忍者ブログ

制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書ノート『正法眼蔵』現成公案

《正法眼蔵/現成公案》・・・《現(うつつ)を成す、あまねき理(ことわり)》

諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

《私的解釈》
大いなるものの中に、迷いと悟りがあり、生と死があり、光と闇がある。大いなるもの無ければ、迷いと悟りは無く、光と闇は無く、生成と消滅は無い。大いなるものは、この世の貧富を超越するところにあるが故に、大いなるものの中で生成消滅があり、迷いと悟りがあり、生ける神があるのだ。しかも、世界はこのようにあるとは言っても、花は惜しまれながら散り、草は嫌われながら生える、ただそれだけの事である。

自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。

《私的解釈》
自我に囚われたまま世界の相を知る事は迷いである。世界の相を学び自我を見極める事は悟りである。迷妄を克服するのは開けた意識である。克服せずに迷い続けるのは閉じられた意識である。さらに悟りの上に悟りを重ねる者があれば、迷いに迷い続ける者もある。世界の相に真に同化した時、自我は、世界の相と自己の相とを区別することはできない。そのようにあっても大いなるものはあるのであり、(我々は)大いなるものを悟ってゆくものなのである。

身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。

《私的解釈》
・・・(中略)・・・。(自我というのは)一方の現象に注目する余りに、もう一方の現象が見えなくなるものだ(木を見て森を見ず、森を見て木を見ず)。

佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の邊際を離却せり。法すでにおのれに正傳するとき、すみやかに本分人なり。

《私的解釈》
・・・(中略)・・・。大いなるものに同化するという事は、この小さき自我に属する主観と客観とが、共に抜き去られてゆくという事だ。大自然は沈黙(寂静)にあり、沈黙(寂静)なる大自然はじわじわと浸透してゆくものなのだ。人が初めて真理を求める時は、真理の周辺から遠く離れてしまっている。真理は既におのれの内にありと悟る時、人は真実の者となる。

人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を亂想して萬法を辨肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏に歸すれば、萬法のわれにあらぬ道理あきらけし。

《私的解釈》
・・・(中略)・・・。舟の進行を知る時と同じように、心身乱れた状態で大自然と臨めば、自我は永遠不変なりと誤る。坐禅(心身不動の状態)で大自然と臨めば、大自然は(そのような永遠不変と見られる)自我では無いという道理は、明らかである。

たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、佛法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる佛轉なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

《私的解釈》
(大意)=大自然は諸行無常である。万物流転である。生の相があり、死の相があり、永遠に変わらないものなど無い。時代は後戻りすることは無い。日々新たに変容してゆくのである。

人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も彌天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罜礙せざること、滴露の天月を罜礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を撿點し、天月の廣狹を辨取すべし。

《私的解釈》
(大意)=大いなる大自然は、小さき自己に反映する。この真理は完全に完璧であり、疑う箇所は無い。悟りの深い事は悟りの高い事と同等である。その悟りのタイミングの良し悪しについては、大いなる現象と小さき現象との兼ね合いをよくよく熟考し、判断するべきである。

身心に法いまだ參飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、萬法またしかあり。塵中格外、おほく樣子を帶せりといへども、參學眼力のおよぶばかりを見取會取するなり。萬法の家風をきかんには、方圓とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。

《私的解釈》
(大意)=悟りの不十分な時、悟りは十分であると早とちりするものである。十分な悟りを得ると、まだまだ悟りの不十分な事が分かってくる(=知れば知るほど、分からない事が出てくるものである)。大自然は無限にあり、多種多様な世界がある事を知るべきである。身の回りの事象は、見たままの浅きものでは無く、直下にも一滴にも、深いものがあると知るべきである。

うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に邊際をつくさずといふ事なく、處處に踏翻せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水爲命しりぬべし、以空爲命しりぬべし。以鳥爲命あり、以魚爲命あり。以命爲鳥なるべし、以命爲魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修證あり、その壽者命者あること、かくのごとし。

