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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書:平安の宗教文化・後篇

前篇の続き

読書ノート『平安時代の宗教文化と陰陽道』山下克明・著、岩田書院1996

《第三部「星辰信仰と宿曜道」を中心に覚書》

★道教信仰の受容(道教の流行に伴う星辰信仰の拡大)★

日本に初めに体系的に伝えられたのは道教であり、道教に伴う中国流の占星術だった。そこでは、天変地異は、地上の統治をゆだねられた帝王の不徳に対して天帝(上帝)が下す懲戒の前兆と認識されており、儒教の帝王観と不可分な政治思想的性格を持っていた。

(「懲戒」=帝王の死・叛乱・飢饉・大水・疫病etcといった国家的災厄として現われると信じられた)

確実な記録としては、推古10年(西暦602)に百済僧の観勒による「暦本及天文地理書、並遁甲方術之書」の貢上と、彼による書生(学生)への教授によって日本に伝えられたというのがある(『日本書紀』推古十年十月条)。

その後、これらの知識は律令体制下において陰陽寮天文博士の任務となり、平安時代における天文道の概念の成立をもたらす。これらは星辰現象の背後に天帝の存在を認めるものではあるが、直接に星辰を崇拝するものでは無かった(=陰陽師による呪術的祭祀は、陰陽寮が「呪術化した知識」を駆使するようになった頃の話で、当時の陰陽寮には祭祀の任務は無かった)。

一方、民間には既に道教に基づく星辰崇拝が流入していた。奈良時代後半には既に、僧侶主導による妙見信仰が広がっていた。余りにも盛んになり、官吏も民衆も職を忘れて祭祀に熱中したので、しばしば都から北辰信仰の禁止のお触れが出された程である。

しかし、9世紀ごろには、都においても、天皇みずからが年中行事として北辰崇拝を行なうようになった。3月と9月の各3日に天皇が北辰に燃燈を奉る儀式として定着する。いわゆる御燈(民間では「北辰燈」)である。ちなみに、道教祭祀では毎月3日と27日が北辰・北斗が降臨する日だとされており、この3日というのが天皇祭祀の3日の御燈の起源となったのだろうと言われている。

《別調査による補足》・・・インド占星術及び仏教では北極星は重要な存在では無かったから、この当時広がっていた妙見信仰が、道教由来のものである事が知れるのである。妙見信仰は畿内で非常な流行を見せ、妙見菩薩像も作られていた。更に言えば、優婆塞&優婆夷(私度僧)が多く所属していた雑密は、既に一定以上のレベルに達しており、初期仏教の知識を広汎に有しつつ、道教民俗に深く染まっていた事が指摘されている。例えば東大寺の別当となった良弁(ろうべん)が、この雑密の修行者だった。妙見信仰や北斗信仰、雑密の拡大には、道教に通じた渡来人の関与が大いにあったと言われている。

・・・道教における斎日の知識の例

  • 三元=正月・七月・十月の各15日で各々上元・中元・下元とする。天地水の三官が人間の状態を天帝に報告してその運命を決する日
  • 八節=立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬・冬至。五帝が下降して人の善悪を記す日
  • 庚申=身中の三尸鬼がその人の罪状を天神に報告する日
  • 本命日=人の生年干支の日で、身中の吏兵が功過を天神に報告する日
・・・本命祭に招請する神(道教)
天曹・地府・司命・司録・河伯・水官籍掌算之神

桓武朝以来、遣唐使を通じて唐の国家儀礼・祭祀が続々と取り入れられ、嵯峨朝に唐風文化が興隆する。この頃に道教の星辰信仰が宮廷祭祀に本格的に取り入れられた。

弘仁年間(810-824)頃には既に、元旦に天皇が行なう四方拝の中で、生年十二干支に対応する北斗七星中の一星の名号を称える属星拝が存在した。

※従来の飛鳥・奈良仏教は、平安京遷都に伴い、影響力を低下させていた。平安京に食い込んで繁栄した仏教は、殆ど密教なのである(天台宗と真言宗)。更に唐代に興隆した道教の知識がスタンダードな教養として要求されていたから、平安京が道教祭祀と密教祭祀によって構成された呪術的な都になったのは、必然の結果であった。

