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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

派閥の力学・考(前篇)

毎度のおっとりペースで、ずっと前に福田氏と麻生氏の一騎打ちとなった総裁選(自民党総裁選の投開票日2007.9.23)があったのを思い出した後、しばらくじーっと考えておりました。

福田氏も麻生氏も、派閥の都合で総裁に決まってゆく、という運命から自由では無いのだな・・・と思った出来事でした。一見「民主主義」という顔をしていても、実際の政治は異なるのだ・・・と感じたきっかけが、この出来事。

これはもしかしたら、縁起のレイヤーに関わってくるお話かも知れない・・・と思ったのですが・・・どうなのでしょうか、少しどきどきです。

縁起のレイヤーの変種(?)としての、「派閥」・・・派閥人脈というのは不思議です。「好き嫌い」や「相性」や「志」ではなく、純粋に利害関係のみで繋がる人間関係。不倶戴天の敵とさえ、固く手を結ぶ事を可能にする人脈・・・(もしかして、これも地政学要素だったりするのかな・・・と思っていますが、よく分かりません・汗)

財力と軍事力(または暴力)を背景とした心理的圧力(権威)による、人脈の囲い込み。タイミングと謀略と心理戦と雄弁が幅を利かし、敗れ去った者の怨念のみが増大する、不穏なシロモノ・・・

利害関係のみで成り立つレイヤー、であるが故に、宗教や思想すら、派閥を保証するための道具でしか無い、のかも知れません。イデオロギーは、派閥を固め、派閥内の権力を演出するための道具でしか無い・・・時には、強すぎる宗教心や愛国心をつなぎの道具としていたり・・・とか、と想像。

人脈にすがって、あわよくばライバルを足蹴にして・・・この世の最強の権威と権力を独占しようとする人、人、人。『ロード・オブ・ザ・リング』で描かれた、黄金の指輪の呪いさえ浮かび上がってきそうな光景です。

おそらく、複数の部族がその境界を接触し、覇権を争い始めたときから始まる、最も古いレイヤーかも知れない、と想像する部分もあります。文明の発祥と時期を同じくしているかも知れません。文明主義とはその実、派閥主義なのかも知れない・・・

古今東西の政治を裏から動かしてきたのが、この「派閥」というシステムで・・・この得体の知れないレイヤーは、派閥における最大利得を求めるために、戦争すら起こすものなのだ、と。戦争を起こして、その残骸から更に利得を求めようとしたり・・・

空虚になる。――色々な出来事に関わりすぎると、ますます自分の力が残り少なくなってゆく。だから、大政治家達は、全く空虚な人間になる事がある。それでいて彼らもかつては充実した豊かな人間であったかも知れないのだ。

・・・と、ニーチェは言います。派閥のある限り・・・勝ち組といえども、ひと群れの生ける屍、なのかも知れません。

光に向かって。――人間が光に向かって殺到するのは、もっとよく見るためにではなく、もっとよく輝くために、である。――その人の前に居れば自分も輝くような人を、世間の連中は好んで光と見なしたがるものである。

・・・実際の屍となり果てても、人は、黄金の指輪を決して捨てようとはしない・・・

(・・・暗すぎるかな・・・)^^;;;;

でも「人」はそれだけの存在では無くて、もっと複雑な生き物ですから、歴史を調べていて、思いがけないところでホッとしたり、面白かったりもするのであります。命をすり減らしてゆく派閥の重圧の中にあって、キラッとひらめくのが、素朴な友情であるように思いました。漢詩が「友情」を大切なテーマにしているのも、うなづけるところであります^^

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カドゥケウス研究・4

《参考書籍=『異都発掘-新東京物語』荒俣宏・著、集英社、1997年》

コルヌコピアは、見れば見るほど、我々の想像力を激しく刺激する意匠である。何故、これが潜在意識を目覚めさせるのか。その答えを探る上で手がかりを与えてくれるのが、蛇と角のイメージなのである。

どうして、蛇が、牛や山羊の角と同一視されたかと言う問題でもある。

これら3つに共通する形象を抜き出すとすれば、それは曲線である。渦巻き、或いは立体的な螺旋ーーそれをどう呼んでも良いが、ここでは螺旋と命名しておきたい。蛇が巻いたとぐろと、美しいカーブを誇る角は、ともに螺旋の象徴なのである。

