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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

研究:中華経済の近代史(前篇)

中華経済圏の歴史について、もう少し詳しく見てみる事は、「21世紀の中華」がどのように動くかを予測する上でも参考になるかと思いますので、チャレンジです。

《プレ近代(18~19世紀)の中華経済:明&清》

中華帝国の経済構造の基礎は、明・清の時代に確定しました。

宋・元(モンゴル)の後の大陸を支配した明帝国の、最初の課題は、まず何よりも、南北の経済格差であったろうと思われます(経済構造そのものも、異国レベルと言って良いほどに異なっていた)。

実際、前王朝であったモンゴル帝国も、華北・華南で同一の統治を行なっていません。 華南から発生した明は、華北を、自らの地元でもある華南(江南)の経済構造の中に同化しようとしました。

初期は、王朝交代に伴う激しい戦乱が収まっておらず、現物主義の決済システムとなりました。モンゴル帝国が保持していた紙幣制度の崩壊という事情もあり、貨幣は余り重視されなかったのです。

華北経済圏と華南経済圏…生産力も経済システムも全く異なる2つの経済圏を「中華経済」として統合し、なおかつ南北格差を解消するため、明は現物主義を取りました。初期の明政権の江南に対する弾圧・収奪は、過酷なものとなったのでした。

※土地・人民を調査した資料として、「魚鱗図冊」や「賦役黄冊」が有名です(太閤検地みたいなものでしょうか)。それに基づいて、物納や徴発という形で物資・労働力を直接に取り立てました。明朝の貨幣「永楽銭」が知られていますが、鉱山資源の枯渇もあって、実際には現物決済の補助的な役割しか無かったようです。

明の経済は、貨幣の流出を防止するため、モンゴル時代のグローバル経済とは違って、朝貢経済の復活と共に厳しい海禁(鎖国)政策を伴うものとなりました。「万里の長城」が明の時代に完成したのは、この鎖国政策の固持という理由によっています(実際、モンゴルも清も、万里の長城を越えて侵入する事は困難でした)。

一方、江南デルタでは、土砂堆積作用によって主要河川の流路が変化し、広大なエリアで水不足が起き、米作を断念せざるを得なくなりました。稲作メイン地帯は別地方に移りました(「蘇湖熟すれば天下足る」から「湖広熟すれば天下足る」へ)。

江南デルタの中央部では桑、木綿、麻、麦といった多様な商品作物が増え、いっそうの労働力の集約とマニュファクチュア(工場制手工業)の分業化が進みます。

江南経済は貨幣決済を強力に必要としましたが、明は現物決済主義です。そこで、江南地方では私鋳銭が増加しました(違法ではあります)。近隣の取引では様々な質の銅貨が一定の双方合意のもとに流通し、遠方の取引では広く共通価値が付与される貴金属=銀が使われました。

遠方取引(海外貿易)においては、ヨーロッパ大航海時代を迎えた事もあって、大口取引(絹・茶・磁器などの中華ブランド品)の需要が爆発的に増加しました。江南エリアでの付加価値生産力の上昇と商業発展に伴い、銀需要は飛躍的に高まります。

倭寇などの密貿易集団(海賊)が活躍した時代でもあります(※台湾の鄭成功が有名)。

※外国資本の流入による、この江南エリアの経済ビッグバンもまた、「量の問題」に帰結すると言えます。ヨーロッパ科学革命のような、将来の産業革命に連結してゆく「質における革新&革命」は、遂に発生する事はありませんでした。これは中華帝国の世界観や哲学史・科学史を考える上で、非常に興味深く、また厄介な問題でもあります

こうして明が保守した現物決済主義の経済システムは、グローバル的な時代変動の圧力の前で、立ち行かなくなりました。鎖国政策を続ける政府と、自由貿易を求める民間。相反するベクトルの中で、双方の距離は拡大し、身分や貧富などといった社会格差、大きくは南北格差も巨大になって、明は内乱で疲弊します。その明に取って代わったのが、清でした。

清は、明帝国の後裔という立場上、明の経済政策を概ね敷衍していました。

近現代の財政(国庫スタイル)とは、非常に異なったスタイルです。プレ近代の中華帝国には、「国庫(大蔵省・財務省)」という一括的な財務処理機関の概念がありませんでした。

