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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

2012.8.31暁の夢

建物ごと、複数の時空を放浪する夢でした。

割と夢のストーリーがハッキリしていたので、メモなのです。

夢の中の舞台は、何処かの中堅の賃貸ビルにテナントとして入っている、ひとつのお店でした。「タギー」とか「ダガー」という名前の、サングラス男性が店長を務めているお店です。喫茶店と宝石店を兼ねているような感じの、不思議なお店でした。

とは言え高級店ではなく、訳ありのアンティークを扱っているような…古物商?

何か理由があって入店したものの、何故そこに居たのかは判らず

(きっと、アヤシゲな占いのための宝石を探そうとしていたのかも…)

自分の他にも迷い込んだお客さんは多くて、大体15名くらい。中に、親の判らない赤子が居ました。捨て子という雰囲気は無いものの、途方にくれて、皆で面倒を見るという感じになりました。

夢の中ながら、何故か日にちの区別はつきまして、だいたい1週間を過ごすことに(「食事とか、寝る場所とかはどうしたのか?」というのが疑問でしたが、そこはまあ、夢の中という事で…)。

月曜日。古代人がお店のドアの外でウロウロしていました。おヒゲのボウボウの背の高い、縄文人のような格好をした男性で、黒曜石の槍を持っていたので、思わず物陰に隠れて観察。店主タギーさんと、お店の窓越しに何か話していましたが、やがて雲の中に消えてゆきました。

火曜日。プール業者が来て、お店の前に、あっという間に大型プールを設営。SFが混ざったサーカスみたいでした(「反重力プール」とでも言うのでしょうか、空中浮遊スタイルもありました)。急に暑さを感じたこともあって、他のお客さんと一緒にプールを楽しみました。赤子のお相手もしまして、なかなか楽しい日でした。

水曜日。赤子の母親がお客さんの中に居ることがハッキリしまして、赤子の世話は主に、その若い女性にお任せという形になってきたのであります。店主タギーさんいわく、「彼女は昨日までは居なかったのになあ」という事でした。プールの騒ぎの裏で、赤子を探して、新しく入ってきたのかも知れません。とりあえずホッとしたのであります。

木曜日。お店の中に居たお客さんの一人・セレブっぽい小太りのご婦人が、何かいきなり頭に来た事があったのか、宝石について何か難癖をつけており、店主タギーさんが器用に対応。さすがアヤシゲな業界のプロ、と思わせるところがありました。

小太りのご婦人は濃い紫色のドレスを着ていて、そのドレスには金色のラメが入っていました…

金曜日。再び古代人のおヒゲのボウボウの背の高い男性が、黒曜石の槍を持って現われ、お店のドアの外でウロウロしていました。自分はまたギョッとして、物陰に隠れながら推移を見守っていました。すると、その古代人がお店の中に入ってきました。

店主タギーさんは物慣れた様子で対応。しばらくお話。

やがて、赤子を連れた若い女性が現われ、店主タギーさんに何度もお辞儀をしつつ、古代人と一緒にお店を離れてゆきました。2人は雲の中に消えてゆきました。何とも不思議な光景。

店主タギーさんに事情を聞いてみました。

「あの2人は、ご夫婦でね。何か時空の手違いがあって、奥さんの方は火曜日を取り巻く時空の中に取り残され、ご主人は月曜日の時空の中に取り残され…で、別れ別れになってたのよ。このたび、奥さんが火曜日に、このお店に居た赤子と再会し、そして、今回、金曜日の時空で、親子3人そろって再会したわけだな」

「曜日ごとの時空があるのが常識」というのが何とも不思議でしたが、夢の中なのだから、そういう事もあるのかも

土曜日は、お店の台所のガス管が壊れ、ガス業者がやってきました。業者は、緑のツナギを着た初老の男性でした。しばしお店の中が工事状態になり、閉口したお客さんも散り散りに。

自分は帰り道が分からなかったこともあり、ガス業者がエアコンまで交換してゆくのを、唖然として眺めるばかりだったのであります。

そして日曜日になり、やっと見慣れた光景がお店の窓の外に広がっているのを確認して、帰還の途に。

そこで、目が覚めたのでありました

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twitter覚書:白川静

twitter-白川静botより

歴史は道の支配者の出現とともにはじまる。それは近世の歴史が大航海の時代とともにはじまるのと、よく似た事情を示している。そして今では、あの蒼々たる天空に、不気味な軌道を描く多くの浮遊物によってわれわれの地球はとりかこまれており、その軌道の制御者に全人類の生殺与奪の権が握られている。

