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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

異世界ファンタジー小説作品(第一部)の感想&ファンアート

拝読した小説作品(創作ポータルサイト「小説家になろう」掲載):

『ロシアンルーレットで異世界へ行ったら最強の魔法使いになってしまった件(第一部)』
http://ncode.syosetu.com/n5935dl/(2016.08.13連載開始-2016.09.07連載終了)

あらすじやタグの記載内容を見て、最初は割と警戒心を持って読み始めていたのですが、意外に正統派の王道ファンタジーになっていて、続きのパートを楽しみにしながら読み進める事ができました。一定以上のレベルのテンションを保ちながらシリーズ連載を続けると言うのは、プロの小説家でも難しい作業だと思います

序盤に置かれてあります「SF風味になっている転移篇」は、「元の世界から、これ程にも遠くまで来てしまったのだ」という科学的なリアリティを感じさせられる部分でした。この「世にも奇妙な物語」めいた序盤の数篇は、ユーモア感覚も含めて、割とお気に入りのパートになっています

※地上世界に降りた途端に、SF風味がかき消えたという点では、流石に一瞬、呆気にとられました(笑)

本編のストーリーの流れが、メリハリを付けられた状態(ホノボノ展開と緊迫展開が交互に出る感じ)で良く考えられており、「主人公は、いつ異世界の魔法の力に目覚めるのだろうか」という点では、随分ヤキモキさせられました(笑)

一方で、所々、「どんな光景が広がっているのか」という描写が薄くなった部分では、主人公の置かれた状況が余り良く分からなくなっていました。しかし、モンスターとの対決などの盛り上がるシーンや心理的な集中シーンでの描写については、ドキリとさせられる部分がありました

ストーリー情景の描写バランスが取れて来れば、前作『異世界の彼女が…』でも見られた色彩表現の鮮やかさと共に、作風の中で最大の魅力ポイントになる可能性があると思いました

なお、モンスターや魔物は異世界の定番ですが、どうやって現れて来るのか説明が無いので、その辺は、ちょっと分かりにくかったかなと思います。第二部以降で、主人公が異世界に詳しくなってくると、だんだん分かって来るのでしょうか?

  1. 元々そこに棲息していて、野生動物みたいに身を隠しながら現れて来る?
  2. 超能力があり、何処かに隠されている魔境やモンスター異次元から、自力でテレポーテーションして、いきなり現れて来る?
  3. モンスターや魔物の原料となる邪悪なマナもまた存在していて、誰かの魔法でイメージ化&召喚されて、現れて来る?

あとは、「やはり異世界標準という事なのだろうか」とジワジワ来たのは、精霊だという少女・リムの存在です。人物紹介の場で「精霊だ」と紹介されても、リムに注がれる人々の視線の、唖然とするほどの、変化の無さ。精霊と言うのはそんなに普遍的な存在なのか、それとも「自称・精霊(見習い)」が余りにも多いのか…それとも子供フィルター…

ひそかに、「異世界の不思議」と名付けました(笑)

序盤の転移篇を含めて、第一部の中で完全に回収されていない伏線が、幾つか見受けられました。第二部以降のストーリー展開の何処かで、いつか、スッキリ回収される事を期待したいと思います

目下の疑問は、主人公は果たして、(おそらくはパーティーのパートナーとなる)仲間たちに、「自分は本当は異国人ではなく異世界人だ」という事を明かすのかどうか?…ですね


《ファンアート》

登場回数の多いキャラクターについては、だんだん具体的な絵につながるイメージが溜まって来ました。ラフ程度ではありますが、個人的に感じたイメージを、色彩イラストに起こしてみました:

主人公の人相については、第一部の最終話に至ってもなおボンヤリとしたままだった…という事もあり、こんな感じになってしまいましたが…(キャラのイメージ「ぶち壊し」になっていましたら申し訳ありません・汗)

ちょっと考えてみましたが、ストーリーを進める上では、主人公キャラだけは、不特定多数的なボンヤリしたイメージのままの方が却って良いのかも知れません。この辺りは、主人公キャラの人相や特異性をハッキリさせる事で物語世界に引き込む"漫画&アニメ(グラフィック)"とは違う、"小説(テキスト)"ならではの手法のひとつであり、メリットでもありますね

2017/05/21画像作成&追加=第一部のクライマックス場面の想像図(7-047~7-048)

Molldiaz:モルディアス=ドイツ語のモル(音楽用語:短調)とスペイン名ディアスを合体

2017/03/21画像作成&追加=第一部の初登場の時から「是非、描いてみたい」と思っていた魅力的なキャラですが、なかなか印象が固まらなくて、すごく時間が掛かってしまいました。一癖も二癖もある人物は、だいたい描きにくいタイプでして、この爺さんの場合、様々な面を見せて来る物ですから、最大公約数をまとめるのが何ともハードでした(笑)

