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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

制作プロットのメモ「八重潮」

第二部タタシマ@第九章「八重潮」プロット

日付は全てストーリー上の架空の旧暦のもの

■08/27■

叡都王、京極家へ戻っていた明日香姫へ、贈り物を持った使者を届ける。その贈り物は、大尊教の施設の宝の山から出て来た一部で、土佐産の高級カツオブシ。使者が帰って行った後、ひっそりと見張っていたネコマタ・ハイネが、ついに我慢できなくなり、カツオブシに飛びつく。

カツオブシの包み紙に、四国の方で盛り上がっている神学論争の論文内容が記載されてあった、ほか、豹尾神の御札も混じっている。欠き眉が目指しているモノっぽい(実際に、欠き眉の通称が「欠き眉の豹」で、海外・大陸の豹トーテム異民族であろうか、と推測されている)

ネコマタ・ハイネの相棒を務めるタスキ、明日香姫に今後の方針の説明。除目の結果、坂崎柚羅の父親と兄が、宮廷へ配属と言う形になったので、柚羅と瀬都が上京して来る。必要があれば、2人を女童として使う。侍女・峰のアシスタントとしても。(妙に呪術に対抗できる人材なので)

坂崎尚房(柚羅の父)=図書寮の部長クラス、坂崎尚通(柚羅の兄)=図書寮スタッフ(史生)。坂崎家の住居については、カモさんの方で援助。

深夜~綾敷太政大臣の内閣が解散。総辞職。菊理宮は役職維持。その息子・御影王は、政争の結果に不満。父親に食って掛かるが、たしなめられる。前・太政大臣の綾敷老人が「菊理宮と同じくらい短気じゃのう」と面白がる。

賀茂大納言=カモさん、業務整理や引継ぎを済ませて帰宅。カモ邸では、お抱えの忍者たちタスキや亮、ネコマタ・ハイネが既に旅立ちの準備を済ませ、先に出発している。訳知り顔の澄江御前「悪い結果では無かったようね」と理解を見せる。

■08/28■

鳩屋敷の政権がスタート。鳩屋敷太政大臣。鳩屋敷邸にて、初日、除目確定の宴が行なわれる。不破縄将軍も昇進していて、列席。

鳩屋敷顕貴=太政大臣、鳩屋敷顕輝=中納言、聖麻王=次官から長官へ昇進、叡都王の教育を務めていた成城氏=右大臣、白川家当主=中納言据え置き、不破縄将軍=内大臣、叡都王は親王宣下の予定。

伏見・常陸宮邸では、昨夜、武者修行で滞在中の忍者ハイタカと、常陸宮の侍女・夕星御前の間で訳あり。早朝のカラスの文使いがあり、鳩屋敷政権が発足した旨、知らされる。鏡さん「急な変化だ」と驚く。まだ頭が付いて行かない。

鳩屋敷の宴会の方では、綾敷老人が忍者の犬上と共に、出入りの清掃業者にまぎれて事情を窺う(綾敷老人は太政大臣だったが、元々、活動的な面白い老人)。

菊理宮邸では、御影王が、母親に婚約話を振られ、意中の姫の存在などを突っ込まれて、従者の良基と共にアタフタ。

■08/29■

御影王と良基、早朝の早駆け(乗馬)。途中でカモさんと行き逢い、そのまま旅立ち。御影王の持つ「甕星(ミカボシ)」としての霊威が、今回の旅では必要になる見込み。鹿深氏と分岐の所で合流、共に伏見稲荷の常陸宮邸へ。

伏見稲荷・常陸宮邸へ到着。忍者ハイタカは、大げさに包帯を巻いている(得体の知れない武者修行で満身創痍)。カモさんたち、ビックリ。鏡さんの方でも、夕星御前の薙刀のシゴキがすごかったという理解。

夕方から出発、伏見の桟橋に向かい、淀川の上流から下流へ川下り、大阪湾へ向かう。船頭は無欲庵の仲間の僧形商人が務める。

常陸宮、夕星御前、無欲庵、伏見稲荷の界隈の街道で、カモさん一行を見送り。夕星御前、ひそかに忍者ハイタカに思いを寄せて道中安全の歌を作っていたが、イタズラな文使いのカラスがそれをつかみ、うっかり落とす。常陸宮に見つかる。紙が破れてしまったので、常陸宮が直筆で書き直し。(夕星御前の歌の技量に感心したので、雇い主としての好意で)

