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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

黒いお金「阿片」・2

にわか仕立てのテーマですが、ちゃんとしたシリーズを立てて、じっくり取り組んでみようと思います。「どこまで飛べるかは、神のみぞ知る」という事で…ちゃんとまとまったら、もしかしたらホームページ用に編集して公開するかも…ちょっと自信ないですが…

今回の調査は、清末期の暗黒時代にひしめいた秘密結社…と、阿片バブル上海・租界の変遷。

◆前知識/阿片取引の合法化、租界建築ラッシュ、阿片バブル時代の上海

1842年20万人、1900年100万人、1930年300万人。90%以上が国内移住者。阿片取引によるバブルが起きて建築ラッシュが進み、職を求める失業者が大量に集中したため、上海の人口が激増したといわれる。

当時の上海にはトイレが無く、「馬桶」という木製容器で用を足し、毎朝、糞尿処理業者が回って処理した。一緒に、人間や動物の死体も、リヤカーを引いた処理業者が処理していた。資料によれば、どの租界でも朝8時までは糞尿処理が終わらなかったため、死体も通りに転がっており、窓を開けられなかったらしい…(冷や汗)

上海中の糞尿処理業務を独占した会社の社長で糞尿処理業者の大元締めは、「桂姐」という中年女性。別名「糞尿大王」…らしい。彼女の夫が青幇の大ボスの1人で、表向きの仕事はフランス租界の巡捕房(警察)に雇われた巡査で、「黄金栄」と呼ばれていた(名前からして出来すぎだけど、本当に本名?)…orz

>>上海建築の推移

  • 1860年代=コンパンドーリック様式(ベランダをめぐらす簡素スタイル)
  • 1890年代=クイーン・アン・リバイバル様式(「アン女王復古スタイル」。ゴシック様式と西洋古典様式の混合、赤と黒のレンガを交互に重ねる)
  • 1910年代=ネオ・バロック様式(アールヌーボー様式はあまり入らなかった)
  • 1920年代=アールデコ様式(沙遜大廈サッスーン・ハウス1929竣工、河浜公寓エンバンクメント・ハウス1930竣工、都城飯店メトロポール・ホテル1929竣工、漢弥爾登大廈ハミルトン・ハウス1930竣工、華廈公寓キャセイ・マンション1928竣工、格林文納公寓グローヴナー・ハウス1931竣工、百楽匯大廈ブロードウェイ・マンション1934竣工、四行儲蓄会大楼パーク・ホテル1933竣工)

大量の難民のために投機目的で作られた大量生産型の住宅群もあった。店舗型住宅、里弄住宅(集合アパート)、天井住宅(江南の伝統形式)。圧倒的に多かったのが西洋アパートつながりの「里弄住宅」で、この後「里弄住宅」は近代住宅のモデルとして各地に広まる。

◆前知識/「会党」…世界大百科事典より抜粋編集

清代以降の非宗教的・反体制・秘密結社の総称。「会」も「党」も仲間の意味で、もとは単に「会」と言ったが、清末に孫文ら革命党が合作を働きかけてからは、「会党」と連用するようになった。権力の側から言えば反体制秘密結社のメンバーは「匪」であるが、「匪」は宗教的迷信を結合紐帯とする「教匪」と、宗教を持たぬか或いは主要な要素としない「会匪」とに大別され、後者が「会党」である。前近代には白蓮教など殆ど「教匪」だったのに対し、近代は「会党(会匪)」がメインだった。

阿片戦争・アロー戦争後、重税がかかり、かつてないほど大量の遊民が発生し、数多の「会党」が栄えた。その一部は移民(華僑・苦力)として国内外へ流れ、一部ははみ出し者(行商人・人足・博徒など)として社会差別を受けながら不安定に存在した。

※太平天国は、キリスト教の影響を受けた「教匪」だったという点で突出しており、膨大な失業者を吸収しながら膨張し、上海・南京を含む長江中下流域を支配したが、後に平定されて消滅したという事です。