モル爺さん描画イメージのモデルになった、リアル歴史人物が3人居ます⇒世界三大提督、ジョン・ポール・ジョーンズ、ホレーショ・ネルソン、東郷平八郎

マントのデザインの方でも、「肩から胸にかけての丸型ルーン文字似のパターン刺繍」が気になりまして、「どんなデザインのマントだと、これが映えるんだろう?」と、数ヶ月間、ウンウン考えておりました。そして、2月の記事に出て来た『ロードス島戦記』女性キャラ着用の黒マントを見て、「こんな感じかな~」と、まとめました

第一部の最終盤のところで、モル爺さんとリムが祖父と孫のように向き合うシーンがあったので、「目の色は相応に似通っているのでは?」と考え、それっぽくしています(正しくは金色の目では無いですけど、ハシバミ系の曖昧な色合いを付けたので、金色にも緑色にも茶色にも灰色にも見えると思います)

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神話研究:淀姫神社と鯰

『歴史と民俗のあいだ―海と都市の視点から』宮田登・著1996年(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー2)

【地震鯰の発想・鯰と世界蛇】

鯰は淡水魚の一種であり、インドネシアから中国を経て日本列島に及ぶ地帯に生息している。鯰の独特の風貌が擬人化されて鯰男のイメージとなったのは日本の庶民の間であり、地震鯰の発想は、日本の民俗文化の一つの特徴と言えるかも知れない。

地震鯰は地域性が強いが、世界蛇の方はより普遍的である。これはイランからアッサム、ビルマ更にインドネシアの島々に分布しており、その中心はインドとその影響を受けた東南アジア地域である。大地の底に竜蛇が居ると言う神話は、インドでは竜蛇がぐるりと世界を取り巻いていると言う考え方になっている。

【鯰と巨人】

行基式と称される古地図は、列島のイメージを鯰あるいは鯨に似せているものであり、地震鯰ではなく地震鯨と言っても良い。重要な事は、この巨魚を巨人が石か剣で押さえていると言う考えである。

鹿島明神は建御雷命であり、高天原から降臨して国土を鎮めた功績により、東国の境界に守護神として鎮座した。特に北方に向かって聳立する巨人の面影がある。この大神が油断して要石を抑える力が緩むと、大地震が起きると言うモチーフは、阿蘇山の神話にもうかがえる。

阿蘇の大神は建磐竜命(たけいわたつのみこと)である。この神はかつて天皇の命により阿蘇に入った。外輪山から見ると、そこは巨大な湖である。そこで大神は外輪山の蹴破れそうな場所を探してそこを蹴破り、湖水の水を放出した。湖の主であった大鯰は流出して、麓の一の宮町に留まったと言う。大鯰が住む川を黒川と言い、別称鯰川とも言う。この鯰は大神の眷属であるから食べてはいけないと言われている。

また、巨大な鯰で尾が分かれて六ヶ村に渡っていたとか、若宮神社のご神体が洪水で流されたが鯰によって助けられて戻って来たと言う伝説もある。また大神によって大鯰が殺され、その死体は湖水と共に黒川を流れ落ち、辿り付いた土地の名を鯰と言ったり、大鯰の身体が六荷もあったので、その地を六嘉と命名したと言う地名伝説もある。

要するに、阿蘇大神は巨人であり、踏ん張って押さえていた大地を蹴破った事により、湖水の底の大鯰が暴れた事になる。鯰以前に、単に大魚が湖底に臥していたという伝説があり、大魚は大神の国土建設以前の地主神とする考え方もある。

阿蘇山頂には「神霊之地」があり、『続日本後記』承和7(840)年9月の条にも記載されている。天下に異変ある時には、この地に対して朝廷からの祈祷があり、奉幣が行なわれていたと伝えている。

阿蘇山の神話を、大地を支える巨人の変形したモチーフと見なすならば、これはむしろ、朝鮮半島に多く類話が見られるものである。ここでは抑え込んでいる筈の竜蛇や大魚の影が薄くなっている。阿蘇では、大鯰が暴れる伝承が途絶えているが、大神の眷属として守護霊に化して、現在まで伝承されているのである。

福岡県筑紫野市には、鯰の形をした3個の大石があって、これを「鯰石」と称していた。この石は、かつて菅原道真が鍬柄(すきえ)川の鯰を斬り殺したのが石に化した物と言い、大旱が続いた時、この石を酒で洗って祈ると雨乞いに霊験があると伝えている。ところが明治6(1873)年に雨乞いをした時、この石を焚いてしまった。それ以後、石が裂けてしまい、鯰がそこから多く発生して来たと言う話もある。

