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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

2015.06.01ホームページ更新

2015年6月1日付で更新した内容は、下記のとおりです。

■物語ノ本流》http://mimoronoteikoku.tudura.com/astrolabe/content.html
コミック作品、第二部・第二章「夏越祓」を追加しました。

「夏越祓」の章は、物静かな内容ではありますが、今後の物語の方向を決定的にする重要な伏線が幾つも含まれており、過去・現在・未来のストーリーの整理について、非常に頭を絞った物となりました。いわば、大きな転回点(ビッグ・ターニング・ポイント)という位置づけであります。

転回点のきっかけとなった決定的なイメージは、「闇夜の中を、さ迷う少女」。

何故なのか分かりませんが、不意に、外せないイメージとして浮上。

「何故そんな症状を発したのか?」「それ程のショックとは何か?」を考察し続けて、少女が、わざわざ、陸奥の果てと言っても良い程の辺境から上京する羽目になった、そもそものきっかけとなった過去の事件(過去の因縁)に行き当たり…

5W1H「いつ、何処で、誰が、何を、何故、如何にして」が固まりました。

過去のページに戻ってストーリー・チェックしてみたところ、微妙にそれっぽいセリフがあり、辻褄は合っている状態なので、この件に関しては、過去にさかのぼる修正はありません。

※ちなみに「輝弥王」⇒「叡都王」の人名変更は、今回のストーリー・チェックの副産物であります

https://twitter.com/mangakato/status/580499307314434049
かとうひろし@mangakato
「ストーリーマンガ」は、エピソードの組み合わせで構成され、一つのストーリーとして成り立っています。各エピソード毎に「5W1H」が必要になり、全体を通した「5W1H」が別に本筋として必要になります。

このツイートには、色々な示唆を頂きました(感謝)。

将来のストーリーに関わる重要な伏線として、書き手サイド立場としては、勾玉に注目を頂きたいところ…と、期待してみる…

*****

「夏越祓」の章で、哲学的に考えた事メモ

■言語呪術/言語芸術のテーゼ
「形霊(カタチ)と形代(カタシロ)」=例えば「無限の流れである意識と、有限の単位である言語」
「思考は言語によって構成される」
「記憶もまた言語である…言語化されない記憶は記憶たりえぬ」
「記憶の層が、一個の人格を成す」

以上


ほかに勉強したことメモ

夢遊病=ノンレム睡眠時に起きる。通常は15分ほどで終わるが、1時間も続くものもある。本人は深い熟睡状態にあるため、声を掛けた程度の刺激では目を覚まさない。朝になって目が覚めたときには、夢中遊行の記憶が消失している

目が開いている状態で歩き回るケースでは、目が開いているので「物は見えている」らしいが、やはり明確な意識が無いため、意味のある反応は返して来ないという

明確な原因は不明だが、脳の発達が未熟なために生じるという説が多く支持されている(実際、幼い子供に多い)。夢中歩行は、過去に学習し記憶した身体の運動がメインになる。大人の夢遊病の場合は、多くは身体リズムの崩れやストレスが原因であり、無意識に自動車運転するなどの高度な行動が見られるようになるという報告がある

脳が未発達な子供の夢遊病には、夜驚症を伴うケースがある。恐怖の感情が無意識のうちに暴走するためでは無いかと言われている。意識が覚醒していれば、我慢などして押さえられるが、我慢する事はストレスになるので、根本的な解決にはつながりにくいらしい(恐怖の原因をつきとめて取り除く方が良い。雷が怖い、一人で夜のトイレに行くのが怖い、などの原因が考えられるらしい)

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読書ノート『テロと救済の原理主義』

『テロと救済の原理主義』小川忠・著(新潮選書2007)

2001年の同時多発テロ事件は、全世界における反イスラーム感情を決定的にした。

イタリア・ベルルスコーニ首相(当時)はドイツ・シュレーダー首相(当時)と会った後、次のように語った:

我々は人権と宗教の尊重を保障する価値体系からなる我々の文明の卓越性について意識的であるべきだ。こうした意識はイスラーム諸国には確実に存在しない

一方、9.11テロ以前から欧米による歪んだイスラーム理解を告発してきた中東出身の思想家エドワード・サイードは次のように論じる:

