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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

太元帥法,太元帥大法2022.10.03開催Web記事

■秋の三宝院特別拝観~太元帥大法後拝み~1170年間伝承される真言密教最大の秘法「太元帥大法」を150年ぶりに醍醐寺で厳修。法要終了後の道場を参拝
https://www.value-press.com/pressrelease/305198

太元帥大法は、仁壽二年(852)より毎年正月八日開白し七日間、宮中(後には醍醐・理性院)に於いて、太元帥明王を本尊として修し、宮中の真言院(現在は教王護国寺)で毎年正月に真言宗各本山の代表の高僧によって行われる国家安穏を祈る後七日御修法と双璧をなす大法のことです。この法は真言密教の秘法である儀軌や経典、陀羅尼経等を所依として、鎮護国家の為に修する最大秘法です。

■PDF論文「太元帥法について」(A4用紙14ページほど)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chisangakuho/69/0/69_135/_pdf/-char/ja

(コメント:150年ぶりと言うのがスゴイ)

■150年ぶり再興 国家安寧祈る「太元帥大法」 京都・醍醐寺(毎日新聞2022.10.04)

醍醐寺(京都市伏見区)の別院、三宝院(さんぼういん)(真言宗醍醐派大本山)で3日、国家安寧を祈る「太元帥(たいげん)大法(だいほう)」が始まった。平安時代から営まれてきた真言密教の修法で、明治初めの1871年を最後に途絶えていたのを、醍醐寺では約150年ぶりに再興した。
普段は弥勒菩薩(みろくぼさつ)座像を安置している三宝院本堂に、怒りの表情の太元帥明王(たいげんすいみょうおう)像の仏画など6幅を掛け、9日まで営む。天皇の健康安全や国家鎮護を祈る「秘法」のため非公開だが、法要後の10日から12月4日まで堂内を公開して参拝を受け入れる。
太元帥大法は852年の正月に宮中で行われたのが始まりで、室町時代以降は、醍醐寺の別院、太元帥明王を祭る理性院(りしょういん)で営まれてきたとされる。天皇の即位に合わせ、大正初めの1915年、昭和の1928年には東寺の灌頂院(かんじょういん)(同市南区)で行われたものの、平成では見送られた。
醍醐派では「継承が難しくなる」と再興に向けて準備を進めてきた。新型コロナウイルス禍で2年延期されていたが、ようやく実現した。
大法は、仲田順和・醍醐寺座主(三宝院門跡)が導師となり、全国の醍醐派寺院の僧侶14人が務める。3日は、僧侶らが三宝院本堂へ進む様子が報道機関に公開された。

大元帥法(だいげんすいほう/だいげんのほう):真言密教における大法(呪術)の1つ。

大元帥明王(だいげんすいみょうおう):真言密教では「太元明王(たいげんみょうおう)」とも云う。非アーリア系鬼神アータヴァカに由来。すべての明王の総帥として「大元帥」を冠す。

国土守護および怨敵・逆臣の調伏、国家安泰に絶大な功徳があるとされ、これを祈って修される法が「大元帥法」である。承和6年(839年)常暁が唐から法琳寺に伝えた。

翌年、常暁は大元帥法の実施を朝廷に奏上し、仁寿元年(851年)に大元帥法を毎年実施することを命じる太政官符が出され、この年に大元帥法が成立したと言われる。

当時は、毎年正月8日から17日間、宮中の治部省の施設内で行われた。

中世になって法会の一部が廃れたり戦乱で散逸する事例が増える。大元帥法はこれらの儀式を吸収し継承した。このため、御斎会など他の中絶した仏教儀礼が意図していた「五穀豊穣」や「玉体安穏」を含むようになった。

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研究:中華経済の近代史(後篇)