これは、あのホガースが著した決定的名著『美についての分析』(1753)によれば、曲線とか単純な図形などは全て美の根源的意味を形成すると言う。ホガースはこうしたコルヌコピア型のねじれ円錐(巻貝など)を、上方へ向かって伸びる運動を直観させる線、と分析した。すなわち成長、発展。これは生命が養育されると言う現象の基本的イメージと合致する。

なんといっても彼は、微笑の起源として、幼児が母乳を吸う口の形を思い至った「着想の人」であった。コルヌコピアの曲線自体に、豊穣の意味を嗅ぎ取ったとしても、何ら不思議は無いのだ。

この螺旋曲線を連想させる蛇は、また、邪悪の象徴でもある。しかしこの問題は、回転運動を行なうものの「両義性」から光を当てる事ができる。

螺旋や渦巻きを眺めていると、はじめは一方向に巻いていると見えた曲線が、ふとした視線の移動で、あっという間に逆回りに見えてしまう事がある。この現象を更に概念化すれば、善と悪の両義性へと行き着く。螺旋と言うものは、見方ひとつで、どちらへも動いていく存在なのである。

興味深いことに、アメリカ・インディアンの一部族ホピは、迷路を思わせる渦巻き=螺旋文様を、地母神の「しるし」としている。これは勿論ホピ族に限られない。ポリネシアでも、クノッソスでも、また東洋でも、渦巻き=螺旋は生命力の象徴なのである。

ここまで書いて、ふと思い出したのが、クレタにあったと言われるミノア王の宮殿、すなわちラビュリントス(迷路)である。神話によれば、その迷宮に住んだのは、半人半牛の怪物であった。怪物ミノタウロスがまさにタウロス(牛)である事は、豊穣と力と生命力の意味がそこに宿されている事情を暗示する。

渦巻きが牛の角に取り付いて、豊穣の角を作り出しているとすれば、…ミノタウロスと迷宮は、牛の角と渦巻き文様と言うホガース張りの「原形化」に照らせば、間違いなく「豊穣」を表現しているのである。

ともかくも、渦巻きの両義性が、こうして生と死、善と悪までの寓意を備えるに至る過程で、我々が今追求しているコルヌコピアの意匠は確実に生まれている。

前史時代の諸民族が残したこれら渦巻き文様は、更に、男と女の相補的協働によって実際に生命を誕生させる事実を、本能的に直観した人々の「口ごもられた知識」の表現であったろう。そして古代人は、これらどうと言う事の無い渦巻き文様を見る時、いつもそれが激しく回転しているように見えた筈だ。つまり、この図は生きていたのである!

渦巻きが可逆二重の意味を所有する原因は、もちろん他の要素にも求められる。ポイントは、目が2つある事である。元来、立体視を脳内で成立させるために横に並ぶ事となった両眼は、当初予定もしなかった新しい視覚体験を生んだ。渦巻き文様を見て、「目が回る」という現象である。…その体験は、確かに静止した図形であるのに、見た目には常に回転し続けているという、奇跡的な図形を世に送り出した。

それが、生命の図形、渦巻き=螺旋であった。コルヌコピアの美しく精妙な図形は、それら畳み込まれ続けた「ある原初的意味」の表徴に他ならなかった。


建築物に掘り込まれたコルヌコピアは、左右一対の交叉図になっている。

この偶数性は、渦巻き文様の本質にあった両義性や、生と死、善と悪といった世界の二極状態をも表現しているのであろう。けれども、連想させるのはそればかりではない。交叉したカドゥケウスーー果実を溢れさせた秋=豊穣の正統派コルヌコピアを見てもそうなのだが、不思議に人間の頭部を思い出させるのだ。

人間には一対の目がある。一対の耳がある。視神経は交叉して脳につながり、その内部で立体像が選択的に再合成される。選択的に、と書いたのは、我々の内部で成立した像が、必ずしも外景のそれとイコールでは無いからだ。

更に、耳の中にはコルヌコピアそっくりの三半規管が一対あって、これもまた脳で一本化され立体音を形成させる。この器官など、まさしく人体のコルヌコピアと呼ぶべきだろう。