『イスラーム報道(1981出版)』より
欧米メディアは簡単に"イスラーム"と一括りにするが、イスラームを一枚岩的に捉えるのは間違いである。"イスラーム"という言葉が欧米メディアで使われる時、そこにはフィクション、イデオロギー上のレッテル貼りという要素が含意されている。欧米が語る"イスラーム"と、実際にアジア・アフリカで暮らす8億以上の民衆、多様な歴史、地理、文化、価値を担うイスラーム世界とは、真に意味のある直接的な繋がりは何も無い

◆イスラーム原理主義を生んだカリスマ思想家:サイイド・クトゥブ

サイイド・クトゥブ(1906-1966絞首刑により死)は、今日、スンナ派イスラームの「原理主義の父」と呼ばれる。彼の生み出した思想は、多くの若者たちをテロ活動に走らせたのみならず、クトゥブの存在そのものも、自爆テロをも辞さぬ若者たちにとってのカリスマ殉教者となっている。

実際、武力行使も辞さない急進的なイスラーム主義思想には、今なお「クトゥブ主義」という名が冠されている。それ程に彼の思想は、スンナ派イスラームにおいて、急進勢力の思想的バックボーンとなっているのである。9.11テロの首謀者とされたオサマ・ビン・ラディンもまた、クトゥブ思想に染まった一人であった。

「9.11調査委員会」は、次のようにクトゥブ思想の根幹を成すテーマを要約した:

イスラーム教徒を含めて、ますます多くの人間が「ジャーヒリーヤ」の物質的享楽の道に搦め取られ、「ジャーヒリーヤ」は世界を支配しようとしている。サタン、すなわち「ジャーヒリーヤ」に対して妥協の余地は無く、全てのイスラーム教徒は武器を取って戦いに立ち上がるべきである。この神聖な戦いに加わろうとしないイスラーム教徒は、「ジャーヒリーヤ」に与する者であるゆえ、彼らもまた打倒されなければならない。

オサマ・ビン・ラディンは、このテーマの中から、クトゥブ自身が語りすらしなかった大量殺人の論理を正当化する要素を引き出したと言われている。

◆サイイド・クトゥブを生んだエジプト、その時代背景

エジプトは古くからイスラーム圏における指導者的大国としての地位を保持し続けており、その最高権力者であったナセル(1918-1970/1958年、エジプトとシリアから成るアラブ連合共和国を建国してその初代大統領に就任)やサーダート(1918-1981/共和政エジプト第3代大統領,第2代アラブ連合共和国大統領,初代エジプト・アラブ共和国大統領)は、アラブ世界の盟主として、英米やイスラエルと渡り合った。

エジプトのアズハル学院は、970年に設立された世界最古の大学として知られており、中東のみならず南アジア、東南アジアからもイスラーム学を学ぶために多くの留学生がやって来る。そして彼らは帰国後、母国のイスラーム指導者として活躍している(例:インドネシア、アブドゥルラフマン・ワヒッド元大統領)。エジプトはアラブ世界、イスラーム世界の学術・文化の中心であるが故に、近代欧米との接触・摩擦においても、他のイスラーム諸国に先駆けて、その矛盾や葛藤を自らの内部に抱え込んで、苦しむ事になった。

クトゥブが生きた時代、エジプトは英国植民地支配から名実共に独立し、世俗民族主義による国民国家が樹立された時代であった。長らくエジプトに君臨してきた王制も廃止された。近代化への期待は高まったが、やがてその期待は、エジプト政治の汚職や腐敗と共に、失望と幻滅へと変わって行った。

1918年、第一次世界大戦が終わり、民族自決の機運が高まった。その1年後、10歳のクトゥブは、父親のカイロ移住に伴い家族と共に移動し、カイロで中等・高等教育を受ける事になった。そこでの教育は、かつての伝統的なものでは無く、近代的価値・合理性を教える近代教育機関であった。

クトゥブは、もっぱら英文学に傾倒し、後には、西洋文明、個人主義、リベラリズム、近代主義に関する論考を残した。同時に、エジプト独立を志向する穏健派民族主義政党・ワフド党の党員であった(=すなわち、世俗民族主義者であった)。長じてクトゥブは1940年代のエジプトの論壇で名声を博し始めたが、同時に、英国植民地支配下エジプトの傀儡政府の無能・腐敗に対する舌鋒は鋭かった。

1948年、クトゥブは大きな転機を迎える。彼の舌鋒をもてあました政府(文部省)が、近代教育制度の習得の名目で、クトゥブを米国に留学させたのである。クトゥブは親米知識人としての成長を期待されていたのだが、結果は逆となった。クトゥブは西洋文明に対する激しい疑義を抱き始めた。