《研究:中華経済の近代史(中篇)から続く》

《20世紀の中華経済…旧弊社会構造の打破&国民経済の建設》

上海バブルの時代、大量に流通した中央銀行券は、各地方の工業生産の国内回帰とシンクロしつつ、各地方の財源と中央財源とを、強力に連結しました。

しかし戦乱の疲弊から回復した西洋列強は再び金本位制に復帰し、為替レートが逆転しました。銀価は再び下落します(政府銀は下落、民間銭は上昇)。

これは、中国の工業・製造業にとっては生産コスト割れを意味しました。

中央政府にとっては、余剰財源の収縮によって貨幣の信用が目減りし(=つまり以前に比べて、相対的に大きな金額で信用を保証しなければならない)、借金返済で苦しくなるという事態をもたらしました。

打開策として、関税自主権の回復が主張されましたが、このためには列強と渡り合うための強力な中央政府機関を必要としました。袁世凱の死後、軍閥抗争のさなかにあって、北京政府は弱体化する一方であり、これに代わって勢力を伸ばしたのが、蒋介石の南京国民政府でした。

国民革命を標榜した南京国民政府は、経済界の期待に応え、関税自主権を回復(北伐1926~1928、北京政府を打倒し全国統一)。その後の世界大恐慌(1929)の影響で強力なデフレに見舞われましたが、中央政府は銀を国有化して一元的管理紙幣「法幣」を発行、これを地方政府に買い取らせ、その一方、兌換に関わる金銭管理を厳格に運用する事で為替レートを安定化させ、財政を立て直しました。

しかし、この動きは国民経済の確立に結びつく物ではありませんでした。国共内戦(1927~1937)や日中戦争(1937~1945)は、大陸的な視野から見れば、地方軍閥割拠、および軍閥抗争の延長線上にあったと言えます。

日本は満洲国を中心にして長江流域の経済圏を分断しましたが、重慶に立て篭もった南京国民政府を打倒できず、分捕った利権の再構築(=経済的統合)も成し得ないままに終わりました(1945年、日中戦争の終了)。

第2次世界大戦においても戦勝国となった南京国民政府でしたが、分断された長江流域の経済圏の統合という課題が残されました。南京国民政府は有効な政策を打ち出せず、更に、地方軍閥割拠の延長として、国共内戦が再開します(1946~1950)。

全国統一を成し遂げたのは、毛沢東・周恩来が率いる国民共産党(中華人民共和国)です。

南京国民政府の中央集権化プロジェクトを、共産党政府は引き継ぎました。それは、20世紀半ばにおける時代上の要請ともあいまって、旧来の伝統、すなわち「官/民」における激しい経済格差や、身分差をもって成る旧来の社会構造への挑戦ともなりました。

共産党政府による「大躍進政策(1958~1961,経済振興政策の一種?)」や「文化大革命(1966~1976)」は余りにも有名ですが、その「革命的意義」は、2点に絞る事ができます。

【土地革命】・・・階級闘争を通じて地主を打倒、土地の再分配を実施して貧富の格差を解消すると共に、地域の利権構造に介入して「官/民」権力構造を打破し、再編を促す。底辺の庶民社会への中央権力の浸透を図る。

【通貨統一】・・・南京政府は莫大な財政赤字を計上しており、ハイパーインフレをもたらしていた。いったんは押さえ込んだが、朝鮮戦争(1950~1953)が始まると再びインフレが始まったため、三反五反運動などを通じて物資・金融の両面で管理統制を強化し、新通貨「人民幣」の安定運用にもちこむ。

共産党政府が通貨統一に成功したのは、冷戦構造の産物とも言えるでしょう。

社会主義陣営に属した事で、資本主義諸国の経済的影響が低下しました。固定相場制を採用し、結果としてグローバル経済から切り離され、大陸内部で完結する、いわば「近代版・中華人民の経済圏」を現出したのです。

《21世紀の中華経済に関する私見》

共産党政府による経済統一プロセスは、明帝国の初期の頃に似ています。

そして文化大革命後の経済を立て直すため、鄧小平を中心として実施された「改革開放(市場経済への移行)」という経済政策(1978~)があり、これは現在も続行中ですが、結果として、官僚汚職の深刻化や著しい経済格差を招いている様子を見ると、戦前の地方分立の状況へと、時代的には逆行していると言えなくもありません。