《私的解釈》
(大意)=人は、人の世界から離れて生きてゆく事は出来ない。ただ生命の能力として、大小の(雑多な)環境に適応してゆくのみである。さらに(我々、命ある者は、悟りにおいて)進化変容してゆくべきなのである。大いなる道があり、その大自然から授かった寿命は、その道のためにある。

しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり。

《私的解釈》
(大意)=与えられた命の中で道を尽くし、疑念のままに道をはみ出してゆく(目的の為に手段を選ばず、手段の為に目的を忘れる)者は、悟りの境地を得る事は無い。この箇所を得心すれば、ありのままの日常の中に、世界が現成するのである。大小の差を超越し、主観と客観を超越し、過去と未来を超越するところに、「今この瞬間(一期一会)」の現実が生起するのだ。

しかあるがごとく、人もし佛道を修證するに、得一法、通一法なり、遇一行、修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、佛法の究盡と同生し、同參するゆゑにしかあるなり。得處かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。證究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。

《私的解釈》
このように、人が大いなる道を証しようとすれば、一つの法、一つの道、一つの遭遇、一つの理解を歩むことになる。この境地に至る道によくよく通暁すれば、世界の未知の領域においても、同じように大いなる道がある事が察せられるのだ。ここで得たものは己の理解となり、知識としては知らなくても、自然に発揮する(自然に振舞える)ものである。世界がすみやかに現成するとは言っても、その世界は必ずしも目の前に、分かりやすくありありと現われるものでは無い。その本質に透徹する事が必要なのである。

麻浴山寶徹禪師、あふぎをつかふちなみに、きたりてとふ、風性常住無處不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。
師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。
僧いはく、いかならんかこれ無處不周底の道理。
ときに、師、あふぎをつかふのみなり。
僧、禮拜す。

《私的解釈》
禅師が扇を使っているところに、僧が来て問うた。「風の性は、常に此処にあって動かないものです。何故に殊更に扇を使うのでしょう」/師曰く「君は“風性常住”を知っているけど、“所として至らずという事の無き(無處不周)”という道理をまだ知らないね」/僧曰く「無處不周底の道理とは、どういう事でしょう?」/師はただ扇を使っていた(風が融通無碍に此処にある事を示すために、風を起こしていた)。/僧は礼拝した(=得心した)。

佛法の證驗、正傳の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、佛家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を參熟せり。

正法眼藏見成公案第一

これは天福元年中秋のころ、かきて鎭西の俗弟子楊光秀にあたふ。

建長壬子拾勒

PR

読書ノート『賭博の日本史』(3)終

『賭博の日本史』増川宏一(平凡社1989)

・・・中世の賭博・・・

13世紀後半の賭博の隆盛の一端を、春日社をはじめ幾つかの記録から知る事が出来る。

春日社の博奕取締まり事件(文永9年/1272年)以後も、賭博遊戯が止む事は無かった。春日社の記録からは、少なくとも文永9年の博奕取締まり事件以来、十数年間もの間、常に博奕対策が重要な問題になり、政争にまで発展しかねない状況だったことがうかがえる。

【例】弘安元年(1278年)6月5日「当社(春日社)の落書により、上より仰せ下された条々」
「春日社条々制事」=16条からなる禁止令/鹿を殺してはいけない。鹿を襲う犬を見つけたら搦め捨てよ。神人は宝前で高声、雑談、狼藉をしてはならない。…白人ならびに神人は白衣、腰刀、博奕を永く停止する。(※白人は、雑役に従事した白丁の意味か)

文永10年(1273年)11月、『春日社記録』に再び賭博の記述が現われる。
今日、衆徒より慶知、幸忍をもって命ぜられたことは、以下のようである。先日命ぜられた御山の木を拾ったり鳥を獲ることなどが一向に止んでいない。次に神人の博奕のこと、もってのほかの流行である。社家の沙汰において落書で罰するべきである。これがおこなわれないならば、奉行で審議する(11月19日)
これを受けて翌20日に神主重元から代官泰長に触れさせたのは、昨日御詮議になった神人たちの博奕についてという内容で、社家などに通達している。さらに21日に次のような回文案が記されている。
社司、氏人、神人の博奕の主は、各々落書をもって申せしめるべきの旨、衆徒より命ぜられ候。明二二日の御神楽の御神事の時に、懐中にその状を持って御前に出席させるように。恐々謹言/一一月二二日/神主泰道
謹上-正預殿並びに権官氏人御中
追伸-若宮の神主殿も同じく御存知になられるように-謹言

