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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

詩歌鑑賞:チュチェフ「夜風よ」

◆チュチェフ(無題)

夜風よ、何を咆えるのか、
何を狂おしく嘆くのか、
なれが奇しき声の
時にかすかに物がなしく、時にさわがしきは
何のゆえぞ、
こころはよく解る言葉で、
え知られぬ苦しみをくりかえし、
うめきつつ、時として
狂おしのひびきをあげて吹きすさぶ!

おお、この古き、母なる混沌の
おそろしき歌をうたうなかれ!
いかばかり貪るごとく夜の魂の世界の
なつかしき物がたりに耳傾くるぞ!
いのちなき大地の胸をのがれて、
はてなきものに融合せんといかばかりねがうぞ……
おお、ねむれる嵐をさますなかれ、
嵐のもとには混沌のたえず動くを!
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「夜の旅」を探して

物語心理学分野で、「主人公の夜の旅」という言葉が(説明なしに、いきなり)使われていたのを見て、「夜の旅」とは何だろう?と思って調べてみました。ところがこれが相当なミステリーで、まともに書かれていそうなサイト記事にめぐり合えませんでした^^;;

かろうじて、ヒントめいた記事を見つけたので、後々のためにメモです。そのうち、「夜の旅」をキーワードにして「物語論うんちく」っぽいものを仕立ててみたいと思います。(モノになるかどうかは分かりませんが、ユングの深層心理学・夢ジャンル著作集を少しかじった事があるので、それといくつかの知識の端切れを一緒くたにして、何かを真剣にこさえてみよう…という程度です^^;)

ブログ:こぐまの秘密の書斎
「M・アシン・パラシオス『イスラムと《神曲》』/Islam and the Divine Comedy by Miguel Palacios」より
http://eloise.cocolog-nifty.com/bibliotheque/2007/07/m_ea84.html

・・・精神の目的は、実在の本質である神についての認識を獲得することである。この目的に向かう道を探すうちに彼らは、創造者の知識に彼らを導く使徒と出会う。ある人々は感謝のうちに使徒の導きを受け入れ、またある人々は、自分たちの認識の能力がまったく劣るものではないというのを理由に、その導きを見下して受け入れない。前者が、啓示された教義の導く方向へと従い進む一方、後者はただ自身の理性の光にのみ導かれて進む。ここに神秘的寓意物語が始まる。
物語の主人公は二人の旅人で、それぞれ上記二種類の人々に分類される神学者と合理主義的哲学者である。彼らは同時に、神へと向かう旅路へ出発する。

・・・『夜の旅の書』はこのようにして始まります。 (以上、部分引用)

うーむ、次の章以降に使えそうかも…と、アンテナ反応中です。

大阪府立信太高等学校のサイト(保健室関連らしいです)より
http://www.osaka-c.ed.jp/shinoda/HearthLetter/heart/heart03.htm

旅に出る夢は・・・
一般に旅に出る夢は、新しい出発、人生の変わり目、未知への挑戦を意味します。夜の旅はナイト・シー・ジャーニーと言われ、無意識の世界への旅路を意味します。深い水の底にのみこまれ、真っ暗な水の中を航海し、さまざまな冒険をするのです。英雄が西の海で怪獣や怪魚にのみこまれ、夜の間、怪獣の腹の中で過ごし、朝とともに東の陸に打ち上げられ、輝かしい太陽となって生まれ変わるというお話がありますが、これは、死と再生を意味しています。ダンテの地獄への旅や、迷路の探検なども同様な意味を持っています。
 (以上、部分引用)

続いて、ネットサーフィン中に見つけた良さげなサイトです。

iwatamの何でもコラム(トップページ)
http://iwatam-server.sakura.ne.jp/column/index.html

iwatamの何でもコラムより「センス・オブ・ワンダー
このコラムの中に書かれてあることは、すごく共感できました。物理学という分野へ頭を突っ込むことになったのも、元はといえばこのコラム内のような経験を子供のうちにしていたからかも…と納得。

iwatamの何でもコラムより「科学する心
トンデモ科学批判にからめてのお話。ひとつの世界観のみに拘泥するのはやっぱり注意ものである…と共感です。センス・オブ・ワンダーの感覚と通ずるところがあると思います。

他にも興味深い文章が発掘できそうなので、もう少しこのサイトを調べてみようと思います。

とりあえず、宝探しの報告でした…^^

★9.12追記:「アムゼルくんの世界」(エキサイトブログ)の9.11エントリに初コメント。お返事嬉しかったです。あとで計算違いに気がついて、「アワワ」状態でした(大汗)。ちょっと緊張していたかも…

覚書「呪いの研究」

『呪いの研究』中村雅彦著より:

…オリンピックは、国民の多くが、そして世界中の人々が、大きな注目を寄せるスポーツの祭典である。…つまり、われわれ人類の注意が一点に集中しやすい瞬間なのである。このような状況では、意識は集合レベルで一つにまとまり、一体になろうとする。そのことが物質レベルでの変化と同調して現れるというわけだ。スポーツの世界では、観衆の声援が後押しして、驚異的な記録が誕生することがある。…(選手の)イメージトレーニングだけにとどまらず、ファンやサポーターの声援が一つになったとき、これが集団念力という形で選手の運動能力を驚異的に引き上げる形で作用する可能性がある。

…同様に…逆に、大勢の人々の憎しみが一つになったときは、集団レベルでの悲劇、争いが勃発する可能性がある。…宗教団体による霊的虐待も、そうしたマイナスの想いを霊的な専門職が集団念力としてまとめ上げ、実行している。…地域社会などで起きる悲喜こもごもの出来事の背景にも、こうした意識場による念力の効果が、目立たない形で働いているのかも知れない。

…実際、現代の新興カルトは呪術的色彩を強めており、霊能力の強い人物を集め、ワークショップやセミナー、霊的修行などを通じて、子飼いの呪術師として養成しているとの報告があります。呪術(奇跡)によって新たな信徒を獲得するというプロセスがあり、下手に霊能力のある人は、そうした問題カルトに狙われやすいという事です。特に念力、透視、テレパシー能力を持っている人は要注意だそうです。

「時代精神」という概念もきっちりあるので、気になるところです。もし、「アセンション」という大勢の人々の想念が、集団念力として知らないうちに発動していたら…何が起こるのか分からないです。これだけ科学も発達しているのに、いまだに祭祀支配を受けていたりする世界なのかな…と、目がくらみました。(陰謀論系統でしたら、ユダヤ祭祀集団でしょうか・汗)

(補遺)・・・『呪いの研究』より要約
宗教団体は、信者を束縛・拘束するために「救済」という名の暗示ないしは呪詛(霊的虐待)を常に行なっている。これは「われわれを信ずれば救われる」「奇跡はわれわれ(の神)が起こした」という科白に代表されるもの。
霊的虐待とは、呪詛によって体調悪化(霊障)を起こしたり、また不運を次々起こしてターゲットを絶望させ、死に至らしめる行為。また呪詛によってターゲットを生命の危機に陥れ、そこからの救済を図ることで、新たな信者として獲得することも多い(狙われるのは霊的守護の弱い資産家や成金)。
一般に、霊能者の能力が高いほどに呪詛の成功確率も高まるため、新興宗教団体は才能のある霊能者をスカウトし、専属の呪術師として養成する事が報告されている。この過程で、裏切りを行なった霊能者は「ポア」されるという事で、狂人を装って脱会した霊能者のエピソードもある。