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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

人工知能が自動彩色をする-2

人工知能による自動彩色その2

その1は、ほとんど鉛筆タイプ線画、スケッチ風というか、モワモワした雰囲気の場合。線画がペン入れされていて、昔ながらのコミック絵のようにクッキリしたパターンの場合は、どうなるのか、知りたかったのでトライ。

使用させて頂いた自動着色サービス

https://paintschainer.preferred.tech/index_ja.html

▽使用した線画、ビスクドール系をイメージ、縦ロール巻ガール。▽

▽全自動彩色、「かんな」タイプ▽

▽全自動彩色、「さつき」タイプ▽

▽全自動彩色、「たんぽぽ」タイプ▽

何だか、モワモワ風の線画パターンとは逆になったような気がします。クッキリ&パッキリ風の線画は「かんな」タイプが強く、スケッチ風やモワモワ風の線画は「たんぽぽ」タイプが強いらしいと分かりました。興味深い傾向だなと思いました。

クッキリ&パッキリ風の線画で、「さつき」タイプが選んだ全自動カラーが予想外にカラフルで綺麗でした(モワモワ風の線画の方は、ヒント色なし、全自動だと、ちょっと「うーん?」な結果だった)。

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詩歌鑑賞:ハウスマン「ウェンロックの丘にて」

On Wenlock Edge

On Wenlock Edge the wood's in trouble;
His forest fleece the Wrekin heaves;
The gale, it plies the saplings double;
And thick on Seven snow the leaves.

'Twould blow like this through holt and hanger
When Uricon the city stood:
'Tis the old wind in the old anger,
But then it threshed another wood.

Then, 'twas before my time, the Roman
At yonder heaving hill would stare:
The blood that warmed an English yeoman,
The thoughts that hurt him, they were there.

There, like the wind through woods in riot,
Through him the gale of life blew high;
The tree of man was never quiet:
Then 'twas the Roman, now 'tis I.

The gale, it plies the saplings double,
It blows so hard, 'twillsoon be gone.
Today the Roman and his trouble
Are ashes under Uricon.

ウェンロックの丘にて/A.E.ハウスマン・作/武子和幸・訳

ウェンロックの丘に森がざわめく。
リーキン山には森が羊の毛のように波打つ。
疾風は若い木を二つに折り曲げ、
木の葉はセヴァーン川に厚く散る 雪のように。

風は雑木林や山腹の森をこのように吹き抜けていったものだ
ユリコーンの町があった頃も。
むかしながらに吹きすさぶむかしながらの風だが、
それが吹きつけていたのは別の森。

そのころ、私の時代よりもむかしのことだが、ローマ人が
そこに波立つ丘を見つめていた。
ひとりのイギリス人の農夫に生命を伝えた血、
彼のこころを傷つけた想い、それらがそこにあった。

森を吹き抜けて荒れ狂う風のように、
生命の疾風が激しく彼を吹き抜けていった。
人間の樹は静まることなく、
当時はローマ人、いまは私。

疾風は若い木を二つに折り曲げ、
強く吹き、やがて静まる
ローマ人とその苦悩は いまでは
灰、ユリコーンの町の下で。

エネルギーと戦争(WW1&WW2)に関する覚書

◆出典:『水から見た日本文明史と世界の水問題』
/公益財団法人リバーフロント研究所/編集/2013.2発行

※章の内容が重複したり繰り返しになったりしているので、一部を整理※

・・・第二次の動力革命・・・

【美酒に酔う国民】

19世紀、極東の島でかたくなに鎖国をしていた日本は、欧米列国の植民地になるのか帝国になるのかの選択に迫られ、「富国強兵」のスローガンを掲げ帝国への道を歩むこととなった。

日本が富国強兵の帝国への道を歩んでいくには、持ち運びの出来る石炭が不可欠であり、国家の最優先事項は、石炭の確保となった。九州や北海道で炭鉱が開発され、石炭は全て国家の管理下に入った。

明治近代化以前、日本のエネルギーは牛馬と薪と水であり、石炭は未開のまま近代日本に引き継がれた。日本は国内で石炭を確保出来る僥倖により、帝国の仲間入りの資格を得たのだ。

日本は日清戦争で清を破り、日露戦争で辛くもロシア帝国に勝利し、世界で最後の帝国に滑り込んでいった。さらに、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発し、極東に位置していた日本は漁夫の利を得た。

日本は近代化の幕を開いた瞬間、立て続けに3度の戦争で勝ってしまった。この勝利で日本国民は美酒に酔った。国民を美酒に酔わせたのは戦争を戦った軍人ではない。戦場から遠い国内にいた新聞、ラジオがその美酒を国民に振る舞い、日本は限りなく膨張できると言う錯覚を刷り込んでいった。

