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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

カドゥケウス研究・2

《参考書籍=『異都発掘-新東京物語』荒俣宏・著、集英社、1997年》

ヘルメスは、錬金術の晦渋を極めた象徴体系にも組み込まれている。それは水銀と水星を介して、メルクリウスに関連付けられるからである。したがって、錬金術図像にカドゥケウスが登場しても驚くにはあたらない。

試みに、錬金術寓意画集の傑作と評価も高いミハエル・マイヤーの『逃げていくアタランテ』(1617)を眺めてみると、幾枚かのカドゥケウス紋章を発見する事ができる。例えば第10紋章(エンブレマ)の奇怪な図像に注目しよう。

このようなエンブレム・ブックに必ず付されている図像解釈の手がかり「モットー」を読み砕けば、第10紋章は「火に火を与えよ、メルクリウスにメルクリウスを、しかして汝は充足せり」という寓意を表現する。

なるほど、中央の人物(火の神ウルカヌスらしい)は松明を持って、すでに燃え盛っている炉に火を注いでいる。また炉の傍に腰を下ろして待ち人をしているらしいメルクリウスに、もう1人のメルクリウスがが近づきつつある。両者ともに、魔法の杖を携えて。

象徴的な図である。「類は友を呼ぶ」というのが要旨だろう。つまり、火に火を加えれば勢いを増す。さてそこで、水銀(マーキュリー)の属性は「永遠の水」であるから、メルクリウスが2人になるとは、水銀ないし水の力を強める事である。一方、火は硫黄の象徴であって、ここでは高められた水と火(或いは水銀と硫黄)とが合体融合する。そこから生じる水銀化合物は丹。中国錬金術においては不老の秘薬である。また西欧の錬金術師アルベルトゥス・マグヌスが「火と水は溶解機能を持ち、その火の中で安らぐ水は水銀をおいて他に無い」と述べた言葉を考え合わせれば、この寓意の真相は「対立するものの融合」となろう。すなわち、カドゥケウス紋章の錬金術への応用である。

更に不気味な寓意図がある。第38紋章だ。このエンブレムに付けられた詞を訳せば、「ヘルマフロディトス(両性具有)のように、レビスは2つの山、すなわちメルクリウスとウェヌスから誕生する」である。

ここで「レビス」と呼ばれるのは図の上方に描かれる二重身。「ヘルマフロディトス」のような男女両性具有の人間である。またウェヌス(ヴィーナス)というローマの女神はギリシア神話のアプロディテと同一視されるから、この図はまさにヘルメスとアプロディテの性的結合から生じた両性具有の子を表現し、同時に水銀と硫黄の結合によるアマルガムの産出を暗示する。ヘルメス=水銀はその永遠の水の中に火を溶かし込み、カドゥケウスの二重の蛇へと帰着するのだ。

ところでウェヌスと火との関係をチェックしていたら、興味深い神話にぶつかった。オウィディウス『変身物語』にあるウェヌスとマルスの話だ。ウェヌスは鍛冶神、或いは火の神ウルカヌスと結婚したが、戦の神マルス(火星の象徴)に恋をして密通する。これを知った夫は怒り、絶対に破れない透明の網を作って、寝台に張った。そうとは知らぬ2人は次の密会を行ない、寝台に横たわった途端に網に絡められ、抱き合った姿で身動きできなくなったと言う。

この神話はカドゥケウスの寓意と二重写しにすると、不気味な迫力を持って我々に迫り始める。盗賊の神ヘルメスの神話と言い、これと言い、カドゥケウスにまつわる「融合」と「調和」は、罪ある行為や強引な業を暗示させる。人間の小賢しい営為だ。たとえばカドゥケウスの寓意である「平和」や「智恵」を取ってみても、これが人工的でぎごちないバランスの上に成立している事実は疑い得ない。

寓意的意匠解釈のスリルはここにある。古代人が創案した「文字によらない概念の表現法」は、その意味を補足する数々の神話を鍵として、時には言語よりも鋭利に、対立概念の本質を切り裂いてみせる。

