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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

神話論仮説:忘却の彼方の大和朝廷

《忘却の彼方の大和朝廷―ヤマトタケル神話・考―》

神話研究関係の言葉に、「アリストクラットaristocrat」という言葉がある。「名門の1人」、「貴族/貴族的な人」「最高ステータスの人」という意味がある。

貴種流離譚や英雄伝説はアリストクラット神話というジャンルでまとめる事が出来る。身分社会の発生から固定化に至る揺籃の時代と、アリストクラット神話には、深い関係があると言われている。

ヤマトタケル神話/ヤマトヒメ物語もアリストクラット神話の一種であり、大王を中心とする権力機構(大和朝廷)の固定化を窺わせる証拠となるという話である。

アリストクラット・キャラの放浪物語(英雄伝説)の登場と、王権・支配権といった概念の確立との間には、人類社会の変遷(身分の上下の発生、格差社会ルールなどの複雑化)に関わる根源的な関係がある。

仮説ではあるが、社会を彩る言語・概念の世代変化という背景も含んでいる筈だ。新たな概念が導入され、古い概念が忘却される。放浪を主題とするヤマトタケル神話の中に、地方有力者の暗殺や異国女性の入手、東国遠征などのエピソードが組み込まれているのは、深い理由があると言える。

ヤマトタケル神話は、渡来人の急増をも暗示する。ヤマトタケルは「弟王子」という事になっているが、これも「後から渡来した人々=弟」という意味合いが含まれている筈である。

華夷秩序や儒教のルールに基づくのであれば「大陸&半島の方が兄・島国の方が弟」という位置づけが正解になるのである。しかし、日本神話として確立する際、殆どの場合で兄・弟の位置づけの逆転が起こるのだ(この頃、日本でも長子相続のルールは確立していた)。

これは、その後の日本を特徴付ける性質となる。ヤマトタケル神話は非常に多面的かつ多義的な物語であるが、国家的に、わが国の基層を成す国家神話としての地位を有するのは、此処に理由がある。ヤマトタケルの物語は、列島の古層を成す神に滅ぼされると言う結論で終わる。日本は、遂に、渡来人がもたらした正統な儒教に基づく格差社会ルールを受け入れなかったのである。

ヤマトタケル神話などが完成した時代は、同時に、大和朝廷という記憶が忘却されつつある時代でもあった筈だ。まだ文字記録が確立していなかった古代、歴史の神話化と世代記憶の忘却は、同時に進行するプロセスであった。

忘却と浄化は、分かちがたく結びついている。醜い権力闘争や、新天地の征服に伴う先住民の大虐殺といった事件も確実に存在したであろうが、神話に変化する際に、その大部分は忘却され、寓意的・象徴的なエピソードに変貌するのである(例:兄弟殺し、異国女性との結婚、等)。

出自や伝統を異にする人々が、過去の深い傷口を踏みしめつつ同じ土地で同化・共存するためには、そうやって傷口を浄化しつつ、現実と折り合う他には、有効な手段を持ち得ないであろう。余談だが我々の先祖は、この「過去の因縁・傷口」に相当する概念を、「天つ罪・国つ罪」と表現した。

ちなみに、『ヨハネの黙示録』など、異人勢力の完全な追放絶滅=民族浄化を語る未来記的な物語という方法もあるにはある。だが、我々の先祖は、歴史記憶の救済とも位置づけられるヤマトタケル神話を構成する時に、その物語スタイルを採用はしなかった。これはこれで、日本という国家集団の性質に関わる興味深い問題である。

忘却と浄化のプロセスは、新たな記憶の捏造や、並行する偽史の成立をも生み出すプロセスである。そうして、歴史物語は成立して行くのである。「真実である物」も「真実でない物」も、等しくこの現実を構成する存在なのだ。

実際、ヤマトタケル神話を始めとする古い国家神話群は、その真偽の程を曖昧としながらも、今なお語り継がれており、我々の国家観や言語、思考のパターンに影響を及ぼしているのである。

