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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

公務員の仕事の記録

知人が出会った事柄なのですが、某所の公務員何某の、仕事のあまりの非効率さ、要領の悪さに、伝聞ながら非常に唖然とさせられたので、記録といいますか。

知人が諸般事情のため、ある種の証明書が必要になって、役所に出かけていったのですね。机に添付されているお手本に従って、申込書に必要事項を書いていって、これで十分と思って、窓口に行ったら。

公務員何某「書類Aが必要ですので、後日合わせて持ってきてください」

で、知人はわずかな時間を割いて、書類Aを持ってきました。

公務員何某「(前は言わなかったけど)更に書類Bが必要ですので持ってきてください」

知人は、頑張って書類Bも持ってきました。

公務員何某「(言わなかったけど)まだ足りないのがあるので書類Cを持ってきてください」

こんなのが日をまたいで延々と続いて、7回目?で十分な書類がそろい、やっと証明書を発行してもらったという話。

・・・後日、ゲッソリとやつれ果てた知人は、以下のように言いました。

民間人というのも、やたらと仕事を休めない。お金の余裕も無いので、交通費の出費は経理を圧迫する。交通費は概して高いものだ。こういう、一つの手続きの処理に何日もかかるような、要領の悪すぎる、頭の悪すぎる、ブザマな対応はやめていただきたい。

この公務員何某は、窓口・広報(情報提供)という仕事の重要性を分かっていない「本当のバブル・バカ」である。窓口・広報の業務は、低脳には絶対つとまらない仕事である。日本は、国際社会の経済戦争の中に生きているのであり、役所といえども、情報提供の真のプロフェッショナルを置くべきである。

民間会社だって、接客応対・営業の要員は、プロパー(専門社員)として育てるほどなのだ。それこそ国際レベルの企業においては、情報戦において、外国マスコミに競り勝つ程の優秀な頭脳を配置するのが常識だと聞く。1秒で億単位の金が動く世界であり、情報提供を間違えば、莫大な損失を招くからだそうだ・・・

バスだって、往復で420円払うのだ。これで2回分の昼食がまかなえる筈だった(ちなみに、この人の昼食代は平均200円~220円程度です。余裕が無いときは150円を切るようです)。この低脳の公務員何某のせいで何日分の昼食が飛んだか、発行の遅れで私の仕事にどれだけの損失が出たか、考えるだけで胃が痛くなるのである。

年末に向け、この不況の中で「税金」をどうやって都合するか考えると、私は更に鬱になるのである。この公務員何某の頭の悪さ、…(残りは聞き取れなかった)…、云々は、まさに極刑を適用するべき「7つの大罪」である。我、首吊り役人に、7回、嬉々として立候補するものである。

・・・というような内容を、知人は言ったのでありました(…殺気を感じました…)^^;;

ついでながら、今回の「無謀な」政権交代には、こういう一部公務員の仕事ぶりへの不満も明らかに含まれていたと思われるのですが、政権交代の結果、こういう「要領の悪い」部分が改善される見込みは、あるのでしょうか(何だか不安)…

…とにかく今のところは、接客&情報提供の真のプロフェッショナルたらん事を、上の公務員何某に、ガッツリと要請するものでありますね…^^;

「食べ物の恨み」に感染したのが元とは言え、珍しく物騒な(?)内容になったかも…

…反省…orz

人間いろいろ、ではあるでしょうけれども、「恐慌不安のにじむ不況」という時節柄、やっぱり事は「税金のコスト対効果」に及びますので、「税金の無駄遣いを減らせ!」という掛け声が民間に快く響くのは、致し方ないのかも。

こういう「情報提供に熱心でない、世界情勢も知らない、要領の悪い公務員」をハローワークとかで頻繁に見かけるようであれば、若い方が「働いたら負けかなと思っている…」という思想を抱くのも、それほどおかしな事では無いかも、と思うところなのであります。

安定した戦後社会、長年の自民党政治が、こういう微妙な公務員を生み出したのでしょうか?