理由は不明だが、指定された22日の落書の回収の時に神主は参加しなかった。26日になってから、衆議にはかるために博奕をした者の名を書いた落書が集められた。

先例に従えば集められた落書は両惣官(本宮、若宮の神主?)が封印するが、この時は常住神殿守の守安、奉行の2人が神主の下知によって封印した。「社司と氏人の落書二巻と神人三方(南郷・北郷・若宮)を一巻」に落書がまとめられた。

(春日社をはさんで三条通りの南を南郷、北を北郷と言った。つまり文永10年の取締りは、文永9年の取締りより広がっていた。神人だけでなく、春日社全域と社司、氏人も対象になった)

審議に若干の日数を要したらしく、12月21日になってから博奕の処罰の結果が『春日社記録』に記された。
今日、成氏(春松北郷)、末延(延命北郷)と氏人の泰氏修理亮の衆勘が終わった。神人二人は解職した。その理由は、先日の社家により命ぜられた博奕の罪科を蒙ったからである。昨二〇日に落書を衆中に披露した結果による。

神人2名と社司の子弟(氏人)1名が賭博で罰せられた。しかしこれで博奕が収束したわけでは無く、中臣祐賢は文永12年(1275年)2月25日の日記で、再び賭博について記している。

>>【博奕取締りの命令】>>
衆徒により中綱聖弥をもって命ぜられたのは、社頭のシトミ遣戸盗人のこと並びに社頭宿所にて四一半を打つ者があることを内々聞いていた。これについて衆中への披露がないのか。速やかに使者をもって四一半を打っている神人の名前を悉く注進せよ。社頭の盗人のことで三方の寄合をするように。
>>【命令への返事】>>
畏れ承りました。社頭のシトミ遣戸の件は去年に寺家から仰せ出されましたので、水屋社は一社同心に落書させました。其後は(盗みが止みましたので)仰せられることもありません。神主宿所において四一半を打つことについて、両惣官より神人の名前を注進させようとしていまして、今夜、戌の刻に衆徒より聖弥をもって重ねて命じられました。社頭で四一半を打っていた神人の春米、是永、末安等を速やかに解職するよう命じました。両惣官等にお命じになった書状をもっての摘発は終了いたしております。四一半を打った者の縁者の家ならびに寄宿所はすべて破却いたしました。これ(=縁者?)を見つけたならば、搦め捕るよう命令しております。

これ以降も賭博は流行し、建治3年(1277年)の記録にも現われる。しかし、この2年間に、諸々の問題をはらんでいた春日社では幾つかの事件が顕在化した。

【春日社の内紛状況…複雑な組織内での反目が存在していた】
●12世紀前半に分離した若宮と本宮との対立
●元来が同族であった南郷・執行正預-本宮中臣氏と北郷・神主家本中臣氏との反目
●南郷神人と北郷神人との対立
●本社の神人と在郷名主に所属する散在神人との差異
●武装した白衣神人と呼ばれる一団は興福寺に所属し、春日社の内紛に干渉

その後、正預側と神主側の対立を反映したのか、建治元年(1275年)に、神人間の紛争から南郷神人が皆逐電する(8月18日)という事態が発生した。8月20日には、対抗して北郷神人が「御成敗に背き逐電」と記されている。

