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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

面白さを感じるポイント・考

■https://twitter.com/ozakimasaya/status/1081731396865937408

ストーリーを波乱や意外性に富んだものにすることにフォーカスしてプロットを作ると、主人公がストーリーに翻弄されるだけの受け身状態になってしまう危険性がある。この場合は一旦出来たプロットをよく検証して、主人公が主体的に動き、魅力的に見えるように修正する必要がある。

■https://twitter.com/HizenHumitoshi/status/1061988795422101504

【引き込まれるプロローグの書き方】
・登場人物は少数で始める(主人公を出す)
・作品のテーマを提示する(主人公が取り組む課題を出す⇒決意&覚悟へつなげる)
・今後明かされるだろう「謎」を作る(きっかけとなる異変&事件を出す)
・独自設定は控えめに(二話目以降にも小出ししていく)
・世界観は大きく
・テンプレを使う場合は+αの独自性を示す
上記のことを前提に、しかし書きたいものを書く

■読者さんをグイグイ引っ張っていく要素は3つ

・謎(ミステリー)
・伏線(ドラマ)
・論理的決着(締め)

この3つが適切に配置されている作品は、論理的には、いずれも面白さを感じさせるパワーがある筈。

「適切に配置する」というのが難しいかも。作者さんごとに色々あると思われる。

・謎→何でも良い。
・伏線→過不足なければ何でも良い。ただし王道(テンプレ)が鉄板。
・論理的決着→ロジック破綻さえ無ければ、竜頭蛇尾でも、ぜんぜん大丈夫。

■作者さんが意外に気付いていない、見逃しやすい部分。

・伏線の配置
・キャラの配置

メインストリームを構成する「伏線の配置」「キャラの配置」要素については、キッチリ整備。商業出版であれば、編集者さんから指摘されるかな~と思われる部分。

■理想的な面白さを演出する、ストーリー演出パターン
⇒「尖る(尖っている面白さ)」と言われている部分。主人公メインに構築するのが理想。

言い換えてみると…「山になるように配置する」?

※ロジック的に美しく伏線を張る、という作業は、執筆経験が積み重なれば、何となく出来てくる、つかめて来る部分。

そこから先、「山になるように配置する」というのは、なかなか難しい。ストーリー&ドラマ演出の技術の結晶のようなものか。高難度クエスト。

■最も効果的な「伏線」ドラマとは=「鮮烈な映像として記憶に残るモノ」。

読者さんの記憶に残る事こそが重要。長編であればあるほど、「忘れがたい記憶」となる伏線の重要性が高くなる(読者さんの記憶力は、そんなに良くない)

ただし、全部の伏線ドラマをパワーアップすると、それこそ「詰め込み過ぎ」となり、「山のような形」にならない。かえって逆効果。

特に、多数のキャラが(一言の脇役キャラに至るまで)それぞれ華やかな見せ場を持つような作品は、難しい。どうしても詰め込み過ぎになり、たくさんの山が出来るため、メインの面白さが鋭く尖って来ないケースが多い。

推敲とか改稿というのは、「主峰を尖らせる」ために、数々の高い連山となっているテキストを必要最小限まで削る(というか、広大で魅力的な裾野になるように再配置する)…という作業だと思われる。

「尖る面白さ」を作り出すのは、あくまでも作者さんの筆100%。予想外の面白さ、規格外の面白さ…通常のロジック計算や経験では到達できない、神秘的な領域。

(高い山をたたえる詩歌に、「神々の座を仰ぐなり」というフレーズがあった、と記憶していますが、そんな感じ)

■原稿に、正解は無い、と言われている。

何がウケるのか。面白いのか。正解は無い。

商業出版マーケットに関しては、「そのストーリーが、どれだけ広く、速く、多くの他者との共有となりうるか(どれだけ多くの他者をスピード動員できるか)」という事のみが、基準になる。

*****

【脚本ベースのストーリー組み立て&構成】

■全体ストーリーは、エンディング(主人公が目的ゴールに到達した場面)から、逆算して考える。

エンディング⇒オープニング⇒プロットポイント1、2、と決めて行った方が、枚数オーバーになりにくい(※90分~120分制限の映画ストーリー、10万字~20万字の読切タイプのストーリーを構築しやすくなる)。

■三幕構成(序破急)=設定1:対立2:解決1。
2時間映画の場合、基本形30分:60分:30分。構成の都合により長くなったり短くなったりする。設定30分の内、最初の10分が最重要。理由は後述。