ヤマトタケル神話が、大陸文化に対する防波堤として成立したと言う側面も持つ事は否定できないであろう。ヤマトタケルの血縁として語られるヤマトヒメの物語があり、これは日本の神社神道を確立させた呪術的思考のプロセスにも関わっており、長い話になるので省略する。

新たなジャンルの物語の登場は、新奇な単語・概念(大陸由来の言葉=古代の漢語、現代のカタカナ語など)の増加&定着と、決して無関係では無い。

それは、地域支配圏(古代王国の支配圏)ごとの、ブロック単位の社会文化の個性化のプロセスに連結して行くのである。

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異世界ファンタジー試作8

異世界ファンタジー3-2暗雲:中庭にて垣間見

多くの人が予想した通り、翌日からは、次第に冷え込みを強めながらも晴れ渡る日が続いた。

雪と曇天に包まれる冬の前の、特異週間だ。薬草のように徹底的に乾燥させるべき対象は、この週間が1年の最後のチャンスであり、薬草を扱う店が並ぶストリートでは、表通りにも裏通りにも、果ては屋根の上にも、薬草を乾燥させるための棚が溢れた。

王宮においても、冬宮の整備のラストスパートにかかっていた。

冬宮にメイドや下働きの人たちが大勢集まり、俄かに騒がしくなったため、ホッできる無人ティータイムのひと時が無くなった。それと同時に、ひそかな楽しみになり始めていた監察官の同席も無くなり、「これで、あの人との縁も一切終わりになるのだろうか」と、ロージーは一抹の寂しさを感じ始めていたのであった。

ユーフィリネ大公女は相変わらず招待客の名簿をとっかえひっかえして終わらなかったため、令嬢サフィニアと令嬢アゼリア〔仮名〕が冬宮にやって来て、ロージーと共に室内装飾の更新や配置換えの作業に取り掛かった。レイアウト計画は既に完成していたため、業者たちに指示して、所定の場所にセットするだけの単純作業が続いた。

その一方、備品として運び込んだ椅子の数が足りるかどうかが分からず、ロージーは、ユーフィリネ大公女の元を訪れ、とりあえず園遊会の来客の最大見込み数を教えてもらう事にした。ユーフィリネ大公女は、受け入れ窓口として設定した王宮内部の一室に居るはずだったが、ロージーが訪ねた時は不在だった。

ユーフィリネ大公女付きのメイドは「申し訳ありません、ローズマリー嬢」と丁重に返礼しながらも、貴族の爵位を持たないロージーを明らかに見下したような態度で、扉を閉めた。

(女官長に、前例を幾つか紹介して頂いた方が確実かも知れない…)

ロージーはそのように思い直すと、女官長が詰める一角へと足を向けた。

――そこは、王宮に上がる上流貴族の私室が集まる別棟であった。丸々とした印象の繁みを持つ常緑樹が絶妙な配置で植え付けられた庭園を、アーケード型をした回廊が巡る。その回廊は、各々別の棟と結ぶ多くの渡り廊下や空中階段とつながっていた。つまり、王宮の中でも大きな交差点となっていたのである。

その便利な交差点となっている棟の渡り廊下を通り過ぎて、女官長の元へとテキパキと歩みを進める。数人の上級貴族が思い思いに連れ立ち庭園を散策している中で、見知った人影が庭園を移動しているのに気付き、ロージーは思わず足を止めた。

(――監察官…?)

