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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

いとも恐ろしき神なる豹の話(考案)

オリジナル和風ファンタジー漫画に入れるための創作神話。

吟遊詩人や、流れの歌うたいによる語り物的な歌、バラードなど、節回しらしきものが含まれた「呪文の詠唱」スタイル。ダーク・ファンタジー祝詞っぽい感じで。

有名なエジプト神話、「オシリスとイシス、セト、ホルス、アヌビスの戦い」を、都合よく加工編集してみたモノ。

●パンテーラ・セートゥ=セト神から。主流の神話では無いけど、研究報告の書籍レベルの方で、オシリス・イシスとの戦いで、セトが豹に変身した、という神話のくだりがある。また、豹の毛皮の模様は天の星空の模様と解釈され、豹の毛皮は神官や書記がまとう聖なるマントと考えられていたという報告がある。女神セシャトは豹の毛皮を身に着けている。また、葬儀で、後継者が豹の毛皮をまとい(セム神官として)儀式に臨む事で、王権の継承などの相続権を主張したという。
●アウル=オシリス神から。現地発音で、アウシル、ウシルなどという発音パターンあり。
●アシテ=イシス神から。現地発音で「アセト」と言ったらしく、それを適当に音韻変化。
●アアル・アエトゥ=アヌビス神とホルス神を適当に合体。エジプトでは冥界を「アアル」と言う。「アエトゥ」はギリシャ語の「ワシ(アエトス)」を適当に変形。

※アヌビス神は犬に似ているので「イヌ」。ホルス(=ハヤブサ)をワシに変え、合体して「イヌ」「ワシ(鳥)」。「イヌワシ」=「ゴールデン・イーグル」。ギリシャ語「ワシ(=アエトス)」発音を適当に変形して、「セートゥ」と似た語尾になるように「アエトゥ」と設定。

*****

『黒ノ瀬戸より出でてよみがえらん』

*****

神代の昔、
すべての古き新しき神々争いし御世、
天に数限りなき星々の霊威トートゥに満てる聖金剛の神ありき、
すなわち全天が神々の帝王、豹神パンテーラ・セートゥありき。

セートゥの愚兄なるアウル、いつわりの日嗣の王、
大地を枯らし肥え太る邪悪、いつわりの太陽王なりき。
我らが高き聖金剛、豹の神パンテーラ・セートゥ、
いつわりの太陽王を天誅し、その骸を切り刻む。

我らがセートゥ、真の日嗣の王なりしが、
偽王アウルが妻、いつわりの麗しの双角女神アシテ、
刻まれし偽王アウルが骸を、太陽の水銀ヘルメスの聖所に持ち込めり。
至高の休息と復活の、太陽の水銀ヘルメスの聖所を穢せる罪よ!

いとも高きトートゥ、いとも速きパンテーラ・セートゥ、
いつわりの太陽王アウルが妻、かの邪悪なる双角女神アシテを
討ち取らんとして強き暴威の軍を差し向けしが、
蛇、黒犬、獅子、牛、様々、けだもの変容に踏み惑う。

いつわりの太陽王アウルと双角女神アシテが子、
残虐非道なる邪金剛の王アアル・アエトゥ、太陽王の偽の日嗣は、
聖金剛の神たるセートゥの豹の皮を剝いで星々織り込めし衣となし、
豹の聖金剛の肉を黒ノ瀬戸の底に封じ、焼き、煙を天まで届かせる。

ゆえに、呪わしき冥土アアルの民、アエトゥを崇める背教者らは
豹の毛皮をまといて姿を偽り、来たるべき偽王アウルの復活の日のため、
偽の日嗣アウルの威光を、なおも世に知ろしめんとする。
しかし、パンテーラ・セートゥの聖金剛の身は、時ならぬ時の瀬に死なず。

偽なる太陽王アウルが骸の邪悪な復活を止め、
卑しき邪金剛の王アアル・アエトゥが大凶の鉄の時代を止め、
この凶悪に満ちし世界を救うため、黄金時代の再来のため、
太陽の水銀ヘルメスを手にして、パンテーラ・セートゥよみがえらん。

全天が神々の帝王、偉大なる聖金剛パンテーラ・セートゥ、
天に数限りなき星々をかたどりし至高の金の豹の姿をまとい、
過去・現在・未来とこしえの三重の光輝を、一位の王冠として、
時ならぬ時の瀬より出で、太陽の水銀の杖もて、よみがえらん!

*****

《三面神》

左・中央・右の三面を持つ上古の沈黙の秘神。神名を誰も知らず。左右いずれかが「宿命の貌」もしくは「運命の貌」で、常に揺らぐ。中央の貌は常に目を閉じていて「宿命の貌」も「運命の貌」も見ることができない。中央の目が開くと「宿命の貌」も「運命の貌」も生々流転の変化をやめ、宇宙は凍り付いてゆく。その果てに無に帰すとの伝承あり。神格は天之御中主神に似る。

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オウム真理教メモ・2

研究者には「オウムとは何だったのか」という問いに正面から答えることが求められている―宗教学者・大田俊寛氏インタビュー回答編(ブロゴス2012.7.25)http://blogos.com/article/43779/

▼研究者に求められているのは、「オウムとは何だったのか」という問いに正面から答えること

―前回のインタビュー につづいて、今回は回答編となります。よろしくお願いいたします。

当時のアカデミズムを批判的に捉えることに対して、「では、どうすればよかったのか」と疑問をもった読者もいたようです。「オウム事件に対して宗教学界(あるいは人文諸学界)はどのように反応することが“正しかった”のか」、あるいは、「現段階において“責任を取る”というのはどういうことなのか」という意見です。こちらについてのお考えをお聞かせください。

大田俊寛氏(以下、大田氏):この質問に関しては、すでに自著のなかでその回答に当たることを書いていますので、まずはそちらを引用させて下さい。

オウム事件をどのように総括するかということに対しては、それぞれの立場によってそれぞれの方法がありうるだろう。そして、これを学問的に総括するという場合には、当然のことではあるが、あくまで学の次元における総括が行われなければならない。すなわち、オウムとは何だったのかという問いに対して、可能な限り客観的な答えを見出すこと、そして宗教学の場合には、当時の代表的な宗教学者たちがなぜオウムの幻想の正体を見抜くことができず、その運動を後押ししてしまったのかという問いに対して、答えを見出すことが求められるのである。
(『オウム真理教の精神史』「おわりに」より引用)

オウムに対して研究者が行うべきことというのは、基本的には、今も昔も変わりません。すなわち、オウムの教義がどのような歴史的影響関係のもとに成立したのか、団体運営のメカニズムの特徴はどのようなものだったか、一見して荒唐無稽な宗教でありながら、国内外で数万人規模の信者を集めることができた理由はどこにあったのか、等々の問いに対して、可能な限り客観的な答えを提示する、ということです。現在でも社会には、「オウムとは何だったのか、いまだによく分からない。きちんと納得のいく説明をしてほしい」という要求が明らかに存在しているわけですから、宗教学者はそれに応えなければなりません。私の『オウム真理教の精神史』は、その要求に応じるために書かれたものです。

