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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

異世界ファンタジー試作21

異世界ファンタジー6-3降る雪:街角の噂と贈られた手袋

――結局、ライアナ神祇官が予想した通り、ロージーの休暇は一週間の強制休暇から三週間の忌引休暇に延長した。

祖母の《霊送り》が済んだ後の身辺整理は緩やかながら順調に進み、ロージーは改めて、様々な物思いに沈んで行った。数日ぶりに食料市場に買い物に出ると、人々の喧騒の中から、日々のニュースが断片的に飛び込んでくる。最近の最も大きな話題は、王宮で大きな捕り物劇があったというニュースらしかった。

内容が内容だけあって厳しい箝口令が敷かれているという事だが、王宮出入りの業者や商人たちが「此処だけの話だけど」とぼやかしながら盛んに喋るのだ。具体的な名前や内容は曖昧ながら「悪事千里を走る」のスピードを証明するかのように、大体の内容は、瞬く間に津々浦々に拡散して行った。

大貴族の直系の縁者による大掛かりな汚職が摘発され、その類は大貴族を盟主とする一大派閥にも及んだそうで、久方ぶりに政府中枢を揺るがす大政変に展開しそうだという評判なのであった。

(――きっと、あの監察官は、今すごく忙しいわね…)

目下の山積みの問題が落ち着いたら、彼は、《宿命の人》でもある婚約者と結婚するのだろうか――。ロージーはつらつらと考え、「きっと、そうね」と呟いた。流石に、この冬は忙しいだろう。春あたりになるかも知れない。

婚約者ジル〔仮名〕の実家も、目下、非常な多忙であるらしい。祖母の《霊送り》に際して、一家連名の丁寧な挨拶状と、婚約者ジル〔仮名〕からの「いつも忙しくて申し訳ない」という旨のメモと共に、丁寧な品を受け取ったのみである。

季節柄という事もあって、婚約者からの品は「手袋」である。きっと何かの折に、令夫人から聞いたのかも知れない――いつだったか、亡き父の遺骨を北部辺境の共同墓地に納めに行った時、もう既に強い冷え込みが始まっていた北部に行くにも関わらず、ロージーは手袋を持っていなかった――という事実を。

上質で滑らかな布地を縫い合わせて作られているラベンダー色の手袋には、フワフワとした白い縁取りが付いている。少女らしいデザインだが、今の大人のロージーが使っても違和感の無い品であるというところに、微妙な心遣いが見える。

――市場での買い物が終わった後、ロージーは再びラベンダー色の柔らかな手袋をはめ、乗合馬車で養老アパートに帰宅した。手袋のサイズは、小柄なロージーの手にすんなりと馴染む大きさだった。

(実際に会った事は無いのに、婚約者は何故、私の手のサイズを知っているの?)

ジル〔仮名〕が知っているのは、髪が白緑色に染まる前の、病的なまでに真っ白な髪を持つ幼い少女としてのロージー。今のロージーの姿は知らないはずだし、ましてや、手に触ったこともないのに、何故、測ったかのようにピッタリなサイズを選べるのだろう。母親に当たる令夫人あたりから、サイズを聞いたのだろうか。多忙な中で、品を手に入れるのは大変だろうに――

ロージーは、シクシクとした罪悪感を感じていた――私は、ジル〔仮名〕様を裏切っている。

顔も良く覚えていない、年上の婚約者。何とかして彼の顔を再現しようとしても、胸の中に思い浮かぶのは、あの日、雑木林の中で不意にかち合った、あの黒髪と青い目の、背の高い監察官の姿だ。記憶に辛うじてあるジル〔仮名〕と似たような感じの黒髪だから、印象が重なってしまうのかも知れない。

かの佳き日
澄み明らかなる 青空に
いやが上にも 冴え渡る
――雪白の連嶺よ!

