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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

詩歌鑑賞:テイラー「何処かへの道」

"The Road to Anywhere"/Bert Leston Taylor

Across the places deep and dim,
And places brown and bare,
It reaches to the planet s rim
The Road to Anywhere.

Now east is east, and west is west,
But north lies in between,
And he is blest whose feet have prest
The road that s cool and green.

More sweet these odors in the sun
Than swim in chemist's jars;
And when the fragrant day is done,
Night and a shoal of stars.

Oh, east is east, and west is west,
But north lies full and fair;
And blest is he who follows free
The Road to Anywhere.

『何処かへの道』/バート・レストン・テイラー

深き冥土を越え
褐色の荒地を越え
それは この世の果ての
何処かへ 通じる道。

おお 東は東 西は西
しかし 北は その間に横たわる。
そして 涼しい緑の道を辿った人は
恵まれた人だ。

なお美しい 陽差しの中の香りは
化学者の試験管の中に漂う それよりも。
そして かぐわしい昼が終わると
夜だ――満天の星だ。

おお 東は東 西は西
しかし 北は こよなく平らかに横たわる。
そして 幸せな人だ それは
何処かへの道を自由に辿る人。
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知性の勝利,霊性の敗北・後

覚書・前篇》から続く

ギリシャ正教精神の立場から西欧精神を観察したテキスト部分・今後の考察のための記録

(ウィキペディアより)…「ハリストス」とはキリストのこと。
キリストを示す"Χριστóς"は、古典ギリシャ語の再建音では「クリストース」となるが、中世初期以降のギリシャ語では「フリストース」と変化し、現代ギリシャ語でも「フリストース」となっている。「ハリストス」はこの「Χριστóς(フリストース)」、教会スラヴ語「Христос(フリストース)」を音写し片仮名表記したものである。「イエス・キリスト」は「イイスス・ハリストス」と表記される。

・・・文字コードで特殊文字を記述。ギリシャ文字やロシア文字を探すのは大変…

テキスト=『ロシア精神の源』―よみがえる「聖なるロシア」―(中公新書1989)/高橋保行・著(ニューヨーク聖ウラジーミル神学大学院卒、日本ハリストス正教会司祭)

《ふたつの智恵の対立》

ギリシア古典のアラビア語からの導入と論理学の高まりは、12世紀から13世紀の間にキリスト教哲学を生み、ヨーロッパ各地で静かな知的革命を引き起こした。

教会の中には最初、知的革命をいぶかしく思い反対する者もいたが、知性の力に魅了されたヨーロッパ社会は大いにこれを歓迎した。教会の中から始まった知的革命は、いったん教会の外に出た後、ルネッサンスの勢いと相まって今度は逆に教会に舞い戻り、宗教改革を誘発した。

文化的に見ると、宗教改革は単にローマン・カトリック教会にプロテストするだけの動きではなく、キリスト教の中における知的革命の徹底化なのである。プロテスタンティズムは、教会の中の知的革命を促進し、精神性よりも知性に比重を置いただけでなく、知性が精神性を凌駕することを許してしまったのである。

ところが、知的革命がヨーロッパ社会で徹底すると、皮肉にも西のキリスト教が成立した時期に強調された知性による救いを、社会が教会に代わって知的革命を完全に達成することにより果たしてしまった。

教会が推進していたものを社会が取り上げ、完全に仕上げてしまったところから、教会は用がなくなり、世界の中にあるさまざまな宗教の中の一宗教に成り下がってしまったというのが、ヨーロッパのキリスト教の現状である。

振り返ってみると、実にヨーロッパ中世以降の歴史は精神性を否定する知性の独占の歴史であり、ヨーロッパは連続的知的革命の伝統を生み出したと言える。

現代の西欧社会だけでなく、教会においても精神性は疎外され、それに代わる、倫理という一見精神的に見える論理性がはばをきかしている。倫理はあくまでも精神的なことを知性の力を借りて論理的に考えるというもので、精神性そのものではないことを忘れてはならない。ここでも、知性が精神性を虐げている。

精神性の疎外は精神性に対する無知を生じ、個人の中でのみ体験する神秘的なものとか、知性に対抗する集団感性を精神性と取り違えたりする結末を生んでいる。その逆に、簡単な理屈を説いて納得させたり、まったく逆に複雑な精神界の構造を説いたりという、いずれも頭で納得する宗教は、知性に傾倒している社会にのみ生じるものである。精神性を忘れている人間が生み出す精神性の代用品であるといってもよい。