オウム真理教は、80年代の日本に出現した新興宗教の一つでした。言わばオウムは、歴史とてほとんどない、小規模な宗教団体にすぎなかった。しかし、その全体像を解明するということは、実はそれほど容易ではありません。私の考えでは、オウムの教義のフォーマットを形成していたのは「ロマン主義的宗教論」と呼ばれるものでしたが、その性質を明らかにするためにはまず、ロマン主義が形成された19世紀のヨーロッパにまで時代をさかのぼらなくてはならない。さらに、近代のヨーロッパにおいてなぜ「ロマン主義的宗教論」が台頭してきたのかを明らかにするためには、中世から近代に至るキリスト教史の流れを押さえておかなければならない。日本の一つの新興宗教を分析する際にも、実際には、宗教史全般に関する幅広い知識が求められるわけです。

私は前回のインタビューにおいて、「宗教学は、宗教を客観的に分析・研究するための学問である」と話しました。しかしこのことは、口で言うほど容易なことではありません。私はもともと、「グノーシス主義」と呼ばれる古代末期のキリスト教の異端を研究しており、キリスト教神学の領域に少しだけ足を踏み入れたことがありますから、そこにどれだけ膨大な学知が蓄積されているかということを、おおよそは知っています。それは、一人の研究者がそのすべてを知り尽くすといったことが可能な分野では、到底ないのです。そのことは、イスラム教、ユダヤ教、仏教、儒教といった、その他の宗教でも同様でしょう。そして宗教学は、究極的にはそれらすべての「宗教」を対象とし、客観的に比較分析しようというのだから、これはもともと「不可能なプロジェクト」と言うべきものなのです。私は前回、宗教に対する自分なりの定義を示しましたが、それは「もう宗教の本質は分かった」という意味ではまったくありません。おそらくこういう見方で研究を続けていけば、さまざまな宗教についてかなりの程度まで分析を進めることができるだろうという、出発点における暫定的な方針を示したものにすぎません。

しかし、諸宗教に対する客観的な研究など、およそ「不可能なプロジェクト」なのだから諦めるべきかといえば、そうもいかないでしょう。というのは、近代においては、国家が主権性=至高性の位置を確保し、その下で各人の「信教の自由」が保障されているため、さまざまな信仰を持った人々が社会のなかで共存していかなければならず、特定の宗教のことは、その信者だけが分かっていればよいというわけにはいかないからです。その宗教がどのようなものなのかを、外部から客観的・価値中立的に説明するという役割がどうしても必要になる。

それこそが、宗教学者の第一の職分であるということになります。そして、この意味で宗教学は、所詮は「近代主権国家の御用学」の一つでしかないのかもしれない。しかしだからといって、そういった職分を誰も担わなくてよいということにはならない。また、宗教学には、その研究を突き詰めていけば、近代の体制そのものを一つの「信仰」として相対化できるような、そうした潜在力を秘めているのではないかと、私は考えています。

私は前回のインタビューにおいて、以前にオウム論を執筆した研究者たち、具体的には、柳川啓一や見田宗介の学派に属する宗教学者や社会学者を批判しました。果たして彼らには、自らの職分に対する明確な自覚が備わっていたでしょうか。私には、そうは思われません。彼らは、自分の師匠からロマン主義風の宗教観やニューエイジ風の革命論・実践論を吹き込まれており、いまだにそのエートスをはっきりと自覚化できていないところがある。そして彼らの一部は、諸宗教に蓄積された学知に対する十分な敬意を持たないまま、かえってそれらに対する誤解を蔓延させるような、杜撰な「研究書」を書き散らしている。また、ひとたび日本社会に混乱が起きれば、研究者としての立場をかなぐり捨て、政治的なアクティビストとして行動しようとする。それは、彼らなりに「日本社会を良くしたい」と思っての行動なのでしょうが、私は長い目で見て、それぞれに与えられた本来の職分を放棄することによって社会が良くなっていくとは、まったく思いません。

最初のご質問に対するお答えとしては、かなり遠回りになってしまったかもしれません。「オウム事件に対して研究者がどのようにして責任を取るべきか」という質問にあらためて答えておけば、諸宗教に対して客観的な研究が行えるだけの理論的立脚点を自分がもっているかどうかを再検証すること、そしてそれを通して、「オウムとは何だったのか」という問いに正面から答えること、となります。

▼類似する他のケースと比較考察は、非常に重要

―前回のインタビューを読んだ方のなかには、「冷静で客観的な学問が拠って立つような基盤が、音をたてて崩れていっているのではないか」という印象を抱いた方もいたようです。

大田氏:80年代以降、日本の人文学の世界においては、「ニューアカデミズム」「ポストモダニズム」「現代思想」と呼ばれる諸思想が流行しました。今から振り返ってみれば、こうした現象は、「高等教育の大衆化」によって生み出されたものの一つだったのだと思います。

日本において、高等教育の大衆化は、すでに明治末期から大正にかけての時期に始まっていますが、その流れが一つのピークに達したのは、戦後の80年代になってからでした。大学や短大への進学率が50%に近づき、「大学のレジャーランド化」が囁かれるようになった。エリートと見なされるごく一部の人間が、献身的に学問に打ち込んでいくというのではなく、一般大衆が一時の「モラトリアム」として、享楽的に大学生活を送るというスタイルが普及していったわけです。

それに伴い、人文系の学問も、一つの「文化産業」として変質を被ることになりました。地道で堅実な学習・研究の積み重ねによって、現在の社会の仕組みや過去の歴史を知るということよりも、「とにかく聞いて面白い」「読んで魅力的に見える」、そういったものが求められるようになった。人文学が出版業界や広告業界と手を組み、「思想書」を何万部も売り捌こうとする動きも生じてきた。浅田彰氏や中沢新一氏といった「ニューアカデミズムの旗手たち」が主に活動していた舞台の一つが、『広告批評』という名前の雑誌であったことは、象徴的な意味を持っていると思います。すなわち彼らは、思想家や研究者というよりも、「アカデミズム風のコピーライター」と呼ぶのが適切であるような存在であったわけです。

こうした流行においては、深遠に見える魅力的なキャッチコピーを作り出せば、すぐさま世界を作りかえることができるかのような、幻想的思考が幅を利かせていました。そしてこのような風潮は、90年代の末以降は徐々に下火になりましたが、今でも完全になくなったというわけではない。一例を挙げれば、数年前から流行している「~~2.0」というキャッチコピーです。こうしたコピーが付けられた多くの書物のなかには、もしかしたら良いものも含まれているのかもしれませんが、学問に真面目に向き合っている研究者が、自分の著作のタイトルに流行のキャッチコピーを付けるということは、まずあり得ないと考えた方がいいでしょうね。このような書物は、暇つぶしや気分転換の一手段として読む分には構わないでしょうが、真面目に受け取るのは危険ですし、何より、単に時間の無駄です。