★捻軍=太平天国と同時期に清に反抗した華北の武装勢力。1853年、太平天国が北伐を開始すると、安徽省・河南省の捻軍はこれに呼応していたるところで蜂起した。1855年、黄河の堤防が決壊すると、山東省・安徽省北部・江蘇省北部の多くの民衆が難民となり、捻軍に加入。10数年にわたって安徽・河南・山東・江蘇・湖北・陝西・山西・直隷の8省に展開した。

太平天国の乱を清の正規軍は鎮圧できず、やむを得ず地方の武装自衛集団を利用;

★湘軍=湖南省湘郷の曽国藩が湘軍の創始者。全国各地の人材が曽国藩の麾下に投じ、幕僚は300~400以上に上った。後にこれらの将帥や幕僚で総督になった者は15人、巡撫になった者は14人、その他の文武官も多数にのぼる。この湘軍出身者が洋務運動で大きな役割を果たすことになった。湘軍は清王朝を救ったが、漢人が政界の中心に進出するきっかけを作った。

★淮軍=清朝の重臣李鴻章が1862年に編成した地方軍。淮軍は2年間で6千人強から6万~7万人に拡大し、清軍の中で最も装備が充実した部隊となった。この淮系軍閥を基礎として、後に北洋軍閥が形成された。

太平天国が崩壊した後は、会党は反清の伝統を持つほとんど唯一の社会勢力として残っていたから、清末の革命党は彼らを革命のために利用しようとした。

「興中会」は華南の三合会、華中の哥老会の幾つかの山堂の首領と連絡して、会党と革命党の連絡組織としての「興漢会」をつくり、さらに海外の洪門(致公堂)とも連絡した。また「華興会」「光復会」も哥老会と結んでそれぞれ「同仇会」「竜花会」を組織した。それらはいずれも会党が革命党の理論と指導を受けて出来たものである。これは会党の歴史に新局面を開いたが、その歴史的役割は、基本的に辛亥革命で終わった。

・・・【天地会】(台湾、福建)・・・

「天地会」とは対外呼称。みずからは「洪門」と名乗る。異称に「三合会(珠江流域、広東)」「三点会」など。

広東や福建出身の沖仲士の秘密組織。蘇北地区の賊軍「捻軍」や「幅軍」、江南の太平天国軍(1851-1864)に流れる者もあったが、殆どは地場産業である製塩に関わった。

康煕(1662-1722)初年、鄭成功の抗清闘争が失敗した後、華南地方に起源するとされ、乾隆(1736-1795)末年、台湾での林爽文の反乱(1786-87)から官憲の注目を浴びる。〈反清復明〉、〈滅満興漢〉を宗旨に掲げた厳格な規律を持つ集団で、19世紀を通じてその流れを汲む異名の諸組織が繰り返し各地で暴動を起こしている。

例えば、1855年に黄河が大氾濫して河の流れが大きく変わると、大運河の交通が途絶して数十万人もの船乗りや沖仲士が失職し、当時「太平天国」と結んでいた下部組織の「小刀会」が清朝政府に対し暴動を起こした。

※太平天国の乱も拡大した1853年9月、「小刀会」が上海県城を占拠し、付近の住民を上海租界に押しやったという事件があった。上海租界は大量の難民で溢れ、外国当局は糞尿処理や死体処理、治安維持などのため、「青幇」と結託したという。

太平天国の乱は、キリスト教客家・洪秀全が起こした反乱(=革命?)。清朝政府の弱体化をもくろんでいた西洋列強は、南京(天京)政府を樹立した太平天国と脈を通じていたが、アロー戦争後、阿片売買合法化などの調停が有利に進むと、西洋列強は清朝政府に肩入れして、太平天国を潰すほうに回った。

・・・【紅幇(洪幇)】(長江中流域内陸部、華南)・・・

スローガンは「劫富済貧(富める者を劫掠して貧しい者を救済する)」。阿片戦争(1840-1842)の後に上海が開港し、阿片取引を独占したのが広東省の潮州出身の商人たち(元「三合会」のメンバー)で、彼らが新たに秘密組織「紅幇」を作った。