祖母は確かにプロの詩人では無かったが、今になって思うと、予言者と見まがうほどに豊かな直感の持ち主だったに違いない。《運命の人》に強く惹きつけられた瞬間の曖昧な心象を、恐ろしい正確さで切り取っている。

――帰ろうか。両親の故郷へ。そして、胸に秘める恋が生まれた場所でもある、あの雪白の連嶺を望む谷間の何処かへ。

忌引休暇の後半の頃になって、ようやくロージーは、その決心を固めたのであった。

そうと決まれば、養老アパートを引き払う手続きである。身辺整理は、引っ越しを兼ねた本格的な物になった。大きな家具は順次処分し、寄付扱いにしたり中古市場に送ったりする。祖母が生前使っていた書斎代わりの別室には、予想通り未発表の作品の原稿が残されていた。ツテを辿って、クラブサークル配布といった感じの、ささやかな製本を依頼してみようかとも思う。

*****

それほど大量の物に囲まれた生活パターンでは無かったため、身辺整理は意外に早く進んだ。

元々、天寿まで間もない祖母との同居が終わったら、婚約者の実家の方に生活の場を移しませんか――と打診されていたのもある(父が生きていた間は、父と共にいらっしゃいませんか、という話になっていた。武官は体力勝負という事もあって、文官より早く定年を迎える。武官であった父は、そろそろ定年を迎える年頃だったのである)。

――ただ、次の訪問が、最後の訪問という事になるけれど。

《運命の人》。ロージーが見出した、婚約者以外の恋人。これ以上ジル〔仮名〕卿を裏切り続けることは、婚約者として到底、誠実な態度とは言えない。王族のみに付いて回る政略結婚であれば、また別だろうが――伝え聞く限りでは、《宿命の人》は《運命の人》を超える存在であり、単なる存在ではない。人として、最低限の筋は通さなければならない。

ロージーは、いつかの馬車内での告白の事を、締め付けるような胸の痛みと共に、静かに思い返した。あの監察官の婚約者は、《宿命の人》だ。ロージーの告白を受けて、監察官は確かにその思いを受け止めてくれた。だが、《宿命の人》への誠実が、ロージーへのそれを上回った。

その残酷なまでの事実――《宿命の人》とは何と深い存在なのかと、ロージーは改めて思いを噛みしめるのみである。勿論、彼への思いが叶えば良かったという気持ちは、ある。しかし同時に、彼が《宿命の人》と見初めた人をあっさりと手放すような性質であれば、それはそれで、ロージーは逆に微妙な気持ちになっただろう。

ライアナ神祇官は言った。

自然な変化である限りは、《宿命》にせよ《運命》にせよ、問題が多くても納得する結果にたどり着く――と。

締め付けるような胸の痛みは、失恋の痛みだ。あの馬車内での告白は、《死兆星》の影響で恋愛運がおかしくなっていた状態での出来事――いつものロージーには出来ない行為だったかも知れない。

それでも、とロージーは思う。シッカリ告白して、シッカリ失恋した。胸が潰れるような思いは今でも引きずっているが、もうどうにもならないのだという事実が、逆に「もう、これで良いのだ」という安心感につながっていた。

ロージーは唇を噛みしめた。わが不実について、婚約者たるジル〔仮名〕卿に謝罪し、責任を取らなければならない。

――先方の邸宅を訪問し、ジル〔仮名〕様との婚約を破棄する、と述べるのだ。

ロージーは既に、北部辺境に隠遁する事を決めていた――そして今や、訪問の前に送る挨拶状の文面をどうすれば、失礼にならないだろうかと考えているのであった。

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読書ノート『鷲と蛇』対立の一致3

『鷲と蛇』―シンボルとしての動物/マンフレート・ルルカー著/林捷訳
《叢書・ウニベルシタス531》法政大学出版局1996

「第十二章 対立の一致」より必要部分を抜粋-3

両極性の認識、すなわち2つの互いに作用しあい補完しあう原理の対立的関係の認識は、錬金術のすべての教説に共通する思想である。そして対立の克服、対立の一致、対立の統合(conjunctio oppositorum)が、錬金術師の目標となる。それゆえ錬金術師の真の関心事は、黄金の獲得ではなく、「大いなる神秘」の解明であり、この高い目標に「賢者の石」の探究と研究が捧げられた。真の錬金術はそれゆえ、金属と天体との魔術的連関のイメージよりも、より深いところに根ざしている。錬金術の大家の最終目標は、健康や富や悟りをもたらしてくれる〈完全性〉(perfectio)の獲得にあった。