習近平は、袁世凱よろしく自らの帝政の宣言はしていませんが、自らの権力基盤を確立しつつも、「反腐敗運動(2012~)」を演出するなど、世論や民心の掌握に長けている事は確かなようです。当座のところは、「袁世凱よりも有能な、中央集権化プロジェクトの立役者にして支配者」という評価ができるかも知れません。

「反腐敗運動」は、かつて朝鮮戦争がもたらした急なインフレを抑えるための「三反五反運動1951~1953」の焼き直しと言えなくもありません。「三反五反」の結果、強烈な国家統制経済が確立しています。「反腐敗運動」にも、類似の結果をもたらす作用があると推察する事はできます。

では社会格差や身分格差は、と言うと、これはかつての「官/民」の格差を打破したにも関わらず、結局は、「高位の共産党員/底辺の共産党員&民」という風に、支配者層の名前を書き換えただけのレベルに留まっているようです。

従来と異なるのは、情報テクノロジー革命の影響が、プラス・マイナスのいずれにせよ、これまでは考えられなかった程の広い社会階層に及んでいるという事です。これは、20世紀から21世紀に至るまでの科学文明の急進がもたらした、「新たな事態」と言う事が出来るかもしれません。

共産党政府は、情報統制に力を入れると共に、サイバー戦テクノロジーを発達させています。

目下「万里の長城」よろしく「量の問題」レベルであり、そこで「質への転換(パラダイム・シフト)が生じるか」は、まだ未知数です。民間社会における世界認識が、旧来の中華思想を基盤とする内容に留まっている状況を見ると、習近平をはじめとする支配者層およびテクノクラート層の頭脳次第であるように思えます。

それに比べれば、進行中の「反腐敗運動」と言う名の権力闘争は、歴史の中で何度も繰り返されていた闘争スタイルであり、影響の度合いによっては、枝葉末節でしか無いと言えます。

従来、その枝葉末節の「量」が余りにも多い事が、伝統的に「質への転換」を不可能とさせて来た要因の一つであり続けた事は、確かです(他にも様々な要因があると思いますが、「中華」に余り詳しく無いので、この点のみです)。

コンピュータの演算能力の増大は、この状況に変化をもたらすのでしょうか?(大室幹雄氏の指摘する『桃園の夢想』という「認識の壁」を、超えられるのでしょうか)

…という疑問で、研究の記録をしめくくらせて頂くものであります。


《補足的な見解:天体運動を中国人は量的な数の問題と捉えた》

https://twitter.com/history_theory/status/1424902119304302594

山田慶児『混沌の海へ』朝日新聞出版 1975

中国人は、枚挙的な記述とその分類により、世界を体系的に把握しようとした。

だがそれは、世界の規則性と統一性を示しはしない。

それを把握するには別の原理が必用だった。

量的認識とパターン認識がそれである。

世界の多様性は、量への還元により一つの平面に射影される。

量的関係に何らかの規則性が発見されるならば、世界の統一的な像がその上に描き出されよう。

しかも、事物と現象の量的な把握は、国家統治や生産と流通の不可欠の手段でもある。中国人は量的な観測・観察・測定・実験・調査・計算・記録・説明・思索のおびただしい資料を残している。

正史には志(誌)と呼ばれる部分があり、そこには量的認識の氾濫が見られる。

天体の位置と運動についての、暦計算についての、楽器の音程についての、祭器や車や衣服の規格についての、人口についての、官職の定員と俸給についての、刑法の量的規定についての、貨幣や経済政策や土木事業についての。

