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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

覚書:《物語》を結ぶもの

『シャルルマーニュ伝説』松岡正剛の千夜千冊http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0573.html

最近よく思うことなのだが、歴史学がやたらに発達し、どんな細部の伝承も歴史に照らすことが可能になったのはいいのだが、どうもそのぶん「物語の中で歴史を見る」という習慣が頓(とみ)になくなってきた。

なんだか母や叔父に聞かされてきた歴史語りが生きなくなってきて、いちいち「それは史実とちがっている」という異議申し立てに耳を傾けざるをえなくなっている。これがなんともつまらない。なにもかもが「物語で歴史に入っていく」のではなく「歴史の中に物語を解体する」というふうになりすぎた。

歴史学が正確な体系になっていくのはいい。しかしそれとは別に物語として語り伝えられていく伝習は残ったほうがいい。司馬遷やヘロドトスの語りは歴史学ではなく、歴史の物語なのである。

とくに“あやかり”は「肖る」と綴るのだが、これ、まさにフィギュールやプロフィールのことを象(かたど)ってゐる。

「風はやみ 峰のくす葉のともすれば あやかりやすき人の心か」(拾遺集)


ベイトソン著述『精神と自然』(思索の根本動機の部分)

生物世界と人間世界との統一感、世界をあまねく満たす美に包まれてみんな結ばれあっているのだという安らかな感情を、ほとんどの人間は失ってしまっている。われわれの経験する限られた世界の中の、個々の些細な出来事がどうであろうとも、より大きな全体がいつまでも美をたたえてそこにあるという信仰を失ってしまっている。

われわれは、キリスト教の核を失ってしまった。われわれは、ヒンドゥーの舞踏神シヴァを、些細なレベルでは創造であり破壊であっても、その全体はただ美でしかない、あの舞いを失ってしまった。われわれは、アプラクサスを、あのグノーシスの美しくも恐ろしい、昼と夜の神を失ってしまった。トーテミズム――人間と組織と動植物との間にパラレルな関係を見るあの感覚も失ってしまった。死に瀕した神さえ失ってしまった。

(世界のいたるところで生じている「統一感」の喪失)…政治化と商業化に晒され、矮小化されてしまっているエコロジーの思想に働いている根本的衝動を、人間の心の中に統一を求める衝動、われわれをその一部として包み込む全自然界を聖なるものとして見ようとする衝動である。…そして世界中にある種々様々な、まったくかけ離れて見える認識論は、最終的統合の姿を「美」と見ていることで共通している。

…美的統一感を失ったとき、われわれは認識論上の大きな誤りを犯した。この考えは私の思索の根本にある。昔の認識論にもいろいろ狂ったところがあったが、そのどれと比べても美的統一感の喪失の方が重大な誤りだと私は信じている。


アニミズム社会=「主客に明確な区別がない」といえる状態の前提には、知覚の問題が横たわっている。

(現代文明に生きる我々の場合、観念が明確な像を結ぶ事は、日常生活では滅多に無い。幻覚がリアリティを持って迫ってきた時には、それは病気と診断され、治療の対象になる…「幻想が向ふから迫ってくるときはもうにんげんの壊れるときだ(宮澤賢治)」。ただし、宮澤の詩は多義的である。「文明のもたらす幻想(=例えば原発の安全神話)」というような逆の意味にも取れる。それはさておき、混沌のパワーに満ちた幻覚は、この高度文明社会にとっては、社会に害を及ぼす異常事態である。実際、自動車の運転手が幻覚に捉われて死亡事故を起こすというような事態は、現代社会の中においては、絶対に起こしてはならないものである)

シュタイナー曰く…「幻視とは人間の健全な情緒の状態においても取り除いてはならないもの」(芸術と芸術認識)・・・「生命」は、「イメージ」と深いところで直接に繋がっている。「理念(概念)」と言われるモノも、幻視力(無限の創造力≒想像力であるモノ)と深く関わっていると考えられる。それは井筒氏の語る「イマージュ」そのものである。