同じ平安初期から、陰陽寮の官僚(陰陽家)が呪術や祭祀の分野で活動を始める。天皇のための祭祀として三元祭と御本命祭(年に6回行なう。天皇の本命日の祭祀)があり、貴族のための祭祀として属星祭(陰陽道による)や個人の寿命・禍福を司る北斗七星の祭祀(道教による)があったという事が記録に残されている。

★密教星辰供の成立★

密教では修法を行なう上で吉日良辰を選ぶことが重視された。

例えば空海が請来した金剛智訳『金剛峯樓閣一切瑜伽瑜祇經』巻上-愛染王品第五には「於白月鬼宿、取浄白素氈、書愛染金剛」、巻下-金剛吉祥大成就品第九には成就法をなすべき宿直日が定められ、「於此宿直日、於一日之中不食、誦満一千八遍、所有心願応時便遂、獲大悉地」とある。

他にも様々なものがあり、『大日経』説を受ける形で曼荼羅を作る吉日や、27宿・9執に剛柔・善悪があって修法上それを考慮すべき事を述べている。

このような密教の吉日良辰を知る典拠となったのが空海・円仁・円珍らによって相次いで請来された『宿曜経』であった。

『高野大師御広伝』『弘法大師御伝』には「大同以往暦家無知密日。是故に日辰吉凶雑乱、人多犯之。大師帰朝後、伝此事。」とある。密はソグド語で「ミール(日曜)」の事であるが、ここには則天武后の時代に広まったマニ教の知識も流入している(空海の頃のマニ教は、仏教と習合しつつ、殆ど道教民俗と化していたと言われている)。

空海によって七曜の知識が伝えられ、密教の流通と共にその吉凶が認識されるようになった。東寺系古写本及び覚勝校訂本の『宿曜経』には、延暦25年(=大同元年、西暦806=)・大同2年・3年の各年ごとの第一日曜日に当たる日が付記されている。

『宿曜経』はホロスコープ占星術のための書籍としては不完全な内容に留まっていたが、実際に七曜・27宿・12宮を曜日に配当してその吉凶を判定するには十分であり、密教の儀式・修法を行なう上での日時の典拠として重用される事になった(ただし、『宿曜経』には、実際の攘災法や吉祥を祈る祭法については殆ど言及されていない)。

こうした密教の知識は陰陽道にも大いに影響を与え、10世紀初頭までには、暦博士が作成する具注暦にも曜・宿や『宿曜経』に説く羅刹・甘露・金剛峯日等の吉日凶日が新たな暦注として採用され、仏家のみならず貴族社会でも拘束力を持ち始めた。

9世紀の段階では、密教家の間では本格的に星辰祭祀が行なわれたという積極的な痕跡は無いが、10世紀に入ると、既に道教由来の星辰祭祀を導入していた陰陽家の関与により、密教家の間でも星辰祭祀が行なわれるようになった。

(補足)・・・承和14年=西暦847年、恵運という密教僧が、帰国の際、雑密儀軌の一つ『七曜星辰別行法』一巻を請来しており、その後も順次、星辰祭祀関連の密教書籍が請来された。安史の乱以降、道教と密教との習合が進んでいたという唐代後期密教の状態を反映している。この唐代後期密教が、日本の密教の呪術化(密教星辰供など)に大いに関与した。

★密教星辰供の成立と陰陽家★

9世紀以降に顕在化した律令体制の衰退の中で、にわかに災異意識や社会不安が上昇する。当時に記された『三代実録』には天変地異の記事が頻出する。

天変は天文博士による密奏の後、現象のみを季別に中務省に送り国史に載せる規定であったから、この事は、それだけ天文観測が緻密に行なわれていた事実を示す。

国家的災厄の予兆たる天変に対して、従来の為政者の対応は大赦や『大般若経』『金剛般若経』等の護国経典の読誦をもって天変消去を行なうことが一般的であったが、深刻化する律令体制の動揺と社会不安を背景に、密教修法が発達した。

殊に円仁が伝えた熾盛光法は、10世紀に入ると臨時修法の例が目立つようになる。

承平8年(938)3月には天変により天台座主義海を以って熾盛光法を修し、また11月には天変・物怪により、12月にも天変消去及び朱雀天皇の玉体安穏のため義海が修する等、天変に際して台密験者に熾盛光法を修させる事が恒例化した。