しかも、量は事実として投げ出されているだけでなく、量を秩序づけ、様々な量の間に連関をつけ、何らかの規則性を発見しようとする志向がそこに働いている。

中国の天文学は代数的天文学であり、ギリシアの幾何学的天文学との鮮やかな対照を示している。

天体の運動は、すべて仮想的な球面上において、赤道座標系に基づいて量的に把握される。

惑星系の幾何学的な構造は問われない。

観測された量はいくつかの現象の複合であるが、その諸要素を量的に分離しながら、ひたすら計算を進めてゆく。

それだけに、計算法の発展には目覚ましいものがあり、たとえばニュートンの補間公式に匹敵する補間法が生まれたのは6世紀、隋の時代だった。

中国人は、天体運動を自然に備わる数として捉えたのである。

研究:中華経済の近代史(中篇)

《研究:中華経済の近代史(前篇)》から続く

《近代化を試みる(19世紀後半~20世紀:同治中興&洋務運動)中華経済》

アヘン戦争後の上海租界の繁栄は著しいものでした。現代史では不平等条約の結果として受け止められていますが、大きい意味での中華帝国から見ると、当時は、華人(私幣)経済圏のバリエーションでしか無かったと解釈できます。

しかし、「量の問題」、つまり密輸・脱税を含めて膨大な額に上った貿易取引は、無数の秘密結社や密輸専門の犯罪団体を生みました。この治安悪化を伴う変化は、清帝国に、無視できない内乱発生の因子を認識させるまでになります(太平天国の乱の発生など)。

1850年代の清は、秘密結社が関与するおびただしい内乱に見舞われ、その平定に追われました。反乱側であれば「秘密結社」であり、彼らが帝国体制側に寝返れば、「義勇軍」になりました(例:曾国藩の湘軍、李鴻章の淮軍)。別の方向から見れば、帝国内部の権力構造の再編プロセスでもあります。

義勇軍を組織していたのが省の軍政・民政を一手にあずかる総督・巡撫でしたが、これらの義勇軍を運営するための資金は清の国庫からは出ず(そもそも国庫支出という概念が無い)、総督・巡撫は大きな権限を持って経費を調達していました。

その経費は、新しい地方税「釐金(りきん)」と呼ばれ、商人からの寄付・納付という形で調達されていました。密輸を合法化してやる代わりに、上前をはねる…というスタイルで、アヘン取引もアヘンを扱う業者も、この流れに乗って、次々に合法化されていました。

※扱う商品価格の一厘(=釐,1%)の率で拠出金を課したので釐金という

清帝国は結局、内乱を平定し、新たな安定状況に入ります(これを「同治の中興」といいます)。

それと共に、地方権力者である総督・巡撫の、中央政治における立場が大きくなりました。 ここに、将来における地方軍閥割拠の原因が生まれたと言えます。

なお、この安定した時代に権力を掌握したのが、西太后と李鴻章です。

貿易取引という側面から見ると、この時代の取引量は増大しています。しかし、その品目割合は様変わりしていました。従来の江南エリア産物=高付加価値商品=中華ブランド(絹、茶、磁器)の輸出量は頭打ちになり、華北生産物である大豆、羊毛、皮革、綿花、鶏卵などの輸出が増えました。

  • 1883年1億4千万両→1903年5億4千万両:20年で4倍に増加、この増分のほとんどが華北生産品
  • ヨーロッパの蚕業・製糸業の回復あり、日本の生糸シェアも増加
  • インド製茶業の成長により、中国茶のシェア低下
  • 1870半ごろ~欧米で金本位制採用:銀価値が低下=中国銀の安値(中国にとっては輸出有利。
    同時に、国内の銅貨に対しても銀価値は低下していた。これらの為替レートの変動は、銅貨決済する農村部にとっては、外来品、例えばイギリス植民地インド製の機械製綿糸を安値で購入できるようになった事を意味する

かつて江南デルタの開港場に集中していた貿易利権は、北から南に至る各地の開港場に分散します。これらの変化は、開港場を取り巻く各地方の地域ごとの経済圏の現出、地域分業化、ひいては地方分立の様相を呈するようになりました。

外国人が管理した関所税のレポートは、不完全ながらも清帝国側の輸入超過を記録しており、当時の清の官僚たちは入超による国富の流出に警戒感を抱くようになります。李鴻章のスタッフたちが提起した対策としては、西洋流の保護関税の導入、および国内での近代産業の振興ですが、いずれも利害関係が複雑に錯綜していたため、20世紀までは実現しませんでした。

