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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

霊と魂に関する論考実験

魂とは「自我の座」である。魂は体の五感、外界、思念、意思、欲望、感情その他の影響をもろに受け、「身体の悩み」とも様々なパターンでリンクする。ネットの海に浮かぶ「あらゆる情報」を処理し、評価し、意志決定し、実際の行動に移すのも、魂の機能である。その結果に、希望、絶望、様々な感情で応じるのも魂の機能である


神道系の言葉では「荒魂」「奇魂」「和魂」「幸魂」などと呼び表すやり方もあるが、とどのつまり、魂の有様は、「人間の心」や「個性」を成すものである


人は、もし鏡というものがなければ、自分の顔や背中を永遠に見ることはできない。魂にも同じことが言える。だから人は、他者の眼を通して、自己を――或いは、己の魂の姿を――認識しようとする


よく「自分探し」ということが言われるが、それは全て、己の眼で己の魂の姿を見極めようという、無謀なまでの企てなのである。「主観」と「客観」の永遠の往復が、「自我」、すなわち、その時空における刻々の魂の状況を形成するのだ。道元が「身心脱落」を重視した理由はここにある。主観も客観も、その時空における、極めて恣意的な選択による、独断と偏見に満ちたものだからだ


魂の相を見極めることは、平易に見えて実に難しい。ひとつの人生をかけるに値する学びである


こうして人間の魂は、生前のあらゆる事象を、個々の応答を通じて学習し記憶し反省し、修行を積み重ねてゆき、「死後の生(=生まれ変わりの後の人生)」にまで前世の課題を持ち越してゆくのである


魂にとっては、「普通」「中庸」という性質・立ち位置を極めるのは、もっとも難しい学びのひとつだ。人間というのは、「個々の魂の特殊性」を出す方が、ずっと簡単なのだ。極右・極左といった、著しく均衡を欠く盲目の思想、ないしシングルイシューが、最も簡単で単純な政治思想・態度である事からも、明らかである


修行を極め、成熟を極めた魂、汎世界の叡智を結ぶ強靭な心のみが、賢人の目指した「普通」「中庸」の境地に到達し得るのである。それは、世界をありのままに、深々と映し出す「明鏡止水」の心でもある


霊とは「神の座」である。「大いなるもの」「神」「地球霊(ガイア)」、世の中にその呼称は様々にあるが、その分け御霊が宿る(或いは、憑依する)座である


もっぱら依り代や御杖代が「神を降ろす」「神が憑依する」という場合は、この霊の憑依機能が関与するのである。依り代の霊と、降ろされる霊との相性が良くなければ、依り代の魂(思考、意識)に混乱を引き起こし、ひいては身体にダメージを与えることになる。霊界の扱いには極めて慎重さが求められるのである。専門の師よりその筋の知恵を学び、修行を積まなければならない


樹木には樹木の霊が宿り、石には石の霊が宿る。それぞれの神社には、それぞれの場に応じた神の霊が宿る。同じように、地球には地球そのものの霊(=ないし地球に存在する全ての霊の集合霊)が宿るであろう。霊は無限に世界の階層を構成し、宇宙の彼方にまでリンクしてゆく


妖怪や精霊は、こうした霊の濃縮した「おぼろな場」が、「この世の実物の機能」に劣らぬ高い機能(目立つ特異性)を示す場合に、この世の事象として感知される。呪術師が使うのはこうした「強い霊場」の力、すなわち「霊威」ないし「霊力」である(=ちなみに、地縛霊、幽霊、未熟霊といったような用法で使う「霊」は、きちんと意味を整理すれば「魂」の方である)


霊と魂とは、「集合無意識」という方法でリンクする。このリンク状態には無限に近い多様なパターンがあるが、我々の意識するところでは、これを一般に「精神状態/意識状態」と呼ぶのである


動物や植物の世界では、基本的には霊の方が支配的立場に立つが(これを「本能」と言う)、人間の世界では魂が霊を使役する場合が多い。これは「人間の魂(意志)」に与えられた特殊事情による


人間の魂(意志)に霊を使役する力(=欲望や執念、煩悩など)があるからこそ、生前において、思いのままに霊的に間違った行為&筋の通らない行為をしうるのであるし、死後も生前に納得せず成仏しなかった魂が「幽霊」、「未熟霊」などとして放浪することもありうるのである。こうした幽霊や未成仏霊が通行人に憑依するということは、そこには、やはり霊の憑依機能があるという事である