熾盛光法は疫病・鬼神・兵賊・除災などに幅広い現世利益を持つとされるが、不空の『熾盛光息災陀羅尼経』に記載されてあるように、天変に際しての利益が強調されている。

若有国王及諸大臣所居之及諸国界、或被五星陵逼、羅睺彗孛妖星、照臨所属本命宮宿及諸星位、或臨帝座於国於家及分野処、陵逼之時、或退或進作諸障難者、

そして不空の弟子慧琳訳『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪(別名:熾盛光仏頂儀軌)』によれば、天変に対する理解は、中国占星術のような国家的災厄としての天変一般というよりは、王者・貴人個人の本命宮・本命宿への9曜、特に凶星たる羅睺・計都(彗孛)の侵犯や、そこで起こる日月食を個人の災厄と認識するものであった。個人の災厄を消去するために行なう修法が、熾盛光法であった。

若有国界日月薄食、或五星失度形色変異、或妖星彗孛陵押王者貴人命宿、或日月虧損於本命宮中、此時応用此教息災護摩、

※本命宮=黄道12宮。羊宮・牛宮・夫婦宮・蟹宮・獅子宮・女宮・秤宮・蝎宮・弓宮・磨竭宮・瓶宮・魚宮から成る。このうち西洋占星術で言う上昇宮(アセンダント)が、本命宮に相当する。

熾盛光法の隆盛は、従来の国家的為政者としての天変の認識よりも、個人の本命宮・本命宿上の変異による個人的災厄を意識させるという変化をもたらした。本命宮・本命宿への関心の増大は、密教占星術すなわち宿曜道の成立を促した。

暦算により個人の本命宮・本命宿を確定し、誕生時や毎年の9執の運行と12宮・27宿の関係から運命・吉凶を占うという密教占星術と、人の運命を支配する星そのものを祭り加護を祈るという密教星辰供が要求されていたのである。ここに唐代後期密教がもたらした雑密儀軌の諸書と、道教の星辰祭祀の知識を受け継いでいた陰陽家が関わった。

陰陽家の所説が直接密教の星辰供の成立に影響した例が、本命元神(辰)供である。

小野僧正仁海(951-1046)の『小野六帖』第六-宿曜私記には元辰供作法が記されてある。

曰く、第一は「賀司馬」の伝により世間の人が言う元辰で、これは甲子年生まれの人は甲子に供す。その元辰とは生年の十二支により配当が決まり、陽命子寅辰午申戌の人は前一衝の方角(例えば子年生まれの人は子の一つ前の丑と対の方角に当たる未の方)の仏菩薩天、陰命丑卯巳未酉亥の人は後一衝の方角の仏菩薩天を供養し、これを一座とする。第二には、生年十二支により配当される北斗七星の一星(属星・本命星)を供す。第三には、九曜のうち行年所属の曜を供するもので、これは『火羅図』(雑密星辰儀軌)にみえるものであるという。

生年干支を問題とすること、北斗七星を属星として供することから、これらが正統な密教の祭儀では無く、陰陽家が伝えてきた道教由来の祭祀であることが知れる。

道教において本命の観念は多様で、「本命者干支之神」とあると共に、北斗七星に配して本命星官となる。本命元辰は身中の神とされ、北斗七星の左右に従う輔弼を元辰とする説、男女の別により前一衝・後一衝の干支を以って元辰とする説があった。ちなみに「賀司馬」とは陰陽家・近江司馬賀茂忠行の事である。

熾盛光法の他に北斗法という祭祀もあったが、これも密教と陰陽道との混合の結果であったと言われる。北斗法とは、一字頂輪王(=北極星)を中心に本命星(北斗七星)・当年属星(9執)・本命曜(七曜)・本命宿(27宿)・本命宮(12宮)等を供するものである。

熾盛光法や北斗法は共に、摂関政治全盛期には貴族の間で流行し、院政期には大北斗法など盛儀化が見られた。一方、個人の年齢によって9曜の一つを祀る星供も広く行なわれた事が知られている(この星辰供は、今日に至るまで密教の代表的な祭供の一つとされているが、当時は密教本来のものでは無いとして論争があった)。

なお、星辰祭供の是非における密教僧侶の論争相手は、同じ仏教家では無く陰陽家であったが、西洋のような根本的な宗旨・教義対立には至らなかった。事実、当時の政治的・社会的要請に応えるためには、そうした論争は二次的な問題だったのである。

★宿曜道の形成と展開★(記述が余りにも多岐詳細なので、むすびの部分を拝見)