理論上、国富はすべて皇帝の下に集結するのですが、実際の「国レベル税収項目」は「国レベルの支出項目」と一対一で連結していなかったのです。地方ごとに、(国庫的な)負担項目と負担レベルが決まっており、地方は中央の裁定に従って、個別に全額を納入しなければなりませんでした(差額による相殺は無し。つまり国税&地方税、国家財政&地方財政、という統一的な概念も無かった)。

このようにバラけた国富管理(歳入/歳出)を、限られた政府役人メンバーのみで正確に把握する事は不可能です。ゆえに、清は、定額管理財政を志向しました。

しかし実際の行政支配においては、国家予算の額が通年平均を超える事もままあります。このような事態に、定額管理財政は対応できません。そこで、不足分の予算を確保するために、臨時の追加徴発や付加税という形での収奪が、不定期に、かつ頻繁に行なわれました(国債という概念は生まれなかった)。

ここに、官僚汚職(私的かつ不法な収奪、および差額の着服)の基盤が、強固に確立し定着する余地がありました。

清は、共通決済通貨として「銀」を公認しています。銅鉱山の開発を進めたため銅貨も増えましたが、明スタイルを引き継ぐものとなったため、貨幣管理に国家権力が介入する事はありませんでした。

そのため地方では多種多様な私幣(現地通貨)が弾力的に運用され、専門の金融業(銀行業、信用投資、保険業、帝国内部の共通の株券・証券など)が発達しませんでした。

「関税」の扱いもまた同様です。それは、清の海禁政策の実施において、帝国の内と外を峻別する「国境」概念と結びつくことはありませんでした。内地の交通・流通を、国境および国境外(客家・華人経済圏の及ぶ限り)にまで延長したものとして、取立てが行なわれていたのです。

※この「国境」「関税」に対する定義の曖昧さは、現代にまで持ち込まれているようです。中華帝国の版図の野放図な拡大現象は、これで説明できるかも知れません。ボンヤリとした定義の都合上、「中華帝国」における「国境」は、無制限に膨張する性質を持っていると言えるでしょう

さて、清の時代に、領土の膨張を遥かに凌駕する勢いで、激しい人口増加があった事が知られています。この人口増加は「パイ(限られた土地・資源)の奪い合い」を激化させ、社会における貧富の格差をいっそう拡大しました。昔に比べると、働いても働いても収入が増えない…すなわち人件費(賃金)の著しい低下という形で、「量の問題」がここにも発生していたのです。

こうした社会は、必然として摩擦や紛争(械闘)が増えます。これらを中心になって処理したのが、民間結社、つまり地縁・血縁を基盤とする中間団体でした。こうした団体は、私幣(現地通貨)運用に関して強い権限を持っており、その価値を保証するため、しばしば密貿易にも関わったと考えられます。

以上のボンヤリとした国境概念、華人(私幣)経済圏の増加、膨大な貧民の発生といった変化が、緻密に張り巡らされた密貿易ネットワーク(地下経済)を発達させました。密貿易を専門とする秘密結社は、星の数ほど存在した事が知られています。

《近代化直前(19世紀アヘン経済発生~アヘン戦争とその後)の中華経済》

清における国家と民間の経済の巨大な乖離の故に、アヘン経済は成功しました。

清はアヘンを禁じていましたが、無数の秘密結社が、国内需要にこたえて大量のアヘン取引を行なったのです。塩の密輸市場を遥かに超える勢いで、アヘン市場が急成長した事が知られています。

元々、海外貿易における大口取引では、国家公認の少数大手の貿易商がメインでした。外国商人の注文に応じて、清の商人が国内から商品を買い付けるという形です。イギリスの場合、発達した株式や銀行によって巨大資金を集め、大口発注を増やすことが可能でした。それに対して清公認の商人は、各地方から資金を集める事が不可能でした。貿易量の増大と共に、金融処理の限界が来てしまったのです。

清公認の商人は、イギリス各国に借金して運転資金を捻出する羽目になりましたが、返済能力が無いため倒産する商人が多く、商取引は滞りました。

そこに非公認の華人貿易商、つまり秘密結社が進出する余地があったのです。非公認の華人貿易商は、外国から資金を提供され、貿易商品の買い付けを担当しました。いわゆる買辦企業の始原です。非公認であるため、私利を追求しての密輸も脱税も、日常的に行なわれていたと推察できます。