・全体ストーリーは、主人公の人生において、最も意義深い「熱い一瞬」を切り取るものとする。主人公のイキサツの全体を語る形式とは、ちゃんと区別しておく(ヒロイック・ファンタジー形式などの超・長編小説の場合は、主人公のイキサツ全体を語るのは有り)。

■セリフの表現力・説明力に頼らなければ成り立たないような脚本は、脚本としては弱い。

オープニングは「事件(ホットスタート風)」から始めるのが、セオリー。
「最初の5分~10分(小説だと最初の1000文字~2000文字)」が勝負。なおかつ、そのオープニング事件は、山場の盛り上げを期待させるくらいの、ハイレベルのテンションで、ドラマチック&ミステリアスに語られる。「ほぼ全ての伏線を含みつつ、なおかつ興味深い内容」であるのが理想。

各キャラは、完璧に演じ切る。

相手役や敵役となる「他者」が、ちゃんと表現されていない事がある。これは「ストーリーの立体感・奥行が無い」状態なので、プロット段階から大工事する必要あり。

ディテールには細心の注意。「対比」、「調和」の演出(=描写)効果を使いこなす。←これをマスターすれば、描写・演出の専門家への道が開ける。

■【脚本タブー、三大項目】観客に「つまらない」と判断される定番要素

(1)登場キャラに、設定説明セリフや、ナレーション科白を言わせる。
※初心者の脚本で多いケース。役者をやり切れていない、「他者」が的確に表現されていないパターン。観客にとっては、しらける展開。

(2)伏線の無い(伏線が非常に少ない)場面を入れる。
※初心者の脚本で多いケース。舞台セット説明だけの為のシーン。観客にとっては、労力を使う割に無意味な展開。

(3)多重の回想シーン(回想シーンの途中で、更に別の回想シーンが重複する)
※初心者の脚本で多いケース。ストーリー構成・配列に失敗している作品では、この場面が必ず出て来る。観客にとっては、退屈な(飽きて来る)展開。

*****

1.語り手は、一人称主人公や三人称主人公を超えた「汎世界キャラクター」である。

ストーリー内の出来事を振り返り、新たな発見につなげ、新たなストーリーへと牽引する「役回り」。この役回りは、ストーリー内部で活躍する各種のキャラクターには不可能な事でもある。

2.冒頭パート(書き出しパート)では、語り手は自らの状況が衝撃的である事を説明しなければならない。

ジェットコースター的なスタートは、傍観者/観客をいきなりストーリー世界に引きずり込む。重要な決断が下った瞬間、事件発生、告白、クライシス、etc。

重大な場面に立ち会った瞬間、傍観者は、他人事ならぬ興味をいだいてくれる。

3.語り手は、登場キャラクターの内面にある「個人的な動機」から話を始めるべきである。

「さあ、これから話をしよう」というスタートでは、傍観者/観客の好奇心や集中力を強く引き出すことは出来ない。

「重大事案が発生した。『ここだけの話』ということで、心ならずも秘密を明かしておくが、実は、こういう訳が…」というように、偶然に立ち会った傍観者/観客を巻き込むような始まり方(ストーリーの秘密情報を共有し始めるという状況)を構築してみよう。

4.序章パートは、「ストーリーの謎と真実」を適切に開陳するものでなければならない。

それは往々にして入れ子的な構造を持っている。ストーリーはエピソード(シーン)の織物である。

序盤から壮大な戦いの場面や謎を提示しても、すぐに了解してもらえるわけではない。伏線同士の連携を最大限に活用しつつ、片手に収まる程度、「チラ見」程度のエピソード量にまとめてみよう。

5.語り手は、ストーリー世界において、全知全能の神の如き存在であってはならない。

神視点による語りは、総じて弱い。何故なら、その語りは「ドラマ(劇的)」ではなく、単なる「出来事の連続」と、「その解説」に過ぎないからだ。感動が平坦になりがちだ。

6.そのストーリーは、ストーリー世界そのものの変容をもたらす、特別なものだ。

ストーリー構造を、単なる時系列に沿った退屈な枠組みにしてはならない。単なる出来事の列挙は、ストーリーでは無い。

登場キャラクターと、ストーリー(或いは運命)との、のっぴきならぬ対話・対立という、スリリングでダイナミックな構造を立ち上げ、ドラマ性をもって語らなければならない。

