忍者ブログ

制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

出雲から出土した遺物と神社配置についてのメモ

参考書籍『海と列島文化2日本海と出雲世界』小学館1991

*****

●出雲神宝事件(日本書紀、崇神天皇60年の条)

『日本書紀』巻第五

崇神天皇は群臣に詔して「武日照命(たけひなてるのみこと)、別名武夷鳥(たけひなとり)、あるいは天夷鳥(あめのひなどり)が天から持って来られたという神宝が出雲大神(いずもおおみかみ)の宮に収蔵してあるのだが、これを見たい」とおっしゃられた。

そこで、使者として、矢田部造の遠い祖先である武諸隅(たけもろすみ)、別の書には大母隅(おおもろすみ)と伝わっている武将を遣わして献上させた。

このとき、神宝を管理していたのは出雲臣の遠い祖先である出雲振根(いずものふるね)であったが、筑紫国へいっていて留守だったので、弟の飯入根(いいいりね)が(独断で)皇命をうけて弟の甘美韓日狭(うましからひさ)と息子の鸕濡渟(うかずくぬ)につけて、神宝を貢上してしまった。

筑紫から帰ってきた振根はこのことを聞いて、弟を責めた。

「数日待つべきであった。何を恐れてたやすく神宝を差し出したのか」

心の傷が癒えなかったのか、そのことを何年も根に持った振根は、弟を殺そうと思い立った。

「このごろ、止屋(やむや、現在の島根県出雲市今市町・大津町・塩谷町付近)の淵にあさざが生い茂っている。一緒に行って見て欲しい」

こう言って、弟を誘い出した。

淵のほとりに辿り着いて、兄は弟に言った。

「淵の水が清い。どうか一緒に水浴をしないか」

そう言って、弟を誘いだし、先に陸にあがって、弟の刀をあらかじめ作っておいた本物そっくりの自分の木刀とすり替えた。弟は驚いて兄の木刀を手にとったが、木刀を抜くことはできなかった。そして、振根は飯入根を斬り殺してしまった。

時の人はこの情景を以下のように和歌に詠んだ。

や雲立つ 出雲梟帥(いづもたける)が 佩ける大刀 黒葛(つづら)多(さは)巻き さ身無しに あはれ

飯入根の弟と子供は、このことを詳しく朝廷に訴えた。その結果、振根は天皇の遣わした将軍、吉備津彦(きびつひこ)と武渟川別(たけぬなかわけ)によって殺されてしまった。

その後、出雲臣はしばらく出雲大神を祭らぬままでいたが、丹波国氷上郡(現在の兵庫県丹波市氷上町あたり)の女性で氷香戸辺(ひかとべ)という人が、皇太子・活目尊(いくめのみこと、正しくは活目入彦五十狭矛尊(いくめいりびこいさち の みこと)に自分の幼子が歌っている歌を伝え、その結果、天皇は鏡を祭らせた、という。

この8年後に崇神天皇は崩御している。

『書紀』巻第六によると、(上記の出来事から34年後の)垂仁天皇26年には、天皇の命で大連の物部十千根(もののべ の とおちね)が、出雲に神宝の検校をしにいったと伝えられている。

●氷香戸辺の幼子が歌ったとされる歌

「玉菨鎮石(たまものしづし) 出雲人(いづもひとの)祭(いのりまつ)る 真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ) 押し羽振る 甘美御神(うましみかみ)、底宝(そこたから)御宝主(みたからぬし) 山河(やまがは)の水泳(みくく)る御魂(みたま) 静挂(しづか)かる甘美御神、底宝御宝主」

●出雲、命主神社から出土した物

・勾玉…越、糸魚川産。透明な緑色・大玉の品で、極めて希少な優品。出雲オオクニヌシが越ヌナカワヒメに求婚した件など、出雲と越の強いつながりを暗示させる。

・銅戈…筑紫の様式。出雲と筑紫の交流をうかがわせる。

●荒神谷遺跡(斐川町・神庭)

出土した物

・銅剣358本。出雲産。4列に整然と並べられて埋められていた。A列=34本、B列=111本、C列=120本、D列=93本

・銅矛16本。筑紫産。「中細形」2本、「中広形」14本。「中広形」のうち4本は、研ぎ分けによる綾杉紋がある。なお筑紫国では、弥生中期に刃部分が巨大化し始めた「細形」、弥生後期に巨大化した「広形」がある。

・銅鐸6個。近畿エリア産。

注目点…【銅剣が地下に埋納されている】草薙剣が熱田神宮で保管されている方式に通じる=剣を納めた箱を「二重に赤土にて包めり」

注目点…【荒神谷祭祀(~10世紀まで継続されていた?)】推測

島根大学理学部による「考古地磁気測定」データ※熱残留磁気。イタリアで古代土器を使って過去の地磁気の変化を研究したのが始まりで、遺跡・遺物の年代知る方法として発展。特に高熱、長期間にわたって土器を焼いた窯、古代の製鉄炉などで有効。ちょっと焚火をしただけでは熱残留磁気(赤土の中の鉄分が含む磁気)が残らないため。