こうした風潮を生み出してしまう「高等教育の大衆化」そのものが良くないと考える人もいるかもしれませんが、私はそうは思いません。多くの人々の教育レベルが上がることは、社会全体の文化度や幸福度が上がることに寄与するはずですし、むしろ教育レベルの向上を徹底することによって、一過性の流行思想と、本当に学ぶべき価値のある思想の違いを見抜く目を養わなければならないと思います。コメントを寄せて下さった方は、「学問の基盤が崩れる」ことを心配されていましたが、本来の学問の基盤は、それほど脆弱なものではありません。歴史を形作ってきたような思想や学問は、数十年単位の時間で微動だにするものではありませんし、何より先ほど述べたように、一人の人間の一生で学び尽くせるようなものでもない。人文学に関心のある方は、一過性の流行に惑わされず、じっくりと腰を据えて学問に向き合っていただきたいと思います。

―経済的発展を遂げた後に、「精神的な癒しや救済」を求める潮流があるとすれば、それは日本だけの現象ではないと思われます。海外では、オウムのような教団が誕生したケースはあったのでしょうか?

大田氏:はい。『オウム真理教の精神史』でもいくつかの例を挙げたように、反社会性を帯びた「カルト」的な宗教団体が発生するといった現象は、日本に限られたものではまったくありません。カルトの問題は、近代の政治体制を採用したあらゆる社会に生じる問題であると言って良いと思います。オウムについて多面的に考察するために参考となるようなケースを、いくつか紹介しておきます。

(1)ラジニーシ教団のサルモネラ菌混入事件
バグワン・シュリ・ラジニーシ(1931-1990)は、タントリズムに基づく瞑想法、特に性的欲望を解放する実践によって人気を得た、インドのグルの一人でした。1970年代、ラジニーシは世界中のヒッピーから支持され、教団は大きく拡大しました。1981年に、教団の本部はアメリカのオレゴン州に移され、「ラジニーシプーラム」と呼ばれるユートピアの建設が目指されました。しかし、アメリカの田舎町に突然巨大なコミューンが作られたことに対し、地元住民の反発が高まり、それを見た教団は、対立に備えて武装するようになったのです。その後に教団は、政治進出を目論んで選挙に出馬し、地元住民の投票を妨害するため、町の中心のレストランで料理にサルモネラ菌を混入させる事件を起こしました。死者は出なかったものの、約七〇〇人に及ぶ被害者を出しました。(参考文献:ヒュー・ミルン『ラジニーシ・堕ちた神』第三書館)
(2)ブランチ・ダビディアンとFBIの抗争
ブランチ・ダビディアンは、アメリカに数多く存在する「終末カルト」の一つでした。教祖のデビッド・コレシュ(1959-1993)は、聖書の『ヨハネ黙示録』の読解に没頭し、世界に終末をもたらすことができるのは自分であると考えるようになった。教団内でも「終末は近い」という意識が高まり、機関銃・ライフル・手榴弾などの大量の武器が備蓄されました。1993年、教団の動きに不審を覚えたATFが強制捜査に踏み切ったところ、教団は武力で対抗し、その後、FBIとのあいだに50日以上に及ぶ抗争が続きました。最終的に、痺れを切らしたFBIが戦車をコミューンに突入させたのですが、その瞬間に教団の建物から火の手が上がり、コレシュを含む81名の信者が死亡しました。(参考文献:ティム・マディガン『狂信──ブランチ・ダビディアンの悲劇』徳間書店)
(3)太陽寺院の集団自殺事件
太陽寺院は、80年代にスイスで成立した宗教団体で、薔薇十字団や新テンプル騎士団といった歴史的な秘密結社を擬していました。その内部では、ニューエイジ風の神秘思想、エコロジー、輪廻転生説などが説かれ、ヨガによる身体訓練、ホメオパシーという代替医療が実践されていたと言われています。教団の内部で次第に終末思想が高まり、94年から97年にかけて、スイス・フランス・カナダの各地で80名近い人々が次々に集団自殺を遂げ、世界を驚かせました。(参考文献:辻由美『カルト教団 太陽寺院事件』新潮OH!文庫)

ここに挙げたのは、世界中に数多く存在する例のなかの、ほんの一部にすぎません。日本社会では、オウムの特殊性のみが注目・強調される傾向にありますが、類似する他のケースと比較考察してみることは、とても重要です。

▼社会はどのように「カルト」と向き合うべきか?

―オウムのような“破壊的カルト”の活動は防止する必要がありますが、社会としてどのタイミングで介入するかは難しい問題だと思います。今後の社会は、カルト的な宗教とどのように付き合っていけばよいのでしょうか?

大田氏:最初に指摘しておかなければならないのは、「カルト」や「破壊的カルト」という言葉は、今では一般的なものになっていますが、学術的な概念として定着しているわけではないということです。明らかに強いバイアスを含んだ概念ですので、極力使わないようにしている宗教研究者の方が多いのではないでしょうか。

私自身も、「カルト」という概念を使い続けるべきかどうか、いまだに迷っているところがあります。しかし、現在の社会において、「カルト」と名指さなければならない対象や現象が存在していることは確かですし、研究者がその用語を放棄したからといって、そうした現象がなくなるわけではない。研究者は何らかの仕方で、こうした社会病理的な現象に目を向けなければなりません。あくまで一人の研究者としての見解にすぎませんが、私は「カルト」の特徴を、次のような三点に見て取ることができるのではないかと考えています。

  1. 客観的に認められた制度や事実以上に、主観的な心情や体験が重視される
  2. ある人間が「カリスマ」や「生き神」として崇拝され、絶対的な決定権を掌握す
  3. 教祖や教団の教えによって、さまざまな物事が善と悪に二分される

すなわち、感情的で熱狂的な態度によって、特定の個人が「生き神」のように崇拝され、その人間が説く教えによってさまざまな物事の善悪が判定される、というのが、カルトの典型的なパターンとなります。

なかでも特徴的なのは、二番目に挙げた、特定の個人を「カリスマ」や「生き神」として崇拝するという点です。まだ生きている人間がそのまま「神の化身」であると見なされ、教団のなかでその人物が、あらゆる批判を許さない絶対的な権力を掌握する。こうした顕著な仕方での「個人崇拝」は、宗教の長い歴史から見ても、常軌を相当に逸脱した信仰の形態であると言わざるをえないと思います。また、教祖に対する絶対視が進み、反対に、それを認めない周囲の社会に対する敵対視が進むと、カルト教団は、テロリズムや拉致監禁、集団自殺といった暴力的な手段も辞さないようになる。私は、このような暴力的手段に踏み出したカルトを、特に「破壊的カルト」と呼ぶべきではないかと考えています。