木枯らしに吹かれる黒髪。背丈が高く、カッチリとした衣服をまとった、隙のない立ち姿。秀麗な横顔は、いつもより遥かに硬質な印象だったが、確かに見覚えがあった。

(庭園に出て声を掛けてみようか)

しかしロージーはそこで、下位の者が上位の者に了解なしに話しかけるのはマナー違反であるという、貴族社会の基本的なルールを思い出した。ジル〔仮名〕の実家でもある貴族クラスの荘園邸宅で、みっちり叩きこまれた知識でもある。回廊の柱の影に身を隠したロージーは、彼の取り澄ました表情や雰囲気が驚くほど冷たいという事に気付き、一体どうしたのかと違和感を覚え、そのままそっと様子を窺い始めた。

ロージーが飛び出さなかったのは、正解だったかも知れない。

監察官の姿の隣に、この世の者とは思われぬほどに美しい貴族令嬢の姿が現れた。華やかなウェーブを持つ緑なす黒髪は滝のように腰の下まで流れ下り、冬も近い柔らかな日差しの中、黒曜石のように艶めいて輝いている。髪の一房は黄金色に輝いており、王族の血筋を引く事を示していた。目は深い青紫色。繊細さと華やかさがバランスよく同居する絶世の美貌は、いつまでも見ていたくなるような魅惑に溢れていた。上品な濃い紫色のドレスは、そんな令嬢の姿をいやが上にも引き立てている。

(――あれが、ユーフィリネ大公女?)

令嬢サフィニアと令嬢アゼリア〔仮名〕が説明していた通りの姿だ。そして、聞かされていた以上に美しい。老ヴィクトール大公が溺愛する孫娘だと言うが、それも納得だ。そのまま額縁に入れて飾れば、美しい春の女神を描いた絵画の完成だ。

ユーフィリネ大公女は親しげに男に語り掛け、男はそれに返事をしているようだ。ユーフィリネ大公女はしごく淑やかな仕草で繊細な手を差し伸べ、男も応えて彼女の手を取る。とりわけ美しい二人の親密さは特別な関係を思わせた。恋人たちの姿と言うべきか――あるいは、婚約者たちの姿と言うべきか。

頭から冷水を浴びせられたように、全身が急激に冷えた。ロージーは、足を縫い付けられたかのように呆然と立ちすくんだ。

――ああ、監察官の婚約者が誰だったのか今まで謎だったけど、あのユーフィリネ大公女が――

胸が引き裂かれるように痛くて、それ以上見ていられないはずなのに、ロージーの目は勝手に美しい二人の姿を追っていた。やがて二人の姿が、奥の方に見えなくなる。たっぷり1分は棒立ちになっていただろうか、二人の姿が消えて初めて、ロージーの足は催眠術が切れたかのようにガクガクとしながらも動き始めた。再び速足で、本来の目的の棟――女官長が詰める棟――へと向かう。

上司でもある女官長は、いつものように、女官長に割り当てられた女性用執務室に居た。

厳格で知られる女官長はロージーの姿を見るなり、ピクリと眉を跳ね上げた。

「死人のように真っ白な顔をしていますよ。頬をつねりなさい。お勤め中は、動揺をあからさまに見せないように」

ピシャリとした叱責ではあったが、お蔭でロージーは王宮に行儀見習いに出仕し始めた頃の感覚を思い出した。最初はみっともなく声が震えていたが、ようやくのことで、冬宮に運び込んだ椅子の数が足りるかどうかについて、前例の記録を参考にしたいのだという本来の目的を告げることができた。

「裁判が進んで相当数の貴族が整理されていますから、今回は心配する事にはならないはずです。その代わり、論功行賞で繰り上がって来た人たちが多いので、余裕があれば下座の方にも不備が無いかどうか、チェックしておいた方が良いでしょう。冬季は1日中暗くなる日が続くから、特に壁や階段など、隅々の照明の状態に注意して」
「かしこまりました」
「あと、もう一点、領収書に添付されたメモの内容は、これで間違いありませんか」

――それはいつだったか、監察官に指摘されて追加した物だった。入札なしで決めた業者について、その理由――冬季向けの草花枠の装飾を請け負う王宮御用達の業者が、その一件しか無かった事実――を記したメモである。