荒神谷遺跡では、土器を焼いた窯や製鉄などの設備は無いので、本来は熱残留磁気が出て来る場所ではない
⇒しかし、出て来た。相当に長期間、高熱で何かを焼いていた証。多くの何かを焼いた証の焼土層、炭化物も多く観察された、と報告されている。

熱残留磁気の測定で得られる年代は、同一の地面が反復して熱せられたとすると、その最後の年代であると推定される。

荒神谷遺跡・銅剣の埋納エリアではAD950±100年、AD590±30年の二つの年代が示された。また、銅剣が埋納されていた斜面下エリアでは、AD1250±80年を示した。なお、別途、AD250±80年というデータも示された(※古い年代の焼土層が移動して堆積した?)

荒神谷遺跡では、場所によっては、60センチメートルにも達する焼土層が確認されている。一度の焚火の結果では無く、長年にわたって数多く反復された焚火の結果と考えられる。

荒神谷遺跡には祭祀場があり、火を使った祭祀が長年おこなわれていたと推定される。実際、荒神谷遺跡の存する地名が「神庭」となっており、聖地であり祭祀場であったことをうかがわせる。

荒神谷遺跡へ通ずる道は一本しかない。その入り口となる谷口に「神庭岩船山古墳」がある。現在はかなり傷んでいるが、もとは墳丘の長さ約58メートルの前方後円墳であり、出雲国では最大級の規模である。大きなくり抜き式の舟形古墳石棺(5世紀後半ごろ)。この石棺は大和スタイルではなく、丹後、讃岐、越、特に筑紫スタイルに多い。

*****データ他から考えられる事*****

荒神谷遺跡の祭祀場では、青銅器の埋納に際し、あるいは埋納後に、大規模に火を焚く儀式が定期的に繰り返されていたのではないか。

最も古い焼土層データ年代、AD250±80年とすると⇒荒神谷の祭祀場の火焚き神事がスタートしたのは、弥生時代~古墳時代ごろと考えられる。

最も新しい焼土層データ年代、AD950±100年、あるいはAD1250±80年とすると⇒荒神谷での謎の祭祀行為(火焚き神事)が終了したのは10世紀ごろ。今のところ該当する歴史記録は無いが、国家文献(大和朝廷による国家記録)に残されない類の、秘密の神事だった、という事も考えられる。

*****荒神谷(出雲)と、諏訪の関係*****

荒神谷遺跡の東、北、西に、遺跡をグルリと囲むようにして、タケミナカタ神を祀る諏訪系の神社が勧請されている。現在は五つの神社がある。

西から北、東へとグルリと回る形でいくと

「波迦(はか)神社」旧名称:『風土記』波如社(はねのやしろ)、祭神:神倭健尊、健部臣古禰尊、合 健御名方神

「波知(はち)神社」旧名称:『風土記』波禰社(はねのやしろ)、祭神:天津彦火瓊々杵尊 /式内社「天津彦彦火瓊瓊杵尊 配 伊弉諾尊、伊弉册尊、蛭兒命、天忍日命、 大己貴命、大年神、建御名方命」

「佐支多(さきた)神社(神庭岩船山古墳から西へ200~300メートルほどの場所)」健御名方命、八坂戸賣命※『風土記』、佐支多の社。元は「瀬崎田」、なまって「佐支多」に変わる

「諏訪神社」建御名方神 配 神功皇后、武内宿禰命 合 米原内兵衞綱廣

「諏訪神社」

「(諏訪神社元宮)」

南北朝時代の後に勧請されたもので、古代の事情とは無関係と思われるが、興味をそそられる位置関係。

タケミナカタは出雲の神の一人(水神系/竜神、蛇神の姿も持つ)で、出雲から大和への国譲りに際し、最後まで抵抗した神と伝えられている。

一時的ではあるが「諏訪へ逃亡した建御名方命が、再び帰還できる日に備えて権威の象徴であった祭器を埋めた。それを守るために子飼いの家臣(諏訪社)を密かに配置した」という現代バージョンの新しい説話が出現していた。荒神谷遺跡の銅剣・銅矛の多さが、当時としては如何に衝撃的であったかが、うかがえるエピソード。

*****

タケミナカタ神:父が出雲国のオオクニヌシ、母が越国のヌナカワヒメ。「ミナカタ」は「水潟」に通ずるとされる。水神系。現在は諏訪国の神。諏訪神、諏訪明神、諏訪大明神とも。