「ゲーテの原植物」についてのエピソード

シラー「それは、君の観念であって経験ではない」

ゲーテ「それでは、僕は、観念を目で見ているわけだ」

スーフィにとって、不可視の霊的ガイドである「ヒドル」は、緑色をした霊人であった。ルーミーが、夢中になって、教団を捨て帰依した放浪僧、シャムスタブリーズは、後にルーミーにとっての「ヒドル」であったと教団では伝えられている。これはまた西洋の教会を飾るグリーンマンの表象とも、聖ゲオルグとも密接に関係している。更に遠く、ギリシャ神話の邪神・メドゥサとも関係していよう(メドゥサは元々は、原始の森の女神だったと考えられる。文明を守護する女神アテナと真っ向から対立する存在であった)。


シュタイナー(『芸術と芸術認識』より)

緑のイメージ=生きているものの死のイメージ(Totes Bild des Lebens)。「植物は、その緑色を植物自身から生み出しています。…植物のうちには、死んだ大地の成分が組み込まれています。しかし、この死んだ大地の成分は徹底的に活性化されています。植物のなかには鉄、炭素、なんらかの形の珪酸があり、また鉱物界においても見出すような、ありとあらゆる大地の成分があります。こうした一切のものが、植物の中で体験され、表裏一体に織り込まれています。私たちは、生がいかに死によって血路を開き、死によって一つのイメージ、すなわち植物という像を生み出すかを観照することによって、緑色を生の死んだイメージとして感じ取ります…自然の緑が心をそそって止まない理由は、まさに緑という色は、自分自身は生に対して何の主張もすることなしに、生の死んだイメージとして現出するということにあります。…緑色は、生の死んだイメージとして現れてきます。緑色のうちには生が潜んでいます。

多くの心霊治療師は、その土地以外ではその能力を発揮できないと言う。能力というものは、どこにいても発揮できるものだというのは、近代普遍主義の思考から来る誤解でもある。この類いの能力は、緑の仲介者(観念)――ゲニウス・ロキ(土地の精霊/植物の精霊)と関係する。

都市部で発展した人為的宗教の歴史において、古来、幻覚誘発剤を使うカルトは多かった。イエスの時代にも「ベニテングダケ」を使う教団は知られていた。現代文明における「マトリックス」的世界もまた、一種の幻覚を誘起する麻薬と言えよう。

…能動知性を、スピリチュアリズムにおける「霊性」とも、アニミズムにおける「精霊」とも論じるが、その本質は、心象幻覚の能力では無いだろうか。心霊治療師が生きている社会、「主客に明確な区別がない」といえるアニミズム的な状態においては、そうした「緑の仲介者」のイマージュが息づいている。人間が元々持っていた無限の物語化の能力、或いは、観念の具象化の能力。

「生命」が生み出す豊饒なイメージを抑圧する事により、「生命」は窒息し暴発しやすくなる。「暴発」を恐れ、「理性」による管理を強化すればするほど、精神は内奥へ向かって荒廃する。その荒廃の中で「理性的な高度文明社会」は完成する。

マスコミ経由の希薄な言語の氾濫を通じて「心象イマージュの世界」を封印し、理性を強化する事で近代国家を形成した国では、そうした観念の具象化に関わる能力が、ファシズム化への暴走に使われてしまうのでは無いだろうか。

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覚書:詩的に見る《運命》

《覚書》

現実の全体とは現在目の前にあるものに尽きるものではない。現実はその巨大な部分をまだ陰に隠れた、発せられていない未生の言葉としてはらんでいるからである。<ドストエフスキー>

■若き詩人への手紙(マルテの手記)/リルケ著より

・・・ですから悲しいときには、孤独でいること、注意深くあることが非常に大切です。つまり私たちの未来が私たちに入ってくる瞬間は、一見何も起こっていないかのようであり、じっと麻痺したような瞬間であるにもかかわらず、そういう瞬間こそ外部からくるように思われる未来が、実際に生起するあの騒々しい偶然的な瞬間よりは、実に遥かに生に近いものだからです。

私たちが悲しみをもつものとして、静かに、辛抱強く、開け放しであればあるほど、その新しいものは、一層深く、一層迷うこと少なく私たちの内部に入ってきます。一層よく私たちは、それを自分のものにすることができ、一層多くそれが私たちの運命になります。そして後日、いつかそれが起こるとき(という意味は、それが私たちの内部から、他の人たちへと出てゆくとき)、私たちは自分自身がそれともっとも深い内部で親しい間柄であることを感じるでしょう。そしてそのことこそ必要なのです。

