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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

詩歌鑑賞:死の十四行詩

◆ジャン・ド・スポンド『十四行詩集』

死の十四行詩・第二番

されど人は死せざるを得ず、死をあざける
傲慢なる生もその狂暴さを恐るるならん。
太陽は日々の花を枯らし
時はかの風孕みたる肉刺(まめ)をも踏みつぶさん。

煙れる焔を吹き上ぐるかの美わしき炬火(かがりび)も
蠟の生(なま)の部分に至ればその激しさを失い、
かの絵画も油によりて色をくすませ、
流れは泡立つ岸辺にくだけ散らん。

我は見たり、かの明るき稲妻、我が眼の前をよぎり、
いまだ大空にとどろく雷(いかづち)の
ここかしこに嵐を引き起さんとするを。

我は見たり、雪も融け、かの急流も涸れ、
吼ゆる獅子らも怒りを現わさずなるを。
生きよ、人々よ、生きよ、されど人は死せざるを得ず。

訳:中村真一郎

作:ジャン・ド・スポンド

16世紀フランスのバスク地方に生れ、宗教戦争のさなかに生き、彼の仕えたアンリ四世同様、新教から旧教に回心して、王はそれによってフランスに統一をもたらしたが、王自身、スポンドの回心を喜ばず、また新旧両派からも変心者として罵られて、悲境のうちに死んだこの人物は、人文学者として、ホメロスの註解や、ヘシオドスのラテン訳やを発表した。はじめラテン語詩人として出発したが、やがて十四行詩や賦(スタンス)のフランス語の詩人となり、この期のマニエリスムの代表として、今日、広く認められている。


◆「雪はふる」三好達治

海にもゆかな
野にゆかな
かへるべもなき身となりぬ
すぎこし方なかへりみそ
わが肩の上に雪はふる
雪はふる
かかるよき日をいつよりか
われの死ぬ日と願ひてし
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青銅華炎の章・上古2

〈上古諸州〉の時代。

最初は地域差はえらく大きかっただろうけれども、石器などが出土し始める前5000年紀を皮切りに、青銅が出土し始める、前2000年紀まで…と考えても、その〈上古諸州〉世界は、3000年もの間、続いた…と言えます。

その間、各地の原住民がボーッとしていたはずは無く、地域交流(交易)を通じて、総合文化圏の世界…文字通り、融合文化圏を緩やかに形成したはずであります(あくまでも想像ですので注意してください)。

調べてみたら、そういう融合文化圏を思わせる資料もありました。
資料は古いのですが、以下のようなリスト。

  • 西北部=トルコ・モンゴル文化(馬飼養)・・・狄系
  • 西方部=チベット・東チベット文化(羊飼養)・・・羌系
  • 東北部=ツングース文化(豚飼養)・・・夷系
  • 中央部=瑤(ヨウ)文化(焼畑農耕)・・・戎系
  • 沿海部=越(エツ)文化(海洋民族、沿海州)・・・呉越&夷系
  • 南方部=タイ文化(渓谷居住民、稲作)・・・南系

(補足)南系というのは、苗族です。苗族の言葉の検討によれば、元々はモンゴル方面から南下した種族らしいと言われています。最初に稲作を始めた屈家嶺文化の、遠い後裔だ…と、推測されています。文化的に極めて古く、かつ強靭で、中原の漢族文化に飲み込まれていないのだとか…

資料:『古代中国の地方文化』(六興出版1987)/W.エバーハルト・著より。民族系統は、各々の受け継いだ言語タイプ&神話伝説タイプからの推察。呉の言葉と越の言葉とは、中国語が元々単音節語なので、早くから混合してしまったと想像。日本語では、ひとくくりで呉音として伝わっています。