※確立した技術論・方法論のようなものは見つからなかった。「このように各要素や各シンボルを並べれば、もっとドラマチックになりそうだ」という、直感的な目論見のもとに組み立てていくやり方で良いと思われる。

繰り返すが、キャラクター同士の対話・対立構造を、神視点で語ってはならない。

それは各キャラクターの内面テーマに落とし込まれた形となるのが相応しい。各キャラクター自身の成長・変容ストーリーとして、ドラマチックに語られなければならない。

7.ストーリー「腹八分」という終わり方を意識すること。

謎のうち80%は明らかにされた、だが残りの20%は、より一層、深い謎へと沈んでいった。そういうエンディングは、そのストーリーに、偉大な余白を与える。

傍観者/観客は、謎のまま残された20%の部分に対して、好奇心と考察をいだくことを通じて、そのストーリーに単なる「意味の発見」以上のものを見い出す。

8.優れたストーリーは、新たな未知の可能性の発見へとつながる側面を持っている。

ストーリーに登場するキャラクターたちが、語り手の中にあるひとつひとつの側面(視点)であるという点を、最大限、活用しよう。ストーリー内部において、今まで気づかなかった事、知らなかった事、曖昧なままやり過ごしてしまった要素。

語り手は、各々のキャラクター視点を通じてストーリーの謎と真実を探り出し、新たな創造的な気付きを成し遂げてゆくのである。

そしてこの各々の「発見/気付き」という行為は、各要素が連携しつつ、ストーリーのクライマックス局面へと集中するベクトル構造を与えられている必要がある。この連携構造は、ストーリー途中で迷子にならないように、あらかじめプロットで綿密に計画しておいた方が良いパターンが多い。「やらせ」などの不自然感には、注意。

9.語り手の意図や思考を最も反映するメイン・キャラクターを厳選する事。

それがストーリーの基点、すなわち主人公となる。

1人の主人公だけでは不充分ということであれば、サブ主人公を用意するのもアリ。しかし、メイン・キャラクターの数は、ごくごく少数に限定しておかなければならない。

当たり前ではあるが、傍観者/観客は、数多くの視点でストーリーを眺めてくれるわけではない。かといって、神視点となると、ドラマ性やスリリングな秘密や感動が失われるため、退屈になる。


【ストーリーはエピソードの織物である】【シーンはエピソードが噴き出す"場"である】

個別のエピソードが構成するネットワークの内部に出来る空隙。

配列の間合い、距離、絵的な(空間的な)配置の間に出現してくる別の意味の時空…そういった「空白のあわいに宿ってくる(到来する)何か」が「ものがたる」という事も、無いわけではない。

ただし、時系列に沿ってエピソードが整理構築されていない場合、非常に理解されにくい作品となることが多い(人間の脳みそは、基本的に一次元的なストーリー認識をする)。

*****

■文章にかぎらず、どんな仕事も「身体化した」と言えるところまでもっていかないと、ほんとうの意味で自在に使いこなすのは難しい。そうなってはじめて「自分」を使いこなせるようになる。(しかけ人たちの企画術/後藤繁雄)

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2021.04.17ホームページ更新

気が付いたら1年近く間が空いてしまいました。

下記、更新しました。

▽《物語ノ本流》コーナー
http://mimoronoteikoku.tudura.com/astrolabe/content.html

第二部「タタシマ」/第八章「百鬼夜行」全80ページ

ライフワーク作品としているオリジナル和風ファンタジー漫画で、これまでに作成公開した正味ページ数=898ページになりました。描きに描きたり…というところですが、まだまだ続きます。