これらの器官は脳と言う中央点で交叉し、外から取り入れた物を内部に寄せ集める。続いて、音像や画像が感覚となって人体に意識される段となる。

このプロセスを、再び図像の側へ返してみる。すると、コルヌコピアから溢れ出ているように見える果実、麦、花などは、視点が逆転して、外界に溢れる豊穣の穀物を内部へ吸い込んでいく過程と言う具合にも、意味づけされ得る。

更に、ホガースによる螺旋の解釈、すなわち外へと発展する力は、次のトマス・ゲインズボロによって、巻貝を住処とする軟体動物との連想から、「あれは外へ向かうのではなく、内へ引っ込んでいくのだ」という反対理解へと歪められていった事実がある。イギリスの18世紀美術は、こうして内面性を深めていったわけだ。

そうした事情を考えれば、コルヌコピアの意匠にもまた、果実や花を外へと出すのではなく、内に吸い込むデザインになっている例が発見できる、との直観が湧く。秋の豊穣の角と、春の喜びの角。それから惜しみなく与える角と、全てを吸い尽くそうとする角。


★アカンサス意匠=カリマコスという人物が石柱のデザインを考えている時、少女の墓にそなえられたバスケットの周りに伸びたアカンサスの葉が反転して美しい縁飾りになっていたのを見て発案した物と言われている。

★水を吐くライオン意匠=古代エジプトで太陽が獅子宮に入る8月、ナイルが増水するところから生まれた物と言われる。

カドゥケウス研究・3

《参考書籍=『異都発掘-新東京物語』荒俣宏・著、集英社、1997年》

豊穣の角は、西欧でコルヌコピアcornucopiaと呼びならわされる。この意匠の由来を知るには、ギリシア神話に当たってみるのが一番だろう。

オウィディウスによれば、ローマ人たちのユピテル、すなわちギリシア神話に語られるオリュンポス12神の頭ゼウスは、父クロノス(時の神格化)の子として誕生した。しかし、父は、わが子の1人に王座を奪われるとの予言を受けたため、生まれてくる子を次々に食べていた。そのため母親は故郷クレタへ逃げ、ある窟(いわや)でゼウスを産み落とした。更にクロノスへは、産着で包んだ石を手渡すと、王は疑いもせずにそれを呑み込んだ。

一方、母の機転で死なずに済んだゼウスは、ニンフたちの手でクレタのイダ山に運ばれ、蜜と、アマルテアと呼ばれる牝山羊の乳を飲んで育った。この誕生譚から、山羊の角は生命をはぐくむ滋養のシンボルとなり、更に転じて自然の恵み、神の慈愛を表す標章となった。

しかしオウィディウスは有名な『変身物語』(9:85-92)において、コルヌコピアの起源をめぐる別の物語を語っている。それはヘラクレスに関係する。川神オイネウスの娘ディアネイラをめぐって、ヘラクレスがアケロウスと争った。アケロウスは変身して、或る時は蛇、また或る時は牡牛の姿を取りながら彼を攻め立てた。しかし英雄はこの怪物をねじ伏せ、牡牛の角を折り取った。ヘラクレスが折り取ったこの角が、やがて豊穣の象徴にされたと言うのである。

けれど、2つの物語には明らかに共通する部分がある。どういう部分かと言えば、動物のシンボリズムである。豊穣の角にまつわって、山羊、牛、蛇という3種類の動物が登場する。その場合、山羊と牛の関係が最も判りやすい。どちらも角を持ち、乳を出す。もう少し微細に見るなら、角の法は牡、或いは男性の授精力を、乳は牝の出産=養育力を、それぞれ表現している。

だが神話の段階ではこれら両性の特質は併合され、なお一層強大な象徴力に合成し直されている。したがって、山羊ないし牛の角は、一方で力のイメージを具体化させながら、乳=母性をも表すという二重の意味機能を発揮する。

困難なのは角と蛇との密接な関係であろう。はじめに蛇のシンボリズムであるが、西欧では農耕文化の中で大きな役割を果たした。それは竜と並んで大地の生産力を表し、しばしば農耕に関わり深い川とも結び付けられる。蛇殺し、または竜殺しの神話は、大地を耕し水を治めるという農耕の原初的発生を意味すると、象徴解釈学は教える。