このようにカルトは、近代社会に頻繁に見られるようになった、特殊な形態の信仰を指すと考えられますが、しかしここで問題なのは、ある宗教団体がカルトの特徴を示しているからといって、それを即座に否定・弾圧して良いというわけではないことです。近代社会においては、各人の「信教の自由」が保障されていますから、どのような形態の宗教や信仰であっても、それだけが理由で弾圧されるということがあってはならない。また、カルト的な団体に対して不用意な批判や敵視を行うと、団体の側でも周囲の社会に対する敵視が高まり、結果として「カルト」が「破壊的カルト」に変貌することを後押ししてしまう可能性もあります。

カルトという存在に対する問題意識や危機意識は、1980年代以降に世界的に高まり、そして90年代には、「脱洗脳家(デプログラマー)」と呼ばれるカウンセラーの専門家や、カルトを「邪教」と見なすキリスト教の牧師が、カルトの信者を強制的に拉致監禁し、暴力をも伴う「脱洗脳」によって脱会・改宗させるという手法が横行しました。しかし、近代社会の原則から鑑みれば、こうしたやり方がそのまま許されるということはありません。その後、欧米社会では、カルトを過剰に敵視することに対する反省や批判が行われ、強制改宗の手法は自制されるようになっていったのですが、日本社会においてはまだ、こうした問題が存在していることすら、十分に知られていないところがあります。ジャーナリストの室生忠さんや米本和広さんが、こうした問題を中心的に扱っていらっしゃいますので、ぜひその著作を参考にしていただきたいと思います(米本和広さんのブログ「火の粉を払えhttp://yonemoto.blog63.fc2.com/」)。

先ほど述べたように、「カルト」は一つの社会病理と言いうる現象ですので、その存在や活動を無前提に容認して良いということはありません。一人の生身の人間が、あらゆる批判を許さない絶対的な存在であると見なされることや、団体による違法行為、社会への敵対行為に対しては、断固として抵抗・抗議しなければならない。しかしだからといって、相手がカルトであればどんな手段を使っても良い、カルトの信者の人権は無視して良いということにもならない。日本社会は特に、オウム事件によって大きな痛手を負いましたから、危険性を秘めた団体に対して積極的に破防法を適用してほしい、フランスと同じような「反カルト法」を制定してほしい、という世論もあります。しかし、そうした短絡的な方法によって、本当に「カルト」という病理を治癒しうるのでしょうか。今のところ私は、そうした手段に拙速に頼るようなことになれば、社会から自由の空気が失われていき、結果として、社会の状態がより悪化する可能性が高いのではないか、と思っています。

とても迂遠に聞こえるかもしれませんが、一人の研究者として私は、カルトという存在に対する認識を社会全体で高めていくことが、カルト問題に対する最善の予防策ではないかと思います。過去にどのようなカルトが存在していたのか、カルトの特徴とは何か、近代の社会においてカルトはどのようなメカニズムで生まれてくるのかを知り、カルトの信仰にはまり込んでしまった人々とも冷静に対話できる人を一人でも増やしていくこと、そして、そうした団体の内部で実際にどのような活動が行われているのかを冷静に見極めることが、カルト問題においては大切なのではないでしょうか。

―本日はありがとうございました

オウム真理教メモ・1

オウム事件から「何も学ばなかった」日本の学者たち―宗教学者・大田俊寛氏インタビュー(ブロゴス2012.7.11)http://blogos.com/article/42874/

▼宗教学者が“主観的”に宗教に向き合ってきた経緯

―まず最初に、「宗教学」とはどのような学問なのかをお聞かせください。

大田俊寛氏(以下、大田氏):宗教学は、19世紀の後半に成立した、まだ歴史の浅い学問です。宗教自体は、人類の歴史そのものと同じくらい古いものですので、宗教学も古い学問だろうと思われる方が多いのですが、実はまだ、200年に満たない歴史しかない。試行錯誤の段階にある若い学問です。

初期の代表的な研究者としては、『リグ・ヴェーダ』というインドの古典を研究したことで知られるマックス・ミュラー(1823-1900)、『セム族の宗教』を著したロバートソン・スミス(1846-1894)、『金枝篇』を著したジェームズ・フレイザー(1854-1941)、『宗教的経験の諸相』を著したウィリアム・ジェイムズ(1842-1910)などの名前が挙げられます。

宗教学が成立するまでには、いくつかの段階がありました。歴史を遡って説明すると、まず中世ヨーロッパにおいては、キリスト教カトリックによる一元的な宗教支配が確立しており、その他の宗教は、「異教」や「異端」として退けられていました。しかし16世紀に起こった宗教改革により、ルター派やカルヴァン派といったプロテスタント諸派が乱立するようになり、カトリックの一元支配の構図が崩れました。キリスト教カトリックが相対化されたわけです。

さらに17~18世紀には、ガリレオやデカルト、ニュートンといった自然科学者たちの活動によって、科学的な世界観が急速に発展・普及していきます。その結果、天上界に神様が住んでいて地上界を見下ろしているといった、素朴なキリスト教信仰を維持するのが難しくなってきました。世界というのは、どうも聖書やキリスト教神学で説かれているような仕方では成り立っていないようだということが分かり、従来のキリスト教的な世界観や信仰形態が動揺し始めたのです。

そして19世紀には、欧米列強の帝国主義による植民地政策が進み、宗教に関する知見を含め、世界各地の詳細な情報が集められるようになりました。世界にはきわめて多種多様な宗教が存在しており、それぞれの方法で人々の生活を成り立たせているということを、欧米人たちが初めて肌身に触れて知るようになったわけです。

こうした状況を受け、キリスト教を唯一の正しい宗教とみなすのではなく、世界に存在するさまざまな宗教を比較分析し、宗教のあり方や機能を客観的に把握しようということから成立してきたのが、宗教学という学問です。

―多くの宗教を客観的に比較・考察することを目的に生まれた学問ということですね。

大田氏:はい。もちろんそこには、先ほど述べた植民地政策において、現地の宗教とどのように対峙するか、それをどのように利用するかという、実践的で政治的な動機も含まれていたわけですが、一つの学の理念としては、あくまで対象を客観的に把握することにその目的が置かれていました。

ただ、宗教学の歴史を振り返ってみると、宗教学者が本当に「客観的」な分析に徹することができたのかということには、疑問を呈さざるを得ないところがあります。実際には、研究者にとってどのような宗教が魅力的に見えるかといった、きわめて主観的な態度から対象を評価していたケースも少なくありませんでした。後でお話しするように、私は宗教学のそうした傾向性から、日本の宗教学者がオウム真理教を称賛・擁護するという現象が生まれたのではないかと思っています。