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カドゥケウス研究・1

《参考書籍=『異都発掘-新東京物語』荒俣宏・著、集英社、1997年》

カドゥケウスとは、魔力ある杖の事である。1本の杖に2匹の蛇が螺旋を作って絡み付いている。杖の頭部には、普通、一対の翼が付いている。これを持つのは、ギリシア=ローマ神話の奇妙な神ヘルメス=メルクリウスである。

ヘルメスは智恵の神、神の使者、商人の神、言葉の神、盗賊の神と、様々に形容される。錬金術では水銀と水星、いつも素早く、狡猾で、しかも闇が似つかわしい。人間に天界の秘密を伝達する"善意の裏切り者"である。

そのヘルメスが持つ魔法の杖カドゥケウスは、古くから寓意象徴図として西洋に普及した。寓意象徴図だという事は、真の意味を失ったとは言え、ルネサンス以降も装飾意匠として建築物や調度品を彩り続けた事を意味する。

参考までにヘルメスの属性(アトリビュート)を挙げておこう。まず、2匹の蛇が巻きついた杖カドゥケウス。この魔法の杖には、眠りをもたらす力がある。次に翼を付けたサンダル。迅速のシンボルであり、交通や旅行のシンボルだ。また、翼を付けた帽子ペタソスは、おそらく叡智とコミュニケーションの象徴だろう。

彼が「みちびきの神」とかメッセンジャーと呼ばれるのは、羊使いパリスの前に3美神をみちびく役目をおおせつかるからである。或いは、プシケを天上にみちびきクピドと結婚させ、またパンドラを地上に案内するのもヘルメス=メルクリウスである。

彼を旅の神とするところから、西洋の古典的な道しるべは、頂部に彼の帽子を彫り付けた標柱であった。もしもこれに蛇が巻き付けば、そのままカドゥケウスに一変するという代物である。その意味で、旅に欠かせぬ杖や道しるべが、魔法の杖の本来的な起源であった可能性も考えられる。また、旅は行商とも強く結びつく。

ヘルメスが泥棒だというのは、これまた別の神話に由来する。かつてアポロンが牧場で暮らしていた時、大切な羊をヘルメスに奪われた。そのために2人の間でいさかいが起き、ゼウスの命令で仲直りする事になった。2人は誓約の印として、ともに大切にしている所持品を交換する事になった。ヘルメスは、彼が発明した竪琴をアポロンに贈り、一方アポロンは彼の魔法の杖カドゥケウスを贈ったという。

一見すると訳の分からない組み合わせで多数の属性が現出するヘルメス=メルクリウスの本性は、おおむね以上に尽きよう。そしてカドゥケウスは、極めて一貫性を欠いたヘルメスの象徴として美術意匠に採用される事になった。彼の杖に何故蛇が巻き付いているかに関しては、後に詳しく述べるが、ここでは差し当たり、アダムとエバに智恵の実を食わせた「誘惑者」或いは「智恵を持つ者」の寓意と考えておいて良いだろう。


だが、話はまだこれからだ。ぜんたい、杖に巻き付いた蛇とは何を意味するのか。また、杖とは何なのか。問題を掘り下げるために、ここらで、ヘルメスの魔法の杖について起源神話へとさかのぼりたい。

今日の定説らしき起源説によれば、カドゥケウスとは古代ギリシア語で伝令官の杖を意味し、元来、伝令官が所持していたオリーブの杖か、或いは葉を付けた杖であった。杖に巻き付いた蔓のイメージが、やがて「絡み合う2匹の蛇」へ変化した。また、杖の頭部に一対の翼が付いたのは、ヘルメスが被る翼付きの帽子に由来する。

神話によれば、ヘルメスは、地上で闘っていた2匹の蛇を和解させるために、1本の杖を放り投げたという。すると蛇たちはこれに巻き付き、仲裁が達成された。したがってカドゥケウスは「仲裁」「均衡」「平和」といった調和的要素を持つに至った。また、ヘルメスのローマ名メルクリウスは、クピドの教授役を果たしたから、その杖は文字通り「教鞭」の意味にもなろう。

しかし、ハインリヒ・ツィンマー等の調査によれば、この寓意図はインドにも存在し、メソポタミアでは前2600年頃の犠牲用の杯にも認められるという。同地では、絡み合う2匹の蛇を、万病を癒す神の象徴と見なしていた。一方、インドにはクンダリニーと呼ばれる生命エネルギーの概念があり、このクンダリニーは互いに絡まりあって脊椎を上昇する2匹の蛇として視覚化される。