宿曜道は、桃裕行氏(の研究)が明らかにした通り、日延(延暦寺僧)が呉越国に学び、天徳元年(957)に請来した『符天暦』という暦法を基礎に、星占・暦算を行なうものであった。

密教では元来、宿直日や本命宿・本命宮の選定、或いは27宿・12宮上の9曜の位置関係による個人の厄難が問題とされ、そのためには占星術・暦法を必備とする考えが存在していた。日延が暦家の新暦法請来の要請に際してもたらした『符天暦』は、自らの密教僧としての関心にも合致した暦法書だった。

そしてこの『符天暦』の請来によって日本でも密教僧による星占・暦算が可能となったが、日延の後『符天暦』を用いたのは東大寺の僧・法蔵であり、彼の行動の内に宿曜道の形成が見られた。しかし、法蔵自身はあくまでも、純粋な密教の範囲でこれを理解していた。

その後10世紀末から、符天暦を以って天皇・貴族の星占を行なうため宿曜勘文を作り、暦算や星供を行なう宿曜師が興福寺に輩出された。彼らは11世紀後半以降、公家の祈祷の一角を担う事になり、宿曜道を星占・祈祷を行なう専業として認識するが、またその運命勘申活動は、貴族社会の宿命観形成に少なからぬ影響を与えたと考えられる(浄土教の隆盛以来の仏教の無常観や輪廻思想・末法観念の影響もあった)。

※宿曜勘文=内容により、「生年勘文(個人の運勢全般を占ったもの)」、「行年勘文(ある特定の年の個人の運命を惑星の運行から占ったもの)」、「日食勘文(個人の年齢と日食の起こる天空上の位置等を組み合わせて占い、個人の厄難&謹慎の有無を記す)」、「月食勘文(個人の年齢と月食の起こる天空上の位置等を組み合わせて占い、個人の厄難&謹慎の有無を記す)」の四種に分けられると言われている。

院政末期から鎌倉時代にかけて、貴族社会や鎌倉幕府で珍賀や慶算の門流の宿曜師が顕著な活躍を示すが、室町初期の応永年間(1394-1428)を最後に公請の退転、或いは北斗降臨院の焼失(応永24年10月29日条に記録あり)などにより、宿曜師の活動は見られなくなる。そうして『符天暦』を駆使して星占や暦算を行なった特殊技能僧の集団である宿曜道は廃絶したものと考えられる。

《以上》

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「知」に関する覚書&雑考

★下記のtwitter群が連続して興味深い内容だったので、メモさせて頂きました。

http://twitter.com/#!/et_toi/status/121728549236383744
自分の歩む道を自分で意識するということは、実は、歩いている本人の目線からは行いにくい。歩いている自分の姿を上空から俯瞰的にみつめてみて、はじめて自分の歩む道は意識できる。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121728915004854273
客観的にみるというのは、そんな風に自分の姿を上空から俯瞰的にみるということであって、まわりの枠組みに安易に自分を当てはめてわかったつもりになるということではない。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121730774490820608
他人のことを考えるというのも単にいま目の前に起きていることを自分の立ち位置からみたことをベースに相手を評価するということではありえない。そうではなく上空から俯瞰した自分の歩みと他者とをぶつけてみた際に何を考えられるかが、相手を考えるということだろう。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121731592896000001
そういう俯瞰的にみるということを考えた際に思い当たるのが、漱石が文学はローカルだと言った際の考えだ。漱石はおそらく言語がローカルであるがゆえに文学がローカルだと言ったのではない。マクルーハン的な意味でグーテンベルク革命の結果としての文学が俯瞰を可能にする知だからそう言ったのだ。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121732315142569984
つまり、客観的にみるというのは、本来、普遍的にみるということとは同じではない。それは実はグーテンベルク革命が充分に普及して、その知の具体的な応用方法を模索した18世紀の活動を通じて作られた加工物である。本来、客観的にみるというのは、漱石的な意味でローカルなのだ。

《コメント》・・・「客観的思考もまた、主観的な条件の下に偏向したローカルな思考スタイルである(普遍的思考では無い)」という思索は、興味深いものでした。

戦略的思考はたぶんに客観的思考のスタイルを取る傾向がありますが、こうしたローカルな主観性が糊付けされているから、各人ごとに異なった思考(戦略デザイン)が見られて、なお興味深いのだろうと思いました。