宗教学が誕生した19世紀以降の欧米社会は、キリスト教信仰の自明性・絶対性が失われ、何を信じればよいのか分からない「宗教の空白」が現出した時代でもあったわけです。また、近代化が進んだ結果、物質的には徐々に豊かになるのだけれど、「心の空虚感」に苛まれて精神的な病を抱えるといった現象も、この頃から目立ち始めました。生活が豊かになって、物質的な心配がなくなればなくなるほど、心のなかの空虚さが浮き彫りになってくる状態、現在の言い方では「メンタルヘルスを損なう」というような症状が生まれてくる。こうした現象が、近代以降の欧米社会で目立つようになったのです。

そうした状況にあって、宗教学者は、一見したところ宗教を客観的に分析しているように振る舞いながらも、本音の部分では、自分の心を癒やしてくれるような、あるいは、キリスト教が救ってくれなかった自分の魂を救済してくれるような宗教を探すといった、主観的態度から研究を進めることが多かったのも事実だと思います。

―具体的には、どのようなことでしょうか?

大田氏:一例として、先ほど名前を出したウィリアム・ジェイムズの場合を見てみましょう。彼は、プラグマティズムと呼ばれる哲学の創始者の一人であり、脳科学の先駆となるような心理学的業績も残した偉大な学者なのですが、彼自身が若い頃から、うつ病のような症状に苦しめられ続けてました。ジェイムズはある時期から、本格的に宗教の研究を始めるのですが、その動機としては、さまざまな宗教における救済経験のあり方を検討することによって、自らの精神的な病を癒やすための方法を見出したい、という思いがあったのです。

ジェイムズの著作である『宗教的経験の諸相』には、宗教的回心の体験によって、病み衰えていた人間が精神的健康を取り戻すという事例が数多く紹介されているのですが、そのなかの「宗教的憂うつ」の一例として、ジェイムズ自身の体験が挿入されています。研究者である自分の経験が研究上のデータの一つとして扱われ、また実は、自分自身がいかにして精神的健康を回復するか、癒やされるかということが、著作全体を貫く隠れたバックボーンともなっている。もちろん私は、こうしたある意味で「主体的」な研究方法や叙述方法のすべてを否定しようとは思いません。しかし、そこには多くの陥穽や弊害があるということを自覚しておく必要があります。批判的に言えば、宗教学者には往々にして、研究者と研究対象が厳密に区別できていないということがあるのです。

―宗教学成立時点からのそうした問題点が、オウム事件の際に宗教学者が、その教義を肯定したり、存在を擁護するような結果につながったのでしょうか?

大田氏:はい。そのことを否定するのは難しいのではないかと、私は思っています。

大学における宗教学という学問分野のあり方を考えてみた場合、それが実際にどのような役割を果たしていたのかというと、「心の空白」や「生きる意味の喪失」に苦悩する現代の若者たちに対する一つの受け皿になってきたということがあります。大学には研究の他に、学生の教育という役割もありますから、もちろんそのこと自体は、一概に否定的に捉えられるべきことではありません。私自身も少なからず、自分の生き方に思い悩んだところから、宗教学を学び始めたという面はあります。

しかしながら他方、宗教に対するそうした主観的な態度、すなわち、人生の意味を自分に教えてくれる宗教はどれか、自分の心を癒してくれる宗教はどれかという態度が、いつまでも許されて良いということもありません。一人の学生から研究者へと成長する過程のどこかの段階で、研究対象に客観的に向き合う態度をきちんと身につけなければいけない。そのような、宗教を客観的に分析することができるようになるための学問的訓練(ディシプリン)の手法や理論を練り上げるべきだったのですが、日本の宗教学は、その努力を怠ったところがあります。「私はこういう宗教によって成長しました、心を癒やされました」という主観的な態度を、いつまでも容認してきてしまったということがある。

宗教学者の中沢新一氏や島田裕巳氏は、90年代に、「オウムは聖なる狂気によって現代社会の価値観を根底から相対化する」「オウムのイニシエーションは、現代の若者を大人へと成長させるものだ」という理屈で、オウムを礼賛しました。今から考えれば彼らは、ネパールでの密教修行やヤマギシ会というコミューンでの個人的な体験から、宗教とはこういうものだと早合点し、同時に、オウムの教義とはどのようなものか、教団内で実際に何が行われているのかを正確に把握しないまま、オウムを評価してしまったわけです。私はオウム事件とは、日本の宗教学が当初から抱えていた欠点が、顕著に露呈してしまった出来事であると考えています。

―大田さん自身は、宗教をどのようなものだと考えているのでしょうか?

大田氏:私は現在のところ宗教を、「虚構の人格」を中心として社会を組織すること、そしてそれによって、生死を超えた人間同士の「つながり」を確保すること、と規定しています(『オウム真理教の精神史』三二頁)。宗教の本質規定の方法は、個々人の心理的次元に着目するものと、社会的機能に着目するものの二つに大別されますが、私の立場は後者に当たります。学問的には、『宗教生活の原初形態』という著作を書いた社会学者のエミール・デュルケム(1858-1917)から大きな影響を受けました。

しかしながら、宗教学者の全体を見渡してみると、心理的次元を重視するという研究者の方が数が多いかもしれない。さらには、より実践的に、宗教学の本領というのは現代人の「心のケア」を行うことにあると主張する研究者も少なくありません。先ほど述べたように、近現代の社会とは、多くの人々が精神的な悩みや病を抱えるような環境にありますので、そういうことを主張したくなる気持ちも分からなくはない。しかし、宗教学が自らの理論的基盤を明らかにしないまま、ズルズルと実践領域に踏み込んでいくことになると、一つの学としての立場をかえって危うくしてしまうのではないかと、私は危惧しています。

―ご著書の中でも、土地所有の正当性を示すための社会的機能として、祖先崇拝という宗教があったという主張をされていますね。

大田氏:はい。その見解は主に、デュルケムにも影響を与えた歴史学者フュステル・ド・クーランジュ(1830-1889)の著作『古代都市』に依拠したものです。社会とは、一人の人間の生死を超えて、知識や財産が継承されることによって成り立つものですので、そこには必ず、それらの究極的な所有者である「永続的な人格」が必要とされます。具体的には、「祖先の魂」や「神」などですね。仰るように、原始的な社会において家族や氏族といった共同体は、自分たちの住んでいる土地の所有者は「祖先の魂」であると主張することによって、土地支配の正当性や永続性を確保していました。

大学の講義で私はしばしば、現代の社会において、宗教としてのもっとも中心的な機能を果たしているのは「法人」である、と説明しています。法人というのは英語で「Corporation」と言い、その語源をたどれば、「corpus christi(キリストの身体)」というラテン語に由来します。キリスト教には、聖餐礼という儀礼において、一つのパンが「キリストの身体」として表象され、信徒たちがそれを分かち合って食べることによって、一つの体になる=共同体を結成する、という考え方があります。人間の社会は常に、こうした永続的な「虚構の人格」を中心に据えることによって成り立っているわけです。

宗教と言えば、神や仏や魂など、本当は存在しないものを存在すると信じ込んでいる古くさい迷信だと思っている人もいますが、それでは、「国家」や「会社」や「法人」は本当に存在していると言えるのでしょうか。一見して自明で世俗的にさえ思われるそれらの存在も、その根拠をたどっていけば、必ず宗教的な次元を内包しているものなのです。

▼当時の日本の宗教学や社会学の潮流には、オウム的精神と親和性があった

―そうした大田さんの主張がある一方で、今までの宗教学者は、オウム真理教事件をどのように捉えてきたのでしょうか?