クトゥブにショックを与えたのは、アメリカ社会における「物質主義」「人種差別」「性の乱れ」であった。クトゥブはこれらの欠点を、西洋近代がもたらした政教分離の弊害と理解した。

キリスト教世界では、教会は信仰の場とされる。ところが米国の教会には全て揃っているが、信仰だけが無い。単なる娯楽施設と何処が違うのか。せいぜいのところ、アメリカ人は教会を楽しい時間を過ごす集いの場、社交の場程度にしか考えていないのだ。これは一般大衆に限った事では無い。教会と聖職者さえもそう考えているのだ。/『私が見たアメリカ』
我々自身の法の源をフランス法に求めるべきでは無いし、社会秩序の源を西洋や共産主義の理想に求めるべきでは無い。まず最初に我々が成すべきは、我々のイスラーム法にそれを求めるべきである。何故ならイスラーム法こそ、我らが原初社会の礎であったからだ。/『イスラームにおける社会正義』

クトゥブは、イスラーム法は近代的な社会を統治する機能を十分に備えていると語り、イスラームの優位性に自信が持てない、西洋に対する劣等感に縛られた同胞たちに向かって、イスラームの優位性を高らかに宣言したのであった。いわゆるイスラーム原理主義は、欧米的・近代的価値体系を吸収した、その中から発生したのである。

イスラームに傾斜してエジプトに帰国したクトゥブは、ますます欧化政策を進めるエジプト政府に見切りをつけ、イスラーム原理による社会建設を進める「ムスリム同胞団」に入団した。当時のエジプト政府は、政府方針に従わぬ「ムスリム同胞団」を反政府集団として、その創設者を暗殺していた。その「ムスリム同胞団」は、1952年にエジプト政府を打倒した「自由将校団」を率いるアラブ民族主義者・ナセルと友好関係を築いていた。

アラブ民族主義の英雄ナセルは、その後、1953年に王制を廃止、革命評議会を作り、1956年に大統領に就任する。ナセル大統領は、スエズ運河を国有化し、第二次中東戦争での政治的勝利をもって英国からの完全独立を果たし、エジプト・アラブ世界のリーダーとなった。

ナセルは軍人であり、確固たる世俗主義ナショナリストであった。宗教といえども国家に服従するべきと言う信念の持ち主であった。権力獲得のために同盟関係を結んだ「ムスリム同胞団」を、必要が無くなれば切り捨てる事を、ナセルは躊躇しなかった。1954年「ムスリム同胞団」は非合法化され、メンバーは過酷な弾圧を受ける。

「ムスリム同胞団」の有力者サイイド・クトゥブも逮捕され、15年の強制労働という重刑を受けた。1955年、刑務所内で多くの同胞団員が虐殺される事件が発生し、クトゥブは世俗国家権力への憎悪を募らせて行く。イスラーム原理主義の基本となるクトゥブ思想の、多くの著作は、獄中で書かれた物である。

その後、クトゥブは監視付きで一度は釈放されたものの、1964年、武装集団による非合法的国家転覆の容疑で再び逮捕され、1966年に絞首刑に処された。

クトゥブ思想は、「イスラームの大義から外れた政権は打倒されなければならない」と主張しており、エジプト政府は、その内容の危険性を恐れたのである。他のイスラーム諸国から助命嘆願が出ていたにも関わらず、クトゥブを抹殺すればその思想も消えるとエジプト政府は期待していた。

しかし、クトゥブ処刑の後、その非人道性に憤激した若者たちが、後年のジハード団やアルカイダを組織した。エジプト政府の期待とは裏腹に、クトゥブ思想に基づく急進的イスラーム原理主義は、その二世・三世を生み、拡大の様相を見せたのである。

◆クトゥブの代表的著作『道標』

ジャーヒリーヤ(無明の闇)に覆われ、終末の危機を迎えた世界の中で、人類を救済するための、イスラーム革命の先陣を切る「前衛」たちに示す"道標"として書かれた物と言える。過激派原理主義の特質、すなわち「終末観的世界認識と救済思想」の条件を満たす内容である。

以下、『道標』に書かれた各種の主張:

人類が危機に瀕しているのは、(核戦争による)全滅の時が迫っているからでは無い。それは単なる兆候に過ぎず、本当の危機は、実際の進歩のために必要な根本的な価値を見失っている事なのだ。人類文明の先端を行く筈の西洋社会でさえも、人類を導く健全な価値観を提起する事が出来ず、混迷を深め、没落の道を歩んでいる。

今求められているのは、新しい指導力だ。人類が未だ発見しえていない高い理想と価値を人類に与えてくれる指導力。積極的、建設的かつ実用的な生活様式を人類に示す指導力。まさしくイスラームのみが、そうした価値、生活様式を提示しうる。

現代の社会生活において、ジャーヒリーヤが色濃く覆っており、物質的享楽や高度な発明をもってしても、無知を減じる事は出来ない。ジャーヒリーヤとは、神の主権に対する叛意であり、現世において、神の主権を人間に譲り渡す事である。人間が人間を支配する事は、神の主権に対する重大な侵害だ。現代のジャーヒリーヤは、古代のジャーヒリーヤと比べるとより複雑で、神の権威への叛乱は、彼の創造物である人間に対する抑圧、という形を取って現れる。

物質主義を追求する西洋文明に対して、イスラーム文明は時代に合わせて多様な形態を取るが、その原理、価値は永遠であり不変である。イスラーム原理の中核を成すのは、「アッラー以外に神は無し」という神の唯一性への信仰に他ならない。

そして、神の唯一性への確固たる信仰、物質主義に対する人間の優越性、獣的な欲望の抑制、家族への尊敬、イスラーム法に基づく神の代理人による統治などが、イスラームの社会統治原理である。こうした原理こそが、無明の闇に漂う人類に対するイスラームのメッセージである。

人類を救うイスラーム統治原理は、具体的な形を取ってこそ意味があるのであり、まずイスラーム諸国において、その実践が行なわれなければならない。故に、幾つかのイスラーム諸国において真のイスラームを復興させねばならない。

そのために先頭を切って行動を巻き起こさなければならない。イスラーム復興の大事業は、どのように始めれば可能となるのか。

現代社会を覆うジャーヒリーヤの大海を泳ぎ切り、確固たる決意を持ってイスラームの大義の道を行く前衛たちが必要である。その過程にあっては、ジャーヒリーヤから適度な距離を取りつつも、関係を保つ事も必要なのだ。

※アルカイダは、過激派の中にあっては、イスラーム革命の先陣を切る前衛とされている※

イスラームは主体的に行動する権利を有している。イスラームは特定の民族や国家の遺産では無い。それは神の教えであり、全人類に向けられたものだ。それを妨害し、人間の選択の自由を抑圧する、組織や伝統と言う形を取って現れる全ての障害物を粉砕する権利をイスラームは有している。イスラームは個人を攻撃したり、信仰を強要するものでは無い。イスラームが攻撃するのは、人間を抑圧する組織や伝統であり、人間性を歪め、自由を侵害するその悪影響から人間を解放するためにイスラームは攻撃を仕掛けるのである。

イスラーム原理を達成するための手段は問わない。必要な新しい技術、手段は取り入れて行く(場合によっては、武力的対応でさえも)。欧米による植民地支配体制のみならず、イスラーム教徒を自称しながら国民の自由を弾圧し、個人崇拝を求めるようなナセルの如き世俗民族主義、つまり人が人を支配するような暴政は打倒し、イスラームの教え、神の主権に基づく新しい社会経済体制を樹立しなければならない。

※ただし、神の代理人は、聖職者を想定していない。世俗民主主義や共産主義のように、世俗の政府・党が神の代理人を務めるのも、「人が人を支配するジャーヒリーヤ故の統治形態」であり、間違っている。あくまでも、「イスラーム法」に基づく、イスラーム共同体からの民主的選出の代表者による統治機構を貫徹しなければならない。人が人を支配するような暴政は打倒しなければならないのである。我々は、純粋にコーランに行動指針を求め、宗祖ムハンマドの黄金時代を実現しなければならない。このようにして宗教が浄化されれば、イスラーム法に基づく健全な道徳や社会秩序が可能になるのだ。

※ムハンマド時代の後のイスラーム思想には、ギリシア哲学、論理学、ペルシア思想、ユダヤ教・キリスト教神学などが紛れ込んでいるため、コーラン理解の際の参考にしてはならない。コーランに行動指針を求める際には、「イジュティハード(章句解釈)」を用いて、時代状況ごとに、適切かつ戦略的に解釈するべきである。イスラームの敵は、イスラーム教徒を自称する者たちの中にも紛れ込んでいる。彼らも宗教の敵として打倒すべき対象である。