宗教とは関わりたくないという知的現代人は、知性が精神性を無視する時に知らず知らずのうちに生じる、精神性欠如という弊害をなんとかしようというための応急処置が宗教であると思っているようだ。そうした意味から知性派が宗教を敬遠し続けるのはもっともな話である。だれが自分の病む体から出る排出物を再び受け入れようか。

聖なるビザンチンでは、ギリシア古典が正規の教育の基盤にあったから、生活の中に知性のための場が設けられていた。知的活動は活発であったが、けっして精神性の肩代わりができるなどというようには考えなかった。ときに優れた知識人の中には、ギリシア古典とキリスト教の神学を結びつけてタブーを破ろうという試みもあったが、必ず聖職者や修道士たちがこれに応戦した。知的現代人が聞くと、すぐになるほどと思う。聖職者が宗教感情を強く持ち、主観でのみ物を言うイメージが強いからだ。

これらの聖職者や修道士たちは、盲目的に精神性を主張したのではない。かつては自分たちも、聖職者や修道士になる前は同じ高度なギリシア古典の教育を受けた知識人であったから、ギリシア古典を巧みに神学に結びつけようという相手の手の内は分かっていたし、知性の弱さや強さはよく心得ていたから、明快な答えを提示したのである。

紹介される機会が少ないから知っている人も限られているが、ビザンチン帝国では4世紀から8世紀にかけて、皇帝が「全地公会議」という、現代的にいうならば学術専門会議のようなものを開催していた。

内容は、一見すると、神学論争により正統と異端を明確にする、教会に関することのみのように思われる。ところが、一歩踏み込んで文化的な面からとらえて内容を検討すると、正統と異端を論じつつも、ギリシア古典を主軸とした「外なる智恵」と、キリスト教の精神性を基盤にした「内なる智恵」の微妙な噛み合いがどうあるべきかを明らかにしていることが分かるのである。

双方の論議から産出した教義的表現は、単に教会の信条としての意味を持っているだけでなく、文化的な面からとらえてみると、ギリシア哲学とキリスト教の精神性の互いがどのような性質を持ち、キリスト教文化の中でどのように関わっているかを明快にしていることが分かる。知性と精神性のそれぞれの所在を明らかにし、バランスを保つ働きをしたのである。

ヨーロッパのキリスト教が生まれると共にギリシア古典と出会った時には、ビザンチン帝国の中にすでにあったこのようなキリスト教とギリシア古典の千年にわたる付き合いを無視し、そのまま融合してしまったのである。魅惑的な相手というばかりで、一体どのような相手かも確かめないで結婚を急いだのと同じである。

ビザンチンの人たちは、自分たちが先代から受け継いだ遺産がどのような性質のものかをよく心得ていた。そのために、ギリシア古典の甘味が精神を骨抜きにしないように、付き合い方にはいつも細心の注意を払っていたし、ビザンチン帝国にはその誘惑に負けないだけの精神性を持つ人がいくらでもいた。

ギリシア古典が紹介された時代の西欧社会には、ギリシア古典の知性に太刀打ちできるほどの精神性を持つ人はいなかったし、知性の力にはまったく初心であったから、圧倒的に論理学と知性の甘味に飲み込まれてしまった。


※同書別頁からの抜き出し補遺※

…ローマ総主教区でも最初はラテン語習得を強制せず、他の総主教区と同じように、伝道先の現地の人たちの言語を尊重していた。

ところが、同じローマ総主教区内のフランク王国が、自分のところから派遣した伝道団にラテン語の使用を義務づけ、フランクの権威の象徴とした。この例に倣いローマの総主教は、自分の権威を示すために、9世紀以降、ローマの総主教区の中でラテン語の使用を義務づけた。

やがて、ローマ総主教区内の大聖堂や修道院にあった学問所で論理学が盛んになると、ラテン語は、祈りの言葉から学問をする者の必修の言葉になり、無学の者には逆に意味の分からない有難い言葉になってしまった。こうして、西欧の人々にとりキリスト教の救いは、キリストの生き方を修得するよりも、ラテン語を習得し、知性を磨いてキリストの教えを納得することに変わったのである。

これに拍車をかけるかのように、スペインのコルドバやトレドで、ギリシア哲学のアラビア語からラテン語への翻訳活動が盛んになり、その影響をもろに受けた西のキリスト教は、人の歩むべき道から、人生哲学に変容し始めたのである。ローマ総主教区内の聖堂や修道院が、知的革命の発生の中心となり、現代教育の起源となったのは、だれもが知るところである…


ロシアは、こうしたヨーロッパの体験とはまったく逆の体験に遭遇したのである。ビザンチン文化圏に誕生してから約400年は聖なるビザンチンを親として育ったわけだが、ロシアはその親から「知性は精神性のために尽くす」ということのみを伝承したものの、知性がひとり立ちしたいという誘惑が襲ってきたら、どのように解決したらよいかということは教わらなかった。