大田氏:詳しくは『オウム真理教の精神史』の序章を参照してほしいのですが、私がそこで学問的な先行研究として批判的に論評したのは、中沢新一氏、島田裕巳氏、島薗進氏という三人の宗教学者と、宮台真司氏、大澤真幸氏という二人の社会学者のオウム論です。

読者によってそれぞれ受け止め方が異なると思うのですが、私個人の印象としては、これらのオウム論はまったく腑に落ちないものでした。今から考えれば、どれも「オウムは自分には関係ない」という、どこかよそよそしい態度でオウムについて論じています。あえて精神分析の用語を使えば、核心的な部分に触れないようにして巧みに自己防衛するという意味で、そこには何らかの「防衛機制」が働いていたのではないでしょうか。

まず宗教学者について言えば、中沢氏、島田氏、島薗氏の学問上の「師」に当たるのは、東京大学教授であった柳川啓一という人物です。柳川氏の宗教論がどのようなものであったかについては、島田氏の1993年の著作『イニシエーションとしての宗教学』(増補版が『私の宗教入門』というタイトルで再刊)に詳しいのですが、そこでは、宗教の現場に飛び込んで「聖なるもの」を自ら体験すること、また、そうした体験によって子どもから大人へと脱皮するという「イニシエーション(通過儀礼)」の重要性が強調されていました。師から受けたこうした教えに基づき、「聖なるもの」を自ら体験するため、島田氏はヤマギシ会というコミューン運動に参画し、中沢氏はネパールでのチベット密教の修行に身を投じていったのです。

ネパールから帰国した後、中沢氏は、1981年にオウムの教義の重要なネタ本にもなった『虹の階梯』を発表し、続いて1983年に公刊された『チベットのモーツァルト』がベストセラーになったことで、浅田彰氏と並んで、「ニューアカデミズム」の旗手の一人となりました。若い人たちにはピンと来ないかもしれませんが、80年代半ばから90年代初頭にかけて、彼はアカデミズムの内外に広範な影響力を持っていたのです。当時の中沢氏がチベット密教の修行についてどのように語っていたのかがよく分かる映像資料として、1983年に制作された『眺め斜め』というドキュメンタリー作品があります。これを見ていただければ、このようなスタンスで宗教について語る「研究者」をそのまま受け入れてしまった、当時のアカデミズムの特殊な雰囲気を感じ取ることができると思います(現在ではネット上に動画がアップされていますので、探してみて下さい)。

よく知られているように、オウムにおいては、弟子が師(グル)に帰依することによって授けられる「イニシエーション」が重視されていました。そして、ちょうどそれと並行する形で、東大の宗教学においても、イニシエーションを重視する宗教論が唱えられていた。イニシエーションというのは、ニューエイジ思想のなかで頻繁に使われていた言葉ですので、麻原彰晃が東大宗教学から直接的に影響を受けたかどうかは分かりません。しかし、中沢・島田の両氏が不用意にオウムを礼賛してしまった理由は、2人が師と仰ぐ柳川氏が説いていたイニシエーション論と同じような論理がオウムでも説かれていたということが、大きな要因だったのではないでしょうか。

―当時の日本の宗教学の潮流と、オウムの教えに親和性があったということですね?

大田氏:ええ。そしてこのような傾向は、宗教学だけが持っていたものではありませんでした。私はあくまで宗教学の研究者ですので、社会学の内情を詳しく知っているわけではないのですが、当時の社会学もまた、オウムに対する精神的な親和性を有していたのではないかと思います。

先日逮捕された高橋克也容疑者は、オウムの刊行物の他、中沢新一氏の『三万年の死の教え―チベット『死者の書』の世界』(1993)や、カルロス・カスタネダの『呪術の体験──分離したリアリティ』(1971)を所有していたということが報道されました。カスタネダとは、アメリカのUCLAで学んだ人類学者とされる人物であり、彼はドン・ファンという名前のヤキ・インディアンの呪術師を研究の対象としました。当初カスタネダは、人類学のデータを採取するためにドン・ファンを観察していたのですが、次第にその世界観にのめり込み、「知覚の変容」を自ら体験して、弟子としてドン・ファンに帰依するようになっていきます。『三万年の死の教え』や『呪術の体験』といった書物は、ともに弟子が師に帰依することによって、現世とは異なる別次元の世界を体験する、という内容なのですね。

カスタネダの書物は、60年代後半から70年代にかけて、ニューエイジ思想の教典の一つとして世界的なベストセラーになったのですが、それを日本に紹介する役割を担ったのが、東京大学社会学の教授であった見田宗介氏でした。見田氏は、宮台真司氏や大澤真幸氏の学問上の師に当たる人物です。

見田氏は1977年に、「真木悠介」という筆名で『気流の鳴る音―交響するコミューン』という著作を公刊したのですが、このなかではカスタネダの理論や世界観が、大きな紙幅を割いて肯定的に参照されています。その内容は、カスタネダのような仕方で「知覚の変容」を経験した者たちが、近代社会を離れてコミューンを結成するといった、きわめてナイーブな「ニューエイジ革命」礼賛だったのです。オウム真理教もまた、「ロータスヴィレッジ」という名前の理想的コミューンを築き上げるという構想を打ち出していましたが、見田氏の提唱していたコミューン論が、オウム的精神と根深く通底していたということは、否定することができないと思います。

―日本における宗教学や社会学の歴史を紐解いていくと、当時のアカデミズムが、オウムを肯定的に捉えてしまう構造があったということでしょうか。

大田氏:「肯定的に捉えてしまう」という以上に、日本のアカデミズム内の一つの潮流が、実はオウムの「生みの親」の一人であった、あるいは少なくとも、「オウム予備軍」となるような若者を大量に生み出してしまった、ということなのだと思います。