アヘン貿易もまた、このような密貿易の容易な構造の中で、発達したのです。更に言えば、アヘンは銀に代わる高額決済通貨としての価値があったため、国内流通においては、大きな混乱は無かったと言われています。

※清帝国から大量の銀が流出しましたが、アメリカ西海岸やオーストラリアのゴールドラッシュにより、新たな中華ブランド商品の消費市場が生まれたため、銀は再び清帝国に流入し始めました。その様相を見ると、総じて、買辦企業(華人商人)の方が取引の主導権を持っていたとも言えます。それゆえ、不満を持った外国企業との間で、しばしば紛争が起きました。アヘン戦争は、その拡大版として理解する事が可能です。

買辦企業を運営する華人商人と外国商人は、アヘン戦争などの大きな紛争を重ねながらも、結託の度合いを増します。アヘン戦争後に条約が結ばれ、その結果、爆発的に増加した貿易取引は、外国商社と華人商人がメインです。そこには、条約によってより参入の度を増した外国商人による、現地銀行の設立がありました(新たな金融業の発生)。

外国銀行は、外国商社に対する融資や、華人との貿易取引における送金決済を処理すると共に、外国通貨建ての現地通貨を発行しました。清にとっては、従来の、国境を曖昧とする華人(私幣)経済圏の拡大版と言えるものであります。

対して、清国内の金融業務を担当したのが、土着金融機関の「票号」「銭荘」でした。「票号」「銭荘」は、業務拡大にあたり、やはり清国内から資金を集める事が出来ず、外国資本の融資に頼っていました。

海外・外部からの資本流入によって貿易量が増加し、江南デルタを中心とする流通経済が(地下経済も含めて)極度に活性化するという、現代中国でも見られる他力的な経済発展スタイルは、明・倭寇(ヨーロッパ大航海時代)の頃から既に存在していたと言えます。そして、その発展の有様は、常に「質の革命」を伴わず、「量の増大」のみの現象となりました。

「量の問題」は、ここにも共通して見られるものであります。

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中華ナショナリズム・考

中華の近代史を垣間見する事を通じて、中華ナショナリズムの内容を見透かしてみる…という風に書いてみたいと思います(ちょっと難しいかもですが・汗)。

詩的:「シナの問題はすべて量に還元できる」http://marco-germany.at.webry.info/200803/article_1.html

(と言う事は、「中華の歴史の謎は、経済に始まり経済に終わる」と言えるかも)

★まずは、地理・版図とか。

今日、我々が「中国(中華人民共和国)」として認識するエリアを確認。

中心となるのは、英語で「China Proper:チャイナ・プロパー」、即ち「中国本土」と呼ばれる範囲。伝統的な歴史用語で言えば「中原」でしょうか。英語の定義はハッキリしていて、「元々のChina」と言う意味であり、秦の始皇帝が支配した(と、されている)版図に由来しています。

その周縁部が、現代の中華人民共和国が主張する周縁部の最大版図と言う事になります。此処では近現代史に注目したいので、目下、領土問題などで騒がしくなっている南沙諸島などは省いて、1945年~1950年ごろの版図をイメージしたいと思います。

★歴史を垣間見。

黄河流域すなわち中原が、古代における中華揺籃の地でした。

黄河流域は、地理や古代史上の群雄割拠などで見ると大きく3ブロックと見る事が出来ます。

関中盆地(渭水流域)、洛陽盆地(洛水流域)、河北平原(太行山脈)。

いずれもアワ・キビ農耕ないし遊牧による生産を主とした寒冷地であり、気象激変(春夏旱魃、夏秋大雨)を恐れる自然環境の中にありました。

黄河氾濫がいっそう激しくなった頃に、治水事業に力を注ぐ古代王朝の時代が展開しました。 そして、灌漑テクノロジーが発達し、生産力を飛躍的に伸ばします。最も早期に技術力および生産力のトップを築いたのが、関中地域でした。

古代の歴代王朝は関中に都を築き、国富の半分以上が関中に集中しました。首都・長安の時代でもあります。

ただしこの長安、防衛拠点としては優秀でしたが、交通事情が悪く、飢饉の時に周辺から食糧を運び込むのが難しかったので、都内の食糧事情はたやすく悪化し、たびたび多くの流民=人口移動を発生させました。