ここに、ヨーロッパと出会った時から近代まで、ロシアが抱え続けている苦悩のもとがある。

・・・(引用・終わり)・・・

《コメント》著者はローマ・キリスト教ではなく、ビザンツ・キリスト教に思考の基底を置いてらっしゃるので、以上のような記述になるようです。別の視点から眺めるとこういう風に見えるのかなあ、というのが感じられて、興味深いものでした。

(著者曰く、キリスト教は、「東洋の西端に発生した東洋の宗教」だ…という事になってます)

8世紀から9世紀、トップクラスの文明国を自負していたビザンティン帝国にとって、宗教的に離反独立したローマ・カトリックと、そのローマ・カトリックと共に走り出した西欧社会は、どういう風に見えたのだろうか…というような事を、あれこれと想像してしまいます^^;


FriendFeedコメントより転載

知性と精神性という項目の立て方はその著者のものでしょうが、精神性の代わりに霊性としたほうがより理解しやすかったと思います。でも言わんとすることはわかります。 - 丸山光三
《返信》文章の内容にうなづきつつ夢中でタイプしていたので、そこまで思い至りませんでした。適宜"霊性"とか"霊界(魂)の構造"とかに振り替えつつもう一度読んでみると、改めて以前よりちょっとだけ理解が進んだかも。まだ読みが浅い状態で、この引用文章は、繰り返し読み直してみたいと思っているところです…

知性の勝利,霊性の敗北・前

ルネサンスと、それに続く西欧近代とは何であったか…という事と、その西欧近代の延長軌道をひたすら走り続けている、現代の世界と日本の精神性の問題について、深く考えさせられるテキストに出会ったので、今後の物語的考察のために、記録しておくものです。

テキストの著者はビザンツ・キリスト教に由来する正教会の司祭だそうで、おおむねギリシャ正教会側から眺めたときの、西欧社会と西欧キリスト教の様子が浮かび上がってきて、なかなか興味深いものだと思われます。

テキスト=『ロシア精神の源』―よみがえる「聖なるロシア」―(中公新書1989)/高橋保行・著(ニューヨーク聖ウラジーミル神学大学院卒、日本ハリストス正教会司祭)

★序文より興味深い部分を抜粋要約

10世紀末~13世紀初「キエフ朝ロシア時代」
(ウラジーミル大公の洗礼からモンゴル来襲まで)
13世紀半~15世紀「モンゴル政権下時代」
(ポーランド・リトワ政権下に入った時代もある)
15世紀~18世紀「モスクワ朝ロシア時代」
(モンゴル政権を倒し、モスクワ中心の王朝を築く)
18世紀~20世紀初「ペテルブルグ朝時代」
(ペトル1世がバルト海沿岸に都を移し、西欧近代化に努力)
20世紀初~1991年「ロシア革命~ソビエト連邦」
(レーニンからゴルバチョフ、エリツィン?まで)
1991年~21世紀現代「ロシア連邦」
(連邦制共和国…らしい^^;)

・・・10世紀から15世紀の500年間は、ロシアにとって「謎の空白」に相当するらしい?

「聖なるロシア」は、1988年6月上旬に1000年目の誕生日を迎えた。1年前にソビエト革命70年目の誕生日を迎えたソビエト・ロシアには関係が無いので、記念式典は質素に、教会の中でだけ行なわれる事になっていた。

ところが意外な事に、ソビエト政府首脳が記念式典の2ヶ月前に、これまでの教会に対する政府の態度に誤りがあった事を公の場で認める、という信じられない事が起きた。記念式典のあったその週は、千年祭関連のニュースや関連映画が流れた。モスクワの大聖堂が無神論者によって破壊されるドキュメンタリーまで紹介されていた。

かつてロシアがヨーロッパ文明を受け入れ、近代化を進めているという同じ立場にあった日本と出会って戦争したのが、1904年の日露戦争である。日本は文明開化からわずか36年、帝政ロシアは189年の実績があったが、日本に軍配が上がった。この結果、ロシア国民の不満が募り、帝政ロシアが崩壊した。この動揺は、ヨーロッパでもまだ画期的かつ未実施であった共産主義の受け入れにつながった。

当時の共産主義は、多くの人に「明日のヨーロッパ」を担うと受け止められた、いわば「超欧的」な思想であった。ロシアはその思想の具体化をはかり、ヨーロッパを超えたと思いつつ、ヨーロッパと対立しながらも(意識してのヨーロッパ無視も含む)、ヨーロッパに興味津々である。