今回、新型コロナ問題が目まぐるしく、行動制限や時間制限が厳しくなる中での制作になりました。

「百鬼夜行」というネーミングと、現実の新型コロナ騒動がシンクロしたのは、なんとも不思議な気持ちです。ワクチンが普及し始める6月までは、大変かも知れませんが…

仕事の形態も随分と変わりました。テレワークとか。紙文書から電子文書への変更とか。

変わらざるを得なかったのか、それとも、大きく変わるタイミングだったのか…適応するのも一苦労というところです。


TOMITA_Akio@Prokoptas様ツイッター/紫色、染色、黄金、水銀、錬金術

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419747532087824387
ニセムラサキは”偽-紫”の意ではなく”似せ-紫”の意。そのうち青味のものを「江戸紫」「今紫」、赤味のものを「京紫」「古代紫」と呼ぶが、たいていは蘇芳や藍を使って紫に近づけたものという。もちろん「蘇芳」という色名は別にある。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419775542480433179
これに対して西方の紫(purple←πορφύρα)は、同名の2種の貝(Murex trunculusとPorpura haemastoma)の腺から採れる染料であり、それによって染められた布をも指す。それがいかなる色であるかもさることながら、いかなる色と認識されていたかが重要であると思われる。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419777385520525318
先ず、πορφύραは血の色である。「大地はπορφύρα色に、血潮でもって濡れ浸し……」(Il.XVII,361)
これはまた海の色でもある。「河々は……山々からまっしぐらに、πορφύρα色なす潮路へ、轟々たる響きを立てて押し流れれば……」(IL.XVI,391)

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419779305794531335
これだけでも充分に混乱させられるが、さらに πορφύρα は希臘人にとって虹の色でもある。「ポルピュラ色の虹を、死すべき人間どもへと、ゼウスが天蓋からして掛け渡したよう」(IL.XVII,547)そういう次第で、邦訳ではテキトーに訳されることになる。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419782573526458375
サッポー詩(LP54)「πορφύρα色の衣(クラミュス)に身をつつんで 天空より舞いおり来る(エロース)」。訳者の沓掛良彦はこれを「くれない」と訳しているのだが、日本人には、もちろん、沓掛の訳の方がしっくりくるだろう。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419790338965704707
紅花はエジプト原産で、日本には7世紀頃、その染色法とともに伝来したという。私見だが、この紅花染めの色とスミレ色(violet)との間にあるのが西方のπορφύρα→purple、日本の紫は蘇芳と藍との中間の色とみなしていいのではないかと思う。異論のある方はどうぞ。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420118112305774592
πορφύραはフェニキアの特産物であり、それ以外の地では輸入品であるから稀少価値を有した。エチオピア王は紫の衣裳を見て云ったという。「ペルシア人は人間もいかさまだが、その身につけるものもいかさまだ」(Hdt.III,22)。染色するのは生地の色を偽る、というのだ。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420119459381923840
焼く・煮る・炙る……こそ最初の物質変成つまり錬金術だというのがわたしの持論だが、第2の物質変成は染色だろう。染料は「顔料の場合と同様に……その色で織物を飾るのに使われるよりも先に、先ず人体に用いたのではないかと考えられる」(フォーブス『古代の技術史』下・II)

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420120404165758977
とはいえ、「古代人が色に対して(さらには顔料や染料に対しても)、宗教的勝呪術的意味をもたせていたことに十分注意を向けるべきであって、色について論じる際は、古代人がそのような意味合いで色彩を用いていたという面を常に認識していなければならない」(フォーブス)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420122759259033600
金属を染色することが初期錬金術の課題であったことは、テキスト上も確認できる。しかしそのことが、卑金属を貴金属に見せかけるという汚名の原因にもなる。「彩色や染色、あるいは変色といった諸現象に関心を抱くようになり、それを研究し始めたときに化学が成立したのである」

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420476527393734658
日本語では代表的な金属を色で区別する。あかがね=銅、しろがね=銀、くろがね=鉄、き(→「こ」に転音)がね=黄金、である(いずれも99%以上の純度であるが、100%でないことに注意)。が、このほかに「ま-かね」というものがある。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420477571297280002
「真金(Magane)」は日匍辞書に「金・黄金」となっていて、紛れはない。しかし、「真金(まかね)吹く 丹生の真朱(まそほ)の 色に出て 云はなくのみぞ 吾が恋ふらくは」(万葉XIV,3560)があり、ここでは鉄の意だとするのが定説であった。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420478706514939904
「吹く」といえばすぐに踏鞴(たたら)製鉄しか思い浮かばない研究者たちが定説をつくりあげていたせいである。これを真っ向から批判したのが廣岡義隆「「まかね」考」彼は大仏造営を根拠に、「黄金を葺き上げる(=鍍金する)」意と解釈した。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420499466918850560 「当時盛んであった造仏(大仏等)の際に、仏像への鍍金(葺く)の過程で金を水銀によって液状化して用いたところから(アマルガム法)、水銀の産地である丹生に掛ける枕詞の用例」と、論考は奈良の大仏が本来金ピカの金色像であったことが忘れられている盲点を衝いたといえる。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420503127065649157
しかし、なるほどアマルガム法による鍍金に水銀は不可欠であるが、だからといってそれが直接「丹生」を指すわけではない。まして、「真金吹く吉備の中山帯にせる 細谷川の音のさやけさ」(古今和歌集』)という歌が、同一の根拠で説明できないのは、いかにも苦しい。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420831438950133766
どうやら、「辰砂は赤い」という先入観・固定観念に人々はとらわれすぎているらしい。なるほど辰砂は赤い(左図)、しかし黒辰砂(右図)もあるし、黄土(おうど/きづち)も加熱すれば赤くなることは、先に見たとおりである。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420833134241665027
さらには、クロガネといわれる鉄も、自然界では赤い。左は砂鉄。右は、砂鉄のもととなる鉄の鉱床が地表に現れたもの。鉄元素が酸化して(つまり錆びて)赤くなる。自然界において金属はみな合金の形で存在する(唯一の例外とされる金も、多くは合金である)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420836437147090946
岩見銀山は、当時の世界の銀の総産出量の1/3を産出していたという。世界遺産になるだけの理由があるのだ。それよりもっと早く、「黄金の国ジパング」伝説のもととなった平泉の黄金文化の金は、99%以上の純度だという。ところが、それはいかなる技術によって達成されたのか?