活版印刷の技術革命(グーテンベルク革命)が人間の思考に如何に大きな変容をもたらしたかというのは未だよく分からない状態です。ただ、話し言葉が主流だった頃の時代と、書き言葉が主流になった時代とは、世界観や価値観が大きく異なってくるだろうというのは想像できました。例えば、過去と未来の時間軸の明確化とか…

http://twitter.com/#!/et_toi/status/121786311983104000
車に乗せてもらっていったり、人に連れて行ってもらった道はなかなか覚えられないものだけど、自分で迷いながらたどり着いた道とはいうのは案外しっかり覚えているもの。プロトタイピングによる知というのはまさにそれ。体験しながら考えられることを増やしていくのだ。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121786387669323776
失敗を恐れて自分で体験をすることを避け、人に教えてもらうことばかりを望んでしまうと、その類いの知はいつまで経っても獲得できない。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121786398993956864
デザイン思考的なトライアンドエラーというのはまさにそういう意味。ただ、それは何もデザイン思考に限った話ではなく、人間の知の獲得の仕方として、それが1つの形ということだと思う。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121787492167987200
何かを知るためにその知り方を調べるためのスキル。つまり、それは道に迷った際や暗闇で何か探し物をする際に「手探りする」という方法を知っているかどうかということ。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121787517824532480
「自分で手探りをする」という方法を知らず、「他者に正しいやり方を教えてもらう」という方法にのみ頼ってしまうのが、文字/文章中心の知のあり方。まさにグーテンベルグ革命以降に起こった知そのもののあり方の変化の影響を受けたままの状態がそれ。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121787857177288704
「グーテンベルグ革命以降に起こった知そのもののあり方の変化の影響」というのが、ブログ(http://gitanez.seesaa.net/article/228703702.html)に書いた“「実践より理論」をベースとしたデザインを、ほんのすこし「理論もいいけど実践もね」という側にシフトしたのがデザイン思考”ということの意味。

《コメント》・・・これはそのまま、うなづけました。教条主義、マニュアル人間とも申しますが

言葉以前の不完全なイメージ、直感に留まっているものを、実際の表現スタイル(言葉・絵画・音楽・身体作業など)を通じて現実の世界に引き降ろすのは、やはり人間自身の、教科書無き実践によるものであります。その方法に関する知は、まさに「手探り」で探し当てていく知のジャンルに入るだろうと思います。

ただこういった「現場力(或いは即戦力)」と言っていい「知(ナレッジ)」は、人間の生身の身体を使うものだけに、感覚をつかむのに非常に苦労するであろうという事が予想されます。

形にしにくい、体系化しにくい、普及しにくい…そういう類の知かも知れません。少し前に「ナレッジマネジメント」という言葉が流行ったと記憶していますが、要はそういう事を理論化して、実際の経営に応用しようとしていたのですね。今はどうなっているのでしょうか…

現代のコスト至上主義の考え方からすると、時間や労力のロスは無視できないと思いました(表現のクオリティや厚みを生み出すのが、こうした「無駄な要素」だったりするので、非常に悩ましいところですが…要は学習とのバランスなのかも知れません)。

http://twitter.com/#!/et_toi/status/121798823868760064
自分が何かを行う時や行わない時の理由と考えるものが、本当に理由となりえるかどうかは考えてみた方がいい。◯◯だから××する(あるいは、しない)というロジックが、自分のなかでしか成り立たないものか、他者にも受け入れてもらえるものか、という意味で。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121799831588048896
特に◯◯だから××しない(あるいは、できない)という場合はそう。こう言ったら、他の人に何を言われるか怖いから自分の考えを口にすることができない、なんてのは、まさにそう。怖いとか不安になる気持ちはわかる。けれど、だからといって、できないにはならない。怖くても勇気を出す人はいる。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121800763658874880
そもそも行動をすることやしないことに理由があるというのを当たり前のことと捉えるのが近現代に特有の思考だと考えたほうがよい。マクルーハンやオングが指摘するように、それは印刷文化以降の思考だ。江戸期の文章をみると、「だから」のような接続詞はない。原因と結果を結ぶ思考がない。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121801608404283392
こうすればこうなるというのは、まさに近代以降の機械的な思考だ。宇宙を生体として捉えた中世までの思考から機械として捉える近代の思考が「だから」という接続詞の使用を可能にする。ボタンを押すと特定の結果が出るし、一つの問題に一つの正解があるような思考。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121802344961818624
いまの僕らもさすがに機械的な一つの正解を求めるまではいかないまでも、何らかのイデア的なものを前提にしてしまう意味では近代以降の魔術に囚われたままだ。原因に対して結果を想定してしまい、行動に理由を想定してしまう。だが、中世まではそうでない世界があったことは理解する必要があるはず。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121803113844834305
魔術に囚われたままの状態を自覚することが、自分の姿を正しい鏡にうつす作業の第一歩だ。