11月11日に神主泰道が温病になり、若宮の中臣祐賢は政敵・泰道への敵意を持って次のように記した。
●始めは腫物と言っていたが、実は温病である。今朝神主の所従の小童が一人温病で死んだ。これも起請文に偽りを書いたためである。神主家中は皆病んでいるという云々…
(※温病/うんびょう=急性熱病の総称で、熱感や炎症性の症状が主に現れる)
●一四日夜新権神主泰家が温病で死んだ。これも偽起請文の故で、尤も恐れ入る。神主泰道も温病で一男の泰長も同様…
●(12月5日)大中臣方偽起請文のこと、神慮顕然…
●(12月13日)大中臣皆悉く起請文を偽った。早く御成敗を蒙るべきの由、これを申す…
このような政争を続けた後の、建治3年(1277年)1月18日、中臣祐賢の再びの記録
摂津守祐親が上洛した。その理由は、正預祐継は去年の冬の頃に次男祐員が四一半を打ったことで祐継が衆勘を蒙り、これについて(祐継が)正預職を辞退すると聞いたからである。(それならば)神宮預の祐貫を転任させるべきか、祐貫の跡の職を祐親が所望したいという。祐貫は(祐親に)先立って上洛したという云々…

祐親は若宮神主・中臣祐賢の弟である。一方、正預祐継は中臣祐賢の政敵であり、その正預祐継の次男・祐員が、賭博に関わったため辞職するのでは?という事で、神宮預の祐貫を正預に着任させて、中臣祐賢の弟である祐親が代わりに神宮預を務めたいと言うのである。春日社の最高幹部の子弟が四一半賭博をしたというスキャンダルを政争の具として、人事ポストの闘争がおこなわれたという可能性がうかがえる。

「上洛云々」とあるのは、春日社が伝統的に藤原氏の代々の氏長者の指示を仰いでおり、春日社の代表が京都まで行って、藤原氏の氏長者と接触する必要があった故だと言う。ただし、この時点では、数ヶ月神事に参列はしていなかったものの、正預祐継はまだ解任されておらず、在京であったらしい。彼は4月1日に、「執行正預祐継」の名前で、和泉国の神人の訴訟の件で各権官に3日以内に上京せよと触れている。


(興味深い記述を抜粋:文献93p-94p)

賽賭博である四一半は、春日社の神人だけが特別に愛好していたのでは無い。

金剛峰寺や高野山領においても賭博取締りがおこなわれていた。文永8年(1271年)6月17日の高野山領の「神野真国猿川三箇庄庄官連署起請文」には、庄内で流行している四一半賭博を禁止し、「博奕は盗犯のはじまりで、武家領でさえ制禁されているのに、まして禅徒の管領は当然」と言っている。この三箇庄は建治元年(1275年)にも四一半の禁止に触れている。

春日社の神人の落書に「悪党」と記されていたのは、当時近畿一帯に台頭した悪党を指しているのか不明であるが、いわゆる「悪党」と呼ばれた者たちのなかには、賭博と深く関わっていた者も少なくなかった。

弘安9年(1286年)に紀伊国荒河庄の悪党弥四郎為時は四一半打と非難され(『高野山文書宝簡集』)、為時自身の起請文――書いただけで全く実行していないが――にも「四一半を打たず、部類眷属にも固くいましめる」(『高野山文書宝簡集』)と記している。

同年の「東大寺三綱等申状案」は、伊賀国黒田庄の悪党大江清直が「憚ることなく博奕を業となし」(『東大寺文書』)と述べ、後の嘉元4年(1306年)の「大和平野殿庄雑掌幸舜重申状案」は、「(悪党の)清重は博奕を業となし、国中に憚るところなく、下司職を博打の賭で勝ち取ったと称し、種々の狼藉を致す」(『東寺百合文書』)と言上している。数十人を率いて庄家に打ち入り預所を追い出し、欲しいままに山木を伐りとる悪党の指導者は、賭博で下司職を奪い取ったという。下司職が賭物になっている興味深い記録である。

賭博は近畿だけでなく、たとえば13世紀後半の筑後国(現・福岡県)鷹尾社の支配権をめぐる紀氏と多米氏の抗争でも、互いに相手を雙六賭博の徒と誹謗しあい、具体的な賭博の事例を述べている。このように、各地で賭博は盛んであった。

読書ノート『賭博の日本史』(2)

『賭博の日本史』増川宏一(平凡社1989)

