忍者ブログ

制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

古代科学漂流の章・中世8

ネストリオス派がオリエントを超えてアジアへ流れていった年代は、ウルフィラの聖書ゴート語翻訳の年代とはそれほど離れていません。長くても半世紀くらいというところです。当時のキリスト教は、教義の論争を通じて、それほどに急激に変貌を遂げていたわけです。

同じ頃のインドでは、ヴェーダ哲学が完成し、『ヨーガ・スートラ』がまとめられ、数々の仏教異端や密教が次々に成立しつつありました。例えばクマラジーヴァが生まれたのが344年だそうです。歴史の神様のような存在が意思を発動していたのかどうか…、しみじみと考えさせられるところです…^^;

【ササン朝ペルシャとネストリオス派・・・アジア系キリスト教の素地】

431年のエフェソス公会議での排斥の結果、ビザンティンを追われたネストリオス派は、まずエジプトに逃れるのですが、ここでは布教のための足がかりを築くことが出来ず、西アジアに移ることを余儀なくされました。ネストリオス派は、シリア語を話すオリエントの人々の間で普及してゆく事となったのです。

ネストリオス派が本拠にしたのは、北メソポタミアのエデッサと言う町です。当時の東ローマ帝国とササン朝ペルシャとの国境に近いところです。373年に既にキリスト教の学校が建築されていたという事ですが、ここにネストリオス派が定着しました。彼らは当初のギリシャ語を捨てて、シリア語で布教を始めます。

しかし475年に東ローマ皇帝のゼノンが、エデッサでの異端布教まかりならぬ、という事でエデッサの学校を閉鎖し、ネストリオス派の迫害を始めました。そこで当時の学頭であったバルサウマという人は、ネストリオス派のキリスト教徒を引き連れて国境を越え、ササン朝ペルシャの領内に入りました。

そこでバルサウマは、ペルシャの総主教であったバボワイに歓迎され、時のペルシャ王ペーローズに謁見する事がかないます。バルサウマはペルシャ王ペーローズ(在位年:459-484)に、次のように説明しました:

「正教会は東ローマ帝国と固く結びついているが、我々ネストリオス派はこの東ローマ帝国からひどい仕打ちを受け迫害されたので、今ではまったく絶縁しており、むしろ東ローマ帝国に対して敵対的であるのだ」(出典『十二世紀ルネサンス』伊東俊太郎・著1993岩波書店)

ササン朝ペルシャは東ローマ帝国と争っていた事もあり、バルサウマは王の信頼を得て、ペルシャに居住する事を許されました。彼らはまずニシビスに学校を開き、ここをネストリオス派の本拠としました。

その後、次第にエフタル人やソグド人が活躍していたユーラシア交易路を通じて、ネストリオス派はアジア全域に拡大し、ついには唐代シナまで辿り着く事となります。シナ語では、「景教」と呼ばれました。(同じ頃、玄奘三蔵が天竺から仏典を持ち帰っています。『大唐西域記』…*^^*)

余談ですが、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で書き残した「アジアの至る所にあるキリスト教会」とは、ネストリオス派のものです。今でも西安に「大秦景教流行中国碑」という石碑が残っており、かつて長安に留学した空海は、この碑を見ているはずです(ゾロアスター教やマニ教も流行していました)。これは804年の話。

つまり、ローマ帝国以東のユーラシアの国々では(場合によっては、日本も含めて)キリスト教と言えば、この「ネストリオス派キリスト教(=景教)」であったのです…^^;

★おまけの知識=ササン朝ペルシャと異民族(エフタル、突厥)

ササン朝ペルシャ帝国は、西方にローマ帝国、東方にクシャン帝国、次いで遊牧騎馬民族エフタル(白匈奴)という強敵を持っていました。(※7世紀半にマホメットが登場した後、ササン朝ペルシャは南方にイスラームと言う強敵をも抱える事になったのです。652年、ペルシャはアラブに征服されました)

インド西北部・バクトリア地域の強国であったクシャン朝(大月氏=ガンダーラ美術で有名)は、ササン朝ペルシャの攻撃を受けて西方の領土を大幅に失い、5世紀末に滅びました。

その後、北方の異民族エフタル(白匈奴)が勢力を拡大し、ペルシャ国内への侵入が激しくなります。エフタルの妨害は、ササン朝ペルシャにおける王位継承や対ローマ作戦の遂行に影響を来たすまでになります。

その後、エフタルは、558年頃に突厥とササン朝ペルシャとに挟撃されて滅亡します(エフタルの民族系統は不明ですが、現在はイラン系とする説が有力です)。

事実上、エフタルの滅亡が、突厥…もとい、トルコ民族の、西方大移動の引き金となりました。このトルコ人(チュルク系)を中心とした遊牧民族の第2次民族大移動は、遠くヨーロッパにまで及びます。

この大移動によって突厥は、ユーラシア最強の「遊牧騎馬民族」として、歴史の表舞台に登場しました。突厥はユーラシア大陸を横断するほどの広大な「突厥帝国」を形成し、その後に東西分裂しますが、その際に西端にハザール王国が登場したと推測されています。7世紀頃の事です。

なお、トルコ人の一派といわれるアヴァール人は、東ローマ帝国やフランク王国と戦いながらパンノニア平原に落ち着いた事が知られています。アヴァール人が中央アジアから東ヨーロッパに入った頃、突厥は、東ヨーロッパのそれを「偽アヴァール」、中央アジアに残ったそれを「真アヴァール」と呼んで区別していたという事です。