《コメント》・・・自/他を見極めるというのは、実際は困難だと思います^^;

そもそも人間の「自我」が、どこまでのものを適用するのかが分かっておりませんし…(これはどちらかと言うと、心理分析や精神分析や宗教の話になるかも知れない…)

一対一の原因と結果を求めるのが近現代に特有の思考かどうかというのは、人間の思考・感情や行動そのものの曖昧さがあって、容易に結論は出せないと思いました。古代中世においても、一対一の原因と結果を求める思考はあったと思います…

(というか、数学ジャンルでもそれが一番、基本的な思考方法になるのです。個人的には、古代ギリシャで最初に「数学という思考」が生み出された時、この一対一の問答を求める思考が強烈に働いたはずだ…と、考えております…)

ただ、世界を解釈するためのごく総合的な思考スタイルとして、近代に著しく発達したニュートン的思考、科学的思考…法的思考、イデオロギー的思考…というものを例に取るなら、上の指摘は、極めて精確であると思いました(それが、「一般人の間で新たに普及してきた〝近代〟という名の魔術的呪縛」かどうかは別にして)。

http://twitter.com/#!/et_toi/status/121940302855536640
やっぱり単純に多くの人たちが、自分自身が物事を感じる仕組みや、アイデアが思いつく仕組み、他人の言動がムカつくものに感じてしまう仕組みがわかっていないのだろう。それもわからず獣のように流されるまま、まわりに怯えながら生きている。そのあたりの仕組みの謎がとけるから人間なのに。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/122111806851391488
他人の意図を汲める人とそうでない人がいます。どういう違いかというと、結局は他人に対して求められるような心遣いと同じような配慮を、普段から自分自身にも向けているかどうかということでしょう。自分の心の動きについての考察が足りなければ、他者にそれを適用することなんてできないということ。

《コメント》・・・「成る程」という部分が、いっぱいありました。自分の心の動きについての考察…これは、禅で言うディープな「悟り」が必要かも知れません。

この部分のtwitter群は、大雑把なところでは、朱子学の考え方に似ていると思いました^^

Wikipediaによれば、朱子学は〝自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した〟となっています^^

読書:平安の宗教文化・前篇

読書ノート『平安時代の宗教文化と陰陽道』山下克明・著、岩田書院1996

《第三部「星辰信仰と宿曜道」を中心に覚書》

★星辰信仰の系譜-1.インド占星術と仏教★

インド固有の天文・占星術は、紀元前6世紀頃からヴェーダの祭式を補助する学として発達した。黄道を星座によって区分した27宿ないし28宿を中心に各宿の性質や宿と日・人との関係によって占うものだった。

紀元前2-3世紀頃、ギリシャ・バビロニアの占星術が伝わる。それは曜日の概念と個人の誕生時における黄道12宮上の日月・惑星の位置関係により個人の運勢を占うホロスコープ占星術だった。それ以後、インドでも惑星の位置関係などを割り出すため、数理天文学が発達する。

仏教は、このようにして発達したインド占星術の知識を受け入れ、そして次第に、仏教伝来の波に乗って、中国に伝わっていくのである。

以下、代表的な経典

【3-4世紀の訳出】…27宿ないし28宿について、各宿を主宰する神格や所属する氏族、その宿に月が位置する日(=宿直日・しゅくちにち)の行動の善悪、その宿の下に生まれた人物の性格や運勢について述べる。また、日月五惑星(=七曜)にインド発案の架空の日蝕&月蝕を起こすとされた悪神「羅睺(らごう)」、彗星「計都(けいと)」を加えた九曜にも言及する。

  • 『摩登伽経(まとうがきょう)』…呉の竺律炎と支謙による翻訳(『大正蔵』第21巻399頁)
  • 『舎頭諫太子二十八宿経(しゃずかんたいしにじゅうはっしゅくきょう)』…西晋の竺法護による翻訳(『大正蔵』第21巻410頁)