(ウィキペディアより適宜、編集)

『古事記』、葦原中国平定(国譲り)

天照大御神・高御産巣日神(タカミムスビ)らによって派遣された建御雷神(タケミカヅチ)と天鳥船神(アメノトリフネ)が大国主神に葦原中国の国譲りを迫る。

大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾して隠れると、大国主神は次に建御名方神(タケミナカタ)が答えると言った。

タケミナカタは千引の石(千人もの大勢の力を必要とするような巨大な岩)を手先で差し上げながら現れ、タケミカヅチに力競べを申し出た。そしてタケミカヅチの手を掴むと、タケミカヅチの手は氷や剣に変化した。タケミナカタがこれを恐れて下がると、タケミカヅチはタケミナカタの手を若葦のように握りつぶして、放り投げた(=古代の神事相撲を象徴したものとする説がある)。

タケミナカタは逃げ出したが、タケミカヅチがこれを追い、ついに科野国の州羽海(すわのうみ)まで追いつめてタケミナカタを殺そうとした。その時に、タケミナカタはその地から出ない旨と、大国主神・事代主神に背かない旨、葦原中国を天津神の御子に奉る旨を約束した。

※『日本書紀』ではタケミナカタが登場せず、大己貴神(大国主)は事代主神の意向を聞いた後に国譲りを承諾する。ここでは高皇産霊尊(タカミムスビ)に遣わされた神々は武甕槌神(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシ)

※『先代旧事本紀』「天神本紀」では『古事記』と『日本書紀』の記述が組み合わされている。使者は『書紀』と同様に武甕槌神(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシ)

●歴史上の出雲国の海岸線の変化

弥生時代の海岸線:まだ出雲鉄の生産が小規模にとどまっていた頃、宍道湖は海だった。

奈良時代、現代の海岸線:出雲鉄の生産が盛んになり土砂流出が激化。海岸線が見る見るうちに埋まった。

PR

イラスト:姫君と女官

◆カラーイラスト:明日香姫と峰

明日香姫は、やんごとなき血筋を引く都の大貴族・京極大納言家の姫君と言う設定です。由緒正しい、本物の姫君です。斎王として斎宮に勤めている内親王・朝ノ君の血縁(=詳しく言うと、朝ノ君の姉の孫に当たる。この辺りは血縁関係が入り組んでくるので、設定を覚えていられるかどうか、ちょっと自信ナシ・汗)

明日香姫は、朝ノ君の系統の面差しを受け継いでおり、なおかつ「目の覚めるような絶世の美人」という設定です(=今の花洛帝の系統の顔立ちに比べると、ずっと繊細で華やかな顔立ちになります…、という設定になります。ちなみに明日香姫の父親も、若い頃は、華のある美青年だったのです=ずっと後で出てくる予定)

峰さんは明日香姫の侍女。生まれた時から明日香姫と一緒に育っています。峰さんの父親は、京極大納言家に勤める中流貴族であります(多分、お屋敷の家司か、京極大納言の秘書の一人として勤めている。家司というのは、今で言う執事に当たります…、だそうです)

明日香姫は目下、父親の決めた縁談に反発して、都のお屋敷を家出しています。峰さんは、明日香姫の意思と行動力に驚き呆れつつも、勢いに引きずられて一緒についていった…という感じになります。明日香姫の誘拐未遂事件では、声音に騙されて誘拐犯を手引きするなどウッカリした面がありましたが、物慣れない環境でも上手に適応して、柚羅と瀬都を女童として使いこなしつつ明日香姫をフォローしている辺り、優秀な女官としての片鱗を見せています

(明日香姫と比べると大人しいですが、峰さんも、なかなかの美人なのです)

縁談を持ち込まれるような年齢…というところから分かるように、彼女たちは十代の女の子です。今の高校生(或いは大学受験生)くらい。現代バージョンで遊ぶ時に、それっぽい洋服など着せてみても良いかも知れません(笑)

私製詩歌「青嵐」

せり上がる 日輪の軌道
鈴の音(ね)さざめき 鳴り渡る……

温(ぬく)める海より 風が起これば
桜の花が 散り落ちぬ

ああ 名残の春よ 日影まばゆし

舞い散る花も 野辺の蝶も 霊(たま)ひるがえり あおい空を かき乱す――

亡き人と 行き逢う時空(にわ)に ときが巡る
何よりも 近くて遠い 夢(よみ)の国
青嵐激(しげ)く 吹き敷くところ

目くらめく 五月(さつき)の陽光(ひかり)の しろさ まばゆさ
燃えるような 躑躅(つつじ)のにおい
切なく寂しく ほろびゆく……われは

白い雲は 雄々しく形を成し
海をすさぶ魚群(なのむれ)のごとく
八重波山を おし渡る