先ほど名前を挙げた五人の研究者たちのオウム論に対し、私は「腑に落ちない」と言いましたが、その理由は何より、これらの方々の師に当たる人物がそもそも、オウムに通底するような思想や精神性を提唱していたのではないか、そしてこれらの研究者たちは、オウムのグルイズムにも似た「師への帰依」という形態で、その精神性を継承してしまっているのではないかという思いがあるからです。オウム事件を学問的に総括しようという場合、このような自らの立ち位置への根本的な反省が伴っていない限り、その論は十分なものとはなり得ないだろうというのが、私の考えです。

―思想的な潮流から見れば、根っこが同じところにあるということですね。

大田氏:80年代前後のアカデミズムにおいては、対象を客観的に把握するための理論を練り上げるというよりは、対象に向けて主体的にコミットしていくことを推奨するような、積極的な実践論や革命論が幅を利かせていました。ただ単に、研究書を読んで机上の空論ばかり言っていてもダメで、どんどん社会のなかに飛び込んで自分で実地を体験しろ、あわよくば革命を起こせ、といった風潮が、80年代のアカデミズムには濃厚に漂っていました。十数年前の学生運動の雰囲気や、共産主義革命論の余波が、屈折した形で残存していたわけです。

オウムに関しては、「どうして優秀な大学生がオウムのような団体に身を投じていったのか」ということが、しばしば疑問視されています。『オウム真理教の精神史』でも触れたように、それにはいくつかの理由がありますが、その原因の一つは、「オウムと同じような思想が、当時の大学でも教えられていたから」ですよね。当時のアカデミズムの風潮を考えれば、むしろ当然の現象であったとさえ言うことができます。

しかし、こうした風潮はすでに過去のものであり、それ自体を今から批判・否定することにそれほど意味があるとは思えません。私自身も、もし柳川氏や見田氏の弟子たちと同じ年代に生まれていれば、同じような空気に染まっていただろうとも思いますので。しかしながら、過去の過ちを十分に反省せず、同じ間違いを何度も繰り返そうとすることには、苦言を呈さざるを得ません。

これまで、『サイゾー』における島田裕巳氏との対談や、Twitterの発言を通してすでに指摘してきたように、中沢氏が震災後に出した『日本の大転換』で示した革命論は、オウム真理教やナチズムの思想と同型のものです。社会からたびたび要請されているにもかかわらず、オウム事件に対して反省の目を向けようとせず、むしろオウム擁護に結びついたような詐術的思想やレトリックを、今でも飽きずに反復している。また、そうした中沢氏の言動に対して、周囲の研究者たちは誰も表だっては批判しようとしない。これでは、「日本の学者はオウム事件から何も学ばなかった」と言われても仕方がないと、私は思っています。

▼オウムの教義は「馬鹿げている」の一言で済ませられるものではない

―著書でもお書きになっていますが、オウム真理教の教義は、にわかには受け入れがたいものです。にもかかわらず、当時多数の人々から支持を得ることができたのは何故でしょうか?

大田氏:オウム真理教の思想的な構造が、全体としてどのようなものであったのかを理解することが重要です。私は『オウム真理教の精神史』において、ロマン主義、全体主義、原理主義という三つの思想潮流からオウムを分析したのですが、さらに簡略的に図式化すれば、オウムの思考は、次のような「霊性進化論」の構図に則っていたと考えることができます。

簡単に説明すると、これは次のような構図です。人間は幾度も輪廻転生を繰り返し、霊性を進化させることによって、神に近い存在に進化していく。しかし他方、霊性の進化から目を背けて生きる人間は、動物的な存在に堕ちてしまう。そうした二元論的な世界観なのですね。私はこれを「霊性進化論」と呼んでいるのですが、このような思想はいつ成立したのでしょうか。

先ほども話したとおり、近代以降、キリスト教信仰は次第に影響力を弱めてゆき、それと対極的に、科学的なものの見方が広まっていきました。そしてその結果、人間は肉体の死を迎えてしまえば無に帰るのだといった唯物論的な死生観が、社会のなかで一般化していったのです。しかし他方、こうした「死んでしまえばすべてが無くなる」という見解では納得できないという人々も多数存在し、そうしたなかから、欧米の「スピリチュアリズム(心霊主義)」と呼ばれる動きが生み出されてきた。現在、江原啓之氏などの活動によって知られるスピリチュアリズムは、ちょうど宗教学の成立と同時期、19世紀後半に誕生したわけです。

スピリチュアリズムでは、人間の霊魂は永遠の存在であり、死後も霊界で生き続けると考えられているのですが、こうした思想を発展させたのが、神智学の創始者であるロシアの霊媒ブラヴァツキー夫人(1831-1891)でした。彼女は、スピリチュアリズムの霊魂観をベースに、当時の最新の科学理論であったダーウィンの進化論、さらにはインドの輪廻転生論を結合させ、人間の魂は、輪廻転生を幾度も繰り返しながら霊性を進化させていくと主張した。また、チベットの奥地には、高度な霊性に達した「大師(マスター)」たちが集う「シャンバラ」と呼ばれる聖なる王国が存在するとし、そして世界は、こうしたマスターたちによって密かに教導されていると唱えたのです。

オウム真理教の教義のベースに存在していたのも、こうした神智学的な霊性進化論であったと考えることができます。ヨーガや密教の修行をすることで「霊的ステージ(霊格)」を向上させ、超人類や神人と呼ばれる存在に進化することが、その第一目標とされていました。また、教祖の麻原彰晃は、現在の人類のなかでもっとも霊格が高く、シヴァ神の化身やキリストであると捉えられており、麻原を中心に「シャンバラ」や「真理国」と呼ばれる政祭一致のユートピア国家を建設することが、オウム真理教の最終目的でした。

しかし他方、世間には、オウムとは異なり、霊性の向上などには関心を抱かない人々もたくさんいる。そうした人々はオウムでは、次の転生において「地獄・餓鬼・畜生」といった下位の世界に堕ちることが運命づけられている動物的な存在であると見なされていました。先の図のなかで、「獣人」と表されているものですね。そしてオウムによれば、こうした動物的な人々は、高位の大師に導かれるのではなく、悪の秘密結社であるユダヤ=フリーメーソンに洗脳支配されたまま物質的欲望にまみれ続けており、同時に、神人を目指しているオウム教団を不当に弾圧する存在であると考えられていた。そこでオウムは、動物に堕ちていくしかない人々の魂を一挙に「救済=ポア」するため、サリンを用いた大量虐殺を画策したのです。もちろんそれは、オウム教団にとって都合の悪い人間たちを粛清するという行為に他ならなかったわけですが。

このように、オウムの世界観はきわめて幻想的で荒唐無稽なものだったのですが、しかし、同時代を生きたわれわれにとって、果たしてこれが自分とは無関係であると本当に言い切れるのだろうかと、疑問に思われる点があります。

―お話いただいたような荒唐無稽な教義と、当時の社会状況のあいだには、どこか通低するものがあったのでしょうか?