・・・中世の賭博・・・

【右京の行政長官であった藤原明衡が11世紀半ばに記した『新猿楽記-雲州消息』より】
大君(おほいきみ=長女の意)の夫は、高名の博打(ばくちうち)なり。筒(どう)の父(おや)、傍(あたり)に擢(ぬ)け、賽の目、意(こころ)に任す。語条、詞を尽し、謀計術を究む。五四(ぐし)の尚利目、四三(しそう)の小切目、錐徹(きりどほし)、一六の難(だ)の呉流(くれながし)、叩子(おおいこ)、平賽(ひやうさい)、鉄賽(かなさい)、要筒、金頭(かながしら)、定筒(じようどう)、入破(いれわり)、康居(たらすえ)、樋垂(えいひれ)、品態(ほうわざ)、賽論(さいろん)、猶、宴丸(えんくわん)、道弘(みちひろ)に勝れり。即ち四三、一六の豊藤太(ぶとうだ)、五四(ぐし)、衝四(しうし)の竹藤掾(ちくとうじよう)の子孫なり。字は尾藤太(びとうだ)、名は伝治(すけはる)、目細く鼻扁(ひら)にして、宛も物の核(さね)の如し。一心(しん)、二物(もつ)、三手(しゆ)、四勢(せい)、五力(りき)、六論(ろん)、七盗(とう)、八害(がい)、欠けたる所なきか。
【意味】
伝治という名の長女の夫は、目が細く鼻が扁平で容貌の良くない男であるが、雙六賭博の名人である。それで、賽の目の四と三、一と六を自在に出すことの出来る豊藤太や五と四、四と四の目を望むままに出す竹藤掾という有名な博奕打の子孫と称して、字を尾藤太という。尾藤太も五と四、四と三、一と六などの目を自在にあやつり、宴丸や道弘のような博奕の上手より勝れているという。(一)心をゆったりと持ち、(二)賭物は十分に用意しておき、(三)技術的な修練を積み、(四)勢いのある打ち方をして、(五)力づくでも勝ち通そうとし、(六)言葉でも相手を言いくるめ、(七)相手の賭物を盗み取り、(八)相手を殺してでも賭物を奪い取る。勝つためには、これで不足は無いであろうか。
『梁塵秘抄』
●博打の好むもの、平賽子(ひょうさい)鉄賽子(かなさい)四三賽子(しそうさい)、それをば誰にうち得たる、文三刑三月々清次とか[17]
●我が子は二十歳(はたち)になりぬらん、博打してこそ歩くなれ、国々の博党に、さすがに子なれば憎かなし、負かしたまうな、王子の住吉、西の宮[365]
●媼(おうな)の子供のありさまは、冠者は博打の打ち負けや、勝つ世なし、禅師は早(まだき)に夜行(やかう)好(この)めり、姫が心のしどけなければ、いとわびし[366]
●拘尸那(くしな)城の後(うしろ)より、十の菩薩ぞ出でたまふ、博打の願ひを満てんとて、一六三とぞ現(げん)じたる[367]
●法師博打の様(やう)かるは、地蔵よ迦旃(かせん)二郎寺主(てらし)とか、尾張や伊勢のみみづ新発意(しもち)、無下に悪(わろ)きは雞足(けいそく)房[437]
【鎌倉幕府・寛喜3年(1231年)6月6日「関東御教書侍所沙汰篇」】
田地所領をもって雙六の賭となすこと/右、博戯の科は禁制これ重く、しかも近年、ただ制符に背くに非ず、あまつさえ田地をもって賭となす由があるときく、自今以後、停止たるべし。もしなおも違反せしめる者は、はやく重科に処すべし。その賭を没収せしむべし。

賭物にした田地所領は没収すると命じている。このように下知しなければならないほど雙六賭博が蔓延していて、かつ田地所領の賭物が頻繁だったのだろうと推察される。御家人の土地喪失は政権の不安定を招くので、支配者層にとっては、放置することの出来ない重要な問題と認識されていた。土地が賭物になることは、貧富の差を拡げる要因というだけでなく、鎌倉政権をゆるがす政治問題に直結するものだった。