【5世紀初頭の訳出】

  • 『大智度論』…後秦の鳩摩羅什による翻訳
    第八(『大正蔵』第25巻117頁上)に、28宿を4つのグループに分け、月が各宿に存在する日と地震の関係への言及がある
  • 『大方等大集経』…隋の那連提耶舎による翻訳
    宝幢分・日蔵分・月蔵分(『大正蔵』第13巻138頁,270頁,371頁)に28宿・7曜について『摩登伽経』と同様の詳細な説明がある。また12宮の梵名も記す

【盛唐】…密教伝来と共に内容が豊富になる。27宿9執(=9曜)に基づく吉凶善悪+新しい占星術要素が見られる。密教では特に現世利益や不祥災厄を攘(はら)う修法の効験が説かれる。

  • 『金剛峯樓閣一切瑜伽瑜祇經(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』…金剛智による翻訳/下巻第九(『大正蔵』第18巻259頁)
  • 『大毘盧遮那成佛經疏』(『大日經疏』)…善無畏による説、及び一行による記述/第四(『大正蔵』第39巻616頁)

・・・《メモ》・・・

密教で説かれている「不祥」の内容は、不空による翻訳『熾盛光息災陀羅尼経(しじょうこうそくさいだらにきょう)』(『大正蔵』第19巻337頁)によれば、次のようである。

若有国王及諸大臣所居之及諸国界、或被五星陵逼、羅睺彗孛妖星、照臨所属本命宮宿及諸星位、或臨帝座於国於家及分野処、陵逼之時、或退或進作諸障難者、

また、同じく不空による翻訳『葉衣観自在菩薩経(ようえかんじざいぼさつきょう)』(『大正蔵』第19巻447頁)によれば、次のようである。

若国王男女難長難養、或薄命短寿、疾病纒綿寝食不安、皆由宿業因縁生悪宿居、或数被七曜陵逼本宿、令身不安

以上、要するに、日月五星・羅睺・計都(彗孛・すいはい)等の惑星が個人の本命宮・本命宿を侵犯する現象を、国王以下の災厄とする…という認識であった。

本命宮とは、12宮のうち個人の誕生時刻に東の地平線に昇ろうとする宮のこと。西洋占星術で言う「アセンダント(上昇宮)」で、元はバビロニア占星術の重要な要素だった。一方、本命宿とは、誕生時刻に月が所在した27宿のうちの1つで、インド固有の要素である。本命宮と本命宿は、共に個人の一生を支配する星とされ、九曜(九執)の侵犯によって生起する厄難の消除が、密教の一課題とされた。

こうした最新のインド占星術の知識をまとめたのが不空による翻訳『宿曜経』(=『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』=)とされているが、原点が存在せず、実際は部分的な記述に留まっているという。『宿曜経』だけだと、インド占星術の初歩的な概説に留まるため、全貌が分からない状態だという事が、矢野道雄氏の研究によって明らかにされている。惑星の計算法も記述されておらず、ホロスコープ占星術を行なうには内容が不足し過ぎていると言う。

しかし、唐代の高僧・不空の指導的地位・影響力は、当時は非常に大きなものであったと言われており、日ごとの吉凶や行動タブーを割り当てるといった分野では、わが国にも大きな影響をもたらしたであろうという事が推察されている。

★星辰信仰の系譜-2.中国天文家説と道教の星辰信仰★

殷周革命以来、中国では天帝を至上神として尊び、占星術は天帝が起こす天文現象の中に天の意思を読み取る術とされてきた。『史記』天官書によれば戦国期は不安な世相を反映して多くの天文家が現われ、秦では太白(金星)、呉・楚では熒惑(火星)の運行で予兆を占ったという(=諸国ごとの占星術があった)。

漢代の頃、従来の諸国の占星術は、天人相感の思想の下に体系化された。

全天の星座は北極星を中心に北斗七星など周辺の星座を含む中官、28宿を四方に7宿ずつ区分した東西南北官に分けられた。それらを皇帝・太后・太子・官僚・官曹或いは公的施設に対応させ、それぞれの星座に関わる変異を、地上における国家的変事の予兆と見なしたのである。特に前漢末期に緯書(神秘的予言集)が流行した時は、天変に際して緯書の内容を典拠として天文占いが行なわれた。

(変異の例=惑星の星座侵犯現象、彗星の出現と接近、星の増光・減光など)

公的祭祀においては、北極星=北辰が最も重視され、緯書の思想の中で天皇大帝と同一視された。鄭玄の礼学で、儒教の至上神=天帝(昊天上帝)とも習合したが、唐代には分離し、星辰は天帝の下位に位置づけられた。