クンダリニー思想によれば、2匹の蛇は霊と肉の高次元への進化を表す。とすれば、古代ギリシアのカドゥケウスにとりついた一対の「蛇と翼」とは、クンダリニー的意味における霊と肉の調和ある向上を示すのかも知れない。霊と肉の調和ある向上とは、言い換えれば、ギリシア得意の概念であった「健康」という事になる。

そして事実、カドゥケウスには、「健康」に関わるもう一つの寓意が存在するのである。

古代ギリシアに、アスクレピオスと称する神がいた。通常、医薬の神と考えられている。例えばオウィディウス『変身物語』をひもとくと、何やら悲運なアスクレピオスの出生譚が語られている。太陽神アポロンの子を宿した王女コロニスは、或る時、アポロンを裏切って他の男に走ってしまう。だが、白いカラスの密告で事態を知ったアポロンは激怒し、コロニスを射殺する。そして彼女の腹から子を引き出し、ケンタウロスのキロンに世話を任せた。不義の母から生まれた子は、長じて医薬の神アスクレピオスとなった。そしてこのアスクレピオスもまた、病人を癒す魔法の杖カドゥケウスを所持するのである。

この場合の蛇は、脱皮して再生する蛇、切れた尾が再生するトカゲなど「蘇生」の象徴となっている。或いは、あばかれたコロニスの内臓、特に腸を表しているのかも知れない。

重要なのは、カドゥケウスと呼ばれる一つの意匠に、おそらく、ともに起源の古い2つの寓意が介在している事情だろう。まるで絡み合う2匹の蛇のように、この2つの寓意は分かちがたく結び付いて、「魔法の杖」に対する本能的な意味解釈の鍵を与えているに違いない。

一方に「医療」「医薬」、また一方に「智恵」「平和」の寓意として機能する蛇たちは、すでに述べたように、「バランス」「均衡」「調和発展」というクンダリニー的意味において、クロスする。ここにカドゥケウス紋章解読の鍵を発見できないだろうか。

気にかかるのは、ヘルメスと言い、アスクレピオスと言い、2人とも太陽神アポロンに因縁深いーーそれも悪い意味で因縁深い神である事だ。アスクレピオスは、アポロンにしてみれば不義密通を働いた不倫妻の腹から引きずり出した子である。またヘルメスは、元来アポロンが所持していたカドゥケウスを、強盗行為の末に体よく奪い取った相手である。

しかし、両方の組み合わせをよくよく考えてみると、更に別の「隠された意味」が明らかになる。第一に、アスクレピオスとヘルメスは、象徴的な意味で太陽神アポロンの「生まれ代わり」なのだ。2人は、万能で強大なアポロンの絶対性を、マイナスの意味から均衡させた「アポロン自身」とも言えるのである。


すでに述べたように、カドゥケウスの起源は、ヘルメスそれ自身のようにすばしっこく狡猾で、なかなかその本質を明かそうとしない。だが、明確な寓意解釈には到達できないにしても、我々は、この意匠を実際に描き入れた幾つかの具体例を挙げる事はできる。

まず、ルネサンス期寓意象徴学の基本図集と言われるアルティアティの『紋章学』から、「メルクリウスの持ち物(アトリビュート)」を描いた寓意図を引こう。この図は、これもまた古くから存在する寓意的な意匠の一つ「豊穣の角(コルヌコピア)」とカドゥケウスとを組み合わせたものである。ヘルメス=メルクリウスに豊穣の意味が加わっている理由は、筆者には明確ではない。杖が暗示する男根と、空洞の角や果実が暗示する子宮との、エロティックな連想のためか。

そういえば、ヘルメスを扱った画題の中に、一つ、奇妙な例がある。『ヘルマテナ』と題される一連の図像がそれで、この題名は書くまでもなくHermes-Athena(ヘルメス・アテナ)を接続させたものだろう。ちなみに、アテナとはローマ神話のミネルワ。すなわち都市の擬人化であり叡智をも表現する女神である。ひそかな驚きは、このアテナは父ゼウスの頭部から「完全武装」して生まれ出て来た勇ましい娘だと言うこと。