現世における神の支配の樹立、人による支配の廃絶、簒奪者から神の主権を奪還し、イスラーム法に基づく統治を敷き、人定法を放棄する事は、説得のみで達成する事は不可能である。神の主権を簒奪し、神の創造物(人民)を抑圧する者どもは、説得によってのみでは権力を手放そうとはしないであろう。

・・・神の主権を樹立する事は、単に理論的、哲学的、消極的な宣言を発する事では無い。それは、神の法をあまねく天下に行き渡らせ、人々を圧政から神の御許に解放する積極的、実際的、ダイナミックなメッセージである。説得と運動なくして、これを実現する事は不可能である。それゆえに、あらゆる実際の場面において、適切な手段が講じられるべきである。

イスラームとは、神を除いて、この世のあらゆる権力から人間解放を宣言する宗教であるが故に、人間の歴史のあらゆる局面、過去、現在、未来において、信仰の妨げとなる思想、物理的権力、政治・社会・経済・人種・階級体制に対決するのである。

◆日蓮主義とイスラーム原理主義の比較/血盟団事件に底流する思想

ウィキペディア「血盟団事件」より:
血盟団事件は、1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した連続テロ(政治暗殺)事件。当時の右翼運動史の流れの中に位置づけて言及されることが多い(※1932年の五・一五事件も、この流れの中にある)。
茨城県大洗町の立正護国堂を拠点に政治運動を行なっていた日蓮宗の僧侶である井上日召は、1931年、彼の思想に共鳴する近県の青年を糾合して政治結社「血盟団」を結成し、性急な国家改造計画を企てた。その方法として彼が考えたのは、政治経済界の指導者をテロによって暗殺してゆくというものであった。「紀元節前後を目途としてまず民間から血盟団が行動を開始すれば、これに続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」というのが井上の構想であった。井上日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名を、「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」として標的に選定し、配下の血盟団メンバーに対し「一人一殺」を指令した。
血盟団に暗殺対象として挙げられたのは犬養毅・西園寺公望・幣原喜重郎・若槻禮次郎・団琢磨・鈴木喜三郎・井上準之助・牧野伸顕らなど、いずれも政・財界の大物ばかりであった。

中野孝次・著『暗殺者』岩波書店より(小説を通じて心理考察)

非人間的行為を非人間的と名づけるのは、何ら積極的な行為ではない。それはしばしば、ニヒリスティックな自己憎悪に対するアリバイ以外の何物でも無いからだ(ドイツ小説家ノサック)。
彼らのあの「暗い偏執の匂い」は一体何に由来するのか。・・・
わたしは思い浮べる。かれらが生れ育った土壌を。かれらが突きだされていった先の社会を。そのなかでかれらをとらえた思い、絶望、怒り、無力感を。そこからかれらが脱出原理として縋りつくにいたった思想を。かれらを支えた誇りと狂信を。それは決して別の世界のことではない。わたしやわたしの肉親や友人たちが生き呼吸していたと同じ状況の中にあったものであって、かれらもまたただふつうの生活者の一人だったはずである。

血盟団の一行を狂信的な日蓮主義者として済ます事が出来ないのは、彼らを支援したのが決して一部の軍人たちだけでは無かったからだ。彼らの裁判が始まった時の世論には同情論が強く、30万の減刑嘆願書が寄せられている。

昭和初期の当時は、世界大恐慌に発する長期不況、農村の疲弊、貧富格差の増大と労働紛争の激化など、社会の激変と混乱が続いていた。血盟団の思想的指導者・井上日召は、「昭和維新」という世直しにより民衆を救済する、命をかけた「不惜身命」の行動こそ宗教的実践と説いた。血盟団が唱えた右からの革命は、借金による一家離散や口減らしのために娘を売りに出すと言った苦難にあえいでいた農民たちにとって、声を発する事が出来ない彼らの声を代弁する物だったのである。

作家・岡村青氏は、井上日召に焦点を当てた著作『血盟団事件』の中で、次のように考察している。

戦前の日本において日蓮主義者から多くの国家主義者が出た宗教的背景として、日蓮主義者の殉難・殉教の精神が挙げられる。つまり仏の永遠性は、現実社会の中で苦悶する民衆を救うという「菩薩行」、その実践を通してその真価が問われる、と日蓮主義者は考えた。己の誇りと信念をかけて、仏の慈悲・利他的感情に基づく「一殺多生」を奉じた国家主義者の心情は、その実、自爆テロリストと変わらない物であった。