「間違いありません」
「では、余白にあなたの名前をサインしておきなさい」

文書に不備があったという事なのだが、実際は、それほど大きなミスではない。ロージーは早速、正式名「士爵グーリアスの娘ローズマリー」とサインを入れる。メモを受け取った女官長はうなづき、しっかりと確認印を入れた。

「スプリング・エフェメラルのパターンとは考えましたね。王宮では数日前から、早く冬宮の新しい趣向を見てみたいと、評判になっていますよ。今までバリエーションが少なかった冬季室内装飾に、新しい定番パターンが出来る――新商品による市場活性化も期待できるかも知れません」
「ありがとうございます。いろいろと手探りが多くて――周りのご協力のお蔭です」
「開拓者(パイオニア)ならではの苦労というところですね」

そう言って、女官長は珍しく、厳しい皺が刻まれた顔に、柔らかな微笑みを見せたのであった。

異世界ファンタジー試作7

異世界ファンタジー3-1食堂前:一触即発

――ああ、どうしよう。

ロージーは、王宮の中にある役人向け食堂の前に並ぶ長い行列を見て、途方に暮れていた。

冷え込みが強まって雨がぱらついた日、王宮の役人向けの食堂は、街のレストランへの道を遠慮した役人たちで込み合っていた。行列整理中の従業員が、「並んでください、ハイ、最後尾は1時間30分待ちですよー」などと無慈悲な宣告をしている。

(今日はライアナ神祇官が午後いっぱい祖母をチェックしてくれる日だから、半休を取っておいたのに…)

仕方ない。昼食抜きで帰宅するか。ノロノロとそう決心し始めたロージーの肩を、後ろから「ねえ」と、つつく者があった。

思わずビクッとして振り返るロージー。そこには、金髪碧眼の背の高い男が居た。王族の血筋を色濃く持つ、貴族クラスの高位の竜人だ。見惚れる程の美貌に、妖しくも魅惑的な笑みを浮かべているが、少なからぬ威圧感を感じる。ロージーは、金髪の男の竜体の大きさをまざまざと直感し、本能的な畏怖を覚え、サッと距離を取る。

「あ、何もしないから、そんなに警戒しないでよ」

金髪の男は、ダダ漏れだった威圧感をそそくさと収めた。どうも注意力散漫なタイプらしい。この分だと、お忍びで金髪を隠して街中を歩いていたとしても、その身から発散される威圧感で、しっかりバレてしまうに違いない。知らず知らずのうちに、平民クラスの人たちを怯えさせ、後ずさりさせているのではないか。

「白緑色の髪のお嬢さん、これから一人で食事でしょ?俺、上の食堂に行くところ。上の食堂は空いてるからすぐに席が取れるけど、一緒にどうかな?最近は冬宮に向かう渡り廊下で良くお嬢さんを見かけるんで、気になりまくりだったんだよね。以前も会ったよね、覚えてる?」

上の食堂?貴族クラスの、高級料理の…これは、もしや、ナンパという物か。ロージーは目をパチクリさせた。

「いつもサフィニアやエルヴィーネと一緒にお昼してるから、なかなか誘えなかったけど――今日という今日は、俺にチャンスが来たと思って良いよね?お嬢さんの名前は平凡だからなぁ、ロゼッタ嬢と呼んでも良い?」

良く見てますね。…というか、いつから見ていたんですか?知り合い?ロージーの脳内には、幾つもの疑問符が舞っていた。

「今日は天気が悪いけど、劇場はやってるから。あ、他の令嬢たちや女官長には、後で話を通してあげるから。偶然、俺は午後から非番でね。私服なのはそのせいさ。午後のデート付きで、どうかな?リンシード嬢は、音楽と演劇と、どっちが好み?」

こっちが茫然としている間に、勝手に話を進めないでください。明らかに上位貴族の子息と見える――もしかしたら、既に跡を継いで当主を名乗っているかも知れない――金髪の男の誘いを、如何にして不敬罪抜きで断れば良いのか、ロージーは必死で頭をくるくると回転させていた。