キケロの書簡によれば、この神はアテナとヘルメスの属性を結合させた「新造の神」であると言う。1574年に出版されたアチーユ・ボッチの『ヘルマテナ』を見ると、槍と盾を持ち武装したアテナと、カドゥケウスを持つヘルメスが腕を組み合っている奇怪な図にぶつかったりもする。2人の間ーーちょうど直角の隅になった所に、クピド(ヘルメス=メルクリウスの教え子)が居て、ライオンの首に手綱を掛けている図だ。

これらの寓意は、神像の足許に彫り付けられたモットー"SiC monstra domantur"によって明白である。すなわち、「慎重さと雄弁が結び付いて怪物を統御する」といった意味である。この「新しい二重身」の神は、アテナの武力と叡智、そしてヘルメスの雄弁と狡猾さを兼ね備えた一種の理想的人格を表現する。

そして、この種のバランスを備えた人格こそ同時代に必要と信じたルーベンスは、アントワープに建てた彼の邸宅の大ポーチコにこの「ヘルマテナ」を建立した。この銅像は、王国間の政治外交や国内統治が、もはや血なまぐさい武力「旧アテナ」によるのでなく、交渉(雄弁)と狡猾による理性的技術によって達成されるべき事を宣言した記念碑なのだった。

その際、うねうねと絡まりあう2匹の蛇と杖は、武力を取り巻く遠謀と知的企ての象徴であり、王国間の関係は、血縁関係も含めて、まさしく「カドゥケウス」の蛇のように複雑怪奇な様相を呈していったのである。

二重身による新たな神格の創造という点では、もう一つ有名な例にヘルマフロディトスがある。これもヘルメスとアプロディテの結合だ。『変身物語』によれば、はじめ若い男だったヘルマフロディトスは、とある湖で水浴しているところを、ディアナの妖精サルマキスに見初められた。彼女は愛おしさの余り若者にすがりつき、ついに同体になったという。

とすれば、カドゥケウスの2匹の蛇は、ヘルメスに関係の深い半陰陽(ふたなり=ヘルマフロディトス)を象徴する無意識的シンボルとも見る事ができる。いずれにしてもこの2例は、ヘルメスが他の神格(特に女神)と結合して「均衡」「調和」を達成する傾向にある神だという事が理解できるだろう。

こうした文脈に照らせば、2つのものが密に絡み合った魔法の杖の謎めいた寓意が少しずつ解けて行く筈である。

理論負荷性のこと

最近、「理論負荷性」という言葉を知りました。

理論負荷性というのは、科学哲学ジャンルではすでに一般的となっている用語で、ハンソンの『観察の理論負荷性(theory-landnness)』から来ています。

何かのものを観察するときに、その観察者の持っている知識や経験によって、それをどう受け止めるのかが変化することを言うそうです。

ある理論が頭にあると、現実がそういうふうに見える。
理論がないと、そうは見えない。
なぜなら、理論がないと、見ているものの意味に気がつかないからである。
理論なしに、現在起こっているもの、現在見ているものを説明する事は、不可能である…

「観察」は決して客観的ではないのです…

それでも、物事を緻密に説明するとき、科学は《有効な方法&理論》であると大多数の人が認めるものです。そしてそれは、間違っていないのです。もっとも量子力学の世界になると、「緻密」という前提が崩れてしまうのですが^^;

私たちは、物事をまっさらな目で見ているわけではありません。そこには必ず、世界観…思惟分節という枠組みが既にかかっています。それは「無意識の偏見(色眼鏡)」、「無意識下の既成世界」といって良いでしょうか。

思考は言語によって構成される…

《物語の言葉》で世界を眺めるなら、それは神話や伝説に裏打ちされた世界を現出するものとなります。

日本では、各地の神社仏閣が表現する各種の神話世界が、そういうものであります。キリストを信ずるものにとっては、この世は聖書によって裏打ちされた世界であり、イスラムを信ずるものにとっては、アッラーの言葉によって裏打ちされた世界であります。