夜が更け、淀川下りが進む。大阪湾=渡辺津の方では真夜中0:03頃に最大干潮となり、下りやすい。その後、満潮になるので、新しい船が港へ入り、停泊。次の干潮に合わせて出港するので、それまで待機。カラスの文使いが届き、常陸宮の道中安全の歌に皆で首をひねる。女歌っぽいので。

■08/30■

未明、船出を待つ間の宿で、カモさんと鏡さんの会話。瀬戸内海の事など。渡辺津へ船が次々入港しているのが見える。

夜明け、干潮が始まり、船が出港し始める。カモさん一行の渡航を担当するのは、荒事や妖異事件の扱いにも慣れているベテランの愉快な船長。伊勢の津の港の方でもお世話になっていたので、思わぬ再会となる。

タイミングの都合で明石海峡は荒れていたが、ベテランの船長は波の速度をつかみ、難なくこなす。ほぼ船長の見込んだタイミング、正午の頃、淡路島へ到着(松帆の浦)。
※08:00~09:00ごろに明石海峡を横断するのが早いのか?この辺りは良く分からないのでゴリ押しで、そのまま清書!

松帆の浦の市場(広場)には古い祠があり、そこに出土した古代の銅鐸が祀られているという話で、鏡さんは興味を持って、祠に近づいて見てみる。ところが、めぼしい大型の銅鐸は全て紛失しており、小さい銅鐸しか残っていない。

ほぼすべての銅鐸が失せた状態なので、船長が仰天して騒ぐ。カモさん「国家を揺るがす一大事」と検討。船長はカモさんが考古学に詳しいので、ついでに銅鐸のミステリー含めて詰め寄る。古代の銅鐸を使った国家を成立させる魔法陣の説明あり(仮説>大量の銅鐸を地下に埋めるのは?出雲の例など)。

残されていた小さい銅鐸を、鏡さん、持ち前の金目衆(カナメ)としての異能で、素材を読み取る。古代にはオリハルコンとも呼ばれた、理想的な配合比率の硬質&高品質な青銅。製造された当時は、伝説のとおり、黄金よりもまばゆく輝いていた筈。

やがて鏡さん、記憶に気付く。坂下宿の廃寺の謎の銅像も、同じ金属で作られていた。カモさん、鏡さんの眼力に感心する。ともあれ、銅鐸の紛失(盗難の疑いもあり)については、常陸宮にすぐに知らせる必要があり、船長に注文。船長「トップクラスの皇族じゃねえか」と驚きながらも承知。

次の潮流に合わせて、船長たち、淡路島・松帆の浦を出港し、渡辺津へ戻る。カモさん一行、淡路島に留まり、それを見送る。

しばらく歩き、旅人イオと合流。日没の頃、宿泊予定の一時の宿へ落ち着く。ちょうど収穫期にあたっており、稲刈り労働を提供しながら渡る労働者たちが、相当数、宿泊している。簡易な宿でゴザの上に雑魚寝というような状況だが、御影王と良基は伊勢暴動などで、すごく鍛えられたので、あまり気にならない。(夜もあまり寒くない季節)

夕食しながら、古代の銅鐸が関わる魔法陣「ユツ・イオツ」について少し検討。イオの疑念など。朝熊山で交わされた謎の会話とつながる部分あると指摘。(伊勢暴動~熊野の神託~那智滝事件から出ている伏線をつなぐ)

(場面変換、舞台は都、深夜)

廃太子・叡仁王の邸宅。別荘と言うような簡易な邸宅だが充分に大規模で、召使が相当数。「殺生石の女」と噂されている胡蝶公主すなわち胡蝶御前が、叡仁王をたぶからしつつ、自身の手先・工作員と共に滞在している。大銭屋も、胡蝶御前の有力な手先。

胡蝶御前(絶世の美女)は、さながら西洋の天使のように羽が生えている。羽人。古代には鳥巫とも呼ばれていた異能の人々。実は、イオも同じ=祖先が鳥巫、羽人。

胡蝶御前は、大陸に居た頃(胡蝶公主だった頃)と同じように、手下たちの間で、巫王として絶大な権力を振るう立場。裏の光連衆の真の教祖。表の教祖は、伊勢暴動に関わっていた天角と呼ばれる男。現在は、伊勢道での呪術の返り討ちを食らって片目になっているところ(タスキと亮・当時はカロウが、初の一騎打ちをしたときに、呪術の返り討ちがあった)。