実際には、中世における土地問題ははなはだ不明な部分が残っており、土地を賭物とした場合の法的処分は、地方によってまちまちだったことが指摘されている。しかし、賭博による質入れとして田地が取引されていたことは厳然たる事実であり、当事者双方が所有権を主張する財産として認識していたことは明らかである。

★公家の賭博・・・高度な教養が必須の賭博。『看聞御記』『権記』『花園天皇宸記』他
●連歌・連句●碁●賭弓(のりゆみ)●香合(十種香)●貝覆●回茶(闘茶)●闘酒
●闘鶏●競馬(くらべうま)●蹴鞠
●目勝(めまさり)=賽を振って出た目の多い方を勝とする
●初音=郭公の初鳴きをどちらが早く聞けるか勝負
●根合(ねあわせ)=根の部分を繋ぎ合わせた長さを競う。菖蒲の根を使ったらしい?金や銀で偽の根を作って競争した?
●文字書(もじがき)=別称「文字合(もじあわせ)」=偏や旁から文字を創ってゆく賭博
●掩韻(おおいいん)=別称「韻掩(いんおおい)/韻塞(いんふさぎ)」=詩句の韻をふむ部分を伏せ、伏字を当てる賭博…etc
>>「二条河原落書」(建武元年・1334年)…連歌賭博を揶揄>>
京鎌倉をこきまぜて一座そろわぬえせ連歌、在在所所の歌連歌、占者にならぬ人はなき

★下層民の賭博・・・神人が多かったらしい。例:春日社

春日社は8世紀後半に建てられた古い神社で、後に本宮と若宮に分かれた。神事や儀式に関わる社司・氏人と、社務や雑用に従事した多数の神人がいた。本宮の神官中臣氏は代々の神官が記録(『春日社記録』)を残している。この記録には神事だけでなく様々な記録があり、大便や小便で社頭を穢す者がいた事や、最高位の執行正預職にあった遠忠が死人を喰べて解職された(建久9年/1198年)…等の内容がある。

春日社には雑役や警固の仕事に就いていた神人たちが数多く居て、「平郡の良順房の許に神人百人を差下す事」(文永9年5月8日/1272年)の例のように、想像上に多数の人間が勤務していた。神人たちは低い地位や苛酷な労役への鬱憤のゆえか、粗暴な振る舞いが多く、しばしば乱酔し喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかった。賭博に耽って処罰されているのも神人たちである。

>>文永9年・神主中臣祐賢宛ての手紙>>
近頃、神人たちの間で博奕があると聞いています。(勝った者は負けた者の)住宅に打入り、子に淋しい思いをさせ、あるいは負けて衣装を奪われ、出仕する事が出来ない者もあるといいます。四一半を打つ者は、氏により重科に処せられ、神の怒りに触れるでありましょうか。博奕が露見した者は全て罪科を蒙り、法皇御中陰以後は、博奕の党を捜し出して御沙汰の由あるべきと存じます。恐々謹言/三月九日/謹上-若宮神主殿
>>祐賢(=中臣氏は若宮神主を兼任する場合もあった=)の回答(請文案)>>
近日、神人の中では四一半を打つ者があり、露見した場合は罪科に処すようにとの御書状謹んで承りました。速やかにこの旨を徹底したいと存じます。ただし、若宮の神人たちが四一半を打っている事は、まだ聞き及んでおりません。よくよく尋ね明かして、もしそのような事実があれば沙汰に及びます。この旨を披露いたします。恐々謹言/若宮神主-祐賢-請文
>>回文>>
今日、衆徒より、去る一日、社頭で山賊等と氏人や神人等の間で博奕があったと聞くが、両条は罰文をのせ、落書をするようにと御命令になった。来る九日に件の状などを集められるという事である。恐々謹言/四月四日/謹上-正預殿並びに権官氏人御中/追伸-若宮の神主殿はご存知になっているのだろうか。若宮の神人へ(本文にあるとおりの)沙汰を下知して下さい。