更に、人間の思い(魂)が、対象となった「茫洋とした霊場」を濃縮・変容・進化させる場合がある。崇められ続けた「石の霊」が「神の霊」に昇華したり、「ただの犬」が呪術工作によって強力な「犬神(=大抵は祟り神だが)」となったりするパターンである。御守袋に籠った「何か」が、実際に強力な守護の機能を示すという現象などは、その代表格と言えよう


「形を持たないもの」もまた、神ないし、それに近い存在となることがある。ただの「言葉」が、人間の魂の力(思い)が籠もった事によって強い霊威を与えられた場合、それを「言霊」と言うのである

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2012.6.2ホームページ更新

◆制作中の物語・第一部-ヤツマタ/第七章-斎ノ宮のページ分割が終わりました。

★こちらのアドレスから正式公開版に飛べます(ホームページ版)
物語の本流
http://mimoronoteikoku.tudura.com/astrolabe/content.html

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《宮沢賢治・著「銀河鉄道の夜」を全編再読》

改めて、「答えの無い問い」「解けない謎」が、「宇宙幻想」という形で、これほど美しく表現された物語があっただろうかと、シミジミと感動

最近の研究によれば、「銀河鉄道の夜」には最終的な定稿が無いそうです。物語の流れを変えた複数のバージョンがあり、作品そのものとしては「異形」。この異形の物語を最終的に完成させるのは、読み手の詩的感性に任された状態なのだそうです

以下の引用は、宮澤賢治の最後の文章(書簡)。様々に考えさせられます

あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来さうもありませんが、それに代ることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります。しかも心持ばかり焦ってつまづいてばかりゐるやうな訳です。
私のかういふやうな惨めな失敗はただもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふうものの一支流に誤って身を加へたことに原因します。
僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが、何か自分のからだについたものででもあるかと思ひ、
自分の仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからか自分を所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して、却って完全な生活をば味ふこともせず、幾年かが空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、ただもう人を怒り世間を憤り、従って師友を失ひ憂鬱病を得るといったやうな順序です。

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《2012年6月の印象深い時事》

▼帰還した6月13日を「はやぶさの日」に認定(読売新聞2012.6.13)

小惑星探査機「はやぶさ」が地球に帰還した6月13日が、「はやぶさの日」として日本記念日協会に認定された。宇宙航空研究開発機構の施設がある神奈川県相模原市など全国6市町が、偉業をたたえようと申請していた。宇宙機構・相模原キャンパス(相模原市)で13日、登録証の授与式が行われ、加山俊夫・同市長が「次の小惑星探査プロジェクトも全力で応援したい」とあいさつ。元はやぶさプロジェクトマネジャーの川口淳一郎・同機構教授は「記念日を制定していただき、大変ありがたい」と感謝していた

(コメント)ちょっと大袈裟すぎるかなと思いましたが、良い話かも知れません

占いについて考える

《知人・某氏と、お喋り》

某氏:現代科学の究極のテーマってさ、ものすごくサックリと言うと「宇宙の起源」、「意識の起源」、「生命の起源」なんだってさ

自分:ほほぅ~(左から右へ聞き流す)

某氏:ニュートンから始まる近現代科学は、「現象」を「要素」に分解し、その個々の「要素」から全体を再構成する事によって理解する…という発想のもとに、世界の謎を解き明かして来た訳だ

自分:ふむふむ(ちょっとピコーンと来る)

某氏:さて、現代科学には、20世紀から新しい潮流が生まれて来ていて、現在は2つの流れがある訳だが…

自分:ちょっと待て!メモるから!

某氏:1つはニュートンから始まる近代科学的な手法ね。これ、ニュートン方程式とかに代表される、決定論的な記述法だな。もう1つはギャンブル、つまり確率論から始まった流れだ。現代科学は、この「必然性で世界を読む」と「偶然性で世界を読む」…と、2つの潮流がある

自分:決定論と確率論ね

某氏:量子論はこの2つが両方とも入ってる。だから、決定論的な世界観、つまりニュートン的な常識の中では分かりにくい訳よ。もっとも、微積分が入ってるから、見かけ上は決定論的な数字(観測上の数字)が出てるように見える訳だ

自分:ふーん

某氏:まあ、複素空間なんぞ考えてる点で、すでに半分「あの世」に突っ込んでる状態だけどね

自分:だから観測上の現実の数字が、ちゃんと計算できるんだろうけど(虚数=イマジナリー・ナンバーは偉大だ)

某氏:決定論と確率論に戻るけど。確率論が、面白いんだよな。このジャンルは、複雑系の科学の成立に大いに関与した

自分:複雑系…社会システムとか?そういえば、金融工学なんか、そんな感じだね?