※大正~昭和初期は、高等教育を受けた近代的中間層・テクノクラートが大量に形成された時代でもある。社会混乱と不安が続く中で伝統的な尊厳や位置を見失い、孤独に漂流する多くの若者たちが、「国家とは何か/社会とは何か」について考え出し、「善く生きたい」「人のために生きたい」という、責任感や公共善の意識を高揚させていたのも、また事実であった。

◆近代の影を直視した夏目漱石による著作『こころ』より

「かつてはその人の膝の前に跪ずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」

読書ノート『文明と文化の思想』

読書ノート:『文明と文化の思想』松宮秀治・著(白水社2014)

「文明」「文化」という二つの概念は、人類社会を捉えるための思想において、パラダイムシフトを起こした。伝統社会の価値体系を見直すと共に、近代以降の社会の価値体系を創出するという画期的な概念であった。

その画期性は、「人類こそが世界の支配者であり、主導者、管理者であるべきだ」という考えを明らかにした事による。今でこそこの考えは普遍的な内容として捉えられているが、西欧近代の黎明期において、この「文明」「文化」という概念は、革命的なものであった。

「文明」は、進歩の概念と結合し、人間が生み出す技術的・科学的成果というベクトルを含み、人間社会の物質的豊かさを促進する価値の総称として理解されるようになった。それは、伝統社会の宗教的な価値観念体系に取って代わるものとなったのである。

それに対して「文化」は、進歩の概念と結合しながらも、人間の精神的・内面的な成果のベクトルをより強く含む。「文化」は、人間の道徳的向上、人間性(ヒューマニティ)の増進、情緒的豊かさ、知的向上、教養の拡大を目指す人間的諸活動の成果全体を意味するようになった。

「文明」と「文化」は極めて曖昧な概念であり、それはむしろ互換可能性を持つ言葉として、 相互補完的に言及されてきた物であった。しかし、その「文明」「文化」概念は、西欧近代がそのプログラムを始動させるための革命的な概念であったのであり、現代につながる、西欧近代を支える諸価値の観念体系を創出したのである。

《「歴史」とは何か》

民族宗教に彩られた伝統的な社会にあっては、「歴史」は、神の摂理、つまり神が被造物をその救済の目標に導こうとする計画の実現過程であった。仏教で言えば、仏教的な宇宙原理の進行であり、中国思想で言えば、天命思想の反映による宿命的な人類の運命であった。

しかし、「文明」「文化」という概念は、次のように語る。「歴史」とは、人間による主体的な働きかけの結果としての、世界の推移プロセスなのである。この理解の仕方において、伝統的宗教(キリスト教)社会が構築する「普遍史」に対して、「世界史」とは、人類の歴史認識の革命であった。

つまり、人類の現状は、神や超越者の意思や関与の結果ではなく、人間自身の意思の産物なのだ。近代的な意味で言及される「歴史」は、人間自身の進歩への意志と自己完成への意志の結果、人間自らが達成させてきた業績そのものであるとする考え方から導かれる概念なのである。

西欧の啓蒙思想は、まさに以上の内容を推し進めてきた物であった。ホルクハイマーとアドルノによる『啓蒙の弁証法』は、「啓蒙のプログラムは、世界を呪術から解放する事であった。神話を解体し、知識によって空想の権威を失墜させる事こそ、啓蒙の意図した事であった」と語る。そして、この「人間の思考の脱魔術化」を意図する啓蒙プログラムの要こそが、「文明」「文化」という両概念であった。

ホルクハイマーとアドルノは、「神話は啓蒙へと移行し、神話は単なる客体となる」というテーゼを提出した。このテーゼは、「世界と歴史と自然は、文明と文化の概念枠内の存在である」という認識をもたらした。かつて、神や超越者の存在を以って説明されて来た、世界と歴史と自然の神話的解釈が、「科学」という合目的な意図の下に再編成される事になったのである。

《近代神話/絶対的公準(ポストラート)》

西欧の「近代」以降にあっては、「文明」「文化」が伝統社会の神や超越者に代わる新しい神々を創造する概念装置となり、「科学」「技術」「芸術」という神聖価値の観念体系を構築する基礎となる。