…私たちの遭遇するものが、何ひとつ未知なものではなく、久しい以前から私たちのものであったものばかりである、と言うようになる必要があります。私たちが運命と呼ぶものが、人間の内部から出てくるものであって、外から人間の中へ入ってくるものではないということも次第々々に認識するようになるでしょう。ただ大抵の人はその運命を、それが彼らの内部に住んでいる間に、それを跡形もなく吸収し尽くさず、自己自身へと変化させなかったからこそ、自分自身からでてくるものを、それと認めることができなかったのです。彼らにとって、それはまことに未知なものに思えるので、ただ驚き慌てるばかりで、それが、いまはじめて自分の中へと入ってきたばかりに違いない、と思ったのです。

…私たちは、私たちの存在をその及ぶ限りの広さにおいて受け取らねばなりません。すべてのことが、前代未聞のことさえ、その中ではあり得ることなのです。それこそ本当のところ、私たちに要求される唯一の勇気です。私たちに出合うかも知れぬ、最も奇妙なもの、奇異なもの、解き明かすことのできないものに対して勇気をもつこと。

人間がこれまで、こういう意味において臆病であったことが、生に対して数限りない禍をもたらしたのです。

《幻影》と呼ばれる体験や、いわゆる《霊界》なるものの一切や、死など、すべて私たちに非常に身近なこれらのものは、日ごとあまりにも生活から遠ざけられ、はばまれてしまったために、これを捉えようにも私たちの感覚が萎縮してしまっています。神のことはさておきとしてです。しかし解き明かしのできないものを恐怖することが、個々の人間の存在を貧弱なものにしたばかりでなく、それによってまた、人間の人間に対する関係も狭いものにされ、いわば無限の可能性の河床から、何物も生じることのない不毛の岸辺へ掬い上げられてしまっています。

というのは、人間関係が言うにも堪えないほど単調に、旧態依然として、一つの場合から場合への繰り返されるのは、怠惰のせいばかりではありません。それは新しい、見きわめのつかない体験に対して、何でもはじめからかなわないと思い込んでいるその恐れのせいでもあるのです。

しかし何物に対しても覚悟のある者、何物をも、たとえどんなに不可解なものをも拒まない者だけが、他の人間に対する関係を生き生きとしたものとして生きることができ、自らも独自の存在を残りなく汲み味わうことができるでしょう。


■山中智恵子の短歌作品

百年の孤独を歩み何が来る ああ迅速の夕焼の雲
那智に来て滝の時間に逅ひにけり心死にゆくばかり明るき
秋の夢泡立ちにけりうつせみの桔梗宇宙にわれはかへらむ
ここすぎて水甕多き村に出づ星の水盤かたむきてあり
暗黒星妖霊星とこそ光年の彼方に滅び元雅歩む
■『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』より
童子のときは
語るも童子のごとく、
思うも童子のごとく、
論ずるも童子のごとくなりしが、、、
人と成りては
童子のことを棄てたり
今我ら鏡もて見る如く観る所おぼろなり
されどかのときには顔を対(あわ)せて相ま見えん
今わが知るところ全からず、されど
かのときは我が知られたるごとく全く知るべし

■コリントの信徒への手紙、第一、13章1節~13節

1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい応鉢と同じである。
2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
4 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。
5 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
6 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
7 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
8 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
9 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
10 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
11 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
12 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
13 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

《物語ノ目次》ノート

―物語ノ目次―

序章「清ら月は道野辺に照り」…旧暦05.15夜-05.16朝

◆第一部「ヤツマタ」

  • 第一章.十六夜…旧暦05.16昼-05.17朝
  • 第二章.鈴鹿峠…旧暦05.17朝-05.17昼
  • 第三章.坂下宿…旧暦05.17昼-05.17夜
  • 第四章.伊勢道…旧暦05.18朝-05.18夜
  • 第五章.伊勢志摩…旧暦05.19朝-05.19昼
  • 第六章.門前町…旧暦05.19昼-05.21夜
  • 第七章.斎ノ宮…旧暦05.22朝-05.22夕
  • 第八章.妖霊星.前篇…旧暦05.22夜-05.25夜
  • 第九章.妖霊星.後篇…3旧暦05.25夜-05.27昼
  • 第十章.流星群…旧暦05.27昼-旧暦06.03夜