【内燃機関と石油】

ところが、国政を司る政治家や軍人は、美酒どころではなかった。第一次世界大戦の真っ最中に、日本の前に大きな壁が立ちはだかってきたのだ。その壁は、「内燃機関」と「石油」であった。

ジェームス・ワットが蒸気機関を世に送り出した100年後の1860年、フランス在住のベルギー人ルノワールが内燃機関の実用化に成功した。

蒸気機関はピストンシリンダーの外で石炭を燃やす外燃機関であったが、内燃機関はピストンシリンダー内で燃料を爆発的に燃やすものだった。外燃機関の蒸気機関は、石炭を燃やす炉と貯水タンクが必要であったが、内燃機関はそれが不要で、限りなくエンジンを小さくできた。これが近代化文明の主役である自動車と飛行機の誕生を約束することとなった。

そして遂に第一次世界大戦において、石油燃料で戦う戦艦、戦車、そして飛行機までが登場した。第1次の蒸気機関に続く、内燃機関による第2次の動力革命が勃発したのだ。この内燃機関の登場は、石油を求める帝国をさらに膨張させることとなった。膨張する帝国同士の次なる世界大戦の予鈴は鳴ったのだ。

・・・石油の世紀の幕開け・・・

【内燃機関】

内燃機関は限りなくエンジンを小さくした。この内燃エンジンが近代文明の主役である自動車と飛行機を生んだ。

1862年、ルノワール(ルノアール)は内燃機関の自動車の試運転にも成功し、1886年にはドイツのダイムラーとベンツが、現在のガソリンエンジンとほぼ同様の自動車を世に送り出した。

その内燃機関で動く装置が、第一次世界大戦で戦争装置としてデビューした。戦艦は、蒸気機関から内燃機関となった。自動車は戦車に進化した。内燃機関の究極の輸送機、飛行機が登場した。

これら内燃機関の燃料が石油であった。液体の石油は石炭に対して圧倒的に有利性を持っていた。単位重量あたりの容積が小さく、カロリー量が大きく、ポンプ輸送ができ取り扱いが容易であった。

20世紀は石油の世紀と言われる。それは膨張する帝国の動力が内燃機関となり、燃料が石油となっていったからだ。その主導権を握ったのが、米国であった。その米国は、巨大な油田を掘り当てていたのだ。

【石油の20世紀】

第一次世界大戦の数年前、米国トーマス・エジソンの工場技師だったヘンリー・フォードはデトロイトに自動車工場を設立した。1909年、フォードは大衆向けのT型フォードを11,000台近く製造し、第一次世界大戦中の1914年には、流れ作業の組み立てラインにより40秒に1台T型フォードを出荷した。

この強引な自動車の大量生産を支持する重要な事件が米国で起きていたのだ。

テキサス油田の発見であった。米国の最初の油田は東部ペンシルバニアにあった。19世紀中ごろまではランプ油として利用されていたが、自動車の登場によって一気に油田の重要性が認識された。

1901年、テキサス州ボーモントでアンソニー・F・ルーカスが油田を発見した。この油田発見がフォードらの自動車産業を燃え上がらせ、その自動車産業の興隆がさらに石油探査を刺激した。

1930年、テキサス州ダラス市の東方で巨大油田が発見された。米国最大、いや世界最大の東テキサス油田であった。この東テキサス油田発見を背景にした映画が、ジェームズ・ディーンの『ジャイアンツ』である。

ロシアのバクー油田に匹敵する石油産国になった米国は、次世代の世界の盟主になるのはこの石油によって運命付けられていた。

・・・石油へ向かう帝国たちと取り残される日本・・・

【石油開発と争奪】

第一次世界大戦で登場した内燃機関と石油の威力はその後の帝国たちの方向を決定付けた。1800年代から石油は採取されてはいたが、それは工場燃料や家庭の暖房燃料としての役目であった。しかし、第一次世界大戦以降は膨張する帝国のエンジンの燃料として第一級の資源として位置づけられた。

全ての帝国は石油に向かって突進することとなった。

オランダのロイヤル・ダッチシェルは植民地のボルネオ島で油田を掘り当てることに成功した。

1830年から100年間、世界の石油の90%を産出していたのはアゼルバイジャンバクー共和国のバクー油田であった。1920年、ソ連はこのバクー油田に進駐し、我が物としてしまった。革命で弱体化していたソ連は、一気に世界の大国になっていった。

社会主義革命の後、ソ連が世界の大国にのし上がっていったのは、とにもかくにもバクー油田を確保したことにあった。石油エネルギーさえ確保すれば、革命イデオロギーがどうであれソ連社会は発展する資格を持つことになったのだ。