この「大いなる作業」(普通ラテン語でmagnus opusと呼ばれる錬金術の別称)は〈化学の結婚〉でクライマックスに達するが、この作業とは、互いに排斥しあう元素の硫黄(Sulfur)と水銀(Mercurius)、太陽と月、男と女の合体を意味している。多くの写本が、この合体を軀の右半分が男性で左半分が女性の、1人の王の姿で描いている。これがいわゆる、一対の翼を持ち、龍を踏みつけて立つレビスの像である。

レビス(Rebis)とは、res binaつまりラテン語で「2つの部分から成る物」の意である。男の伸ばした腕の下には太陽の樹が、女の腕の下には月の樹が立ち、両樹がともになって世界樹を構成している。その樹の根元には龍が寝そべり、梢には一対の翼で象徴されている鷲が棲んでいる。すべてが両極性の中にある宇宙の全領域が、ここでは一体性において眺められている。単に存在だけではなく、生成もまたこの絵に示されている。第一質料、すなわち龍で象徴されている無形の混沌とした原材料から、両翼で暗示されている精神の力によって、太陽と月の両面を併せ持つ宇宙が創造されていく、その過程が描かれているのである。

ニーチェの作品『ツァラトゥストラはかく語りき』において、「動物の中で最も誇り高く、最も狡猾な生き物」つまり鷲と蛇が、賢明な隠者の同伴者である。両者はニーチェが描いた最初の超人の徳を具現している。自身が思考の薄明の中へ入っていった哲学者が、2匹の動物の中に彼自身の本質を認めていたことは、多言を要しないであろう。エルンスト・ユンガーは、「鷲と蛇の形象」の融合の中に、「天上の絶対的な力と深淵の過激な力」の一体化を見ている。両極の一致は新しい始まり、もしくは原初への回帰を意味する。偽カリステネス(前370-327,ギリシアの歴史家でアレキサンダー大王の宮廷作家)の『アレキサンダー物語』の中で、世界を征服したマケドニアの大王の死に際して、1羽の鷲と火を噴く1匹の蛇が、空から海へ降り来たったのは確かに偶然以上の意味がある。「そしてバビロンにあるゼウスの像が揺れ動いた。蛇は再び空へ舞い上がった。鷲も蛇の後を追い、輝く星をひとつ運び去った。星の輝きが空から消えうせた時、アレキサンダーは永遠に目を閉じた」。

あらゆる時代の思想家は、世界の中に投げ込まれることによって、中心を喪失したことを心の奥底で感じ取ってきた。これは聖書が述べる楽園からの追放と同じ謂である。そして何千年を通して、人間の唯一の真の憧れは、時間と空間から脱却して失われた中心に回帰することであった。この願望は、古代民族の神話の中だけでなく、現代人の夢の中にも現れる。

(中略)

現存在と様存在の中に放り出された世界の上に、世界の創造者は立っており、彼においてすべての対立が一致する。神は不死であるが、人間を死の淵から救うために、キリストにおいて死ぬ。天上と冥界の諸力が、キリストの本質を貫いている。夜に生まれたキリストは、昼の光をもたらす。肉体という地上的な覆いの中に、神的な核が存在する。彼は捧げる者であると同時に、捧げられるものでもある。

「モーゼが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ3,14-15)しかし神の子は、単なる蛇以上のものである。聖アンブロシウスが流麗に書き表しているように、彼は鷲に似て、「高い十字架の幹から、震撼させるような叫びをあげると、力強い飛翔で地獄を攻撃し、聖人たちを獲物のごとくつかんで、天に舞い戻った」。

キリストの王国は全世界を覆っている。彼自身、始まりにして終わりであり、無時間的な時間の中心であり、そこにおいて鷲や蛇の本性と、神の外部で出来する両者の不和が止揚されるのである。