◆第二部「タタシマ」

  • 第一章.水無月…旧暦06.04昼-06.18夕
  • 第二章.夏越祓…旧暦06.19朝-06.30夕
  • 第三章.七夕…旧暦07.01朝-07.08夕
  • 第四章.熊野道.前篇…旧暦07.09朝-07.23夕
  • 第五章.熊野道.後篇…旧暦07.24朝-08.10朝
  • 第六章.京街道…旧暦08.10昼-08.14夕
  • 第七章.観月宴…旧暦08.15朝-08.17夕
  • 第八章.百鬼夜行…旧暦08.16朝-08.26夜
  • 第九章.八重潮…旧暦08.27昼-08.30夕09.01未明
  • 第十章.東奔西走…旧暦08.30夕09.01未明-09.04朝

◆第三部「マレヒト」

  • 第一章.瀬戸内…旧暦09.04朝-09.07未明
  • 第二章.鬼ノ城…旧暦09.07未明-09.08夜
  • 第三章.菊花宴…旧暦09.09朝-09.09夕
  • 第四章.宮島厳島…旧暦09.09夕-09.15夜
  • 第五章.雨竜島.前篇…旧暦09.16朝-09.22昼
  • 第六章.雨竜島.中篇…旧暦09.22昼-09.23夜
  • 第七章.雨竜島.後篇…旧暦09.24朝-09.28夕
  • 第八章.禍ツ日…旧暦09.29朝-09.30夜
  • 第九章.高千穂…旧暦09.30昼-10.05昼
  • 第十章.大宰府…旧暦10.01未明-10.04夕

◆第四部「トキサヤ」

  • 第一章.不知火…旧暦10.04朝-10.08夕
  • 第二章.神無月…旧暦10.08夜-10.17夕
  • 第三章.紅葉狩…旧暦10.17朝-10.18朝
  • 第四章.大氣都…旧暦10.18未明-10.26昼
  • 第五章.八十嶋…旧暦10.26朝-11.02朝
  • 第六章.比叡颪…旧暦11.02朝-11.09昼
  • 第七章.関ケ原…旧暦11.09昼-11.15夜
  • 第八章.神坂峠…旧暦11.15夜-xx.xx
  • 第九章.黄金郷…旧暦xx.xx-xx.xx
  • 第十章.御神渡…旧暦xx.xx-xx.xx

終章「岩の根は緑の苔を纏い」…旧暦xx.xx-xx.xx


【物語制作&公表の月日の記録】

序章=2007.7.15完成(清ら月は道野辺に照り/16p)

第一部「ヤツマタ」=2007.07.18スタート

第一章・・・2007.07.19-2007.09.29〔了〕(十六夜/28p)
第二章・・・2007.09.30-2008.05.06〔了〕(鈴鹿峠/32p)
第三章・・・2008.05.07-2009.09.27〔了〕(坂下宿/30p)
第四章・・・2009.09.28-2010.11.27〔了〕(伊勢道/56p)
第五章・・・2010.11.28-2011.05.07〔了〕(伊勢志摩/34p)
第六章・・・2011.05.15-2011.10.23〔了〕(門前町/40p)
第七章・・・2011.10.29-2012.05.23〔了〕(斎ノ宮/54p)
第八章・・・2012.09.30-2013.03.27〔了〕(妖霊星.前篇/62p)
第九章・・・2013.03.28-2013.06.14〔了〕(妖霊星.後篇/52p)
第十章・・・2013.06.15-2014.11.17〔了〕(流星群/56p)

第二部「タタシマ」=2014.11.18スタート

第一章・・・2014.11.19-2015.02.27〔了〕(水無月/32p)
第二章・・・2015.03.01-2015.05.11〔了〕(夏越祓/54p)
第三章・・・2015.05.17-2015.08.14〔了〕(七夕/60p)
第四章・・・2015.08.17-2015.12.22〔了〕(熊野道.前篇/54p)
第五章・・・2015.12.25-2016.05.31〔了〕(熊野道.後篇/54p)
第六章・・・2016.06.01-2017.02.27〔了〕(京街道/44p)
第七章・・・2017.03.04-2018.01.08〔了〕(観月宴/60p)
第八章・・・2020.11.07-2021.04.17〔了〕(百鬼夜行/80p)
第九章・・・2021.04.18-2021.08.13〔了〕(八重潮/70p)
第十章・・・2021.08.14-2021.12.12〔了〕(東奔西走/70p)