《物語》と《科学理論》は、使っている言語こそ異なりますが、その実、言語によって裏打ちされた世界を構成している…という《事象》において、根底に共通する部分を持っていると申せましょうか…^^


《付記と続きの考察》

近代の科学、とりわけ17世紀以降の「数学を言語とする科学」については、数学言語の普遍性、抽象性が関与しています。この意味で、現代科学は、人間の感覚を排除する知的世界を構成している、と申せましょう。その《事象》に対して、「理論負荷性」というテーゼがそもそも成り立つのだろうか?…については、極めて微妙なところであると思います。

第一に科学的行為は、観察対象を純粋に数量化するところから始まります。ここで、アリストテレス的な「形相」「性質変化」「目的」といった感覚的性質は、観察対象から完全に排除されます。

第二に近現代の科学的説明は、数学を使って行なうものです。したがって日常言語に伴う様々な日常的な意味説明は排除されます。数学的普遍世界の中での説明となります(その過程で、「理論的存在」が現れれば、それも実験・検証の対象になる訳です。これは人間の感覚的対象ではなく、純粋に理論を突き詰めていった結果の理論的対象です。近現代科学を代表する量子論・相対論は、とりわけそうして発展してきました)。

第三に科学的行為の最後の作業として実験・検証を行なう事になっていますが、これはますます精密化する機械によって計測されるのが普通であり、人間の日常的感覚の入る余地はありません。数学的な原理に基づいて、「機械の中で再現可能な結果」を体験するのみです。

以上、現代科学の特徴を挙げてみると、「理論負荷性」というテーゼでは、人間が出会う1回きりの現象(世界の多様性)の説明については、そもそも科学的なやり方では結論を求める事ができない、という困難が浮かび上がってくるかと思います…^^;

近現代科学の限界は、まさにこの「世界の多元性・多義性・多様性といったものを対象としない」という事にあります。それは科学の対象ですらないのです。「我々の視点に依存する」という行為の意味を問い、解明するものではありません。それは哲学と思想の問題です。

…とはいえ、「心は科学の対象となりうるか」というテーゼは、常に、科学と哲学の境界にあって揺れ動いてきたテーゼであります。

「意識の科学」という事が可能かどうかは、その「意識(心)」というものをどういう普遍的数量に落とすのかという困難と、トレードであるように思います。人間にも動物にも、意識は多様なレベルとしてあり、覚醒時と昏睡時に限ってみても、多様な覚醒状態と昏睡状態とがあるわけです(ましてトランス状態となると、これはいっそう怪奇な代物になりそうな…)。

ここで最初の「理論負荷性」に戻るわけで、無限ループではありますね…^^;


コメント有難うございますm(_ _)m

アムゼル2008/11/23言葉がすべて
さて理論負荷性ですが、哲学のことはよくわかりませんが、日本人は欧米の概念を哲学にかぎらず難しい漢語を用いて翻訳しがちです。<止揚>などという意味不明瞭な概念が「もちあげる」という日常ドイツ語にもとづくものとは、ドイツへ来てドイツ語で生活するまできづきませんでした。<弁証法>などもじつは<対話法>と訳したほうが適切だったでしょう。
つまり日本語による科学、学問はそのような変な漢語概念によっていかに不透明で明晰さを欠いたものになっているかがここからわかります。漢字だけを用いるシナ語などはあいまいさの多い言葉で学問には不向きの言語だと学んでつくづく思い知りました。この<負荷性>などという翻訳も漢字が悪さをしているその一例でしょうか・・・?
それはともかく、要は言語によって世界の切り取り方が違っているということでしょう。そのことは新しい外国語を学ぶたびに体感することです。ドイツ語にはドイツ語の解釈する観念世界があり、シナ語にはシナ語の規定する狭い世界があり、日本語には微細なものを表現するすぐれた世界表出力があります。
さて既成の変な概念に惑わされず自己の思索を深めてゆくことの大切さは、わたしは森有正から学びました。<経験>などというありふれた概念であれほど深く豊かな意味を作り上げた森の凄さは日本の哲学のなかでは稀有の例ではないでしょうか?おそらく森に耽溺したあのころからの内的希求がわたしをここまでつれてきたものと考えています。非力な思考力ですが行けるところまで行こうと決めています。