流民は何処へ向かったか。まずは洛陽盆地の大都市・洛陽です。防衛機能は長安に比べるとずっと弱かったのですが、昔から物流の拠点として栄え、食糧の確保も容易でした。

唐帝国の時代になると、こうした、食糧危機をきっかけとする人口移動が激化します。領土の急拡大と共に都内の人口爆発も進み、関中地域だけでは都内の人口を維持できなくなっていたためです。そして、「中華」は黄河流域から溢れ出て、周縁部への大量流出を始めました。

★中華ナショナリズム史

魏晋南北朝に始まり唐宋帝国に続く、この「反劇場都市(伝統的な古代都市コスモスの崩壊=皇帝なき桃源アルカディア夢想)」と「反都市(飢餓難民パワー)」に彩られた、危機の時代にこそ、逆説的に、河北を淵源とする中華ナショナリズムの種子が蒔かれたと考えるものであります。

「シナの問題はすべて量に還元できる」…河北から溢れ出した「量」は膨大な物であり、それは江南を圧倒したと言う事が出来ます。

唐・宋の時代に起きたのは、長江流域の大征服と、それに続く大開発です。宋帝国は長江流域に首都をおきました。宋帝国の繁栄は、更なる人口爆発を生みました。

長江流域が河北勢力に占領されたと言う事実は、政治力において、江南勢力が、河北勢力のそれに劣っていたと言う事実を暗示するものであります。河北中原を発生源とする中華ナショナリズムの行く末は、この唐・宋の時代に固定化したと言えるかも知れません。

「江南コンプレックス/桃源の夢想(by大室幹雄氏)」と「中華ナショナリズム」は、おしなべて「中華」という世界観を明確に持つエリート支配者層の心理において、裏と表の関係を成している…

端的にいって、戦国期的な渾沌と自由の再来にも関わらず、世界解釈の枠組みが伝統として完成されすぎていたのである。そのため世界を初め、国家、社会、人間をめぐって未来を展望し、それらの新たな諸関係を構想し、世界解釈全体を構成しなおす想像力の潑溂はどこにも湧き起こらなかった。 /大室幹雄・著『桃源の夢想』より

※大室氏の指摘には、改めて「成る程」と思わされるところがあります※

長江流域(江南)の特徴は、大局的には黄河と似通った地形を持ちながらも、その流域に展開する複雑な地形により天然ダムを多く生じるため、ダムの調節機能が働いて、水位が安定してくる(運河として極めて有効)という事です。

このため、江南は、生産力において河北の上位に立ちながらも、国家的危機に対する強力な政治的対抗力を持ちえませんでした。宋が、いつの間にか政治的には弱体化し、新たな河北勢力として現れた遊牧騎馬民族の王朝に対抗し得なかったのは、まさに、この江南ジレンマによる物と言えるでしょう。

※この「政治的な戦力において、より劣勢である」という事実は、日本にも言えます。日本と江南とは、自然環境も文明的・政治的発展の有様も、いやに似通っているのです。日本が江南に比べて幸運だったのは、ただひとえに、海によって隔絶されていたからに他なりません(汗)

江南の開発には前期(3世紀~9世紀・魏晋南北朝~唐代)と後期(10世紀~・宋代)があります。俗に「江南デルタ」と呼ばれる低湿地の開発が進んだのは後期です。宋の時代に、海水の進入を防ぐ護岸工事が進み、広大な稲作地帯が生まれました(蘇湖熟すれば天下足る)。

★分裂動乱と中華ナショナリズム

中華ナショナリズム/中華イデオロギーの問題を考える時、中原に展開した遊牧騎馬の社会と農耕社会との折衝・交渉の歴史を抜きにする事は出来ません。

日本や西洋で展開した「国民意識(ナショナリズム)」と同じような地理的・歴史的尺度で考えるのは不可能です。ここに「中華」という概念の特殊性があります(=「シナの問題はすべて量に還元できる」)。

黄河流域すなわち中原は、西域に展開した遊牧騎馬民族と関係の深い土地であり、しばしば、貿易・略奪・戦争・官僚汚職の現場となりました。群雄割拠…分裂抗争の頂点を構成する土地でもあったのです。