大田氏:これまでお話ししてきたことと重なりますが、まず、オウムと同時期のアカデミズムにおいては、「ポストモダニズム」と呼ばれる思想が流行しており、そこではしばしば、適切な批判的態度を欠いたまま、ニーチェを礼賛するという風潮が見られました。ニーチェの主著である『ツァラトゥストラ』のなかには、「人間は動物と超人の間に張り渡された一本の綱である」という言葉があります。ニーチェは、功利主義的で教養俗物的な生き方に自足した現代人を「畜群」と呼んで蔑み、他方で、世界生成の有り様を肯定し創造的な生を送ることのできる存在を「超人」と呼んで礼賛しました。もちろん、オウムのそれとは意味合いを異にしていますが、そこでもまた「動物か超人か」という二元論的思考が成立していた。その思想は歴史的には、ナチズムの世界観や人種論に強い影響を及ぼしました。同様に、日本のポストモダニズムにおいても、人間は強度に満ちた生き方をすることによって「超人」的な存在になりうる、あるいは、工学的管理の徹底によって「動物化」していくという、二元論的なレトリックが幅を利かせていたわけです。

また、アニメや漫画などのサブカルチャーにおいては、主人公が何らかの経験によって超常的な能力を獲得し、それによって世界を救うというストーリーは、ごくありふれたものとして存在していました。『機動戦士ガンダム』に描かれた「ニュータイプへの覚醒」というものはその典型例でしたし、『ドラゴンボール』のような少年漫画においても、主人公が「修行」することによって超人に生まれ変わるという物語は、お決まりのパターンの一つでした。私より少し前の世代に流行った特撮番組に『レインボーマン』という作品があったのですが、そのストーリーは、インドの山奥で修行してヨーガの超能力を身に付けた主人公が、悪の秘密結社と戦うというものだったそうで、これに影響を受けたオウム信者は多かったと聞いています。そしてTVの特番でも、ユリ・ゲラーの超能力、矢追純一のUFO論、五島勉のノストラダムスの大予言など、オカルトを自明の事実として扱うような内容のものが数多く放送され続けていました。

加えて、受験勉強を中心とする学校教育においては、偏差値という単線的な尺度で人間の価値が計られる状態になっていましたが、こうした発想は、「霊的ステージ」で人間を差別化するオウムの思考法と類似してはいなかったでしょうか。最近ツイッターを介して教えていただいた話なのですが、当時の受験産業においては、受験戦争を勝ち抜くための能力開発という名目で、ヨーガの実践が推奨されることがあったそうです。ヨーガの修行によって体内の「チャクラ」を開けば、潜在的な能力が覚醒し、急速に頭が良くなるといったものですね。オウム教団もその発端においては、「鳳凰慶林館」という名称の、能力開発のための学習塾だったのです。

こうした社会状況全体を考えてみると、オウムの教義は、「馬鹿げている」「自分には関係ない」という一言で済ませられるものではないと思われます。オウムが急成長を遂げた時期には、日本社会においてもまた、人間は超人的な存在になりうる、神のような存在になりうるという「全能幻想」が、色濃く漂っていたのではないでしょうか。オウムが、こういった社会全体の雰囲気から生み出されたものであるということを、忘れてはならないでしょう。

▼オウム問題の今後─アレフの麻原崇拝への回帰と、日本社会の不活性状態

―オウム真理教の事件が起きた1995年と同様、あるいはそれ以上に、今の社会状況は悪化しているように思います。オウムが社会的な条件・雰囲気から生み出されたものだとすれば、今後、第2、第3のオウム真理教が誕生する可能性はあるのでしょうか。

大田氏:最近私には、オウムの後継団体の一つである「ひかりの輪」代表の上祐史浩氏から話を伺う機会がありました。上祐氏と私の対談は、『atプラス』という雑誌の次号に掲載される予定ですので、詳しくはそちらをご覧いただきたいのですが、上祐氏の話で印象深かったのは、オウム真理教の後継団体の主流派である「アレフ」において、麻原崇拝への回帰の動きが顕著になっているということでした。

ですので、そのご質問に対しては、「第2、第3のオウム」が出てくることを心配する前に、オウム真理教の問題そのものがまだ完全に終わったわけではないということを、まずは強調しておかなければなりません。「オウムはもう見たくない、社会から抹消してしまえ」というのが、今の日本社会の正直な考えかもしれませんが、そうした感情論が噴出してしまうと、彼らを不用意に追い詰め、再び暴走させてしまう危険性があると思います。オウムという教団が、日本社会から生まれたその分身の一つであるということを認め、彼らとの対話の回路を開き、その動向を今後も注意深く見つめる必要があるでしょう。

先ほどのご質問は、過激な無差別テロに走るオウムのような「破壊的カルト」が、再び日本社会に登場する危険性はあるのか、ということだと思いますが、私としては、それを心配するよりもむしろ、現在の日本社会が慢性的な不活性状態にあり、年間の自殺者数が高止まりしているということを心配するべきであると思います。

先ほども述べたように、80年代から90年代の初頭にかけて、日本社会には「全能幻想」が色濃く広がっており、ある種の「躁(そう)」的な高揚感に包まれていました。バブル的な好景気のなかで、多くの日本人は、日本の経済こそが世界を支配しうるとさえ考えていたし、経済至上主義・物質至上主義に反発した人々も、宗教的な修行を積んで霊性を高めることによって、神のような存在になりうるという全能感に浸っていた。社会の主流派とその対抗勢力が、それぞれの仕方で「全能幻想」に浸っていたわけです。

しかし、前者の経済至上主義的な全能感は、90年のバブル崩壊とそれに続く不況によって雲散霧消し、後者の宗教的な全能感は、95年のオウム事件によって著しく傷つけられることになりました。経済至上主義も、宗教的な霊性の探求も、共に限界に突き当たってしまった。そしてオウム事件の騒動が一段落した98年頃に、日本社会は全体として、躁状態からうつ状態へと大きく転換したのではないかと、私は思っています。その頃から、年間の自殺者数が約二万四千人から約三万二千人へと急増し、現在でも高止まりしている状態です。オウムを生み出したような社会的高揚感は、良くも悪くも、今の日本社会からは失われてしまっているのです。

もう一度バブル期の高揚感を味わいたい、と願っている人々も多いのかもしれません。しかし私としては、日本社会はそろそろ、躁状態か、そうでなければうつ状態かという、双極的なメンタリティから脱却する方法を考えるべきであると思います。実際にわれわれは、「超人」にも「動物」にもなることはできず、どこまでも「ただの人間」であるしかない。等身大の自分自身の姿を冷静に見つめ、自分ができること、できないことをはっきりさせ、日々の地道な努力によって一歩ずつ前に進むことを目指すべきではないでしょうか。

―本日はありがとうございました