【邑】が武装すると【或(くに)】となる。聚落を示す口を戈で戍(まも)る意であり、また地を「域(かぎ)る」ことをいう。のちさらに外郭を加えて【國】となった。

【道】を歩することは、神と接し、神と合体することであった。【道】は歩むべきところであり、通過するところではない。

【道】をすでに在るものと考えるのは、のちの時代の人の感覚にすぎない。人はその保護霊によって守られる一定の生活圏をもつ。その生活圏を外に開くことは、ときには死の危機を招くことをも意味する。道は識られざる霊的な世界、自然をも含むその世界への、人間の挑戦によって開かれるのである。

識られざる神霊の支配する世界に入るためには、最も強力な呪的力能によって、身を守ることが必要であった。そのためには、虜囚の首を携えて行くのである。【道】とは、その俘馘の呪能によって導かれ、うち開かれるところの血路である。すなわち【道】は、その初義において先導を意味する字であった。

【道】が外への接触を求める人間の志向によって開かれるものとすれば、それは他から与えられるものではない。その閉ざされた世界から脱出するために、みずからうち開くべきものである。【道】をすでに在るものと考えるのは、のちの時代の人の感覚にすぎない。

【道】はもと神の通路であった。その【道】が王の支配に帰したとき、神の世界は終わった。王がそのような支配を成就しえた根拠は、神に代わるべき【徳】をもつとされたからである。しかし【徳】は人によって実現されるものである。神の【道】と人の【徳】とは、本来はその次元を異にするものであった。

古い社会はどの地域でも、神の道が失われるとともに、その秩序は仮借するところなく破壊されてゆく。純粋な共同体の固有の生活は、あらたな道の支配者の出現によって崩壊するのである。

道化の古い起源は、おそらく悪霊的なものであったであろう。すなわちデモーニッシュなものに起原して、次第にそのブラックの面を消去したところに道化が生まれる。

【うらなふ】「うら」は草木の小枝や穂など、末梢の部分をいう。また「うれ」ともいう。松村武雄説に、植物のはな・ほ・うらに神意があらわされるとするわが国の古俗があり[神功紀]「幡荻穂に出し吾や」と神が自ら名のるように、うらすすきにも神意が示されたのだという。

【風】は鳥形の神と考えられており、四方の方神のもとにそれぞれその風神がおり、固有の神名があった。それは神の使者として、その風土を支配し、風気を定め、風俗を左右した。目に見えぬこの神は、風雲を起こし、草葉におとずれて神のささやきを伝えるものとされていたのである。

【气】はすべて精気の発するものであるから、その精気を養うものとして穀物・食物を【氣】という。国語の【け】は「夕占(ゆふけ)」のように、もと内なるものが外にあらわれることであり、また【食(け)】のように精気の根源を意味する。【気】と極めて語義の近いものである。

【わざはひ(禍・難・災・祥)】 神意として深く隠されているものが、そのしるしとしてあらわれるものを【わざ】といい、【わざはひ】という。【はひ】は【幸(さき)はひ】【賑はひ】と同じく、その作用として機能することをいう。

【樂】手に持ってうち振る鈴の形。楽に音楽の意と悦楽の意があり、古い時代にシャーマンがこれを振って病を治療した。その快適の状を和楽の意に用いて、金文にも[王孫遺者鐘]「用て嘉賓父兄を楽しません」のようにいう。もとは神を楽しませ、神が楽しむことをいう字であった。

【巫】は鬼神を対象として舞楽を主とし【祝】は祖霊を対象として祈告を主とする。【巫】は自然神を祀り、みずからも神巫として神格化されるが【祝】は祖霊につかえて部族の宗教的権威を代表し、聖職者となるという方向性をもつ。

【巫】と【舞】【儛】とは同音。舞の初形は【無】で、請雨の舞を示す字であった。のち両足の舛の形をそえて、舞・儛となる。わが国の「かむなぎ」も、もと舞容を以て神を和げるものであったことは、「天の磐屋」における神楽舞の故事によって知ることができる。

【尸】祭祀のときの尸主を【尸】という。いわゆる「かたしろ」で、死者に代わって神位に坐するもの。[礼記、郊特性]に「尸は神像なり」とみえ、祖の霊位には【孫】がこれに代わった。[儀礼、郊特牲礼、注]に「尸は祭らるるものの孫なり。祖の尸は則ち主人の宗子なり」という。

祝詞を示す言が廟門におかれていて、暗い闇のときに神意がはたらいて自鳴する。それが【音なひ】であり、神の【訪れ】であった。その神意をはかり解することを【憶測】という。過去の経験を通して、そこから未来を解釈しようとする。ゆえに【憶】には【記憶】と、また【憶測】の意とがある。

言語はわれわれにとって所与的なものである。われわれは生れると同時に、われわれを待ち受けている既存の言語体系の中に包まれてしまう。われわれはその与えられた言語体系の中で生長し、これを通して思惟し、また自らの思想を形成してゆくのである。