【物言う魚】

大鯰が水界の魚王で、危険が迫った時にそれを回避しようとして、人間たちにメッセージを送る。しかし人間はそれを十分に受け止めないままに、自然界の破局が起こると言う、共通したモチーフを持つ説話群がある。

大鯰以外にも、ウナギ・イワナ・コイ・サンショウウオなどもあって、魚類と人間の交流の在り方が、まず考えられていたのである。魚たちの住処が人間の侵犯行為によって破壊されると言うところから、「物言う魚」の存在がクローズアップしている。その事は、天変地異と言う出来事が、人間に対する天譴であるとする原初的心意に基づいている事を示唆している。

大魚はいずれも水界の主であり、その支配する自然界が人間によって浸食される事を未然に防ごうとして失敗した。その恨みから大洪水・大津波を起こすと言う結末に至っている。こういう、「物言う魚」型の鯰の伝説が、まず挙げられる。

【鯰を食べない伝説】

資料:淀姫(與止日女)神社の縁起

淀姫さんの氏子にはなまずを食うてはならぬという掟があり、食えば腹が痛むといわれている。
その昔、川上川には魚もたくさんいたが「かなわ」といって、まむしが年を経て変化したという怪物がいた。夜更けになって官人橋を渡ると、この「かなわ」に襲われて死んでしまうので、土地の人はこの得体の知れない怪物に恐れおののいていた。
ある夜、2人連れの親子が舟に乗って川魚をとり始めたが、思いもよらぬ大漁なので、時のたつのも忘れて夢中で漁をしていた。ところが突然火の玉のようなものが舟へ近づいてくる。あっ、これが日ごろ聞いていた「かなわ」だと思った途端、2人ともびっくり仰天して気絶してしまった。
それからどのくらいたったか、ふと気づいて辺りを見ると川岸に30cm余りの大なまずが死んでいた。恐ろしく腹がふくれているので、2人は恐る恐るなまずの腹を切り開いてみると、まさしく「かなわ」をのみ込んでいた。
さては、このなまずが危ないところを助けてくれたのかと感涙にむせび、このことを村人に告げ、ねんごろに葬ったうえ、今後はどんなことがあっても決してなまずを捕らない、なまずは食わないと淀姫神社に固い誓いを立てたという。
また、なまずは淀姫さんのつかい(従者)だから食わないという伝えもある。/出典:大和町史P.663(佐賀県佐賀市)
淀姫神社は、県社河上神社で与止日女という女神を祭神とする古社である。縁起によると、神功皇后が半島に進出の折に海神を祀り、航海の安全と勝利を祈った。神功皇后の妹に当たる与止日女命は磯童と共に竜宮に到って満珠干珠をもたらした。満珠は青、干珠は白であって、この二つの宝珠は風雨を起こす力がある。戦いの際、これにより敵船を覆した。凱旋した後は川上にある神社に納めたと伝えられている。しかし、その神社は何処にあるのか判明しなかった。ところが与止日女命が磯童と共に竜宮に到る際に乗って行ったのは海神の使と称する大鯰である。その後、鯰は淀姫さんの眷属であり御使であると言うようになった。それでこの鯰を捕らえて食べるような事があれば、海神の怒りが立ちどころに起こり身体が鯰のように膨らんでしまうとか、腹痛を起こすと言われている(北九州市在住の江藤徹氏の調査資料による)。

この言い伝えは現在までも残っていて、川上神社の氏子たちは鯰を食べない。鯰が神使であり、祭神の眷属として指令に扱われている。これは指令型と言うべき鯰伝説である。ちょうど稲荷神社が狐を、春日神社が鹿を指令としているのと同様である。

【鯰と異変の予兆】

この淀姫と鯰との関係には、神と神使というモチーフがあり、巨人が抑え込む鯰では無くなっている。しかし、なお断片的ではあるが、鯰による異変の予兆があり、鯰の出現を海の彼方と結び付ける思考が語られていたと言えるだろう。このような「物言う魚」としては、鰻(ウナギ)と鯰(ナマズ)、岩魚などが古来より知られていた。

大魚を捕らえて担いで帰る途中、魚が声を発するので慌てて水中に戻したと言う。もし、そのまま魚を持ち帰ると、大雨になったり、洪水や津波が起きると言う。大魚は人間に化けてこちらの世界に危険を告げようと働きかけているのである。人間の方でその事を解読できかねて、遂に災厄をこうむる羽目になるという伝説が多い。沖縄のヨナタマという人魚は海神の変化であり、ヨナタマが人語をささやいたのを聞き取った母子だけが、一村全滅の危機から救われたと言う話は良く知られている。こうした「物言う魚」が、福岡県や佐賀県下では大鯰に表現されているのである。