上海の共同租界を地盤にして阿片販売を担当し、国産(清)の阿片も含めて最盛期の1880年代には、年間2万2000箱(全体の20%)をさばく。

「ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行・イギリス)」「サッスーン洋行(沙遜洋行・ユダヤ系)」「新サッスーン洋行(旧サッスーン洋行の弟分)」「E・パパニー(アラブ系)」「哈合(清の業者?)」などと取引。

・・・【哥老会】(揚子江上中流、四川湖南など)・・・

異名「哥弟会」。太平天国(1851-1864)滅亡後、湘軍解散に伴って湘軍人脈を呑み込みつつ、長江流域一帯に勢力分布。もとは〈反清復明〉の伝統を持つ下層民の相互扶助的組織だったが、列強侵略の時代、排外暴動の組織者として有名。1891年の長江流域での一連の暴動はその最大のものだが、のち辛亥革命の際にも重要な役割を果たした。

・・・【青幇(清幇)】(揚州、上海、租界)・・・

清王朝初期に淮河流域で組織された大運河の荷役労働者の自衛的団体「安清道友」がその源流とされる。船乗り、沖仲士、強盗、匪賊、博徒、浮浪者などを1万人以上含み、闇塩を輸送する小船を700隻以上持っていたといわれる(当時の清王朝では、塩は専売制だった。政府の許可を受けていない塩を生産し取引すると罰せられた)。このルートが阿片の密輸に活躍した。

阿片戦争後の社会変容に伴って発生した膨大なルンペン層を包含する組織として、清王朝末期、上海などの開港場を中心に阿片の運搬その他の都市サービス業を担当し、強大な勢力を確立した。もとは反政府集団だったが、太平天国の乱(1851-1864)を通じた上海租界周辺の無政府化に乗じて外国租界当局と結託し、租界における官憲的地位を築いた。

とりわけ蒋介石を援助して1927.4.12クーデタを行なってからは、国民党支配のための非公然暴力機関(ギャング)として重要な役割を果たした。

◆資料(感謝です)


FriendFeedコメントより転載

《管理人の呟き》図書館で資料収集をねばってみたのですが、秘密結社のことが全く載っていないのでビックリしました…^^;その代わり、上海エリアに詳しい観光ガイドブックを手に入れたので、ポイントとなる記述を少しずつマークしてみようと思います。観光ガイドブックはたいてい、移動ルートや距離感覚、現地名などのチェックが便利なので、意外に役立ちます。…そういえば、普通の歴史資料には"京杭大運河"の地図解説が載っていないのですね。こんな大運河が見えないなんて、いったい何を見ているんでしょうか…謎です。
上海についてなら『上海歴史ガイドマップ』(木之内誠、大修館)がお勧めです。特色は、それぞれの重要な建物に中共以前、以後、現在の地名が色分けで示されていて歴史探索にはもってこいです。巻末の解説も役に立ちます。著者はわたしが80年代なかごろ上海に遊学していた時、同じ大学に研究生として滞在されていました。そのため著者が撮影された当時の写真はわたしの脳裏にある光景そのままです♪ - 丸山光三
《返信》資料のご紹介ありがとうございます*^^*その本は知りませんでした…探してみますね。それにしても今回ビックリしたのは、数字データに現れた上海エリアの急膨張でした。1855年に黄河方面が洪水で壊れた後の変動が特に壮絶で、揚州経済圏の莫大な富が急に南へ移動したんだな…という事がよく分かって、複雑な気持ちになりました。あと、秘密結社の主張が、殆ど〈滅満興漢〉とか〈反清復明〉なんですね。清末期の混乱で、そのイデオロギーを核にして、〈秘密結社・青幇etc=客家=太平天国=クリスチャン客家=上海財閥=浙江財閥=南京国民政府=蒋介石〉という強烈な"フリーメーソン的-上海阿片マネー人脈"に育ったのかなあ、と思っています(とっても大雑把な妄想です。何となく調査予定です)
〈滅満興漢〉とか〈反清復明〉などのスローガンは洪幇のものです。青幇のほうはというとイデオロギーはどうでもよくて麻薬などのビジネスが大事だったようです。そんなこともあってシナ民衆の間での青幇の評判はよくありません。日本とのアナロジーでいえば、洪幇=任侠、青幇=893、という感じでしょうか♪青幇が利権の結びつきで蒋介石べったりだったのに比して、より「愛国」「愛民」的な洪幇は中共へも大挙合流し一大勢力になりました。朱徳、賀龍、鄧小平などはみな洪幇(なかでも哥老会)の人間です。とくに鄧小平の父親は四川における哥老会の大親分だったということです。またそれらの人脈は客家とも関連してきているのはご指摘の通りです。ここでは、洪幇=任侠、青幇=893、という基本図式を知っておいていただきたくコメントしました♪ - 丸山光三
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黒いお金「阿片」・1