某氏:うん、それもあるけど、生命科学とか地球科学なんかが「複雑系の科学」でね。決定論的な手法が通用しない世界なんだな

自分:占いなんかもそんな感じだね。統計だっていう人も居るし

某氏:いやー、占いは、確率論とか量子論とかよりは、少し話が複雑になるんだ。理論負荷性とか色々あって、解釈の偏りがハッキリ現れる訳だろ。ギャンブルの類を扱う通常の統計学では、「占い」という現象に太刀打ちできないのは、ハナから明らかだ

自分:……ふむ?!

某氏:つまりね、「占い」という行為のほとんどは、山勘というか、インスピレーションと言うか…「想像力の爆発」にあるんじゃないの。「一期一会の偶然性に全てを懸ける」という点で、それはすでに統計じゃないのよ。「繰り返し実験し、結果を再現する」という近代科学的な実証プロセスを拒否する「現象」ってことよ

自分:そういうもんなの?

某氏:占いを要素別に粉みじんにしたところで、占いのダイナミクス…というか、占い的な思考システム、判断プロセスの仕組みが解ける訳じゃなかろう。たった1枚のカード、たった1本の棒、たった1コのシンボル(記号)、そんなもの幾ら分析したところで、決定的な何かが出て来るわけじゃ無いし

自分:まあ、それはそうかもね

某氏:考えてみろ。全くの偶然に出て来た、例えば1枚のカード。「何故、そのカードが出て来たのか」、過去・現在・未来にわたって、因果律はまるで無いんだ

自分:そういえば、ニュートン力学とかは、過去・現在・未来にわたる運動方程式が組み立てられるから、その時点の物体の位置と速度を測定するだけで、全体像がパパッと計算できるよね

某氏:それが決定論的、て事だよ。現在の状況が確定すれば、全過去も全未来もいっぺんに確定する。因果律のゆえだ

自分:で、占いに使われるカードには、そういう因果律は、まるで無い、と。そこに、人間の想像力が加わる事で、有意な偏りが生まれる…ふむふむ

某氏:占いは、単純な決定論・確率論に基づくところの、近現代科学の手に負えるような対象では無いよ。むしろ、生命科学や地球科学と同じように、「複雑系の科学」の対象として考えるべきなんだ

自分:複雑系の科学…

某氏:代表的なのは、カオスだな

自分:カオスとか、フラクタルって事ね

某氏:これね、「無限」に足を突っ込んでる問題なんだと思うよ。私見だけどさ、占いって、基本的に「有限」から「無限」を組み立てるプロセスだろう? 有限個の手掛かりを元にして、無限の世界を想起…想像している。或いは、創造している。そのプロセスは、数学的にはカオス方程式で表現されることになるんだよ

自分:カオス方程式…むむむ

某氏:占いが存在する時空は、カオスである…それでさ、いったん想起した「無限」の選択肢をいっぺんにかきまぜた後、1つの解…というか、場合によっては、かなり正解に近い占い結果を引きずり出してくるわけだろ? 無意識の力でも意識の力でもどっちでも良いけどさ、それなりに「深淵の怪物」に近い物を感じるよ。ニーチェ的な意味のね


カオスに関する補足――カントール「無限は底なしの深淵だ」

「無限」を数学的に議論するプロセスの中で、カオスの性質は明らかにされてきました(数学の中では、「集合論」と呼ばれるジャンルとなります)。

カオスの方程式は、「真のカオス解は存在するが、それを計算する事は永遠に不可能」という「不可能問題」を内包しています(ゲーデルの不完全性定理と同じ構造)。

近接した時空間における解は「近似的な数値解」という形で導き出せるのですが、時間幅を長くとって何回も計算し続けると、最初はミクロレベルの誤差の範囲内に収まっていた筈のズレ(揺らぎ)が、無視できない程に大きくなってしまうのです。

以下、楽しくて分かりやすい動画(※ツイッター動画・注意)

▼二重振り子を50本,一斉に揺らした場合…未来では、50本すべての振り子が、それぞれ全く異なる軌道を描くhttps://twitter.com/lotz84_/status/866661941279834112

▼三重振り子を100本,一斉に揺らした場合…未来では、100本すべての振り子が、それぞれ全く異なる軌道を描くhttps://twitter.com/tkmtSo/status/867737885734129664