音には、一種の音感というものがある。その音感が次第に固定して語型をもち、言葉になって分化してゆく。本来的にある一つの系列音というものがあって、そこからことばが系列的に分化してゆく。漢字の場合、文字がたくさんに分化してゆくのは、一般的な音表記というものがないためです。

文字の体系はすでにその創出の時代に存しており、新しい字が加えられるとしても、それはその既存の体系のなかで、文字構造の原理に従って作られたもので、その体系を超えることはできないのである。

たしかに、はじめにことばがあり、ことばは神であった。しかしことばが神であったのは、人がことばによって神を発見し、神を作り出したからである。ことばが、その数十万年に及ぶ生活を通じて生み出した最も大きな遺産は、神話であった。

神話の体系は、異質的なものとの接触によって豊かなものとなり、その展開が促される。それには摂受による統一もあり、拒否による闘争もあるが、要するに単一の体験のみでは、十分な体系化は困難なようである。そのため孤立的な生活圏は、神話にとってしばしば不毛に終る。

神話の創造にロゴスとパトスの内的統一が必要であるように、伝統の形成にもそれが必要である。中国においては、そのロゴス的な面は、王朝の交替をこえた天下的世界感の中での古聖王の説話、すなわち[書]のような聖典として、またそのパトス的なものは、巫祝者の伝統として、のちの楚辞文学を生む。

ユーカラやオモロが近代にまで生きつづけたような意味で、わが国の神話はその神話的生命を生きつづけたであろうか。神話はその原生の地盤において、なお民俗的なものとして存するとしても、ひとたび神話として体系的に組織されたものは、その体系性ゆえにかえって生命を失ったのではないか。

歌謡は神にはたらきかけ、神に祈ることばに起源している。そのころ、人びとはなお自由に神と交通することができた。そして神との間を媒介するものとして、ことばのもつ呪能が信じられていたのである。ことだまの信仰はそういう時代に生まれた。

詩歌鑑賞:ヘルダーリン「あたかも祝日のごとく」

詩歌鑑賞:ヘルダーリン「あたかも祝日のごとく」

Wie wenn am Feiertage, das Feld zu sehn,
Ein Landmann geht, des Morgens, wenn
Aus heißer Nacht die kühlenden Blitze fielen
Die ganze Zeit und fern noch tönet der Donner,
In sein Gestade wieder tritt der Strom,
Und frisch der Boden grünt
Und von des Himmels erfreuendem Regen
Der Weinstock trauft und glänzend
In stiller Sonne stehn die Bäume des Haines:

So stehn sie unter günstiger Witterung,
Sie, die kein Meister allein, die wunderbar
Allgegenwärtig erzieht in leichtem Umfangen
Die mächtige, die göttlichschöne Natur.
Drum wenn zu schlafen sie scheint zu Zeiten des Jahrs
Am Himmel oder unter den Pflanzen oder den Völkern,
So trauert der Dichter Angesicht auch,
Sie scheinen allein zu sein, doch ahnen sie immer.
Denn ahnend ruhet sie selbst auch.

Jetzt aber tagts! Ich harrt und sah es kommen,
Und was ich sah, das Heilige sei mein Wort.
Denn sie, sie selbst, die älter denn die Zeiten
Und über die Götter des Abends und Orients ist,
Die Natur ist jetzt mit Waffenklang erwacht,
Und hoch vom Aether bis zum Abgrund nieder
Nach festem Gesetze, wie einst, aus heiligem Chaos gezeugt,
Fühlt neu die Begeisterung sich,
Die Allerschaffende, wieder.

Und wie im Aug ein Feuer dem Manne glänzt,
Wenn hohes er entwarf, so ist
Von neuem an den Zeichen, den Taten der Welt jetzt
Ein Feuer angezündet in Seelen der Dichter.
Und was zuvor geschah, doch kaum gefühlt,
Ist offenbar erst jetzt,
Und die uns lächelnd den Acker gebauet,
In Knechtsgestalt, sie sind erkannt,
Die Allebendigen, die Kräfte der Götter.

Erfrägst du sie? im Liede wehet ihr Geist,
Wenn es der Sonne des Tags und warmer Erd
Entwächst, und Wettern, die in der Luft, und andern,
Die vorbereiteter in Tiefen der Zeit,
Und deutungsvoller, und vernehmlicher uns
Hinwandeln zwischen Himmel und Erd und unter den Völkern.
Des gemeinsamen Geistes Gedanken sind,
Still endend, in der Seele des Dichters,

Daß schnellbetroffen sie, nendlichem
Bekannt seit langer Zeit, von Erinnerung
Erbebt, und ihr, von heilgem Strahl entzündet,
Die Frucht in Liebe geboren, der Götter und enschen Werk,
Der Gesang, damit er beiden zeuge, glückt.
So fiel, wie Dichter sagen, da sie sichtbar
Den Gott zu sehen begehrte, sein Blitz auf Semeles Haus
Und die göttlichgetroffne gebar,
Die Frucht des Gewitters, den heiligen Bacchus.