「黒いお金」の代表格が、19世紀-20世紀に植民地貨幣・物々交換用として流通した「阿片」だと思います。ですが、この「阿片通貨」が最も猖獗を極めた清朝末期~毛沢東の時代については全然知らないことばかりで、何も書けないのが実情です(カンペキな近代史オンチなのです・冷や汗&赤面)…;^^ゞ

(※最終的には「三反五反」というよく分からないキャンペーンで、前時代の植民地貨幣としての阿片は、根絶やしにされたらしい。最近、「ゴールデン・トライアングルの阿片ネットワーク」とか…曖昧な話をネットでちまちまと見かけますが、今まで全く知らなかったし、本当はどうなっているのか、よく分からないです)

恥ずかしながら、お勉強中です…間違ってるところもあるかも知れません…^^;

◆予兆1…揚州経済圏

河北省の河間県から滄州-徳州-済寧-徐州-淮安-揚州-鎮江-常州、長江河口部・上海に到るまでの「京杭大運河」流域は製塩業を生業とすることで名高い水郷地帯だった。水郷地帯で生産された塩は、網の目のように広がる水路を伝って大運河に集まり、揚州に運ばれ、そこで大規模な塩取引が行なわれる。取引が済むと、塩は海上船で全国各地に運ばれていった。

王朝が変わるたびに大運河の整備拡張が進み、塩生産が向上し、港湾整備が進んだ。揚州に荷揚げされる塩の量は増大し、元・明・清の三代にわたって、国庫を支える経済圏として繁栄する。清朝の康煕帝-乾隆帝の頃には、揚州での塩取引による税収は、国庫の25%を占めるようになった。

揚州経済圏の文化=点心料理、揚州料理、上海風呂、園林(庭園文化)etc.

◆予兆2…インドの阿片(2.5追記)

1521年:ポルトガル、インドに植民地を築いて東方貿易をスタート。インドで阿片が薬や嗜好品として使われているのを発見し、有力商品の一つとしてヨーロッパへ持ち帰っていた。マカオへも寄航するようになると、明との取引商品の一つにした。当時の明では、阿片は超富裕層の間での贅沢品だった。

1600年:イギリス東インド会社を設立/1602年:オランダ東インド会社設立
・・・東インド会社は、かの怪しげな「フリーメーソン」の巣窟だったらしい。
・・・1624-1662年にオランダは台湾を征服している。この征服期間を通じて、オランダ植民地インドネシアで広まっていた阿片喫煙の習慣が、台湾へ伝播したらしい?