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420869713115029504
自然界の金属はみな合金の形で存在する(例外とされる金も多くは合金である)。合金は還元し、不純物は除去されて(精錬されて)初めて純粋の金属となる。「灰吹法は貴金属を卑金属から分離する方法としてはおそらく最も古く、また最も効果的なものである」(フォーブス)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420877555821780993
ところが、バビロニア時代から知られていたこの方法を、日本は16世紀まで知らなかったと通説は云う。しかし、貴金属と卑金属の分離の仕方は知らなかったが、金の精錬の仕方や、鍍金の仕方は知っていた(金ピカの大仏とはそういうことだ)などという理屈に合わぬことがあろうか?

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421208370434904067
西方では、金(Au)と銀(Ag)との合金は琥珀金(ἤλεκτρον→ラテン語electrum)と呼ばれた。これを合金として単独の金属から外し、それまで金属と認められなかった水銀(Hg)を加えて「古代七金属」が成立した。図は最古の貨幣とされるエレクトロン貨(B.C.6)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421210292353073158
かくして、古代七金属、七惑星、虹の七色、音楽の七音階が関連づけられ、相俟って「宇宙は音楽を奏でている」といったピュタゴラスの正しさを証明しようとした。虹の色を「各色の帯のはばが、音楽の音階の間の高さに対応していると結論」したのはニュートンであったという。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421231458903986182
金は、金属のまま自然界に存在しうるほとんど唯一の金属である。したがって、”根気さえあれば”純金を得ることができる。「カリフォルニアでは99%の金が発見されたが、その平均は88.4%……オーストラリアでは95%、日本では砂金で62〜90%、鉱脈金で57〜93%である」(フォーブス)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421235609838886912
しかし、「鉱山や鉱床でとれるほとんどすべての自然金は天然の合金で、時折かなりの量の銀を含み、たいていは若干の銅と痕跡量の鉄を含んでいる」(フォーブス)。先の「灰吹法」は、金や銀の貴金属を卑金属から分離する方法であって、金と銀を分離させるわけではない。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421240365323935744
日本の金山はその方法を確実に知っていた。──金を粘土と食塩と混ぜ、その混合物の入った坩堝を木炭炉の中で赤熱状態で12時間加熱。それから鉢を取り除き、その金を熱い塩水で洗って生成した塩化銀を流し去る(フォーブス)。いわゆる「塩化法」と云われるものである。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421242651370684416
奥州の黄金文化について、技術的なことについて研究者たちは不思議なほど沈黙している。奈良の大仏の鍍金についても然りである。先に、ベンガラの発色をよくするため、縄文人は素材を海水に漬けておくことを経験的に知っていたことの重要性を指摘しておいた。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421595555461943299
「鉱床の分布・配列は、地帯構造に左右され……わけても水銀鉱床は、世界的にみて著しい偏在性を示している……すなわち、環太平洋地域と、地中海・ヒマラヤ地域の二つの大きい造山地帯に、ほとんど集約的に配列している」(矢嶋澄策)