Und daher trinken himmlisches Feuer jetzt
Die Erdensöhne ohne Gefahr.
Doch uns gebührt es, unter Gottes Gewittern,
Ihr Dichter! mit entblößtem Haupte zu stehen,
Des Vaters Strahl, ihn selbst, mit eigner Hand
Zu fassen und dem Volk ins Lied
Gehüllt die himmlische Gabe zu reichen.
Denn sind nur reinen Herzens,
Wie Kinder, wir, sind schuldlos unsere Hände,

Des Vaters Strahl, der reine, versengt es nicht
Und tieferschüttert, die Leiden des Stärkeren
Mitleidend, bleibt in den hochherstürzenden Stürmen
Des Gottes, wenn er nahet, das Herz doch fest.

あたかも、祝日のごとく
野を見んと農夫が歩みゆけば、
熱き夜より地上を冷やす雷電の
一夜中走り落ちて、
なおときおり遠雷の聞こゆる朝(あした)、
溢れた流れは再び川筋をゆき、
大地は緑あざやかに、
葡萄の木は天よりの
よろこばしい雨をしたたらせ、森の木々が
しずかな陽光のうちにかがやき立つように、

そのように、彼らは恵まれた空のもとに立つ、
彼ら、いかなる巨匠もひとりにては育みえぬ彼らを、
不可思議に偏在し、かろやかにおし抱きつつ
養うものは、力ある自然、神々しく美しき自然だ。
それゆえ、季節のおりふし、天上に、草木に
また地の民のあいだに自然が眠っているかに思えるとき、
詩人らの顔もまた悲しみに曇り、
詩人らは孤独に見えはするが、つねに予感している。
自然そのものもまた予感にうちにやすらっているのだから。

だが今や夜明け!じっと待ち続け、わたしは来たるを見た、
その見たもの、聖なるものこそわが言葉たれ!
なぜなら、かのもの、かの、もろもろの代にもまして古く、
東方の神々、西方の神々をはるかに越えるもの、
自然こそが、いま、武具の音高く目覚めたのだ。
エーテルの高みより奈落の底に至るまで、
万古不変の掟により聖なる渾沌のうちから産み出され、
熱烈の霊気はおのれを新たに感じるのだ、
万物を創り出すこのものは、いまふたたび。

高きことを企てるとき
男子の眼に炎が燃えかがやくに似て、
世の業、世の徴(しるし)にふれて今あらたに
詩人らの魂に火が点じられた。
かつて生起しながらもほとんど感じられなかった
そのものが今はじめて明らかにあらわれ、
奴僕の姿にほほえみを浮かべ、われらのために
地を耕していたものらが、それと見極められたのだ、
生々の気にあふれるもの、神々のもろもろの力が。

その何たるかを問うのか?その力の霊気は歌のうちに
吹き通うのだ、真昼の太陽とあたたかな大地から
歌が生まれるとき。また宙空の嵐から、
また別なる嵐から――時の深みのうちに用意され、
さらに意味深く、それと見分け聞き分けられつつ、天地の間、
もろもろの民の間を駆ける嵐から、歌が生まれるとき。
それらに相通じる精神の思惟が
静かなる余韻となって詩人の魂に宿るのだ。

それゆえ、とつぜん襲われる時、早くより無限なるものに
親しんでいた詩人の魂は、追憶にうち震え、
聖なる雷光に燃え立たされ、
魂のうちには愛の果実、神々と人間の業たる歌が、
それらふたつながらを証すべき歌が生まれる。
それに等しく、詩人らの伝えるごとく、まのあたりに
神を見んと熱望したセメレーの家には雷火が落ち、
神にうたれたセメレーは産み出したのだ、
嵐の果実、聖なるバッコスを。

さればこそ、天なる炎をいま
地の子らは危うさも無く飲むのだ。
だがわれらにふさわしきは、神の嵐のもとに、
詩人たちよ!剥き出しの頭もて立つこと、
父の雷光、それそのものを、おのが手もて摑み、
歌のうちにくるみつつ、民に
天上の賜物を差し出すことだ。
なぜなら、子供に似てわれらの心が浄くあれば、
われらの手が無垢でさえあれば、

父の雷光、清らなる雷光は心を灼きこがすことはなく、
ふかき震撼のうちに、かのいや強きものの苦悩を
ともに悩みつつ、近づく神の高きより襲いくだる
嵐のなかに、心はしかし確乎と立ち続けるのだから。

ドイツ名詩選(岩波文庫1993)