1664年:清朝成立
・・・台湾には阿片・タバコが定着済み。タバコは南米から来た。漁師を通じて福建省にも台湾スタイルの阿片の風習が定着。やがて南部沿岸地方の人々が、阿片タバコに病み付きになってしまう。

紅茶文化が大流行し、イギリスは清から大量の茶・陶磁器・絹を買い付けていたが、莫大な貿易赤字を抱えてしまった。苦肉の策として、インドで高品質な阿片製品を開発して清に卸すことを思いつく。三角貿易の始まり。

清へ密輸された阿片は、1765年に200-300箱程度であったものが1821年には4000箱、1837年には3万4000箱に膨れ上がる。阿片戦争前夜の1838-1839年は約4万箱にのぼった。1箱あたりの阿片は60kg程度。清朝国家歳入の80%に相当する銀が国外に流出。清朝政府の禁令にも関わらず、阿片=上流社会の贅沢品として受け取られていたため、密輸利権を狙った業者跋扈が多くなる。清朝政府の取り締まりも、ひどいザルだった。

@ガンジス河中下流域:ベンガル阿片=「大土」(トップランク)、パトナ産阿片=「公班」「烏土」(超トップランク)
@インド中部~西部:マルワ阿片=「白皮」「白土」「小土」(トルコ産阿片を「小土」と言う事もあり)

◆予兆3…上海サッスーン商会(2.5追記)

1828年:ジェームズ・マセソン&ウィリアム・ジャーディン提携、広東にあった中国最初の外国商社を買収、「ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行)」設立。阿片を専門に扱った。

※ジャーディンは元・東インド会社の外科医でしたが、阿片が余りに儲かるので、阿片商売人に鞍替えした…という、とっても呆れた、医者の風上にも置けぬ不道徳な人物だったそうです。とっても戦闘的な性格で、阿片戦争につながる威嚇外交を提唱したのも、この元・お医者さん。心置きなく「宇宙人」と定義して良い人物だと思います。

★阿片戦争(1840-1842)…実際の戦闘については省略。南京条約(江寧条約)締結。外国商社はそれまでは広州にしか居留させてもらえなかったが、条約によって香港の割譲、および広東・厦門・福州・寧波・上海の港利用が可能になった。

1845年:上海の目抜き通り(現在の江西路と九江路の交差点)に「サッスーン洋行(沙遜洋行)」の支店オープン。本拠は東インド会社下のボンベイ。香港にも沙遜洋行の支店をオープンしていた。1870年代はインド阿片貿易の70%を扱うという巨大商社に成長(日本にもサッスーン邸宅があり、現在は神戸異人館になっている)。

★アロー戦争(1857-1860)…実質上、第二の阿片戦争。英仏関与。1857年天津条約締結により、阿片輸入の合法化とキリスト教布教の公認。1860年北京条約締結。天津の開港、イギリスに対し九龍半島の割譲、苦力貿易(実際は奴隷貿易)の利用が可能になった。

・・・1837年の清には外国の商社が39社存在。天津条約のあった1857年頃には約300社に急増。1903年には600社以上の商社がひしめいた。

1865年:「サッスーン洋行(沙遜洋行)」「ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行)」「デント商会(宝順洋行)」は15人の代表発起人を決め、資本金500万ドルを投下して、同年3月、香港に「香港上海銀行」を設立。同年4月、上海で営業スタート。主要業務は、阿片貿易の儲けをイギリス本国に迅速に送金する事だった。

《補足》・・・

1839年、林則徐、阿片厳禁の方針に基づいて欽差大臣(皇帝の特命大臣)に任命され、広東へ派遣される。当時の広州・珠江沿いには外国人居留地があり、洋館が立ち並ぶ地域は特に「十三行街」と呼ばれていた。

林則徐は型破りな堅物で、外国の新聞や書物を通読し、異国理解に努めていた点で、ものすごく変わっていた。林則徐のブレーンであった魏源は、林則徐が収集していたイギリスやアメリカ合衆国の情報を委託され、それを元に『海国図志』を著した事で知られている。『海国図志』は、西洋諸国の軍事や産業について詳述した大部の書。