山西省や河北省は、江南へ向かって拡大を続ける中華世界に対して、しばしば分裂勢力を生み、歴史的には、しばしば大陸動乱の発生地となっています。西域と密接な地政学関係にある都市(長安・洛陽)が歴代王朝の首都に選ばれたのは、こうした分裂動乱に備える必要があったためです。

必然として、軍事費・領土の占領&掌握のための出費が異常に突出しました。これこそ、まさに「量の問題」であります。古代から現代まで、河北と江南を強引に一体化して成立した「拡張版の中華」を彩り続けてきた特性でもあります。おそらく未来もこの特性を保ち続ける筈です(地政学的状況が不変である限り)。

現在の中華人民共和国は、長安・洛陽では無く、北京を首都としています。北京は中原の最北端に位置し、「中原の中心に都する」という河北の伝統的な中華コスモス観からすると非常に偏っていると言えますが、近現代の国際状況がもたらした特殊な事態かどうかは、後の時代になってみないと分かりません。

※朝鮮半島とロシア、両方の動きに素早く対応できる地政学的位置にあると言う事は指摘できます。更に言えば、その視線は、日本ひいてはアメリカに向いているのかも知れません。「海に近い位置でもある」という事実には、奇妙に暗示的な物を感じます。

首都・北京(紫禁城)は、元々は明の時代に永楽帝が首都とした事に由来します。当時、モンゴルを辺境に追い払い、その後もモンゴル対策が必要だったという事と、皇帝の地元が北京だった事、という理由が指摘されています。

その後の清帝国は、建前上、明帝国の後裔という立場であり、北京(紫禁城)をそのまま受け継ぎました(清の本拠地は東北部・満洲にあった)。

近代の中華ナショナリズムは、最初は清朝末期、西欧列強に対する利権奪還という「国民的行動」を通じて、 全土レベルで燃え上がった物でした。

それは、日本の明治維新をモデルにした辛亥革命に、必然の如く連結して行きましたが、結局は地域軍閥ごと・エリートごとの抗争の中で挫折します(皇帝・袁世凱の失敗の問題もあり複雑化します)。その後は抗日戦線においてロシア共産党との共闘があり、満洲・朝鮮半島の動乱がありました。

ちなみに傀儡帝国と言われる満洲国(1931-1945)の首都は「新京」、「中華民国の後裔としての台湾」の名目上の正式な首都は「南京」。ある意味「中華に対する分裂独立勢力であった/である」と言えるのかも知れません。

近現代(19世紀~20世紀)を彩った政治的危機は、おそらく「拡張版の中華(河北&江南)」においては、歴史上最大の四分五裂の危機であり、おそらくは最大範囲にわたって最大影響力を及ぼしました。

辛亥革命や中華民国・日中戦争(抗日戦争)といった分裂動乱の時代は、首都の位置も、南北の間で揺れ動きました。この最大危機が、逆説的に、科挙エリートや富裕層の間で、「中華ナショナリズム」の拡大激化を促したと言えるでしょう。

※一応、元=モンゴル帝国が最大版図ですが、モンゴル帝国は広大すぎたし、早々と分裂し始めたので、中華化が間に合わなかったとも言えます。情報の展開スピードの問題もあるかも知れません。

しかし、近現代の「国民国家/国民意識」を構成する筈だった近現代の「中華ナショナリズム」は、「拡張版中華帝国の領土分裂の危機」に際して、ゾンビの如くよみがえった「古代的な中華イデオロギー」の下敷きになり、複雑骨折して行きました。

(戦後の歴史教育においては、それは「反日」で裏付けられる物となっています。通常、常識的に言及される「国民国家の誇り」と連結するナショナリズムとは異なっており、古代都市に由来した中華エリート意識に依存しながら他者依存性を強めたナショナリズムという点で、それは「非常に歪な"何か"」と申せましょう)

★当サイトなりの「中華ナショナリズム」に対する見解&結論

「シナの問題はすべて量に還元できる」…中華帝国の財政は、かなり特殊な様相を呈します。

今日、先進国が国民全体からの税収で国家財政を成り立たせるのとは対照的に、中華帝国では、ごく一部の富裕層からの税収で国家財政を成り立たせて来ました。

大多数の人民の数が多すぎて、把握しきれないからです。戸籍システムは、中華世界の拡大と共に拡大発展する事はありませんでした。ひとえに「量の問題」なのです。戸籍の格差に伴う特権や税収、「国家財政の皮をかぶった"何か"」は、伝統的に、都市の富裕層を中心に展開しました。