読書ノート『鷲と蛇』対立の一致2

『鷲と蛇』―シンボルとしての動物/マンフレート・ルルカー著/林捷訳
《叢書・ウニベルシタス531》法政大学出版局1996

「第十二章 対立の一致」より必要部分を抜粋-2

ペルシアを起源とし、ローマ帝国で崇拝された光の神ミトラには、ライオンの頭と翼を持った彫像がある。その下半身には蛇が6回巻きついており、時間の神としての職分と解釈され、それゆえしばしばイランのゼルヴァン神(zervan)と同一視される。

この彫像表現は冥界への下降(descensus ad infernos)を意味するのであろうか。あるいは神はここでは、全宇宙がその周りを回る一種の世界軸を表しているのであろうか。ミトラス教における最高神は、おおよそギリシアのクロノスに対応し、天の神であり、全能者である。イタリアの地にも、例えばオスティア(古代ローマの港湾都市で現オスチアアンチカ)にあるミトラス神殿の彫像のように、この神への崇拝の痕跡が見出される。

ハドリアヌス帝時代のモデナ(イタリアのエミリア地方の都市)のレリーフには、黄道12宮の中に全能の神が立っており、肩越しに三日月が見え、その後に強靭な一対の翼が彫られている(石碑コレクション)。右手は雷光の束をつかみ、全身に1匹の蛇が巻きつき、蛇の頭は、世界を支配する神の頭のちょうど真上に来ている。ユーリウス・シュヴァーべはこの神に、天の蛇が巻きついている宇宙軸(axis mundi)を認めている。蛇もまた神によって創られ、神はその主であり、蛇を恐れる必要はないのだから、この描写は対立の統合、宇宙の調和を具現化したものといえる。古代的思弁により、クロノス神(Kronos)は、擬人化された時間(chronos)と同一視されたので、この神はその空間的・時間的広がりにおいて、全宇宙を支配するものとなった。

古代エジプト人の間では、自分の尾を咬む蛇は、〈生〉〈時間〉それに〈永遠〉をも意味していた。新王国時代の棺の上に描かれた蛇は、まさに至福のシンボルであり、永遠へと移行していく時間は、「実存的レベルにおけるすべての生き物に不死を保証する」存在であった。環状の蛇は、その形態から対立の克服を意味している。すなわち始めと終わりが環において重なり合い、すべての地上的なものは、永遠の中で止揚される。錬金術において、しばしばウロボロスは、すべての形姿が最終的にそこから生まれてくる、変容する物質のシンボルである。ウロボロスは、15世紀の人文主義文学によって取り上げられ、永遠のシンボルとして、エンブレムやバロック絵画〔例えばヴィース教会(オーバーバイエルンのシュタインガーデンにある巡礼地教会)の天井フレスコ画に描かれた永遠の門上の蛇〕、あるいはフリーメーソンの中に取り入れられた。フィリップ・オットー・ルンゲ(1777-1810,ドイツ・ロマン派の画家)は、1日の時である『朝』のための習作において、輪状の蛇を円の切片として描いているが、そこでは、再び永遠へと包み込まれていく時間の円環性が表現されている。

古代からキリスト教的中世後期を経てルネサンスに至るまで、時間の神はそのアトリビュートとして、蛇やウロボロスあるいは環状の龍を伴った有翼の姿として表された。

(参考書籍203pより,空間と時間の主としてのアポロン,3つの頭の蛇は時間のシンボル,『音楽の実践』ミラノ,1496年)フランキヌス・ガフリウス(1451-1522,ミラノの音楽学者)の『音楽の実践』(Practica Musice ミラノ,1496)の扉の木版画であるが、最上部にアポロンが、空間と時間の支配者として君臨している。彼の両脚はとぐろを巻く蛇の上に置かれ、蛇の3つの頭は大地(terra)の中にはまり込んでいる。狼の頭は過去を、ライオンの頭は現在を、犬の頭は未来を表している。