啓蒙と神話の関係は、結果として、二律背反的な物となった。神話的解釈を排除しておきながら、自らが新たな神話の製作者になるという逆説性・矛盾性を抱え込むようになったのである。

ホルクハイマーとアドルノによる『啓蒙の弁証法』は、この辺りの事情を、以下のように巧みに喝破して見せる:

様々の神話が既に啓蒙を行なうように、啓蒙の一歩一歩は、ますます深く神話論と絡まり合う。啓蒙は神話を破壊するために、あらゆる素材を神話から受け取る。そして神話を裁く者でありながら、神話の勢力圏内に落ち込んで行く。

「近代」の神話は、「科学」「技術」「芸術」「民主主義」といった新しい神々を作り出し、またそれは、近代の啓蒙の哲学が考え出した理性、悟性、感性という人間認識能力の3つの方向での機能に基づく物とされた。

近代以前の宗教的神話は、その教義体系を成立させるために、「信仰=絶対的公準(ポストラート)」を要請した。同じ強制が、近代以後の「近代神話」でも発生したと言う事が出来る。

近代の神聖価値は、以下のように体系化され、近代の神学を創出し、近代神話への「信仰」を不可避な物として行く。

  • 「民主主義」の教義・実践⇒議会制度と三権分立と司法の独立
  • 「科学」の教義・実践⇒真理の探究と学問の自立性の要求/高等教育機関・研究機関の制度化
  • 「芸術」の教義・実践⇒ミュージアムの神殿化、美の自立的価値
  • 「技術」の教義・実践⇒社会進歩と人間の幸福の増大

しかし、こうした近代神話も、自らの教義を展開・発展させる中で、やはり、伝統的宗教社会と同様に、自らのうちに内部矛盾、即ち「異貌」を生じて行くのである。

  • 「民主主義」⇒ファシズム化、或いは衆愚政治化への危機
  • 「科学」⇒超越的絶対者の領域に踏み入る=遺伝子改変、クローン操作など
  • 「芸術」⇒独断的自己満足
  • 「技術」⇒公害・環境破壊・地球汚染

「文明」「文化」の概念分化とその対立、更にはその対立のイデオロギー化は、つきつめて考えれば、「近代」の価値は何処にあるかという事、言い換えれば「進歩」の尺度は何処に求められるべきかという問題に帰着する。

  • 科学技術の進歩による物質的な生活による富裕の増大
  • 社会諸制度の整備による自由と平等の浸透による精神的安定
  • 社会変革や政治・経済の構造や仕組みを絶えざる改善、改良、変革の意識の持続によって社会的不平等、社会悪を漸進的に或いは飛躍的に変化させる革新的進歩
  • 「近代」の中にも根強く生きながらえている伝統や、人間の生物的条件の中に残存し続ける変化に対する恐れと不安という保守主義的要求との妥協と調和への欲求

《聖俗革命/西欧近代の歴史意識の転換の結果としての「世界史」》

西欧近代がキリスト教的な超俗的な主教価値によって作り上げられてきた価値体系を崩壊させ、新たに人間の欲望を肯定する世俗価値体系を作り上げるためには、ギリシアが必要であった。

西欧近代は、産業革命やフランス革命と言った現実的な革命の他に、西欧近代人の中に集合的に推進された「聖俗革命」という、世俗価値の勝利が必要であったと言う事である。

村上陽一郎『近代科学と聖俗革命』より:

聖俗革命という概念によって截り出される一つの局面は、まさに此処(アイザィア・バーリンの著作の中)に言われている「全知の存在者の心の中に」ある真理、という考え方から、「人間の心の中に」ある真理という考え方への転換であり、「信仰」から「理性」へ、「教会」から「実験室」への転換であるからである。私はこうした動きの中に、真理の聖俗革命、真理の世俗化、知識の世俗化を見たいのである。

言い換えれば、「科学的真理」が、真、善、美の聖俗両界の究極的価値の独占者たる「全知全能の神」の手から人間の手に渡される事を意味する物である。即ち、「世俗神学」の教義の確立である。

  • 真(科学的真理):神の手から「科学者」という専門家の手に移行
  • 美(芸術的価値):神の手から「芸術家」という美の創造者の手に移行
  • 善(道徳的価値):神の手から「裁判官」という専門の司法職の手に移行