1841年、林則徐は阿片戦争の責任を負って左遷された。1842年に出版された『海国図志』は、1854年に日本版が出版され、幕末武士の必読の書になった。

熊本藩の儒家・横井小楠(よこい・しょうなん)は『海国図志』をよく読み、日本の将来の指針を論じた事で有名。『海国図志』を熟読した主な指導者に、吉田松陰、佐久間象山、村田氏寿、橋本左内、島津斉彬、松平慶永などが居る。勝海舟、坂本竜馬など維新志士にも、多大なる影響を及ぼした。

…ちなみに1853年はペリーの黒船。1854年は安政の東海地震・南海地震。多事多難…^^;


FriendFeedコメントより転載

<揚州経済圏>ですが、まさにこの経済圏は京杭大運河の心臓部で、この運河交通を裏で取り仕切ったのがかの青幇でした。もちろん麻薬も主要な取引対象だったのです。青幇は、他の主要な黒社会である三合会(珠江流域、広東)、哥老会(揚子江上中流、四川湖南など)、天地会(台湾、復建)が洪幇(紅幇とも書く、読音は同じ)として連合しつねにお上に対抗していたのとは異なり、蒋介石政権に取り入り美味い汁を吸い続けました。 - 丸山光三
また<上海風呂>ですが、わたし自身は体験しておりませんが開高健の小説<玉砕ける>にその詳細が描写されています。垢取りをしてくれるのが特徴です。またこの垢取りの「職人」はすべて揚州人です。それだけではなく、上海における下層労働、とくに「馬桶」というおまるの中身を回収する業者に代表される、現代日本のいわゆる「3K」労働に従事するのはほとんどが揚州人です。ゆえに上海人は揚州人をさげすんで「江北人(ガンボニン)」と呼んでいます。ちなみに「上海閥」といわれた江沢民はこの揚州出身ですから上海人は当然のように「江北人(ガンボニン)」と軽蔑しています。 - 丸山光三
サッスーンは、もともとイラクにいたユダヤ人でのちインドに移住し、さらに英国植民地をつたって東へと渡り上海に根を下ろし、ついには上海の闇の支配者にまで登りつめました。フリーメーソン・メンバーといわれています。上海で一番目立つ和平飯店はそのペントハウス部分はヴィクター・サッスーンの住まいでもありました。このサッスーンの日本駐在員を勤めたのが長崎の武器商人グラバーといわれています。その関連で坂本竜馬や伊藤俊辅などはフリーメーソン・メンバーであるか、あるいはその謀略の駒であった可能性があります。明治維新はアメリカ独立、フランス革命などとならぶフリーメーソンによる「革命」であった可能性はかならずしも否定できないということです。 - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます。青幇・三合会・哥老会・天地会・洪幇(紅幇)…洪門会の他にそんなにあるんですか…^^;…どうも青パンツ・赤パンツ・虎パンツというようなシロモノでもなさそうな…図書館に行って調べてきませんと。同じ上海閥の中にも色々な人が混ざってる…と、やっぱり大陸は広いですね。「馬桶」のエピソードは『シナにつける薬』で拝読しておりましたが、聞くだに強烈だと思いました。江沢民の出身の件は意外でした。何か偉そうにしている様子だったので、北京の何処かから上海に天下りしてきた人なのかなと思ってました。
えっと、洪門会、すなわち洪幇(紅幇)で、それは三合会・哥老会・天地会のアリアンツのようなものと考えていいと思います。つまり大きくわけて赤(紅)と青の二つということでわかりやすいでしょう。ただしシナの黒社会は洪門会がメインストリームで青幇は傍流です。青幇はおもに上海を縄張りにしていたのですが、中共統治以後は香港に逃れ台湾にも勢力を伸ばしたようですが、世界中の華僑社会にネットワークを張り巡らす洪門会の規模にはかなわないでしょう。- 丸山光三

黄金の呪い「黒いお金」

前回、チラッと「黒いお金」という言葉を使いました。

「黒いお金」。これは実在するそうです。私たちが使っている普通のお金と、見かけ上は変わったところはありません。紙幣はちゃんとした紙幣の顔をしているし、貴金属はちゃんとした貴金属の顔をしています…ただ、憑いているもの…というか、魔力のパワーが、圧倒的に違う。