第三部「マレヒト」=2022.03.11スタート

第一章・・・2022.03.11-2022.08.13〔了〕(瀬戸内/50p)
第二章・・・2022.08.14-2023.02.05〔了〕(鬼ノ城/48p)
第三章・・・2023.02.26-2023.05.28〔了〕(菊花宴/32p)
第四章・・・2023.06.11-2023.10.09〔了〕(宮島厳島/28p)
第五章・・・2023.11.05-2024.04.07〔了〕(雨竜島.前篇/36p)
第六章・・・2024.04.27-2024.06.23〔了〕(雨竜島.中篇/38p)
第七章・・・xxxx.xx.xx-xxxx.xx.xx〔了〕(雨竜島.後篇/xxp)
第八章・・・xxxx.xx.xx-xxxx.xx.xx〔了〕(禍ツ日/xxp)
第九章・・・xxxx.xx.xx-xxxx.xx.xx〔了〕(高千穂/xxp)
第十章・・・xxxx.xx.xx-xxxx.xx.xx〔了〕(大宰府/xxp)

第四部「トキサヤ」=xxxx.xx.xxスタート

第一章・・・xxxx.xx.xx-xxxx.xx.xx〔了〕(不知火/xxp)
第二章・・・xxxx.xx.xx-xxxx.xx.xx〔了〕(神無月/xxp)
第三章・・・xxxx.xx.xx-xxxx.xx.xx〔了〕(紅葉狩/xxp)
第四章・・・xxxx.xx.xx-xxxx.xx.xx〔了〕(大氣都/xxp)
第五章・・・xxxx.xx.xx-xxxx.xx.xx〔了〕(八十嶋/xxp)
第六章・・・xxxx.xx.xx-xxxx.xx.xx〔了〕(比叡颪/xxp)
第七章・・・xxxx.xx.xx-xxxx.xx.xx〔了〕(関ケ原/xxp)
第八章・・・xxxx.xx.xx-xxxx.xx.xx〔了〕(神坂峠/xxp)
第九章・・・xxxx.xx.xx-xxxx.xx.xx〔了〕(黄金郷/xxp)
第十章・・・xxxx.xx.xx-xxxx.xx.xx〔了〕(御神渡/xxp)


《物語制作用の用語メモ》

「ストーリー」お話。物語になった作品そのもの。意識の流れのままに叙述されたもの

「プロット」端的に論理的に説明するために、再構成したもの。人物や背景における設計図をザザッと説明すれば…のスタイル

「シナリオ」物語を演出するために説明されるもの。場面構築や科白の詳細、順番の割り振りが計画的に叙述されるもの

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水五訓

一、常に己の進路を求めてやまず自ら動いて他を動かしむるは水なり

一、如何なる障害にも屈せず巌をも透す力を蓄えながらよく方円の器にも従い和合の性を兼ね備えるは水なり

一、自ら清くして他の汚れを洗い清濁併せて容れるるの量あるは水なり

一、力となり光となり生産と生活に無限の奉仕を行い何ら報いを求めざるは水なり

一、洋として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し凝しては玲瓏たる鏡となりたえるもその性を失わざるは水なり

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加藤清正 治水五則

一、水の流れを調べる時に、水面だけではなく底を流れる水がどうなっているか、とくに水の激しく当たる場所を入念に調べよ。

一、堤を築くとき、川に近いところに築いてはいけない。どんなに大きな堤を築いていても堤が切れて川下の人が迷惑をする。

一、川の塘や、新地の岸などに、外だけ大石を積み、中は小石ばかりという工事をすれば風波の際には必ず破れる。角石に深く心を注ぎ、どんな底部でも手を抜くな。

一、遊水の用意なく、川の水を速く流すことばかり考えると、水はあふれて大災害を被る。また川幅も定めるときには、潮の干満、風向きなどもよく調べよ。

一、普請の際には、川守りや年寄りの意見をよく聞け。若い者の意見は優れた着想のようにみえてもよく検討してからでなければ採用してはならぬ。