那智滝の妖異事件で、こちらの事情が、相当にカモさん一行のほうに知られたのは大いなるミスとして、胡蝶御前は、天角の責任を追及・弾劾する。(欠き眉の勢力は、胡蝶御前に対してさほど忠実では無い、と知られるのは意外にマズイ。隙を突かれるため)

胡蝶御前、大陸の強力な呪術でもって、天角を始末。周りに居た部下たちは、あらためて胡蝶御前の霊威を恐れ、忠誠を誓う。

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歴史研究:中世と近世と信長

縁あって、戦国大名・織田信長のプチ研究書を読書

織田一族を含め、中世という時代を彩った有力者は、農民(常民)集団からなる古代的なシステムによって立つ勢力ではありませんでした。荘園は惣村となり、惣村は中世国家群のシステムに組み込まれ、幾つかはマニュファクチュア、つまり工場制手工業および商業活動に手を染め始めていたのです…という話

中世に活躍したのは非常民すなわち被差別の民でした。漁業、狩猟、各種の商人・職人。山城を築いたり砦を築いたりという時代の要請があり、土木業者の勢力が伸びてゆきます。たとえば石積み工事を専門とした穴太(あのう)集は、織田信長の伝説の城、安土城の石垣の工事に関わった事で有名です

全国的に、刀や甲冑、鉄砲といった武器の需要が高まり、各所で多くの鉱山が開発されました。石見銀山や黒川金山など、今でも残る黄金郷伝説の地は、こうした戦国時代の動きが生み出してきたものでした。この鉱山開発の動きは、遠く海を越えたスペインやポルトガル、そして彼らの植民地であった新大陸・南米の金属市場にも影響をもたらします(ポトシ銀山と石見銀山は、16世紀の銀市場の双璧でした)

帝国主義の台頭と、グローバル市場の拡大とは、実に戦国時代(15-16世紀)からの由来を持っています。その社会的な潮流が頂点を迎えたのが、数百年後の世界、すなわち20世紀における帝国主義&軍拡競争の時代でした。このような連続的な歴史的視点は、現代の動きを見るときに重要です

閑話休題

織田信長は「人は死ねば無になり、魂も何も残らない」という極めてドライな思考の持ち主でした。彼にして、時代のターニングポイントの創成、すなわち比叡山延暦寺の焼き討ちが可能であったと申せましょう。このような苛烈な精神によって、日本の戦国時代は終焉を迎えたのでした――現代は、どのような精神によって時代のターニングポイントが成されるのか…それはまだ分かりません

中世および戦国時代は、極めて商業的な時代であると共に、暴力的な時代でした。海洋には一攫千金狙いの海賊が徘徊し、海賊行為は国家的事業・国家的商業行為のひとつとして、合法的に認められてさえいたのです。法律は時代によって姿を変えていた、という事実の一つです

(それでも、この暴力的な時代を経た後の世においては、人権さえ認められていなかった古代よりは、法律は進化していたのです。「禍福はあざなえる縄の如し」という真理を見る思いであります。「時代はまだまだ動揺し続ける」、そこに未来への期待を持っても良いかも知れないと思うのであります)

人々は自衛のため、大量の武器を必要としました――大量の資金も

織田信長は、そうした時代のさなかに生まれてきた、極めて合理的な人物です。信長を生み出した織田一族は、河川交易の利益で莫大な富を築いた有力者としての顔を持っていました。織田一族は河川流通から海洋流通へと事業を拡大し、中部地方の港湾の支配権を手に入れつつありました

次に織田信長がその天下取りの過程で、その初期に征服した国が、良質な材木を出す山国でした――船を建造する材木の調達が容易になったのです。これが、彼らの商業活動を推進させたことは間違いありません。大阪の自由都市に進出することで、ポルトガルとのつながりも出来てきます。ポルトガルは、海洋を航海する大型船の技術を持っていました。織田信長が何故に安宅船などという大型の船を建造できたのか、その理由がここにあります