20世紀前半の石油争奪の世界の中で最も恵まれたのが米国であった(1930年、東テキサス油田の発見)。

【苦闘する日本】

ソ連のバクー油田と米国の東テキサス油田に遠く及びはしなかったが、英国は中近東で油田を掘り当て、ドイツも自領で油田を掘り当てていた。

世界の帝国の中で、日本は石油探査で苦闘を続けていた。

日本の石油の歴史は、思いのほか長い。1878年(明治10年)には新潟の石油削井組合が石油を掘り始めている。自国の領土で石油が産出されたこともあり、日本の精油技術は大きく進歩し、技術では世界の列国に肩を並べるものを持つようになった。しかし、新潟油田の産出量には限度があり、海外に求めざるを得なかった。

日本帝国が自由に油田探査をできるのは満州であった。1934年(大正9年)満州石油を設立し、1938年(昭和13年)石油資源開発法により満州に大量の資金と人材を投入していった。しかし、その探索はことごとく失敗に終わってしまった。

第二次世界大戦後、中国はターチン油田や大慶油田を掘り当てていった。もし、日本が大戦前夜のあの時期、満州でそれらの油田を発見していたら、歴史はどう変わっていたのだろうか。

第二次世界大戦前夜の1940年(昭和15年)、世界の石油産出分布は、米国が1.95KL(65%)、中南米が0.42KL(14%)、ソ連が0.32KL(11%)、中近東が0.13KL(4%)、オランダ領インドネシア0.08KL(2%)、ドイツ領0.07KL(2%)となっている。

石油開発に失敗した日本は、石油を米国に頼る帝国となってしまった。

・・・米国の石油の覇権・・・

【石油の誘惑】

1930年のテキサス州の巨大油田の発見は世界の歴史を変えた。

石炭の蒸気機関で帝国主義時代を切り開いた英国とフランスは、内燃機関のための石油を保有していなかった。石油産出地からも遠い英国、フランス両国は、石油大国の米国を自陣営に引き込み連合を組む戦略をとった。

帝国主義の最後に滑り込んだドイツと日本も石油を持っていなかったが、両国の位置は英国とフランスと或る点で異なっていた。両国の近くには、油田の誘惑が存在した。

ドイツにとってはソ連のバクー油田であり、日本にとってはオランダ領インドネシア油田であった。 膨張する帝国にとって石油は絶対必要なエネルギーであり、その石油の誘惑に勝つことは出来なかった。

【石油の戦争】

20世紀前半の帝国主義時代は石油覇権をめぐる戦いであった。後発の帝国のドイツと日本は、恒常的にエネルギー不足に見舞われていた。特に、石油を米国に全面依存していた日本は、自力で確保したいという渇望が鬱積していた。

金融恐慌と世界恐慌がトリガーとなり、ドイツと日本は世界のエネルギー再分配を求める戦争に突き進んでいった。

昭和14年、ドイツはポーランドへ進軍したが、そこがドイツの最終目標ではなかった。ポーランドの東にはソ連が控え、そのソ連は巨大なバクー油田を保有していた。昭和16年にはドイツはソ連に侵攻し、ソ連のバクー油田に向かったが、後方拠点のスターリングラードとの両面作戦だったことと、カフカス山脈越えの補給線が伸びたためバクー油田を確保することはできず、昭和20年5月無条件降伏した。

昭和15年、日本軍は南部仏印インドシナに進軍したが、そこが日本の最終目標地点ではなかった。インドシナ半島の目と鼻の先には、アジア最大の油田を持つオランダ植民地の東インド諸島が展開していた。

昭和16年12月、日本は米国に戦いを挑み、昭和17年には日本は東インド侵攻でインドネシア諸島を制した。しかし、確保した油を日本国内に輸送する補給線は米国潜水艦によって断たれ、昭和20年8月無条件降伏をした。

【戦争の本質】

『昭和天皇独白録』(文春文庫)で、昭和天皇が日独伊三国同盟の顛末を語った後に述べている「尚、この際付言するが、日米戦争は油で始まり油で終わったようなものである」という内容が、日本が戦争に突入していった理由の全てを表している。

2004年公開の映画『ヒットラー最後の12日間』で、自殺する直前のヒットラーは「石油があったらな」という言葉を苦しげに絞り出している。

当時の米国は、世界の石油の半分以上を産出し、支配していた。この米国が、「石油の世紀」を象徴する戦争(第二次世界大戦)の勝利者となり20世紀後半の覇権国家となったのは必然であった。

◆出典:『水から見た日本文明史と世界の水問題』
/公益財団法人リバーフロント研究所/編集/2013.2発行