「都市」という網目ポイントのみで構成される中華帝国、それは、周縁部の領土の広大さに対して、遥かに「小さな政府」を呈します。中央(中原・中華・特権階級)における驚くべき富の集中と蕩尽、「皇帝」を中心に展開する特権(ないし権力)、そして大多数の周縁部・下層階級に対して展開する盲目的な搾取とそれに伴う汚職の横行、それは「国家の目」の及ぶ視野を「中原」のみに限った、「小さな政府」にして可能な事であります。

現代の中華人民共和国の財政状況を見ても、富裕階級を成す国有企業や官僚のみが肥え太り、大多数の民間企業・庶民は搾取され切り捨てられる…そういう、古代社会のコピーの如き、歪なまでの「小さな政府」&「格差社会」の存在を指摘できる。

絶望的なまでの格差社会が生み出す、「富裕」に象徴される中央・中華(エリート層)への憧れ、羨望…

社会的・国土的・歴史的には分断状態にある筈の、広大な領土を結びつけるのは、中華イデオロギーを現実化した都市たちによる、網目の如きネットワーク。その網目から漏れ出すかの如き、人口流出…そしてそれに伴う、領土の分裂性と膨張性。

拡大深化し続ける政治混乱と矛盾を内部に含みながらも、なおも外側へと膨張を続ける帝国。日本の隣にあるのは、そういう「異形の帝国」だと言う事実を、我々日本人は、きちんと考える必要があるのだと思います。

【孫文の演説:中華民国の建国宣言の時の「中華民国臨時大総統宣言書」】

「国家の根本は人民である。漢、満、蒙、回、蔵の諸地方を一つにして一国家とするとは、すなわち、漢、満、蒙、回、蔵の諸族を一つにすることである。…これを民族の統一と言う。…武漢を皮切りに十数行省がまず独立した。いわゆる独立とは清廷の支配から離脱し、各省が連合することである。蒙古、西蔵の願いもまたかくのごとし。行動を統一させ、道を踏み外さず、重要決定は中央で行い、縦糸横糸を四方の境界に張り巡らす…これを領土の統一と言う。」

この宣言には、漢、満、蒙、回、蔵の五族を一つに融合同化して単一の「中華民族」を創出するという意図が含まれている。五族が各々自主独立するという「民族主義」は、列強の侵食を許す分裂亡国の民族主義として退けた。

【1920年~1921年の孫文の言葉】

「我が中国のあらゆる諸民族を一つの中華民族に融合せねばならない。同時に中華民族を文明的民族に作り上げなければならない。そうして初めて民族主義は仕上がったことになる」
「中国に唯一存在して良いのは漢族=中華民族の民族主義のみで、他の民族の独立を謳うような複数の民族主義は存在してはいけない」

優秀な漢族が中心になって、遅れた他の四族を指導し平等化するという中華民族国家体制を想定している。この意味で「近代化した華夷秩序/中華イデオロギー」と言える。中華ナショナリズムはこのように、「民族平等思想」と言う名の新たな中華思想の下敷きとなり、複雑骨折していった。現代の中華人民共和国は、この孫文の「民族平等思想」を継承している。

現代の「少数民族」には相反する二つのイメージがある。「大一統の下に凝集」「保守で落後」。これが少数民族優遇政策の際のイメージとなっている。少数民族の到達目標は漢族とする。少数民族は皆、漢語を学び、漢族的な思考・行動様式を取るように指導される対象である。 民族独自の生活様式や宗教信仰の自由は、中国共産党に許容される範囲内に限られる。

【習近平の演説:2015.09.03北京軍事パレードにて】

「靡不有初、鮮克有終(初め有らざるはなし、克〈よ〉く終わり有るは鮮〈すく〉なし=誰でも最初は頑張れるが、最後までやり遂げるのは少ない) 。中華民族の偉大な復興の実現は、一代、そしてまた一代の人々の努力が必要だ。中華民族は5千年以上の歴史を持つ光り輝く文明を創造した。必ずやいっそう光り輝く将来も作り出すことができる。」