滋賀県の琵琶湖の主は鯰である。『竹生島縁起』には、かつて水底に潜んでいた竜蛇が島を七巡り囲んでいたが、それが大鯰に変化した事を記している。湖底の鯰たちは八月十五夜に砂浜に出現して踊ると言われ、特に国土に異変が生ずる時には大群となって出現すると言われている。

このように大鯰が擬人化され、道化役にされやすいのは、鯰の異相によるところが大きいが、それとは別に海神や竜神の変化であり、かつ水界の主であって、神の託宣や予言を伝えるという信仰もある。やはり、それを身近に見ている人々の鯰に対する想像力の帰結するところと言えるだろう。

列島や国土を囲繞しているというのは竜蛇のイメージによるものだが、それが大魚のうちでも、とりわけ鯰へと収斂したのは、やはり幾つかの要件が重なった事は明らかであろう。

【海の彼方からのシグナル】

この問題を海からの視点で捉え直してみると、どうなるだろうか。

黒潮の起点に近いフィリピンのミンダナオ島のマノボ族の神話によると、彼らの先祖はマカリドンという巨人であった。彼は1本の天柱を中心に立て、その傍に数本の柱を立てた。そして自分は中心の柱の所に住み、1匹の大蛇を伴っていた。もし彼が柱を揺すると、大地震が起き、世界は崩壊すると言う。

更にミンダナオ島のマンダヤ族の神話では、大魚は鯰であり、大地はこの巨大な鯰の背中に乗っている。そしてこの鯰が身動きすると地震が起こると言うのである(大林太良『神話の話』)。

明らかにフィリピン南部のミンダナオ諸島の神話の巨人と、黒潮の北限に当たる鹿島大神とが、鯰・竜蛇と言う同工異曲のモチーフを伴っている事に気付かれる。これはまた伊勢神宮の心御柱の地底に竜神が祀られていると言う伝説との共通性も示唆している。

鹿島大神が用いる要石は、大きな柱の先端部であり、その柱が地底奥深く突き刺さっている故に大地は安定している。時折それが大鯰によって揺るがされると言う太平洋沿岸部の伝承に対し、黒潮が対馬海流となっている五島列島、対馬海峡そして北九州の日本海に面した地帯では、先述した福岡・佐賀の淀姫神社の伝説があって、そのモチーフは熊本や香川の方にも及んでいる。この場合の淀姫は、海の女神であって、巫女信仰との結び付きがあった。一方、大魚による天下異変の予兆がうたわれており、これは海の彼方からの特別なシグナルを読み取ろうとした想像力として共通していると言えるだろう。


《管理人コメント》

海洋(黒潮)系の渡来人が持ち寄った神話群と、大陸系の渡来人が持ち寄った神話群との交錯が、大いにあったのだろうという事が想像できます

地図の上で見ると、昔は「熊襲」と呼ばれた九州南部~中央部で、神話ストーリーの流れがほぼ直交している…と言うところが、より興味深く思われました。特にバトル系統の神話が語られた阿蘇山の周辺は、昔から物流の道が開かれており、住み着くに良い豊かな地域だったのでしょう。ヤマト王権の祖をはじめ、数多の古代移民が殺到した事が想像されます。或いは、火山噴火を含む天災の記憶が、このようなストーリーを作り上げた可能性もありますが…

ヤマト王権の東進と共に、大陸系神話も海洋系神話も東進し、そのとりあえずの最終地点が、鹿島エリアでありました。鹿島神話の、均衡を保ちながらも危うい緊張をはらんで語られる内容は、日本列島における大陸系と海洋系の、緊張をはらんだ混血の有様でもあろうと思います

太平洋沿岸に広がった神話ストーリーと、日本海側に広がった神話ストーリーを比較すると、大陸系神話の影響が強くなると巨人の存在がクローズアップし、海洋系神話の影響が強くなると地震鯰や大魚(竜蛇)の存在がクローズアップする、そういう傾向を見て取ることができます

「淀姫」という存在が、神話の交錯の中から生み出されてきた物だとすれば、「淀姫」はある意味、最初に大陸系と海洋系の相克に見舞われた、九州の歴史と知が生み出した物と言えるかも知れません