ちなみに空海の時代の日本語は、まだまだ未発達な言語(呉越系倭語というか、沿海州諸語・環太平洋諸語まだらの、あいまいなもの)で、早くから発達したアルタイ系の古代朝鮮語と、呉音と漢音とに圧倒されている有様でした。和語に直面したアイヌ語さながらの、断絶の危機的状況でありましたでしょう。佐伯氏などの、言葉を操る一族の伝承があります。彼らは通訳だったと考えられています。空海も佐伯氏の出と言う事で、言語才能を早くから発揮していた…と言われています。

南都仏教の経典の読みで、呉音と漢音の戦いがあったことは有名です。漢音が勝利します。以上は男性社会の話。女性社会では古くから女房言葉があって、これがコアとなり、現代につながる日本語が成立します。

ここが面白いのですが、オルドス含む黄河中流域で、各地の融合文化圏の先端部が互いに交差しているのです。「中原」と呼ばれる事になる地域は、遥かな上古の時代から、文化が混合しやすい条件にあったと思われます。

〈上古諸州〉世界の、文化的境界…古代の青銅王国、「夏」の伝説が伝わる土地。

この「夏」と呼ばれる一帯を舞台にして、中原エリアでは、石器・土器文化から青銅文化へのシフトが、いち早く行なわれていた…と、想像できます。「中原タイプ青銅文化」…後に「殷・周文明」と呼ばれる事になる文化圏は、現実に分かっている限りでは、殷を構成した混成部族が中心となっている…学術的に言えばプロト・チャイニーズの時代ですから、それにちなんで、〈前シナ文明〉と名づけてみました。

で、続いて、古代蜀も、古代越も、青銅文化へのシフトとその発展がありました。それらの青銅文化は、中原の青銅文化とは明らかに流儀を異にしており、各々、青銅文明へ跳躍する可能性を、十全にはらむものでありました…

以上、考古学が暗示するシナリオから、次のような流れを仕立ててみました^^

  1. 〈上古諸州〉=石器・土器文化(最初の発掘石器の年代は、前5000年紀)
  2. 〈前シナ文明〉=中原の青銅文明が成立。「夏」に始まる。

〈前シナ文明〉と同時並行で、〈初代五諸族〉の夏・殷・周・羌・南が、中原に集結。

つまり、「夏王朝伝説」というのは、〈上古諸州〉の終焉と、〈前シナ文明〉の台頭とを象徴する、異質な神話なのです。「中華」という概念は、この上代神話の、政治的な副産物に過ぎないのです…(仮説)^^

以降は、物語制作者としての想像力全開で起こしてゆくシナリオになりますが:

西域から中原に到来してきた青銅文化は、おそらくは、相当の文化的完成度に至っていた〈上古諸州〉の世界では、かなり異質な文化圏として眺められるものであったのです。

…その異質さが、おそらくは、「夏王朝」という神話を生んだ。

実際の「夏」は、残された神話断片を信頼するとすると、狄種であったようです。金文の「夏」という文字(象形文字)を観察する限りでは、どうも目がパッチリとして、大柄な体格の人々だったらしいのです。種族ごとの身体差が大きかった時代とは言え、明らかに東アジア人種っぽくない雰囲気です。

考古学方面では、青銅文化の流入と同時に、コムギ農耕が入ってきた…という報告があります。これは紀元前2100年頃の出来事で、華北地域の食文化に、激変を起こすものであった…と議論されています。学術的にはかなり曖昧なレベルの議論ではありますが、気象変動の研究、華北地帯におけるコムギの作付け面積の拡大と、それに伴うイネの地位の低下、「夏王朝伝説」が暗示する歴史的時期…といった諸々の事象から見て、賛同できるものだと思っています。

青銅技術は、当時最先端のテクノロジーであるだけに、トップシークレット…「国家最高機密」として扱われた筈です。今までの「あっけらかん」と開けていた社会からすると、その秘密主義はものすごく異質に感じられますし(いわゆる中原の国家組織の始まりなのかも知れない)、おかしな噂が立って、尾ひれが付いて、ドンドン膨らんでいっても、当然な感じです。現代の伝説と化している、「暗黒の支配者☆☆☆百人委員会」とかのように…