過去の歴史をどのように認識し解釈しているか、その内容も窺える演説となっている。「中華民族」は近代に出来た言葉であり概念だが、その概念を5千年に渡る過去の大陸史に一気に投影する事で、現在の状況を正当化するという形になっている。


『シナ(チャイナ)とは何か/第4巻/岡田英弘著作集』藤原書店2014
https://twitter.com/history_theory/status/1615361771279355905

日本は長くシナ文化圏にあった。
ところがそれが逆転して、シナが「日本文化圏」に入るという世界史上の大事件が起こった。 日清戦争における清国の敗北である。
なにしろ、わずか30年前に欧化政策を取り入れ、近代化の道を歩み始めたばかりの日本に、清では最新の西洋式軍備を備えていた李鴻章の北洋軍が壊滅させられたのだから、ついに清朝も近代化の必要性を認めざるを得なくなり、海外に留学生を派遣して官吏に登用し、やがて1300年続いてきた科挙は廃止された。
シナは独立性を失い、世界史の一部、それも日本を中心とする東アジア文化圏に組み込まれた。 そして、10万人を超える日本留学経験者が持ち帰ったものが、現在の中国文化の基礎をつくった。
なかでも最も根本的なのは、日本語がシナの言葉に与えた影響だった。
清国留学生は、日本の教科書や参考書を読んで大喜びしたはずである。
西欧語はチンプンカンプンでも、日本の本には漢字がたくさん使われているので、どれを読んでもなんとなく意味がわかる。
もともと漢字は不完全なコミニュケーション・ツールで、異種族同士の符牒に過ぎないので、なんとなく意味が通じればそれでいい。
日本語がわかろうがわかるまいが、日本語の発音がどうであろうが、そんなことは問題ではない。
もともと何かを突きつめて100%理解しようという文化は彼らにはない。
すべてアバウトな「馬馬虎虎」(まあまあ適当に)とか「差不多、一様」(大した違いはない)とかいう精神で生きているから、日本人の翻訳した漢字の並びを見て、6、7割わかればそれで充分だった。
ヨーロッパの最先端の思想が、日本語の漢字の並びを眺めているだけで漠然とわかるのだから、これは便利だとばかり、そうした「和製漢語」を本国に大量に持ち帰った。
日本がすでに30年かけて、これだけの「漢語」をつくっているので、これを使えば、我々は2年くらいで近代化(西洋化)を終えて日本を追い越せると考えたのである。
そのメンタリティは現代でも変わっていない。

2015.09.01ホームページ更新

★第二部・第三章「七夕」=コミック&字幕ともに完成しました。

⇒ホームページ内:物語ノ本流コーナーから飛べます

第二章「夏越祓」の部分だけでは内容が終わらず、「章という形で続きを語る」という感じで作成していました。しかし、予想以上にギュッと内容の詰まったパートになりました。

新しい登場人物は、物語のもう1本の幹線を成す重要人物・叡都(エイト)王です。最初はボンヤリと、御影王に対して対照的な人物=それじゃ、名前も対照的で「輝弥(カグヤ)王かな?」という感じで動かしていたキャラクターでした。

…が、「七夕の章」を作成している内に、この「今様の光源氏」という人物の周辺=特に父親に当たる人物の名前がハッキリと決まった(=叡仁王)と言う事があり、自動的に「叡都王」と決まりました。

キャラ詳細は物語の中で語って行く予定ですが、この叡都王、なかなか複雑な人物です。味方/敵に対する態度の、二重性格と言っても良い程の、激しい落差。そして、無能とみなした部下は、実にアッサリと、クビにする…厳罰を与える事も厭わない。いずれにせよ叡都王は、穏やかな性格の人物ではありません(御影王の短気な性格と、出方は似ているけれど)。

…叡都王の人となりについて、ちゃんと描き出せたか、それが分かりやすい形になっているかどうかは、今のところ自分では判断がつきませんが、とりあえず、要点はクリアしたと思います。