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421598890286067712
日本列島は環太平洋にすっぽり入るわけだから、水銀の歴史がないはずはないのだが、ほとんど研究されていない。「丹」とか「丹生」という地名に目をつけてこれに日本史の立場から先鞭をつけたのが松田寿男で、これに化学の立場から共働したのが先の論考の著者・矢嶋澄策という。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421603117771071489
とはいえ、彼らは文字記録を根拠に据えるため、当然、文字記録のないそれ以前のことについては口を噤む(それが研究者の矜恃というものであろうが)。しかも、重要な技術は大陸から伝わったという固定観念からはどうしても免れないらしい。とはいえ、その成果は重要である。


TOMITA_Akio@Prokoptas様ツイッター/天津甕星

https://twitter.com/Prokoptas/status/1415450030291390480
日本神話に星が出るのは、天神から葦原中国の平定を命ぜられたフツヌシ、タケミカヅチが、「天に悪神あり、名を天津甕(アマツミカ)星と曰ふ。亦名は天香香背男(アマノカカセヲ)。請ふ先づ此の神を誅ひて、然して後に下りて葦原国を撥はむ」と答えたと(書紀・神代下)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1415450373679026179
この香香背男を、「最後まで「服はぬ」天津甕星……明けの明星として、他の星々が消えた後も燦然と光を放って、独り暁天に残る金星の姿を神格化したもの」という解釈は、たぶん、正しいであろう。しかし、その解釈が陰陽五行説を下敷きにしたものであるところに不満が残る。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1415453096658960386
方位を知るため或いは農作業の目安にするような星は「当(あて)星」「役(やく)星」などと呼ばれる。星座神話を欠く民族においても、そういった星の伝承は多い。プレイアデスとオーリーオーンはそういう星として(仮令星座としては知らなくても)よく知られていた。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1415759552557977601
「カカセヲ」はおそらく「輝く」と同根の語(吉野裕子ならカカは蛇の古語だと云うだろうが、カカセヲに言及しているかどうかは未調査)。そういえばカカセヲを祭神とする神社の多い県の1つ茨城には、東日本で初めての色彩壁画が発見された古墳虎塚古墳があったはず。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416150459140747265
アマテラスがニニギに葦原中国を治めさせようとした時、そこは「多(さわ)に蛍火の光(かかや)く神、及び蝿声(さばへな)す邪しき神有り。復草木に能く言語(ものいふこと)有り」(神代下)という。これが日本列島における文字で記録しえた最古の相であったとみてよかろう。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416153013685784582
そこでは、樹木のそよぎに神意を伺ったというドードーネ神託所の伝説も信じることができる。古代の人々は「土地や河海、岩石や樹木、鳥・獣・虫・魚など自然界のあらゆる事物には神(精霊)が宿り、それらのさまざまな変異はそれを占有する神の意志の顕現であると信じていた」

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416155791468339201
「自然界の事物を自分のものとして占拠したり手を加えて使用しようとする場合、それに先立って必ず神との交渉が必要であると考えていた。つまり、人はその営為に先立って神に対する祭儀を行わなければ、神の妨害にあってそれを安全・確実に進めることはできないと信じていた」。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416160055108456457
かかる自然観がそのまま保持されることは難しい。例えば樹木を伐採する際に行われる「鳥総立(トブサタテ)」が好例である。
[1]伐採してよいかどうか神に伺いを立てる。
[2]許しが得られたら、遷移していただくためトブサを立てる。
[3]これを他所へ遷脚して後に伐木する。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416162489599856642
しかるに今やその意味が忘れられ、伐木後に、それも申し分け程度に立てられる。これを平林章仁は「神々の没落」として跡づける(『鹿と鳥の文化史』)。人の営為の妨げとなるような神は祟り神・偽りの神として速やかに他所へ遷却・追放されなければならないというわけである

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416164033837809665
「なんじら日本人知らずや、われら昔、この列島の大地に年ふる土蜘蛛の精霊なり。われら地のそこに沈められた呪いを忘れず、いまこそ時を得て、君が代を討ちほろぼし、千数百年のとしつきを越え、われらが世を打ち立てんとよみがえりきたり」
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/kowa1.html

時事メモ:霊と再生の物語

東日本大震災・関連@https://gendai.ismedia.jp/articles/-/80810

霊の記憶とコミュニティの再生:興味深い部分をメモ

2万人2000人近い死者を出した東日本大震災は、私たちが記憶している災害の中でも別格だった。建物という建物が壊れ、社会のインフラがことごとくなぎ倒され、街そのものが消え去ったのである。