その「異質な何か」が、歴史の流れの中で、やがて「中華」や「中華の徳」という概念として、後の国家神話に取り込まれた。「それ」は、宗教的政治的な概念として凝固し、更に「華炎」となって燃え上がる事になった…そういう、紆余曲折の多い物語を想像します。

「華夏」の凝固を促した実際の歴史事象については、更に考察中です。『シナにつける薬』の記事を繰り返し読んで、参考にさせていただいてます。秘密結社と墨子のお話に、ピンとひっかかる要素を感じているのです^^

…鋭意、次の空想の材料を集めてまいります。続きは次回^^;

青銅華炎の章・上古1

原住民の世界…といっては何ですが、華夏大陸における先史時代の…つまり青銅文明が到来する前の時代の、原住民が作り上げてきた文化を調べてみました。

この「原住民」というのは、微妙に縄文人も含んでいます。氷河期は大陸とつながっていた訳で、石器・土器時代というのは、その記憶がしっかりと受け継がれていた時代ではあります。南方には「スンダランド」という広大なエリアがあり、そちらの方が繁栄してました。多分。

氷河が溶け始めると、気温上昇はすさまじいもので、海面上昇が急速に進行。平野部では、場所によっては、100kmぐらい海岸線が入り込んだと言われています。縄文海進という現象でも知られていますが、華夏大陸の地形は明らかに変わってしまっただろうと推測されます。例えば上海などは、当時は広大な海の底でした。

華南に広がる沿海州、高温の大湿地帯…百越の祖の繁栄が、想像できるような。大陸の奥まで海が貫入し、豊穣な大森林が広がっていた時代。それが、上古の原住民が生きていた時代ではないでしょうか。(江北地帯まで象が進出していたようです。これは甲骨文字で確かめられています^^)

ともあれ、考古学で知られている、新石器時代以来の先史文化。出るわ出るわ…で困るくらい出てきました。古代華夏大陸の、文字通り「緑の沃野」ならではの豊穣がしのばれます。全部書き出すのも大変なので、とりあえず、地域ごとにめぼしい物をリストアップ。

  • 黄河中流域=仰韶文化、龍山文化~アワ・キビ農耕
  • 山東半島域=大ブン口(ブン=シ+文)、山東龍山文化~アワ・キビ農耕
  • 長江下流域=馬家浜文化・崧澤文化・三星村文化・良渚文化~河姆渡文化の系統
  • 長江中流域=彭頭山文化・大渓文化・屈家嶺文化・石塚河文化~イネ農耕
  • 四川盆地域=宝トン文化(トン=土+敦)・三星堆文化~古代巴蜀王国
  • 遼西部地域=興隆窪文化、紅山文化~アワ農耕
  • 遼東部地域=遼西部からアワ農耕が伝播

どうも、東アジア大陸の食用穀物の原種というのは、アワ・キビ・イネの系統が主だったようです。湿潤温暖な沖積平野の部族が発見し、そこから多少気象条件の外れた環境下にある周辺部族に広がってゆく…というプロセスが、よく想像できます。石器土器文化とは言え、石器技術はかなり高度なレベルまで行っていただろうし、漆製品なども出土していますので、形に残らないだけで、木器の種類は豊富にあった筈です…

…で、想像するに、神聖な祭祀に使われたのは、土器が多かったはず。
うーむ。ここは、寄り道として。

調べてみると、何トンもの収穫穀物を貯蔵する土蔵遺跡なども発掘されていて、学会に報告されているのが見つかりました。それに、複雑な細工をされた玉器…神と人の媒介として使われた神聖器具。

ここまでしっかりしたものが成立していたとすれば…これはもう、立派な文化圏であり、部族タイプ集落であります。部族連合の大集落もあったかも。という訳で、これらの多種文化圏を発達させた諸々の集落をまとめて、仮に〈上古諸州〉と、名づけてみました。

「青銅華炎の章・上古2」に続く。