まあいろいろ、社会の構造が時代に合わなくなってきた、というのが大きいかも・・・

(アセンション関連では「時間のスピードが増大する」「二極化が起こる」という話が聞かれるところです。上に出てきた公務員何某の時間感覚と、知人の時間感覚との間で、すさまじい二極化が起こっているのは明らかだ、と思われたのでありました・・・汗)

・・・えーと、いろいろ、考えさせられるところであります^^;;;

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私製詩歌「神無月抒情」

《神無月抒情・・・「紺地金泥」風》

秋風は もみずる袖をひるがえし
梢に 陽差し斜めなり

澄み明らかなり 青き空
雲無き真昼の青空よ
果てなき空のわだつみよ

紺碧の 遥けき天(あめ)の彼方より
光は黄金(きん)と零(こぼ)れ落ち
木の葉と共に舞い降りる

…いよいよ冷たく冴ゆる季節(とき)…

白き風なり 白き風!
誰が袖ふれし 風の色!

冬近き 緑は黄金(きん)を照り返し
さらさらさやぎ しきりに揺すれ

…たまゆらの あやしき歌を 織り成しぬ…

冬を貫く 常盤(ときわ)の緑
寂静の緑の焔の 不動の悲しみ

重き荷を背負いて 傷ついて
それでも見上ぐ 《無限》の底を

…紺碧の空に白き風神…

秋風は もみずる袖をひるがえし
木の葉に 陽差し斜めなり

梢の先に 風が鳴る 風が鳴る――


「紺碧の空から光が黄金と零れ」…という部分、これは「紺地金泥」を意識しています。

個人的な感触ですが、日本の美意識の底には「紺地金泥」という様式があると思います。

これは、初期の仏教受容の際に、写経スタイルの一種として編み出された文字様式だそうです。芸術に関わっている人には殆ど常識だと思いますが(汗)、こちらは元・なんちゃって理系出身であり、芸術オンチに任せて、感じるところを(無謀にも)語ってみましょう。

「紺地金泥」は、日本の文字様式、大和調の文様文化の出発点です。異文化との出会いの火花が生み出した様式であり、またそれゆえに、合わせ鏡よろしく、日本の奥底に漂っている「美意識のようなもの」を、鮮やかに映し出していると思います。

また、紺地金泥で描かれた絵もあります(時代の都合上、殆どは仏教曼荼羅らしいですが)。

作業としては「金泥を塗りこめる」訳ですが、意識の上では、「どのように金地を射抜くか」という感覚に近かったと思います。闇の中から、黄金=光を射抜くのです。木漏れ日が描く模様のように、細い隙間から洩れ出てくる光の綾模様を愛でる、という感覚があったと思います。

この感覚は時代を超えて、漆器の蒔絵にも登場する…森の民の感覚です^^

日本の真昼は余りにも明るく、冬季の昼間も、明るい。そして陽光にしても雨風にしても、降り注ぐときは激しく降り注ぐのです。屋根の造形にしても、庇(ひさし)が長く出ているのがスタンダードだったのであり、その絶妙な環境が、「紺地金泥」や「たまゆらの光」の感覚を生んだと思います。

これはまた、日本の芸術において、「日本の絵は陰影を描かない」という特徴に繋がっているわけで、伝統的な大和絵では、「陰影」が描かれておりません。光は黄金の描線として射抜かれていたのであり、後には、黒い線描に凝縮された、というわけです(ドラえもんの漫画に、見事なまでに陰影の表現が無いのは感心します。大和絵の正統を、ガッツリ受け継いでいます)。

とは言え、日本人が陰影の造形感覚に欠けてる訳では無いと思います。その証拠に、三次元造形の仏像などを観察すると、衣服のひだの流れがダイナミックに彫り込まれています。西洋人とは光‐影の解釈が異なっている、という事であると思います。

西洋人は、陰影を、描くべき「色」のひとつとして捉えた節があります。だから西洋画は、「黒い描線」を描かない代わりに、陰影表現が精密になるのです。遠近法の発達は、この陰影を突き詰めた果ての、偉大なる成果だと思います。大和絵よろしく黒い描線に集中していたら、ああいう精密な遠近法の世界は、ルネサンスという条件があったとしても、絶対に描出できません。