錬金術や鉱物の資料をあさっていて、ひょんな事でこの知識を仕入れたのですけれども…

ええと、『ジークフリート』などに代表されるドラゴン王権伝説は、余りにも有名なので、大抵の方はご存知だろうと思います。この王権伝説の故郷は、中央ユーラシアにあります。だいたいの物語シナリオから想像するに、大地のどこか、深い裂け目の中に輝く鉱脈、あるいは鉱床を象徴的に物語ったものなのであろう…という説を立てております。

それは、最初は銅鉱床(高品質な黄銅鉱)であったと思われます。これはプロ・シナ文明も同じでした(後に、黄色が最高位のカラーと定められた)。歴史を下って、金鉱床…黄金により重きが置かれるようになります。そのきっかけというのがよく分からないのですが、世界史をざざっと眺めてみる限りでは、おそらくローマ帝国が震源であったろうと思われます。

※黄金で貨幣を造った最初の国は、現トルコに栄えたリディア王国(紀元前7世紀-紀元前547年)です。黄金を含む貨幣が製造されたのは、紀元前3世紀から紀元前1世紀ごろであったろうと言われています。その貨幣は金色に輝いていたので、「エレクトロン貨」と呼ばれました。カルタゴでは「エレクトラム貨」と呼ばれ、古代地中海交易における共通通貨の役割を果たしていました。ちなみに『聖書』で有名な「ユダの裏切り」のエピソードで出てくるのも、何故か「金貨」ですね…^^;

「3世紀の危機」の後、ローマ帝国の財政はなかなか安定せず、経済改革と新貨幣発行の必要に迫られます。この新貨幣が「ソリドゥス金貨」と呼ばれるもので、「ソルジャー(ソリドゥス金貨のために戦う人)」の語源ともなっています。優秀な傭兵を雇うためのお金でもあったのです。昔も今も、兵士の愛国心にはバラツキがありますが、お金に対する忠誠心の強さは一貫しているという事です。傭兵が常に優秀な兵になるのは、その為だそうです。

つまり、ソリドゥス金貨は、経済復興と共に、戦争資金としての役割も果たしました。

あまり気持ちの良い話ではないのですが、ここからが「黒いお金」のオカルト。

ソリドゥス金貨が活躍した時代は、全ヨーロッパを荒廃させた中世の内戦と、奴隷貿易の時代でもありました。当時は、金貨よりも銀貨の方が流通していましたので、銀を押さえたものの方が勝ち。その中で、ひときわ活躍したのが南ドイツの銀鉱山。後に欧州一の豪商フッガー家のものとなり、神聖ローマ帝国を裏側から支配する魔術的道具となります。

色々ありましたが、東方交易を通じたルネサンス・バブルがあって、ヨーロッパに銀貨が大量に流通した事は、ヨーロッパの経済力を飛躍的に高めました。この過程で三十年戦争が起き、大量の死者が出ています。フランスでは、重商主義を採用した太陽王ルイ14世の時代を迎えていました。ちなみにルイ14世は諸国と多くの戦争を行なった王様で、その戦費拡大は、フランス財政をものすごく圧迫していました(…だから重商主義という新手の魔法で、お金を調達した訳ですが…何とも「おフランス」らしく、恐ろしいお話です…^^;)

この貨幣経済の拡大は、大航海時代を経由してヨーロッパの世界制覇をも導いてゆくのですが、この過程で、金銀鉱山を抱えていた南北アメリカで再び奴隷貿易が行なわれ、また、大量の血が流れました。アステカやインカでヨーロッパ人が何をしたかはここでは省きますが、金・銀・銅、貨幣の種類は違えど、「黒いお金」の目覚ましい拡大には、必ず戦争と流血を伴ってきたという事が言えます。