程なくして、そこへ、もう一つの人影が足早に近づいて来た。

「彼女を困らせるな」

馴染みのある低い声がしたかと思うと、記憶にある香りをまとった力強い腕が、ロージーを金髪男の下から引き出した。

――あの監察官だ。ロージーは訳もなく、一気に安堵した。監察官は背中にロージーをかばい、金髪男の前に立ちはだかる。監察官はどんな表情をしているのか、金髪男の雰囲気が険しくなった。抑えられていた威圧感が再び噴出し、ロージーはカタカタと震えるのみである。気が付けば監察官の方も穏やかな雰囲気ではない。凍て付くような殺気で、周辺の温度が一気に下がったようだ。

「お堅い監察官で。ロゼッタ嬢の返事を待っていたところだったんだけど?」
「顔に返事が書いてあるのが分からない程、鈍くないはずだ」
「そういえば、――ユーフィリネ大公女はどうした?」
「――貴殿は"あの件"に関する私の誓約を忘れているようだ。改めて誓約書を送付させて頂くが?」

ロージーは、途中から意味の通じない会話になったことに驚いた。どうやら二人は単なる知り合いというだけではなく、噂のユーフィリネ大公女を巡って、真面目に誓約を書く羽目になってしまった程の、過去の因縁もあるらしい。

金髪男は真剣な目つきで、ロージーの方をしげしげと眺めて来た。

「――何だ、本気だったのか」

金髪碧眼の貴公子は、何かに納得したかのようにそう呟くと、不意に踵を返して立ち去ったのであった。

*****

上位貴族の竜人同士の一触即発の事態を回避したという事に気付き、ロージーはホッとする余り、ヘナヘナと崩れた。自分で思っているより、小さい頃に間近で目撃した上位貴族の竜人同士の決闘の記憶は、根源的恐怖としてカテゴリされていたらしい。

ロージーが腰を抜かして床に座り込む前に、監察官の腕がロージーの腰を捕まえた。

「大丈夫ですか?」
「な、何とか…」
「その様子だと、上の食堂に行くどころでは無さそうですね。私の執務室の休憩所を提供します」
「???」

――あれよあれよという間に、ロージーは高位官僚に割り当てられているスペースに連れ込まれ、監察官の執務室だという重厚な部屋に招待された。ちょうど昼食と休憩の時間という事もあるのか、他の官僚たちは出払っているらしく、何人かの下働きの人々の他には出会わなかった。

さすが上位貴族の監察官、一人で使う執務室を持っているらしい。扉に居た門番が監察官に連れられて来たロージーを見てビックリしていたが、監察官の信用が高いのであろう、何も言って来なかった。門番は、部屋の主たる監察官に「昼食一人分」と注文され、慌てて廊下の角へと走り込んで行った。

ロージーは初めて見る高位官僚の執務室に目を丸くし、思わずキョロキョロしてしまった。壁に作り付けられている書棚には、端から端まで書籍が埋まっている。

ある種の民間業者の仕事部屋のカオスぶりを見たことのあるロージーは、机の上に乱雑に積まれて雪崩落ちそうになっている重要書類の群れを想像していた。しかし、監察官の執務室にある大きな机の上はきちんと整理されており、機密書類と思われるような類は何処かに隠されているのであろう、影も形も見えなかった。

(有能すぎるわ…)

監察官言うところの休憩所は、衝立で仕切られたスペースにある、応接セットと思しきテーブルとソファであった。ロージーが勧められてソファに落ち着くと、門番とは別の、専属事務員と思しき若い男がオムライス定食を運んで来た。

――すっかり呆然としていたロージーの頭が、再び回転し始めた。

(…ハッ!急いで食事を済ませて、祖母のところに駆け付けなければ…!)