実際、メロヴィング・カロリング美術からロマネスク美術にかけて、黒い描線が主役だった頃は、西洋でも、陰影、遠近法、という発想そのものがありません(当時はドーム壁画や、羊皮紙に聖書写本の挿絵が殆ど/木版画は製紙法が普及した14世紀以降。元々ケルト人やゲルマン人は文様や幾何造形に強く、抽象的な造型感覚を持っていたそうです。この辺は、いかにも古代の森の民の感性です)。

少し「陰影」の感覚が違うのがレンブラントの銅版画ですが、何がレンブラントの感性に作用したのかは、勉強不足でよく分かりません。ただ、英語では「ライト」、「シャドウ」、と言うちゃんとした単語がありますが、日本語では光も影も同じ「光」としての意味があります。例えば「面影」なんかがそうですし、「月影」は「月のシャドウ(笑)」という意味では無いですね^^;

長くなりました。最後といっては何ですが・・・

個人的に、「詩的な気分」のコアと思っているのは、大体以下です。

……他所者であるおまえ、
ほかの星よりなお遠く遥かから由来する
星であるおまえ。
絶対の孤独が受け継がれるようにと
この地球に売られた星。……

他の方の作品の一部なのですが、何処で見かけた詩句かは忘れてしまった(大汗)・・・うろ覚えで、何とか再現。実際の詩句とは若干異なっている可能性があります(汗&汗)。

《絶対の孤独》と《無限》とは、同じ「詩的な気分」の裏表であると思っています;^^ゞ

まだ思索で捉えられない部分が大きく、今の時点では、うまく説明できないのですが・・・

★更に付記:この作品は、お世話になっております写真ブログ『アムゼルくんの世界』の去年秋のエントリ、[枯葉ミックス]の〝時光〟のセンスに影響されたものです・・・

詩歌鑑賞:ヘルダーリン「生の半ば」他

『HÄLFTE DES LEBENS』

Mit gelben Birnen hänget
Und voll mit wilden Rosen
Das Land in den See,
Ihr holden Schwäne,
Und trunken von Küssen
Tunkt ihr das Haupt
Ins heilignüchterne Wasser.
Weh mir, wo nehm'ich, wenn
Es Winter ist, die Blumen, und wo
Den Sonnenschein,
Und Schatten der Erde?
Die Mauern stehn
Sprachlos und kalt, im Winde
Klirren die Fahnen.

『生の半ば』(ヘルダーリン詩集/岩波文庫/川村二郎訳)

黄色い梨の実を実らせ
また野茨をいっぱいに咲かせ
土地は湖の方に傾く。
やさしい白鳥よ
接吻に酔い恍(ほう)け
お前らは頭をくぐらせる
貴くも冷やかな水の中に。
悲しいかな 時は冬
どこに花を探そう
陽の光を
地に落ちる影を?
壁は無言のまま
寒々と立ち 風の中に
風見はからからと鳴る。

『夕べの幻想』

……
夕べの空にひとつの春が花開く。
数知れず花咲く薔薇、そして安らかに輝く
金色の世界。おお、そこへ僕を受け入れてくれ、
深紅の雲よ! そしてあの高みで

光と大気の中で、僕の愛と悩みが溶け去ってくれるなら――
しかし、愚かな願いに追い払われたかのように、魔法は
逃げて行く。暗くなり、そして空の下に
僕は一人きりだ、いつものように。

さあ、来たれ、優しいまどろみよ! 余りに多くを
心は渇望する、しかし最後には、青春よ、お前は次第に消えて行く!
安らぎのない、夢がちな、お前は!
(高木昌史訳)

Abendphantasie

……
Am Abendhimmel blühet ein Frühling auf;
Unzählig blühn die Rosen und ruhig scheint
Die goldne Welt; o dorthin nimmt mich,
Purpurne Wolken! und möge droben

In Licht und Luft zerrinnen mir Lieb und Leid! ―
Doch, wie verscheucht von töriger Bitte, flieht
Der Zauber; dunkel wirds und einsam
Unter dem Himmel, wie immer, bin ich ―

Komm du nun, sanfter Schlummer! zu viel begehrt
Das Herz; doch endlich, Jugend! verglühst du ja,
Du ruhelose, träumerische!