信長による比叡山延暦寺の焼き討ちは、商業活動という観点から見ないと、納得できない部分が多いという行為であります。軍事活動は常に、商業活動と表裏一体でした。織田信長が持っていたのが、南蛮貿易の利権。比叡山延暦寺が持っていたのが、中韓貿易の利権です

比叡山延暦寺の焼き討ちは、「中韓貿易グループと南蛮貿易グループの対立」という文脈で理解できるものです。寺社勢力は、中韓貿易を通じて、火薬の原料となる硝石などの戦略的物資を大量に入手しており、これが信長にとっては脅威であったのです(別の側面から見れば、日本はこの時、真っ二つに分裂する危機にあったと言うことも出来ましょう)

結局、信長はふたつの貿易利権を独占しました――南蛮貿易の利権と、中韓貿易の利権です。そして、織田信長を継いだ豊臣秀吉の代になって、天下統一という状況が可能になったのです。天下統一がなされ、巨大な経済力と軍事力がひとつの権力機構に一極集中し…まさにその時、わが国における、「近世」という時代が始まるのです

井筒俊彦研究ノート

【2009.1.4追記】今年に入って、画像も内容もひときわ気に入った記事:

ひとつながりhttp://plaza.rakuten.co.jp/opektal/diary/200901030000/

立体幾何の玉造をやってらっしゃる『真理探求と歴史探訪』さんより。

何となく、井筒氏の言う、極めて緻密な構造過程…言語アラヤ識(空海の大日如来)が立ち上がる瞬間というのは、幾何イメージで言えばこんな風かな…と、想像してみるのでありました。

意識宇宙の発振の前の「無極」~「ゼロポイント」のイメージは、さすがに想像外…


テキスト=井筒俊彦・著『意識と本質』

・・・井筒氏が描くところの意識構造モデルより思索・・・

◆ゼロポイント=究極の根源(逆さ円錐体の頂点)
「元型」エネルギー未発の場。

◆深層(1)無意識領域=ゼロポイントの上に広がる逆さ円錐体の浅い部分
「元型」エネルギー初発の場。「易」でいう「無極」。

(コメント)

井筒氏は、深層(1)/深層(2)の境界について、「易」哲学で言うところの「無極而太極」の、次元転換の地平であると説明しています。「有」の究極の面である「空」。空海にとっては全存在界生起の始点にある、「法身」であるところの根源的コトバ(絶対無分節のコトバ)。

この存在界一切の深秘コトバ、つまり「空/法身/阿字真言」を、空海は大日如来のイマージュとして捉えた・・・と理解。

◆深層(2)言語アラヤ識=唯識哲学が説くところの「種子」領域
「元型」エネルギー分節の場。「根源形象」の始原。
また「元型」的自己分節/自己展開の始原。「易」でいう「太極」。

(コメント)

井筒氏は、この深層(2)の領域に切り込む哲学として、東洋哲学の伝統にある深層意識的言語哲学(言語観)の可能性を議論している。空海の阿字真言、陀羅尼、マントラ、イスラームの文字神秘主義、カバラ文字神秘主義など。言語呪術のよって来たる処であり、「みだりに神の名を唱えてはならぬ」という、一見「未開人」的な体験知の現場である、と理解。

・・・ちなみにユング派心理学者ヒルマンが、この「種子」の領域を「コトバの天使学」として議論しているが、これは構想のみにとどまり、それ以上の議論はなされていないらしいです(『意識と本質』著述の時点)。

深層(2)はまた、無時間的運動の場でもあり。全てが共時(同時)的に現成。ここで起こるのは時空的過程ではなく、「構造的過程」である、と井筒氏は言います。

・・・幾何学的認識の場、という事でありましょうか。「太極」を起点に無限増殖・展開する複素次元として描かれる、極めて緻密な複素幾何学とも言うべきもの・・・

存在「元型(セフィラ)」から成る独自の超現実的世界をカバリストは直観し、それをセフィロトとして構造化。空海の真言密教と比較すれば、これは「アレフ」真言であると言える、と井筒氏は言います。阿字真言より、語音象徴主義をさらに極端に推し進めたものである、という説明があり。