ロージーは丁重にお礼を述べると、不躾にならない程度にできるだけ上品に、なおかつ最速のスピードで、食事を進めた。しかし、流石に慌ただしさがありありと出ていたようで、給仕を務める専属事務員も給仕タイミングをつかめず、疑問顔でロージーを眺めた。向かい側のソファに座っていた監察官も、最初は唖然として、次いで面白そうな笑みを浮かべてロージーに注目する。

オムライス定食に付いていたコンソメスープを最後に飲み干したところで、ロージーはようやく、自分が注目を集めていた事に気付いた。ロージーは気付いたことで戸惑い、口をポカンと開け、その顔が羞恥でパッと赤くなった。

監察官は何がツボにはまったのか、口元を抑えて笑いをこらえていた。笑いをこらえてはいたが、肩が確かに小刻みに揺れており、「くっくっく」という楽しそうな笑い声まで漏れている。これには専属事務員も、驚きのあまり開いた口が塞がらなかった。自分の上司でもある監察官は、この執務室に来て以来、何年もの間、一度も笑わなかった人だったから。

「ロージー、何か急用を抱えているようですね?」
「はあ…実は、あの、急いで家族の様子を見に行きたくて――別に今すぐにどうにか…という訳じゃ無いんですが、担当で家族の世話に来て下さる先生との相談のための時間が、夕方までしか無いものですから…」
「成る程――この間のあの馬車を、また貸しましょう。一緒に来てください、ロージー」

監察官はそう言ってロージーを促すと、まだ呆気に取られている専属事務員に後片付けを任せ、手慣れた様子でロージーをエスコートして行ったのであった。あの無紋の馬車を担当する御者も、この間の御者と同一人物で、勝手知ったるストリートの停車駅まで、ロージーを運んで行った。

ロージーは知らない。この後、専属事務員と御者と執務室の門番――すなわち、使用人たち――の間で、使用人ならではの情報網を通じてロージーの素性についての情報が改めて交わされ、そして、内々のうちに暗黙の了解が交わされたという事を。

ロージーは知らない。ユーフィリネ大公女が、たまたま馬車回しの近くに居て、あの日と同じように再び、監察官とロージーのツーショットの光景を目にし、改めて「ある確信」を抱き、新たに「ある決心」を抱いたという事を。


3-1@“宿命図”の観測

王宮から馬車で20分ほど離れた小さなストリートに面する、養老アパート。晩秋の雨はパラパラ降りからシトシト降りになっていたが、雨脚は細いもので、翌日は爽快に晴れるのではないかという予感を、ほとんどの人が抱いていた。

ライアナ神祇官は祖母の体調を念入りにチェックし、「このところの冷え込みで多少バランスが崩れているけど、そんなに深刻なものではない」とロージーに説明した。時々目を覚ましてにこやかにお喋りをしていた祖母は、ほとんどの時間を眠るように過ごすようになり、《霊送りの日》がいっそう近づいて来た事を実感させた。

今回、ライアナ神祇官は、指導中の弟子でもある若い男性アシスタントを伴って来ていた。まだ正式な神祇官ではないので、ファレル副神祇官と名乗っている。

ライアナ神祇官は一通りの仕事を終え、居間に落ち着くと、おもむろにロージーに声を掛けた。

「ファレル副神祇官にロージー様の《宿命図》を観測させたいのですが、よろしいですか、ロージー様?」
「実地訓練という事ですね?」
「ええ、秘密保持については、このライアナ神祇官が責任をもって、しっかり対応しますから」

ロージーは快諾し、ファレル副神祇官の占術を受けた。

軽い催眠状態になり、手のひらに《宿命図》の元となる特殊な手相パターンを浮き立たせる。その特殊な手相を写し取り、それを図式化してまとめるのである。ベテランになれば作成も解析も数時間で終わる仕事であるが、普通の人は、出来上がった《宿命図》から健康運、恋愛運、金運を辛うじて読み出せるのみである。この世界は奥が深いのだ。