この回文は、正預・権官・氏人(=社司の子弟)宛てとなっており、全ての社司、社家をあげて一大賭博取締り運動を実施する事になったのだろうと推測される。それほど春日社全体に賭博が蔓延していたらしい。

ここにある「落書」は、無記名投票か匿名投書のようなもので、これによって犯人を摘発する手筈となった。バックで何者が動いたのかは判明しないが、この賭博事件に関しては、非常に迅速で組織だった法的処置がおこなわれようとしていた。

>>同月13日、御八講座から「神人の間で四一半を打っているのは顕然とした事実」と断定、速やかに社司評定をして犯人摘発の落書をおこなうよう要請。

>>同月14日、寺家から「社司、氏人、神人が先に罰文を載せた置文を提出し、その後に落書を差出させて、15日の般若会の場で落書の内容を発表する」と提案。

>>4月30日、回文案と置文の写しが記録された>>
神人が博奕をしているので置文を提出させます。詳細でなく、各々便宜に従って書名と判を押すようにすべきかと存じます。恐々謹言/四月三十日-神主泰道/謹上-正預殿並びに殿原御中/追伸-若宮の神主殿にも同様にお知らせ下さるように。謹言
>>定置>>
神人などの間で四一半を打つ者は落書に任せてその結果で罪科を加えること。右は御八講の満座をもって御評定された趣である。寺家より社家に触れられたものである。近頃、神人等のなかで博奕が盛んになっていると聞く。それゆえ、落書をもってその名前を注進させ、罪科を加えるものである。但し、このようにして名前があらわれた者が、朝夕の勤めを励んでいるからと言い、或いは有力な縁故をたよって博奕をしたことを潤色して罪を逃れようとするならば、後代まで断絶されるであろう。かねて定められた罪科に限り、多数の落書に名前を書かれた者は、一番多い者から六番まで罪科に処す。それは住宅を破却し神人職を解任することである。このように定めた上は、社司等はえこひいきしてはならない。もし判形をしながらこの状の主旨に背く社司等があれば、嬌□の沙汰がある。尊神の御罰は不空の者に定まる。よって寺家の御定に任せ、定置するところ件の如し。/文永九年四月□日…(以下、代表者の連名連判が続く)
>>5月5日、御節供の儀式の後で集会があり、集められた神人たちの落書が発表された>>
春熊四通、春松五通、石王五通、北郷の虎王四通、南郷の虎王四通、延命二通、春日一通、亀寿一通、延命一通(南郷または北郷か)、高薬師一通
>>祐賢の日記より>>
すでに五人は罪科の執行を終えた。置文にあるように六人を処罰するところであったが、延命は寺家に申し開きしたので、罪科は免除になった。解職された者は寺家から御沙汰があって、公人により住宅を破却された。若宮の神人のうち、今度の落書に名前を書かれた者は一人もいなかった。神妙である。

少なくとも11名の賭博常習犯が摘発され、この時の賭博取締りの一件は落着した。摘発されたのがわずか11名であるという状況は、実態を反映していない。実際には、もっと広範囲の人々が賭博遊戯に関わっていた。

落書で罪科を蒙るため、神人たちは互いに庇いあい、隠しあったと推察されている(=下層に位置する者ほど処罰が厳しくなった。上層部の者も賭博に関わっていたが、上層部は罪科を免れ、下層部の神人たちは上層部の罪科のしわ寄せを受ける立場に居たのである)。

また、「若宮神主にも伝えよ」という繰り返し伝達があるのは異様なことで、何らかの政治的意図が隠されていたと見ることもできる。上記の博奕事件が権力争いの道具として利用されていたという可能性を考えると、若宮神主であった祐賢が「若宮の神人で名指しされた者は一人もいなかった」と記録したのも、そういう状況の中では、深遠な含みがあったと言わざるを得ない。


【中世のサイコロ賭博】
「七半」・・・2コのサイコロの目が合計7の時、賭金の半分をやり取りできる
「四一半」・・・2コのサイコロで1と4の目が出た時、賭金の半分をやり取りできる