この深層(2)に現成した「セフィラ」元型は、中間層の「ある想像的地平」において、特殊なイマージュとして自己顕現。そこで人は、事物の「本質」を覚知する、というのであります。うむ、これはまさに複素解析です・・・

◆中間層(M領域)=想像的イマージュの「場」。微細体。
「元型」および「シンボル(象徴)」の構築および分節の場。意味分節が想像的イマージュに結晶する領域。

シャーマンのイマージュ体験や、曼荼羅イメージなど。この中間層は、「無限に感じる」ほどの広大な領域に渡って広がっていると言われています。神話・伝説といった説話的自己展開バージョンと、曼荼羅図などのシンボル・図形的自己展開バージョンとがある、という説明。

一般的には、中間層に上昇してきた「意味分節」には、即物的なものと非即物的なものとがあり。経験的事実性に裏打ちされた即物的なものの大多数は、即物的イマージュとなって結晶し、そのまま中間層を素通りして、表層意識に現れる。人はこれを物事の「本質」として認知する・・・。

一方、純粋に非即物的なものは、非即物的イマージュとなって結晶し、広大な中間層における一種の「想像的空間(イマージュ場)」を作る。これは、セフィロト構造化の例でも述べたとおり。逆に、「本質」として認知される即物的イマージュが、中間層に想像的空間(イマージュ場)を作る場合もある。例えば、仏教の蓮の花や、クンダリニー・ヨーガの蛇など。

即物的・非即物的のいずれにせよ、この中間層で一種のイマージュ場をつくる。表層意識から眺めるとき、こうしたイマージュ場は、「象徴的性格」を帯びたものとして認知される。要するに中間層は、一切を「想像」化する、特殊な意識空間なのである・・・という事。

(コメント)

自己展開という性質上、この中間層で時空(時間と空間)の認識が同時に発生する、と見てよさそうです。代数学的認識がようやく生まれる場、と呼びたいところ。

おそらくその中で、人間の意識は、民族や環境に応じた言語展開方程式によって、釣竿で魚を釣り上げるかのように、深部から浮き上がってきたイマージュを拾い、言語化されるところの伝統的な概念フィールド、または「想念的現実(=常識とも言う)」を、表層意識の基底部として構成するのであろう、と考えられます。

・・・「思考は言語によって構成される」。ゆえに、この広大な中間層は、民族文化を発生する始原でもある、と申せましょうか。

そこで、言語方程式が拾えなかった雑多なイマージュは、理解不能な妄想として捨てられ、再び中間層の中に漂流するのであって・・・可能性にとどまっているこれらの要素を、再び拾い上げて活用しようとするのが、神秘家であったり、呪術師であったりするのかと・・・。

代数学的認識である以上、普通の人間は、釣り糸(認識感覚)はせいぜい表層意識の底辺部までの長さであり、1本しか持てない・・・として・・・呪術師やシャーマンになると、別の認識方法(超感覚)が発生するため、この釣り糸は2本になると考えることも出来ます。2本目の釣り糸は、おそらく、「とても長い」のです。

表層意識に居て、言語(またはイマージュ)を限りなく深くするという事は、この中間層の領域をほじくり返そうとする試みに他ならない、と申せましょう。即ち、中間層の奥まで届くほどの長い釣り糸を垂らそうとする試みでもあり・・・これは芭蕉の俳句などの「詩的認識の拡大」に見られるところであります。

◆表層=表層意識。普段の我々の意識が活動する場。
妄想や幻想を「現実」から区別し、切り捨てるという意識判断が働く。意識の逆さ円錐体で言えば、円底の部分。無数の意味分節が、既に成されているところ。

(コメント)

表層だけの認識は、浅いレベルの意識であるという事らしい、という事で。目の前に展開する出来事に、いちいち反応し、かつ動揺してやまぬ「場」・・・と理解。ある程度の厚みのある「層」を構築しているのが面白いところで、因果関係を含めての認識、という意味が込められている、と思われました。いわゆる科学的認識の世界、「フラットランド」とは、この表層意識で構成される「現実」の事なのだと理解できます。

この表層における「現実」が、一般的に我々の生きられる現実であるという共通認識がある以上、これをひっくり返すのは、なかなか容易ではないと申せましょうか(自分にしても、フラットランドの方が「現実感」があるように思っています。これはニュートン以来の近代科学の独壇場、でもありますから・・・)。