頃)とサービト・イブン=クッラ(826-901)です。

フナインは多言語に通じたネストリオス派キリスト教徒の学者で、母語はシリア語でした。サービトは、シリア北部の町ハッラーン生まれのサービア教徒(独特な星辰崇拝を持つグノーシス派)で、同じく多言語に通じた学者でした。彼らの仕事は、優れた次世代翻訳家を多く生み出します。

ペルシャ・ヘレニズム…、その驚異的なまでの翻訳活動を通じて、砂漠を横断する通商の民が使う単純な言葉に過ぎなかった貧弱なアラビア語は、急速に語彙を豊かにし、あらゆる学芸文化を包含しうる程の近代的なアラビア語に成長していったのです。

以上のようなペルシャ・ヘレニズムの興隆を経て、アッバース朝第5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシードの下で、遂にアラビア・ルネサンスが開花したと言われています。アラビア‐ペルシャ融合文化の確立でもありました。

11世紀頃、アラビアの学術は頂点に達します。それは、高度成長を遂げたアラビア語の語彙力を以って、メソポタミア、エジプト、ペルシャ、インド、シナ各地から流れてきた文明を融合させ、発展させる事に成功した「イスラーム文明圏」の黄金時代に他なりませんでした。

イスラーム科学や哲学の発展は、ペルシャ文芸復興期(9世紀-15世紀)と進行したという側面を持っています。ここでなされた業績は、後にコルドバを通じてヨーロッパに流入し、11世紀-12世紀のスコラ学に始まる革新、および15世紀-16世紀の西欧ルネサンスの原動力となったのでありました。

・・・超・駆け足でまとめ

ここまでで、一応、「中世」の確立(すなわち諸国の暁闇の時代)の記述はオシマイです。


◆その後の西洋史に関する私見◆

自分の理解するところによると、文明的には大体似通ったコースを並走していた、中東エリアと欧州エリアの運命は、この後、大きく分かれてゆきます。

その原因となったのが、アレクサンドロス大帝国の発生ならぬモンゴル大帝国の発生だったと考えられます。 モンゴル帝国の衝撃は、欧州と中東との間で、壮大な「東西のねじれ」を発生します。それは、欧州にかつて発生した「ゲルマンとスラブのねじれ/カトリックと東方正教会のねじれ」よりも、遥かに巨大で深刻な影響を、西洋の時空にもたらすものでありました。

西洋史(欧州&中東)は、モンゴル帝国以前と以後とで、全く様相が変わっていると言えます。 特にロシア(=当時の呼称はルーシ;キエフ公国の力が衰え、分裂状況にあった=)は、モンゴル帝国の支配下に置かれ、その状況は、「タタールのくびき(1240-1480)」と表現されるものでありました。

モンゴル帝国の時代を挟んで、ロシアの歴史は決定的に分断されています。実際、ルーシは「帝国」を名乗らなかったのですが、「タタールのくびき」の時代が終わった後は、「ロシア」という呼称を使い始め、「ツァーリ(ロシア皇帝の称号)」も発生しました。強烈な専制政治(ツァーリズム)の試みもありました。

この辺りの流れは、詳細を無視すれば、東洋における殷周時代から秦漢時代への歴史的プロセスを連想させるものではあります。そしてモスクワ公国を経て、17世紀には、モスクワを都とするロマノフ朝が始まるのであります(後に、サンクト・ペテルブルグへ首都移転)。

そしてオロシャは、大モンゴル帝国の再来よろしく、際限なき領土拡大に邁進する「恐るべき巨大ランドパワー国家」として振舞うようになるのであります… そして江戸時代には、カムチャツカ半島までやって来て、わが国を驚かせるのでした