他にも新しい登場人物があります。派手キャラにせよ、地味キャラにせよ、以後の章でそれなりに特色のある行動をする予定です。

描いていて一番楽しかったのは、鳩屋敷顕輝(はとやしき・あきてる)。生まれながらの、苦労知らずの御曹司。性格も特にヒネくれておらず、派手で陽気で、楽しい人物です。

当時は、有力な貴族が国政に関与した時代であります。大貴族の御曹司=将来の大政治家としての、まともな業務能力があるかどうかについては「超・特大の疑問符」が付くのですが、気楽な遊び仲間としては、最高のお相手かと思います。

後は、明日香姫の父親=京極大納言キャラが、どのような印象をもたらすか知りたいところであります(一応、オババを解説係に見立てて「神経が細い人物」と紹介してある)。

父親(京極大納言)と娘(明日香姫)の口論シーンは、楽しく描けました。この遠慮無しのやり取りは、カモさんに割と印象を残した…という設定になっています。

その後、カモさんは瀬都について、「瀬都姫という事は、何度も考えていた」と言及しています。目下、表と裏に渡る様々な理由があって、瀬都の事は、「公的には使用人」として受け入れているという、曖昧な状態。将来的に、本当に養女として受け入れるかどうかは、まだ未知数であります(物語の流れ次第です)。

★呪術方面でも新しい設定や説明が展開★

呪術に関わる最強レベルの霊威=「敷星(シキボシ)」「ミカボシ」「守護星」の三種類があるという設定です。他には、特に「**ホシ」と呼ばれるような存在は無く、この三種類だけが別格です。

【シキボシ(敷星)】
強大な呪術が施された金属物であり、魔法陣の術を通じて土地を制圧し支配するという呪力作用を持つ。最も普通に見かける妖霊星である。
ごくまれだが、シキボシが破裂し暴走した場合は、即死性の猛毒として作用する(鉱毒や水銀毒が強烈になった感じ)。
ちなみに、木や石も、やろうと思えばシキボシ加工は可能である。ただし、加工に膨大な手間が掛かるため、実際に利用するには不便すぎるのである(「桃栗三年・柿八年/石の上にも三年」と言う)。これらに比べれば、金属は、瞬間的かつ容易に呪術工作が可能である。

「守護星」の定義は今のところ謎めいていますが、「守護」というネーミングから想像されるアレコレ、という感じで理解してOKです。古い言葉にすれば「守星(モリボシ・モロボシ)」とか「御守星(ミモロボシ)」という風になります。しかし、その辺は単なる言い換え(フリガナの問題)なので、余り意識しなくても良いです

破壊的な呪力作用に満ちた妖霊星(シキボシ・ミカボシ)とは違い、守護星は、一般に有害な影響はありません。瀬都にしても、「自分の中に守護星がある」という事実を全く感知しておらず、何か妖術を使っていても、「全く手応えは無い」と言及しています(「夏越祓」50-51頁,参照)。「手応えの無いホシ/実感の無いホシ」と言う事は確実に言えます。

これまでのストーリーから分かる点だけ書き出してみると、以下の通り:

◇ミカボシは暴走する(人間にはコントロール不可の)呪力&霊威の塊であるが、守護星の力を利用すると、何故か、ミカボシの霊威を自由自在に操れる。破壊に使うのも守護に使うのも、思いのまま

◇ミカボシのような、特定の血筋に関連する霊威では無い。守護星は、何らかのきっかけで、獲得されたり失われたりする物である。その獲得/損失レベルに応じて、霊力の強弱に増減があるらしい。守護星は非常に数少ない存在らしい(=シキボシ・ミカボシに比べると、明らかに希少)。完璧な守護星を獲得した呪術師は、ミカボシの猛威をも自由自在に操れる故、最強レベルの呪術師となる

◇守護星が、極めて濃密な霊威の塊である事は確かである。その高密度の霊威によって、精神は乱れるものの、身体の傷の治癒を劇的に早める(=これは普通の霊力でも同じ作用があるが、やはり守護星となると別格である)。また、呪術師の能力の無い一般人を、呪術師にする作用があるらしい

※実際、瀬都の大怪我は、いつ死んでもおかしくないレベルだったのだが、守護星の一部の欠片が入ったお蔭か、上京の長旅に耐えられる程度に傷が塞がった(実際、雪森郷事件の1ヵ月後には、既に都へと向かっていた)。まさしく「守護」作用なのである。そして瀬都は、まぐれ当たりレベルだが、呪術を使ったと言える