音楽(音階)と惑星と詩女神との関係が左右に示され、中央のドラゴンが全体を貫いている。惑星の列では上から恒星天の下に土星・木星・火星・太陽・金星・水星・月が並び、その右横に惑星の記号、左横に音階の全音・半音と旋法名が記されている。詩女神はゼウスがムネモシュネとの間に生んだ9人姉妹であり、恒星天のウラニアから月のクリオと続き、最後に地球がタリアと対応させられている。下部には四大元素が示され、上部には竪琴を持つアポロンが美の3女神にかしずかれる。アポロンは全体の指揮者の役割を演じる。ドラゴンはライオン(下)、狼(左)、犬(右)の3つの頭を持っており、それぞれ現在・過去・未来を表す。/『図説錬金術』吉村正和・著(河出書房新社2012)

蛇の姿をした時間のイメージは、20世紀においても見出される。例えばパウル・ツェラーン(1920-70,パリで詩作したユダヤ系ドイツ詩人)は、生と死の樹である糸杉の脇を抜け、現存在と様存在の潮流をくぐって我々を運んでいく「蛇の車」について歌っている。

蛇の車に乗り、
白い糸杉の脇を抜け、
潮をくぐって、
君は運ばれていく。/『息の転回』1967年

(中略)世界の両極性は、同時にそのリズムを生み出す。自然の内的な本質に従い、被造物と出来事は互いに内的な相応関係にある。深くものを観る人にとって、存在のリズムは二元的な生命分離ではなく、両極的な生命連関を映し出す。両極間の外見上の対立は、単に人間的・地上的な位置測定の原理に対応しているだけでなく、それ以上に、神的・天上的な位置測定の原理にも根を下ろしている。両極が存在する時、その両極は常に力の場の一部となる。鷲と蛇の口論も、つまりは両者がお互いを無視できないことを証している。

つまり〈上〉と〈下〉の代表者は、その内的本質に従い、互いに補完してひとつの全体を形作っており、まさに各々が互いの存在に関与しあっているのである。17世紀に描かれた1枚の錬金術の絵は、地球を2つの岩場の間の谷間に立つ第一質料(prima materia)として表している。一方の岩場には翼を羽ばたかせる鷲がおり、もう一方には龍に似た怪物が毒づいている。地球自体、その出現と存在からしてひとつの神秘であり、地球は子供として擬人化された哲学に乳房を含ませてる母である。

どの極も胚の中に他の極を含んでいるので、その各々のシンボルはそもそもアンビヴァレント、両面価値的である。

鷲は例えばガニュメデスの神話やローマの皇帝崇拝におけるように、選ばれた者を空に連れ去ることができる。しかし鷲はまた、プロメテウスの神話や獲物に襲い掛かる猛禽が神の裁きのシンボルとなる申命記(28,49)におけるように、懲罰のデーモンにもなることができる。生命を授ける力だけが鳥の姿をとって現れるのではなく、冥界の力もこの形象表現を使うことができる(中略:セイレーンの例)。ひとつの形姿がいかに容易に別の形姿に変わりうるか、またいかに各々の極が胚の状態で他の極に含まれているか、このことは鳥の姿をしたセイレーンが蛇体の河神アケオロスの娘たちと見なされている点に示されている。

他方、蛇の国に、その暗い本質と対立する光の胚も含まれている。世界という劇において、塵の中を這う動物が「常に悪を欲して、常に善を行う力の一部」(ゲーテ『ファウスト』第1部1335行メフィストフェレスの科白)として、しばしばその正体を現す。それゆえ、エードレン・フォン・ランプシュプリングの著作『哲学者の石に関する論考』(1625年)に登場する自らの尾を咬む龍は、精神なのである。

龍は毒で満たされているが、
毒を屁とも思わない。
龍は太陽の光線と炎を見る。
周囲に邪悪な毒を撒き散らし、
怒り狂って空中に跳びあがるので、
いかなる生き物も、龍に勝てない。

龍の毒から霊薬ができるが、
龍は毒をすばやく食べ尽くしてしまう。
毒の詰まった尾をむさぼり食うからだ。
これは龍がおのれの軀で行うこと。
その軀から芳しいバルサムが、
不思議な力と共に流れ出す。
ここですべての賢者は大歓声を挙げる。