他に、日・月・参辰(おそらくオリオン座三ツ星)・南北斗・熒惑(けいわく・火星)・太白(金星)・歳星(木星)・塡星(ちんせい・土星)・28宿の祭祀があった。農業神としての霊星の祭祀もあったという。

緯書はその後の弾圧で散逸したが、唐代天文類書『天文要録』『天地瑞祥志』『乙巳占』『開元占経』などに、天変の種類ごとに諸書の予言が分類されており、太史局の天文家はこれを使って前兆を占ったという。この天変を占う占星術が7世紀ごろ日本に伝わり、律令体制下の陰陽寮の天文博士の職務となった。

漢代以降の道教では南斗星・文昌星・老人星など様々な星辰が信仰されたが、最も重要視されたのは北斗七星である。北斗七星は、夕刻に出る柄の方角により季節の変化を知る目印となり、生活と密着した星座でもあった。南北朝時代の北斗七星は、北極星と同様に人の生命を司る「司命神」と見なされていた。

例えば、隋の粛吉撰『五行大義』第16-論7政によれば「黄帝斗図云、一名貪狼、子生人所属、二名巨門、丑亥生人所属、三名禄存、寅戌生人所属、四名文曲、卯酉生人所属、五名廉貞、辰申生人所属、六名武曲、巳未生人所属、七名破軍、午生人所属」となっている。この配当は緯書に由来するものであったらしいが、生まれ年によって決まる属星が人の運勢を支配するという内容は、道教の星辰信仰で主流を占める要素となっていった。

(北斗の祭祀儀式を記述した道教経典…『北斗延生醮説戒儀』『北斗七元星燈儀』『太上玄霊北斗本命延生真経』『太上北斗二十八章経』『北帝七元紫庭延生秘訣』etc)

★星辰信仰の系譜-3.中晩唐期の星辰信仰★

  • インド占星術=27宿・12宮・12位の黄道座標の上に個人の誕生時より本命宮・本命星を定め、9執(9曜)の所在により個人の運命を占う。惑星の位置計算を必要とする
  • 中国占星術=官曹と対応する星座上における変異を以って国家及び為政者の未来を占う。惑星の位置計算を行なう必要性はあまり無い
  • 道教占星術=北極星・北斗七星を主な要素とする。惑星の位置計算を行なわない

密教が隆盛した8世紀末頃から、密教と道教信仰の習合が目立ってくる。中晩唐期のいわゆる唐代後期密教は極めて道教民俗化の様相を示すが、それは特に星辰関係において顕著であり、数々の混合的な星辰祭祀関連の書籍が現われる(=例=『宿曜儀軌』『北斗七星念誦儀軌』『北斗七星護摩秘要儀軌』『仏説北斗七星延命経』『七曜星辰別行法』『北斗七星護摩法』『梵天火羅九曜』etc)。

庚申三尸説と仏教との習合時期=9世紀半ばと推察されており、道教の信仰を特に濃厚に取り込んだ雑密儀軌の成立もあったとされている。

安史の乱以降、社会不安の中で星暦を習う者が増加し、七曜吉凶説と共に九曜を使うホロスコープ占星術も流行した。密教と道教の習合の中で、互いの要素が互いに浸透し合ったのである。

ホロスコープの作成には九曜の位置計算が必要であるが、中国の官暦法にはインドで想像された羅睺・計都の二隠星は載らなかった。ここで利用されたのは『七曜符天暦』(8世紀末頃、術者の曹士蔿=そうしい=が作成)だったと考えられている。唐代から民間で流行し、五代には準公暦的な地位を占めていた。

また、密教の書籍では『七曜攘災決』(9世紀、金倶吒=きんぐた=が撰する)があった。七曜の災厄及び攘災法、十二位と七曜の組み合わせによる吉凶、さらに28宿を座標に毎月一日における九曜の位置を記した表を含み、仏典としては特異な内容になっていた。九曜ホロスコープを前提とし『符天暦』と親密な関係を持っていたが、精密なものでは無く、特定日時の九曜の位置を知ることは出来なかった(この書を以って個人のホロスコープを組むことは困難とされている)。

平安時代以降に日本で隆盛した陰陽道や密教の星辰祭供は、以上の要素を元に形成されたと言われている。

後篇へ続く