西欧における農耕の神といえば、女神ケレスである。ギリシア神話のデメテルと同一視されるローマの女神ケレスは、小麦の束を持ち物(アトリビュート)とし、大地に生産力を与える地母神である。彼女の娘ペルセポネが野で花を摘んでいて冥府の神プルートーに連れ去られた時、ケレスは娘を探して大地をさまよい歩いたと言う。そしてその間、地母神を失った地上は不毛の原野と化してしまった。…このケレスCeresの名は現在、「穀物」という意味に使われる英語cerealに面影をとどめている。

ここでケレスの図像表現を歴史的に辿ってみる。その祖型とされるギリシア神話のデメテルは、普通小麦の束を抱えた姿で描かれた。しかし同時に、しばしば両手に蛇を握り締めた形態を取る事もあった。それも当然の話で、すでに述べたとおり、蛇は重要な生産力のシンボルだったからである。いずれにしても、この2つの図像表現を統合させたケレスは、蛇と小麦の束を双方ともに「持ち物」とするようになった。

ところで、ケレスはまた、問題のコルヌコピアをも「持ち物」とする。すなわち大地母神の段階では、小麦と蛇と角とを全てイコールで結んだ標章をその紋所とした神性が、確かに存在したのである。

その証拠を、実際に古い図版に探してみよう。ギリシア神話の女神デメテルを描いたトマス・ストッサードの水彩画(19世紀初頭)では、大地の豊穣を化肉させたこの女神(中央)は、手に小麦の束を抱えている。彼女の左に居る女性が携えている斧は、神秘劇の象徴。この女性はエレウシスの民を表しているのだろうか。

というのは、デメテルが娘を求めて地上をさまよっていた時、エレウシスという土地の民が彼女をもてなしたからで、デメテルは返礼として地母神の秘儀を人々に伝授した。それ以後、エレウシスでは秘儀を劇化した「ミステリ」が行なわれるようになった。

いずれにしても、ロマンティックな絵画を描き続けたストッサードは、彼女に神秘的な地母神のいでたちを与えている。

しかし次に、クレタ島から出土した地母神の像に注目しよう。古代ギリシア人が抱いた地母神に対するイメージは、ロマン派時代のデメテル観と全く違っている。むしろ恐るべき姿、醜い姿を与えられていた。しかも、両手に握り締めた2匹の蛇が、彼女の犯しがたい厳しさを更に強めている。豊穣の角の起源となった牡牛の象徴性を思い出すまでも無く、地母神には、力を示す男性性と、豊穣を示す女性性がとが本質的に同居していたのである。

クレタの地母神は、いうまでもなく、デメテル=ケレスであるが、ここで再度、オウィディウスが伝えたゼウスの神話をを問題としよう。ゼウスは神々と人間の支配者、すなわち世界の王であるが、その母親はクレタ出身であった。とすれば、ゼウスという神性はクレタの地母神によって誕生した男性力に他ならない。こうして豊穣の角は、クレタ=ゼウス=角=小麦=蛇=デメテルと続く、実に複雑なイメージの連鎖を作り上げる。コルヌコピアという象徴意匠は、それらの全要素を1つにまとめ上げたものであったと考えてよいだろう。

アルティアティ『紋章学』にも豊穣の角が見える。ここでは豊穣の角は独立した存在となり、ヘルメス=メルクリウスの「持ち物」の1つに加えられている。実はヘルメスもまた大地に深く関わる神で、人々に技芸を伝授したと言われる。交叉したコルヌコピアの中央に立つのが、ヘルメスの杖「カドゥケウス」で、治癒力を持つ。

これらの細部を眺めていくと、交叉したコルヌコピアは芸術から土木技術までを含めた叡知の伝授者ヘルメスの「持ち物」、つまりカドゥケウスの別意匠という理解も強かったかとも思えてくる。…

ついでにもう一つ、ルネサンス=バロック期に愛好されたコルヌコピアのイメージを例示しておきたい。オランダのD・H・カウゼ著『植物本草集』(1676)の寓意扉絵である。大地の豊穣を象徴するコルヌコピアには、小麦や果実といった秋、或いは収穫の指示物ではなく、春を表現する花を溢れさせている。

コルヌコピアに盛られた花は、おそらくこの時期を飾る代表的な意匠となるが、特に祝い事や大祭の欠かせぬ標章にされた。その理由は明確である。花は春を、春は喜びを、それぞれ表現するからである。だから、喜びを盛ったコルヌコピアが祝祭の場で多用される意匠になったとしても、何ら不思議ではない。