▼保護関税の実現を妨害する利害関係
欧米列強は、関税自主権に伴う不平等条約の撤廃の見返りに、釐金の減免を求めたが、清帝国にとっては総督・巡撫の権力(督撫重権)を維持する経費、治安維持費の調達になっていたから、とうてい応じられるものではなかった。
※欧米列強は、「釐金=事実上の関税障壁」と理解していたらしい
▼富国強兵&殖産興業(洋務運動の遂行)を妨害する利害関係
日本では、国家体制そのものの近代化や産業構造の高度化といった変化の一環として、富国強兵と殖産興業があった。
中国では、洋務運動は督撫重権を維持するために実施されたのであり、現代中国と同様、権力側の利権構造の一環として組み込まれていた。そのため清帝国内部の経営において、異国のごとく異なる社会階層に属した底辺庶民たちのニーズを掴む事ができず、需要と供給の食い違いが長期化し、期待するほどの利益を上げられなかった。
また、投資資金を集めて運用するルール(株式)が確立されておらず、軍需工場のような大規模工場を建築し経営するための資金の確保が困難化した。
※政府の公金支出には限りがあった/民間で公司(カンパニー)を設立して資金を出し合う方法では、法の監視が行き届かず、共同出資者の誰かに資金を持ち逃げされるリスクが高まっていた(民間マネーは不足しがちであり、企業投資に対する保証といった習慣も皆無だった。巨大な経済格差がもたらした、もう一つの困難であった)

近代経営のための解決策として、官辨(官督商辦)という方法が採られました。

すなわち国営企業というスタイルです(軍需工場は、ほぼ国営)。民需企業の分野では、経営実務を民間に任せ、政府はそれを監視するというスタイルになりました(故に、官督商辦)。

※合股=民間で新しく広がった企業経営の習慣。出資者が利権を一定額ずつ等分し、1年ないし3年の年限で運営する。出資者はほとんど地縁・血縁・知友で、連帯無限責任を持ち、外部の専門の経営者に経営実務を担当させた。経営者は、経営利益とは無関係に、限られた年限の中で出資者に利益配当や貸付利息を支払う義務を負った。これは企業経営において大変な負担を強いるものであった。従って、大規模化した国営企業に対して、民族資本は零細企業の規模に留まった(紡績業が多い)。ちなみに浙江財閥は巨大な民族資本であるが、これは買辦企業から発展したものである。

しかし、当時の官僚登用システム(科挙制度)は経営実務能力を問うものでは無く、必要な手腕を持つ人材に欠けていた事は確かです。李鴻章らは、洋務運動の一環として、科挙とは別の教育機関や留学制度を試みていますが、余り効果は無かったと言われています。

それ程に、伝統的な「官/民」の身分差は大きいものでした。能力のある庶民が専門知識や技能を修得したとしても、身分差という障害があったため、「末は博士か大臣か」といったような立身出世は不可能だったのです。また、官僚子弟たちにとっても、科挙に比べると処遇上のメリットは薄かったようです。

洋行帰りや留学生が優遇された明治日本の人材登用システムとは、非常に異なっていたと言えます。

日清戦争(1894~1895)の後、事態は急展開しました。

多額の戦費および賠償金の調達のため、従来とは桁の違う莫大な金額が動きました。これらの費用は、民間からの更なる収奪の他(=この収奪で民間は更に困窮し、義和団事件などの暴動が相次ぐ)、主に列強からの借款によってまかなわれました。その担保として、列強は、清帝国から、関税収入の他、鉄道や鉱山の利権を獲得します。

ここには、清帝国内部の構造に対する誤解があったらしい事が指摘されています。当時の清は、各地方の関税や鉄道、鉱山の管理に関しては直接にタッチしていません。これは地方官僚(地方政府?)の税収権限であると共に利権であり続けてきたものです。中央が関与したのは、地方の表面的な「国富」を動かす事だけでした。