この辺りに、何処の国にも無いような冷酷非情な面と、何処の国にも無いような人間的な面とがまだらに混じりあう、「ロシア」という国の複雑さがある。よく言われるソビエト人とロシア人の二重構造性は、ヨーロッパ希求意識とロシアの土着意識のアンヴィバランスの産物なのである。

《「内なる智恵(精神性)」と「外なる智恵(知性)」》

・・・前略・・・

ビザンチン帝国がギリシア古典を古代から遺産として受け継いできたということは、単に風化させずにきたというだけのことではない。

ギリシア古典の内容をよく理解すると共に、知性とは何かをよく弁えていたということでもある。研ぎ澄まされた知性の底知れない力は、人にとって精神性を高める道具にならない限り、まかり間違えば刃物のように、全力をもって人を破壊するものになりうるということである。

この知性が、肉体から生じる情念の道具になると、理屈に変化するということは、だれでも知っている。情念と知性の間に相身互いの仲が成立すると、知性は情念の塊に「我」というもっともらしい名を与えて祝福し、これを満たす働きを開始する。

情念は一人の人を代表するものになりえないのに、知性のお蔭でありもしない「我」という制度を着せられ、あたかもあるように装い始めるのである。深層心理などというもっともらしい名称も、この「我」の別名であり、煎じ詰めれば、知性に体よくまとめられた情念ともいうべきものである。

近代西欧の学問の中から生まれたばかりの心理学が、心の所在を頭の中にあるとするのも、精神性が西欧学問に不在であるからではないか。「我」を「知」と言い換えれば、我を制御するのが知性であるから、当然その所在地は頭の中となるわけである。

人が「自分」という時、その自分はある精神性に根ざしているというべきで、天気のように変わりやすい体の状態や情緒、単なる感情的な自我、ないしは深層心理などという得体の知れないものや、これらを制御する知性であってはならない。

人の知性は思慮分別を養育し、高度な精神性を修得する過程になっても、人生の基準となったり、人が「自分」という時のその自分の基盤になれるほど高尚ではない。知性は、高級な技術であり、人間の精神性や文明を高める道具になるものの、精神性に代わるものにはなりえないのである。

知性が肉体を元にした情念から生じる自由奔放な欲求を満たすために働く事は、いとも簡単である。人の自己満足のために、知性がもっともらしい理屈を生み出し、もっともらしい人生を形成してくれるというのは、だれもが知っている。

このように、知性が情念の使い走りをしている時に、自分の奴隷的な立場に気づいて革命を起こす。知性を駆使して情念を制し、体や気持ちのあり方をすべて分析、定義づけ、固定概念のなかに入れようという働きが起こる。多くの人が、知的であることを精神的であると誤解するのはこのためである。

そうしたところから、人の自由とは、知性を自由に駆使して生活の領域を統制することであるというような考えが出てくる。知性は、出来もしない事を出来るように思わせる力さえ持っているから恐ろしい。知性による明快な言葉化により現実が無視される恐ろしさは、だれもが味わっているはずである。

このような知性の働きを食い止める道は、ひとつしかない。

肉体を土台とする情念に節制を与え、祈りの言葉を用いて心を浄化し、精神性を豊かにし、深い思慮分別の能力を養い、知性が提供していた偽りの自分の代わりに真の自分を取り戻す事である。このように、自己の中で知性と情念の下敷きになり死した自分を復活させるのが、ビザンチンの精神性の目的なのである。

・・・後略・・・

覚書・後篇》に続く


FriendFeedコメントより転載

「10世紀から15世紀の500年間は、ロシアにとって「謎の空白」に相当するらしい?」。これはその頃はまだロシアが成立していないので空白なんでしょ(笑)。いわゆる「タタールのくびき」こそロシアの揺り籠であり、モンゴル帝国の一部がロシア帝国として生き残ったわけですから、欧州から見るとロシアはやはり欧州の外なんです。ゴルバチョフが「欧州の家」構想などを持ち出しても欧州は心底からは受け入れませんでした。今でもそうだと思います。 - 丸山光三
《返信》「謎の空白」というのは著者が書いた内容なのです(ピンと来なかったので"?"添付)。でも、ビザンツキリスト教に重心を置く著者の立脚点を考えると、納得という部分もあります。大陸-多民族混血の常で、いつから"ロシア"が始まったのかは、ロシア人自身も曖昧みたいですね。ゴルバチョフ版"欧州の家"構想は知らなかったです。今は資源パイプラインか何かで、それを現実化しようとしているみたいですね(欧州にとっては脅威でしょうか)…^^;