これはまた、科学信仰、芸術信仰、国家信仰というように、近代的・多神教的に、専門的に分化された形で社会の中に現れて来る。これらの個別的な現象の理論体系化の根拠を、ギリシアに由来する哲学が、伝統的神学に代わって提示したのである。

  • 政治哲学=人間の欲望肯定の理論を通じて市民社会の確立を説く
  • 歴史哲学=「進歩」の理念を通じて国民国家の成立の必然性を説き、国家を人間の道徳的・倫理的規範の創造者とする
  • 科学哲学=仮説と実験による真理探究の方法を開拓を説く
  • 芸術哲学=美的教養こそが人間のもっとも内面的な価値と創造精神を育成しうるという芸術の神聖価値論を説く

このギリシア哲学への過剰な依存は、西欧が認識する「世界史」にも影響を及ぼしている。西欧近代は、以下のように、ギリシアを自己の歴史圏内に取り込む事で(歴史的源泉の逆投影とも言う)、「世界史」を完全に自己の独占物とする事に成功したのであった。

ギリシア芸術の卓見性の発見に平行して、西欧人の歴史意識は転換していた。カール大帝・神聖ローマ帝国の起源をローマ帝国に求めるという、ローマ帝国理念を元にした「イデオロギー化されたローマ帝国」という物があり、その継承者としての西欧史を意識していたが、それが更にギリシアを飲み込んだのである。

転換した西欧人の歴史意識は、以上のように、ギリシアを「古典古代」として飲み込む事によって、東洋世界と断絶した西欧世界を構想して行ったのである。

このような歴史意識の転換は、西欧近代が進歩の観念を中核とした「世界史」を構築するために必要とした、観念装置であった。

そして、「世界史」は、非西欧世界を「停滞社会」として描き出すようになったのである。いわく、東方世界とは、変化を受け付けない世界であり、歴史的発展が無く非歴史的社会である。非西欧世界は、「世界史」の圏外の存在として、歴史学的な対象から外され、民俗学・社会学・文化人類学の対象とされるようになった。

《旋回と逆旋回の結果/グローバリゼーション》

西欧近代とは啓蒙主義とロマン主義、合理主義と反合理主義、進歩主義と保守主義が一見それぞれに独立した要請をもって相互対立、相互敵対しているようだが、実のところは、それぞれが相互補完的に作用する事で、一つのまとまりを成している時代の事である。

「文明」と「文化」の両概念は、一方が他方の上位概念となろうとする要求を内在させる物であったが、西欧近代がその方向を回避して来たのは、両概念の蜜月的一体化の状態こそが、西欧近代の栄光と優越を保証して来たからである。西欧近代はミュージアム制度で「文化」を、博覧会制度で「文明」を視覚化し、西欧近代の優越性を可視的な物として来た。

しかし、この可視化された「文明」と「文化」が、逆説的にそれぞれの概念の相対化を招き、西欧近代の諸価値の優越性と相対化をも招く事になった。

※マルクス主義は進歩主義の究極であるが、これは保守主義の価値を無化する価値体系を構築した。「文明」価値の優位性と独立性を強調した。

帝国主義的な利害関係の中で、フランスやイギリスのような先進的国民国家がドイツのような後進的民族国家の「文化」に対する「文明」の優位性をイデオロギー化した。また、人類学や民俗学は「文化」概念の相対化を促進した。このようにして「文明」「文化」の分離と敵対化がもたらされたが、これが、結果的に「近代の終焉」という西欧近代の弱体化と相対化につながったのである。

米ソ冷戦の後、社会主義陣営の没落は「文明」を死語化した。社会主義陣営が「進歩」から「保守」へ急旋回すると共に、「文化」を擁護していた自由主義陣営は「保守」から「進歩」へと逆旋回した。

自由主義陣営のこの逆旋回は、「文明」に代わる概念として「グローバリゼーション」という指導原理を生み出している。金融資本の世界化、貿易の国家間障壁の排除・撤廃・軽減、通信や情報伝達の一元化などである。

「グローバリゼーション」概念の強大化と共に、「文化」は、"文化財"や"世界遺産"を取り巻く、ささやかな価値概念まで後退した。

かつての「文化」を存立基盤にしていた学問、即ち文化社会諸学は、全く新しい価値・理念の指標を成しうる理論構築に成功しない限り、大学と言う閉鎖空間の中でのみの物となるか、或いは「御用学問/反・御用学問」として、国家行政と共に運命を共にするのみの物となるであろう。