▼ローレンツ方程式(カオス方程式の一種)に従って、1000個の点を一斉に運動させた場合…1000個の点が、それぞれ、未来においては別々の場所に到達しているhttps://twitter.com/jmitani/status/868103931422883840

※何となくボヤッとした全体分布図が出来ていますが、これを「アトラクター」と言います。ローレンツ方程式が描き出すアトラクターを「ローレンツ・アトラクター」とも言います。勿論、アトラクターには色々な種類があります⇒レスラー・アトラクター、ウエダ・アトラクター、ラングフォード・アトラクター等。カオスにおける個々の解は、だいたい、アトラクター近傍に引き寄せられるようにして分布する…という性質を持っています。

※カオス解の群であるアトラクターは、フラクタル構造をしています。時空間の様々なスケール(階層)の中で、パラレルに存在しているという事でもあります。


某氏による私見の補足(メモより編集)

近代物理学が描き出す決定論的な方程式からは、未来永劫にわたって決まる絶対的な解が出て来るだけです。

ところが、現実には、原因が決定論的であっても、結果は決定論的ではないという場合がありうるのです。それがカオスです。決定論的な方程式が決まっていても、未来には、そこから、全く予想の付かない、モンスターのようなものが出現する事がある。

――カオスでは「真の解」は存在するけれど、それを機械的なロジック計算によって確定的に導き出す事は、不可能です。

しかも、現在の位置とエネルギーを割り出して計算してみたところで、過去の状況を正確に再現できる訳ではありません。そこには不確定性の"揺らぎ"があります。カオスにおいては、時間の前後にわたる因果律は、ハッキリした物では無い。

自然とは何でしょうか。自然は完全に決定論的ではなく、確率論的でもありません。必然性と偶然性とが入り交ざり、無限の深みにまで至る程の、揺らぎとランダムさを現出しています。

現実の人間の運命もまた、自然と同様に、完全に確定性/不確定性と言える訳では無いでしょう。生まれた国、時代、社会環境、身体的限界(性別)、などといった拘束条件があり、場面や状況が似ていれば、大体の人は似たような選択や行動をとると予想できます(社会心理、集団心理etc)。

この辺りに、「占い戦略」があるのかも知れません。有限個のシンボル数に集約しパターン化した「取っ掛かり(=易、占星術など各種の占いスタイル)」を以って、「無限」という"底知れない深淵"と格闘する。

そして、無限の選択肢の中から(究極的には、完全に対立する「Aか、Bか」という二つの選択肢の中から)、或る種の偏りをもって(験を担ぐなどして)一つの解を選び出す。

このような判断は、占いでは恐らく普通の事であって、極めて生命的・意識的な行為です。機械には、こういう判断は絶対に出来ません。論理矛盾に陥って、フリーズしてしまいます。

※例:此処にネズミが居るとします。少し離れた位置Aにチーズがあります。反対方向に、等距離の位置Bにチーズがあります。ネズミはA:チーズ、B:チーズ、どちらを選ぶべきでしょうか――というような問題☆彡
⇒お腹を空かせたネズミは、しばらく考えた後、AかB、どちらかをパッと選択します。機械は判断できず、デッドロック状態になります(笑)


例に挙げた「ネズミの判断タイム」、「占いタイム(手掛かりを得てから、結果を出すまでのタイムラグ)」は、同じ性質のものなんじゃないかという意見があります(正しいかどうかは、分かりませんが)。

この「空白タイム」は、人工知能の研究分野においても、非常に興味深いものだそうです。こういう、どっちつかずの、いわば「判断が宙づりになる時間帯」というのは、機械にはありません。生命(意識)のみが持つ、特別な時間だと考えられます。

実際、「予測」「想像(サイコロを振る)」「直感」「創造」といったメカニズムが、どうやって発生するのかは、今でも解明されていない謎です。「量子振動やカオスといったものが関わっているのは、ほぼ確からしい」という言及があるだけです。

生命(意識)が持つ、特別な時間――カオスが躍動する、と言う意味では、カイロス的な時空でもあるかも知れません。詩的には「神話的時間」と呼ばれて来た、いわば「狂気の時間」であろうと思われます。

思考を整理し編集するためのツールとして使われて来た、各種タロットカードや占星術記号…その組み合わせや解釈のワザには、興味深いものがあります。

本来の占いとは――占いが発祥した古代においては――プレ数学&科学と並んで、"無限"の深みに挑むための思考スタイルだったのでは無かったか、とも思われます。恐らく、権力と結び付いたために、変質は早かったのでしょう。