九州の王朝から見た視点の記録が残っていれば…と、この辺は、歴史の記憶の消失を、惜しく思います

ソ連ロシア詩人パステルナーク

ソ連ロシア詩人パステルナーク未刊詩集『晴れようとき』

〔有名になることは〕

有名になることは醜い
高名は人間を高めはしない
書籍の山をきずくよりは
草稿をこそ惜しめ

創るとは自らを与えること、
評判や成功ではない
うかうかと無知の輩の口はしに
のぼせられる口惜しさよ

生きよ、
虚飾の名誉を捨てて
いつの日か宇宙の愛を引き寄せ
未来の呼び声を聴く
そのためにこそ生きよ

そして余白を残せ、
まったき人生の章や内容の
欄外に線で仕切りつつ
紙の面にではなく、運命そのもののなかに

無名の中に沈潜せよ
己の足取りを秘めよ
文目(あやめ)も分かず
地形が霧の奥に隠れるように

やがて他者が足跡をたどり
一歩一歩おまえの道を来るだろう
だが敗北かそれとも勝利か
それを見きわめるのはおまえではない

一瞬たりとも個性を捨てるな、
おまえ自身をつらぬきつつ
ただ生きてあれ、生きてあれ
生きてあれ、ただ最期のそのときまで

*****

「晴れようとき」

大皿のようなみずうみ
みずうみのうしろには――うずたかい雲の重なり
氷河の
白い堆積が生み上げられたほどだ

日は輝く
移ろいにつれ森も色彩を変える
ときとして森全体が燃え盛る
ときとして煤けた黒い翳におおわれる

雨つづきの日が終わり
雲間に空の青さがのぞくころ
雲の決壊箇所で空は何という晴れやかさ
草木は何と喜びに満ちみちていることだろう

遠景を吹ききよめて風はしずまる
日は地表にふりこぼれる
葉むらのみどりの奥が透けて見える
ステンドグラスのようだ

教会の窓枠の中に見えるイコン壁画は
不眠の煌めく冠をつけた
聖人たち 修道僧 皇帝たちが
内部から永遠をのぞきこんでいる

大地は大寺院の内部のような広がりだ
窓辺にもたれていると
ふとわたしにも
聖歌合唱のこだまが聞こえる

自然よ いのちよ 宇宙の谷間よ
おまえのながい勤行のあいだ
わたしはひそかな戦慄につつまれ
幸せの涙にくれて立ち尽くす

*****

「雷雨のあと」

大気は駆けぬけた雷雨の名残に満ちみちている
すべてが蘇生しすべてが楽園のように息づく
ライラックは紫の花房をほどいて
新鮮な流れを吸い込む

すべてが天気の変化に生き生きしている
雨水は屋根の樋になみなみとあふれ
すべてが空の移動よりも明るく
黒い雨雲のかなたの高みは淡青色だ

もっと全能に芸術家の手は
あらゆるものから泥とほこりを洗い流す
人生や現実や過去が
彼の染色工場から一変して出て来る

この半世紀の思い出が
駆けぬけた雷雨となって後方へ去っていく
やっと世紀は思い出の庇護から抜け出たのだ
未来に道をゆずるときだ

新しい生のために道を清めるのは
激動や革命ではない
だれかの燃え立つ魂の啓示であり
嵐であり 恩寵なのだ

*****【その他・文学コメント】

古典文学とは:

均斉のとれた世界観の調和した像を作品において与えてくれる作家、それを私は古典作家(クラシック)だと考えています。古典文学とは、のちにその時代の世界観だとみなされるような作品や傾向の総体のことです。

詩(ポエジー)とは:

詩(ポエジー)は永久に、高さを誇るアルプスのどの峰よりも高々としたものとしてとどまるでしょう。詩は足元に、草の中に、転がっているのです。だから、それを見つけ大地から拾い上げるためには、ただ身を屈めさえすれば良いのです。
詩は、会議などで論じられるようなものよりも、常にずっと単純そのものなのです。
詩は永久に、理性的な言語能力という至高の贈り物に満たされた人間の、幸福の本質的な機能でありつづけることでしょうし、それゆえ、地上に幸福が多くなればなるほど、それだけ芸術家であることがずっと容易になることでしょう。

人間とは:

存在とは歴史的なものであり、人間とは何らかの地理的一点の移民ではないのです。時代や世紀、まさしきこれこそが人間にとって土地、国、空間となるのです。人間とは時間の住民なのです。
…人間とは登場人物なのです。人間は、《歴史》もしくは《歴史的存在》という名の出し物の主人公なのです。
…さまざまな世紀において、人間に創造的な変化を与えるとすれば、さまざまな都市や国家、神々が、芸術が、おのずとして結果として発生するのであって、その自然さは果樹に実が熟するのと同じです。