※彼らアヴァール人こそが、現代にまで続くバルカン半島問題の原因となった、初期の大きな勢力だと申せましょうか…他にも色々と事情が錯綜しているようですが…^^;

PR

ラノベ的少女キャラ(色彩絵&白黒絵)

ゴシック・ロリータ風ドレスをまとう少女

SF風少女、1点目:少女時代のなんちゃってメーテルをイメージ

SF風少女、2点目:ミステリアス、かつ印象的な目元をイメージ

ラノベに登場するヒロインは大抵、いわゆる「萌え絵」なるパターンで描かれるようです。この「萌え絵」というのが余り良く分からず、長い間、つらつらと思案していました(笑)

ひるがって、ストーリー構成という観点からヒロイン・キャラを分析してみると、総じて「異世界の根源的な秘密」との関係を有する要素でもあるのが、興味深いと思われます。いつの時代でもそうですが、「ミステリアス」というのは、人類の好奇心を盛り上げる要素であるようです

古代科学漂流の章・中世7

区切りの都合で短いですが、何とか形になったので、【前篇】に続けてみました

【ゴート語の聖書・後篇】

332年、コンスタンティヌス大帝は、幾度も事を構えたゴート族と協定を結びました。

その際のゴート側の外交使節団の通訳として登場し、次第に面倒な外交交渉のメイン担当を任されるようになったのが、弱冠21才のウルフィラだったそうです(…非常に根性のある方だったのですね…^^;)

彼はその後、ローマ側の総主教に語学その他の才能を見出され、ローマ帝国でもトップレベルにあった学問の府、シリア領・アンティオキア教会併設のアカデミアで本格的に聖書を学び、ラテン語、ヘブル語、アラム語を習得したという事です。当時の聖書は音読、しかも詠唱するものでしたが、ウルフィラの詠唱は上手だったそうです。

※ちなみに、ウルフィラはアリウス派キリスト教に属していました。折りしも帝都コンスタンティノープルでは、アタナシウス派とアリウス派の三位一体論争に火が付き始めているところでした。時代がもう少し後にずれていたら、聖書のゴート語への翻訳作業がどうなっていたのか…、ちょっと想像がつきません…^^;

さて、司教の叙階を得たウルフィラは、ダキア領の伝道に努め、徒手空拳で数々の宗教弾圧を乗り越え、ドナウ川の南岸、現在のブルガリア国内にあるミノル=ゴート村という場所にキリスト教徒のゴート人と共に入植し、聖書翻訳を開始したと伝えられています。時に西暦348年頃、ウルフィラ37才であったそうです。

ゴート語聖書への翻訳の際の借入語は、例えば「天使」=「アンギルス」、「悪魔」=「ディアバウルス」などです。いずれもゲルマン語には無かった言葉で、ギリシャ語の音を借用したものだそうです。後世は各々「エンジェル」、「デヴィル」、と変わっています。

ウルフィラが最も苦心したのが、「神」という言葉を母国語に翻訳する作業だったと言われています。ギリシャ語の「ホ-テオス」に当たるゴート語は無かったわけです。日本語での「デウス」が根付かなかったように、このままでは「テオス」がゴート人ひいてはゲルマン人に根付かない、という事は明らかであったろうと思われます。

最終的に、ゴート語の「神」は、「Guþ(グス)」という言葉で表される事になりました。

・・・はじめにグス、天地を造りたまえり。・・・

これが「God(英語)」、「Gott(ドイツ語)」、「Gut(北欧語)」の語源となったと言われています。その影響の大きさは、察するに余りあります。

この「グス」という語は古代ゴート語の「相談者/対話者」という意味を受け継いでおり、個人個人の精神内部での言葉の格闘を要求するものであったのではないか?という指摘があります。「グス」を受け継いだ英語圏、ドイツ語圏の人々は、他人との対話を基軸とした民族性を培っていったという事です。

ギリシャ語の「テオス」がそのままラテン語の「デウス」となったラテン語圏では、「神」は、そのまま天空に光り輝くものとして捉える民族性を育てていったのだと申せましょうか(例:フランスでは「Dieu」と言う)。

ごく大雑把にラテン精神、ゲルマン精神、言い換えればカトリックとプロテスタントの違いは、受け継いだ言葉の違いによるものが大きいのかも知れない…というのも、納得できるものであります。

ゴート語の聖書が、西欧の「心」を作った。その巨大な遺産に、圧倒されるものであります。

☆おまけの知識=《ゴート語の「愛」》

キリスト教神学では、「愛」は「アガペー」と「エロス」で区別し、対比させて考えるという事です。

ウルフィラは、この「愛」を、ゴート語で「frijaþwa(フリヤスワ・愛)」、「frijon(フリヨン・愛する)」と翻訳しているという事です。この「fr-(フル)」系統の単語は、そのままインド=ヨーロッパ祖語を復元できるほどの古い言葉で、当時から既に、大変古風な匂いのする単語であったろうと言われています。

今では、「fr-(フル)」系統の単語で「free(英語)」、「frei(ドイツ語)」という言葉が使われていますが、どちらも、古代ゲルマン語時代では「愛する」と「自由な」の両方の意味を担っていた言葉だそうです。現代ドイツ語にも、「freien(求婚する)」という言葉に意味の名残があるそうです。

ついでながら、ゴート語で「自由な/愛する相手」を「frijonds(フリヨンズ)」と言います。

これが現代の「友人」を意味する「friend(英語)」、「Freund(ドイツ語)」の語源だそうです。