しかし、各地方の関税や利権が「担保」と見なされた事により、存在しなかった筈の「清の中央政府」が実体化しました。「清の中央政府」は、地方官僚から各種の税収権限を没収し、中央財源としたのです。地方にとっては、「中央による収奪」でした。

これまで曖昧だった国富管理の権限の明確化・差別化は、中央と地方との間に、深刻な対立を生じるようになって行きました。清帝国内部は、地方軍閥割拠という様相を呈しました。

※最も典型的だったのが満洲の軍閥政権です。満洲では大豆が貿易取引の主力商品になりました。華北各地の開港場で起きていた貿易取引量の増大と共に、著しい経済成長を遂げます。中央からの分立状態は大きく、満洲の実質的支配者として権力を振るったのが、張作霖でした。張作霖政権は、100種以上の民間私幣を整理統合し、「奉天票(紙幣)」という満洲共通通貨を発行しました。

当然、清朝末期の中国知識人は、この有様について「中央集権的な統一国家、国民経済の進展に逆行する」と批判はしましたが、彼らもまた地方有力者の一であり、その行動は、在地権力の支持に向かいました(=つまり、「地方の群雄割拠をいっそう固定化する」事につながっていました。発言と行動が、互いに逆だったのです)。

孫文が主導した辛亥革命(1911)は、この「群雄割拠に向かうベクトル」の一つだったと言えます。実際、辛亥革命の後、13省が相次いで「独立」を宣言しています。

清朝末期の混乱を彩り、そして清滅亡に結びついたのは、こうした中央と地方の対立でした。

元・李鴻章の部下であった袁世凱は、清朝政府の中央集権化プロジェクトに協力しつつも、多くの政変を切り抜けて独自の権力基盤を構築し、辛亥革命においては、清朝の弱体化を見越して、孫文と手を結びました。袁世凱が予期したとおり、孫文をリーダーとする中華民国は支持基盤が弱く、清朝・宣統帝(最後の皇帝)の退位と引き換えに、袁世凱を孫文の後任として迎える事になりました。

しかし、多くの地方軍閥は袁世凱政府という新たな中央集権プロジェクトに反発し、第三革命(1916)を起こしました。袁世凱は失脚、および死亡し、その後は、地方軍閥の抗争の時代となります。

(1914年、第1次世界大戦が勃発すると袁世凱政権は中立を宣言したが、日本はドイツ基地のある青島を占領、翌15年に袁世凱政府に対し「二十一カ条の要求」を提出。5月、最後通牒を突きつけられた袁世凱政府は要求を受諾、激しい非難を受ける。袁世凱は帝政宣言を発して乗り切ろうとしたが、反・袁世凱運動として第三革命が発生、日英露仏の列強も帝政を支持しなかった)

袁世凱が清朝から引き継いだ形となった中央集権化プロジェクトの一つに、大陸全土の共通通貨(国幣national currency)「袁世凱銀元」の発行があります。これは、雑多な地方通貨の整理統合を目論むものでもありました。

袁世凱の死後、この「銀元」を兌換紙幣として、中国銀行券(中央銀行券)が継続的に発行されました。皮肉な事に、袁世凱の死をもって葬り去られる筈だった、この中央銀行券が地方通貨を駆逐し、ひいては地方軍閥割拠の状況を打開する事になります。

※第一次世界大戦で莫大な国費を失った西洋各国は、財源枯渇により金本位制を放棄。それまで下落が続いていた銀価は一転して急騰し、中央銀行の財源(元は関税など、金額がハッキリしている部分)に余剰金が生じ、中国では政府銀上昇、民間銭下落という状況となった。従って、中央政府発行の銀行券は財源余剰によって信用の裏づけが強化され、中央政権が起こした国債が成功するという画期的な結果をもたらした。折りよく、上海を中心とした内地で、民族資本の黄金期と言って良い程の活況(バブル経済)を呈したため、この中央銀行券は大量に流通した。