…〈経済〉と〈戦争〉は、同じ事象のうらおもて。キリスト教やら何やらは、惨めにも、この視点から見る限りでは、「黒いお金」のおまけ、「信念添加物」的な存在に過ぎなかったのでした…

ここで再び《物語》の始原に戻れば、黄金の魔力の基本は、ドラゴン王権伝説にあります。

物語的思考というのはだいたい「こじ付けと迷信と妄想」のタグイに入るものですが、『聖書』でサタン(=悪魔)を龍(=ドラゴン/リヴァイアサン)と表現している、その恐ろしいまでの物語的直観の一致に、驚かざるを得ません。

ドラゴンが守っていたのは、『指輪物語』に語られる魔性の黄金ではなかったか…それは、黒く輝く太陽に祝福されたモノであり、「黒いお金」の魔力の源であり、地上に掘り出されれば、人の世に無限の闘争と流血をもたらす「呪われし黄金の指輪」ではなかったか…

それは、人間の負の部分…〈闇の相〉と強く連結する性質を持っている。自分には霊的感覚はありませんが、それでも、金・銀・銅といった鉱物から召喚されてきた恐るべき魔力は、やはり、霊的磁気とでも言うような電気的磁気的な性質を持っているはずである…という、変な確信があります。

…「黒いお金」はさらに「黒いお金」を呼ぶ。さらに流血を呼ぶ。人間の血に入っているのは、鉄です。その鉄が、「黒いお金」に呼ばれて、新たな人間に新たな血を流させるのかも知れません。その魔力が紙幣の形で凝縮するのか、それとも金・銀・銅・レアメタルといった貴金属の形で凝縮するのかは、時代によって異なっていますが…

大部分、オカルト的な説明になっていますが…物語的には、真実であろうと考えています。日本某所にも、その「黒いお金を司る神」の祭祀場(と言うよりも霊的エネルギーのツボ?)があるそうです。先人がさすがにその禍々しさを察していたらしく、何百年もかけて複雑な呪術的結界を施して、厳重に封印しているという事ですが…さすがに「死の呪い」であるだけに、今でも自殺志願者が集中していますし、幽霊ホラー話がとてもたくさんです…(ヒント=なまよみの国。「なまよみ」=「半黄泉」です)

…例えば「黒い黄金」の呪いは、黄金仏像の呪いにすれば[こんなものでしょうか]…

…ものすごく怪談なお話なので、おくちなおしに、芸術的な内容の付記をば…^^;

《付記》…この方(=『世界という大きな書物』のブログ主さま)は詩人だなあと思います^^

http://twitter.com/mnnakajist/status/7408827361
〝一枚でもいい写真が撮れると、何かが成仏した気持ちになる。秋の日差しのなかに、そこでそれぞれに光を浴び、風に揺らいでいる草の葉や枝や穂たち。それらがどんな風に生きているのか、1/2秒程度の遅いシャッターなので、シャッターを押すまでにそれをじっくりと感じる。〟
http://twitter.com/mnnakajist/status/7408877529
〝そしてその美しさに触れ、満たされたわたし自身の秋も、いい写真が撮れると、成仏した気持ちになる。〟
http://twitter.com/mnnakajist/status/7408993593
〝主に光が透過している葉を撮るので、---その美しさ!---カブリが出て失敗することも多い。〟
http://twitter.com/mnnakajist/status/7409134836
〝写真を撮るとは、成仏させること。〟

ある種の写真作品はむしろ、《絵画=陰影の芸術》と言うよりは、音楽やポエジーのような、瞬間と瞬間の間を縫っていく《韻律の芸術》に似ているところがあるのかも知れません。例えば、音楽で言う長調と短調が、撮影者の手を通過して、ネガの陰影に転写されているとか…

「写真はエネルギー相の残像であり、残像はエネルギー相の記憶である(=なんちゃって箴言=)」…、「数学は魂の音楽であり、音楽は魂の数学である(作者不詳の箴言)」のもじりですが、いかがでしょうか…*^^*