合理的で予測可能だったはずの社会が一瞬にして崩壊してしまったのだ。それだけに、時間や空間がねじ曲がったような想像を絶する出来事が起こっても不思議ではなかった。そのひとつが霊的ともいえる不思議な体験である。

震災の年の初盆あたりから、被災地にまるで「あの世」と「この世」の結界が破れたかのように「幽霊」があらわれた。

(中略)

震災から数ヵ月ほど経った頃だったが、被災地を見に行って帰ると、突然人格が変わったかのように凶暴になった男性がいた。地元でオガミサマと呼ばれる霊媒師に見てもらったら、霊に憑依されていたという。

お祓いはできても成仏させることは出来ないと言われ、お寺を探して除霊をしてもらったら、津波で亡くなった男性の霊が憑いていたことがわかったという憑依体験もある。

それだけではない。30人近い津波で亡くなった人の霊に憑かれた女性もいたのだ。 霊に憑依されたと聞いても、当時は関心がなかったので聞き流していたが、憑依された事例はその後も聞いた覚えがあるので、震災からしばらくは珍しくなかったのだろう。

しかし、社会のインフラが少しずつ回復していくと、「あの世」と「この世」の結界も修復されていくように、幽霊はあらわれなくなった。

【「この世」と「あの世」の物語】

それにしても、どうしてこんな不思議な体験をするのだろう。

私たちは大切な人と繋がりながら、それぞれ自分の物語を創っている。おそらく人類は他者とつながることで集団をつくり、進化してきたからだろう。人は物語を生きる動物なのだ。その物語では自分が主役であり、その人にとって大切な人は重要なキャストとして登場する。

過去から現代へ、そして未来へと続くはずのその物語が、津波という不可抗力の力によって突然立ち切られた。大切なキャストを失って、未来の物語が創れなくなった遺族は、悲しみと共に途方に暮れるしかない。

ところが、霊的ともいえる不思議な体験で亡くなったあの人の存在を感じた瞬間、断ち切られた物語は一瞬にしてつながる。やがて「あの世」と「この世」の境界が曖昧になっていくにつれて、遺された者は悲しみが溢れていた物語を再生の物語に創り変えることができるのである。

むろん、そのきっかけは霊的な体験でなければならないことはない。ごく些細なことであっても、遺された人の物語に重要な役割を見いだせれば充分なのだ。生者と死者がつながるきっかけになってくれれば、新たな物語が創られていくのである。

そう書きながら、ふと気づく。もしそうであるなら、何も不思議な体験は東日本大震災だけではないのではないか。大きな悲しみを抱えたとき、人は誰もがそんな体験をするのではないか。不思議な体験は、いわば人間に内在している自己治癒力ではないか、と――。

【霊的な体験で再生の物語が始まる】

グリーフケアという言葉が浮かぶ。

グリーフケアには、大きな悲しみや喪失感を抱えた人が専門家によるサポートによって立ち直っていくイメージがある。しかし、実際に大切な人を喪った者が悲しみから立ち直っていく過程は、他者による治癒ではなく、言葉やちょっとした出来事をきっかけにした自己治癒である。人に備わった自己再生の能力といってもいい。グリーフケアのケアとは、セルフケアのケアなのだ。

大きな悲しみを背負いながら、霊的な体験をきっかけに死者とつながることで、再生の物語を発見するのだろう。私が被災地で出会ったのはそんな人たちだった。

新たな物語を創り始めたとき、悲しみを共有できる人、あるいは悲しみを受け止めてくれる人に語ることができれば、その物語はより確固としたものになっていく。創り直すことで、遺された者は大切なあの人と今を生き直すことができるのである。

阪神・淡路大震災の時はこうした霊的体験をあまり耳にしなかったのは、体験しなかったのではなく、耳を傾ける人がいなかったのだろう。

75年も前の沖縄戦で、北部にあるヤンバルの森を逃げまどっていたとき、先に戦死した兄の案内で生き延びたという話を聞いたこともある。

想像を絶するような体験をしたとき、時間や場所を問わず、合理的に解釈できない不思議な体験をするなら、それは人に内在する自己治癒力なのかもしれない。ユング心理学でいう人間の無意識の深層に存在するという集合的無意識ともいえるだろう。

人は合理的であると同時に非合理的な存在である。戦後の日本は非合理的なものを拒絶して、あまりにも合理的なものだけを大切にしてきた。しかし、人は死に際して、霊的な体験のように非合理的なことをしばしば体験する。