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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

過去の妙な光景

ずっと昔に、妙な光景を見たことがあったのを思い出しました。

ずっと昔、まだブログを開設していなかった頃なので記憶がおぼろですが、すごく変な光景を見たことがありました。

夜に起きたり眠ったりしていたときに見た光景なので、現実の出来事なのか夢の出来事なのか全然分からないのですが、「すごくリアル」だったので、自分の中では「現実」という風に判断しています。

母の隣で寝ていた頃の記憶(?)で、年齢感覚的にも「うーむ…」という状態ですが…

・・・いつものように布団に入ってスヤスヤ寝ていたところ、窓が急に明るくなったので、「早すぎるけど、もう朝かな?」と思って起きたのでありました。

寝ぼけ眼で「朝だなー」と思って、窓に近寄って外を眺めた後、時間を確かめようと思って壁掛け時計を見たところ…、その時計の指している時刻がすごく変なことに気が付きました。

真夜中の1時45分。

その時はまだ寝呆けていて、不自然な事態に気付くまで、時間がかかりました…

事態がやっと理解出来て、余りにもありえない出来事に慌ててしまいまして、横で寝入っていた両親を叩き起こし…「真夜中なのに朝になってるのは変だ」というようなことを訴えておりました。

両親は少しの間ムニャムニャと言っていましたが、やっと起き上がり、「朝だねえ」と言いながらカーテンを開けたり、いつもの習慣的動作…何度も「変じゃないか」と言い続けていたところ、両親もやっと奇妙な事態に気が付いてくれたようなのですが…

「よくある事だから、また寝なさい」と言われてしまいました…(ニガワライ)。そして両親は、また早々と寝入ってしまいました…(時間的には深夜だから?)

でも、日本の緯度からして、「この事態が、頻繁にある筈が無い」のです…

その後も頑張って、「やっぱり変だ」と思いつつ、この事態をじーっと観察&思案しておりましたが、結局、謎が解けませんでした。

「時間的には深夜」というのは確からしく、町内はとても静かで、明け方にいつも見かける隣人が居ませんでした。しかし、お日様はちゃんと目の前で照っているし、夜明けの太陽の光がバッチリ部屋に差し込んでいるし…という状態で、段々混乱してきたのであります…(まだ子供だったせいもあるかも知れませんが、そんなに長い時間、論理的に考える力が無かった…)。

時計が真夜中の2時10分を指した頃、考えるのを諦めて寝た…という風に覚えております

今でも、「すごく謎めいた記憶」として残っております。

「これは現実であった」という身体感覚はちゃんとあるものの、余りにも荒唐無稽なお話なので、カテゴリとしては「浅き夢見し」に入れました…

幾ら何でも、日本列島の中で真夜中に太陽が照っている筈は無いので、「実はあの太陽は、本物の太陽じゃなくて、得体の知れないUFOなのか?」という仮説も無きにしも非ずですが…

※サイズがとっても巨大で、明け方の光と同じように、金色と薔薇色が混ざった光を出しているUFOじゃ無いと、説明がつかない…というのが苦しいところです

ちなみに、この奇妙な目撃は今までに3回しております(…だと思うけれども、変な話だということもあるし、余り自信が無い…)。「状況としてはすごく変だけど、良くある事態」なのかなと思い始めたりしているのであります…(アセアセ)

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天才とは何か・考2

【先駆者タイプの天才キャラ表現】

「先を行ってる」天才タイプのイメージ表現について。

「自分はこうしていた」という参考事例。

当方の作品『花の影を慕いて』に出て来る登場人物「ゴールドベリの巫女」が、この「先を行ってる天才」パターンのキャラクターでした。

作品の中で、「ゴールドベリの巫女」は、自身が直感し、認識し理解した内容を、そのままストレートには語っていません。謎々ゲームのような、暗示的かつ詩的な言葉で語るという行動を取っています。

ひとまず作者として、「何故このように表現したのか?」という理由を語る事は、できます。

先駆的な認識(ヴィジョン)や内容というのは、それに対応する「普通の表現」が存在しないのです。

だから、その人自身で「それ」をちゃんと認識していたとしても、「それ」を、「普通の表現」でもって、他人に分かるように説明するのが、不可能なのであります。

※此処で言う「普通の表現」とは、一般的に分かりやすいとされる定型的な表現や、世間のコミュニケーションの中で普通に使われている、お喋り用の表現の事です。

まして、今まで出会った事の無いようなヴィジョンや概念となると、それにふさわしい新しい言葉を作る必要が出て来ます。しかし、他人は、新しい造語を、すぐに正確に理解してくれる訳ではありません。

他人に分かるように説明しようとする時、シッカリと訓練された比喩や抽象といった言語能力が、間違いなく必要です。翻訳能力とも言いますか。

――くだんの天才「ゴールドベリの巫女」のヴィジョンは、あまりに先駆的な内容だった。ずっと将来の学問的発展を待たないと理解できないようなレベルの、非常に高度な概念を含んでいた。ゆえに、身辺に、適切な表現が見当たらなかった。

できるだけ正確を期すため、「ゴールドベリの巫女」は比喩や抽象の限りを尽くして、そのヴィジョンを言語化し翻訳したが、その結果、暗示的かつ詩的な言葉で意味深に語る……という形になった。

以上、「何故このように表現したのか?」説明させて頂きました。

実際、正確な伝達というのは難しいです。

特に交渉の場では、こちらの言いたい事が相手にちゃんと伝わっているかどうか(相手が、ちゃんと認識したかどうか)、その都度、確認する必要が出て来ます。

中世ヨーロッパの「リベラル・アーツ」において、何故に文法、修辞学、弁証論(論理学)から成る初級の3科が必須とされたのか……その理由が、そこにある訳です。

(我が国では、まとめて「国語/現代文」と呼びならわしている領域になるでしょうか)

なお、中世ヨーロッパ各国の言語はまだまだ発展途上であり、高度な概念に対応できる言葉や表現が非常に限られている状態でした。高等学問に使える言語は、およそラテン語やアラビア語のみだったという事情もあるかと思われます。

「他人に分かるように語るのは難しい」というのは、新しいストーリーやアイデアを思い付いた作家さん、日ごろから身に染みて実感している事と思われます。

常人にとっては(おそらく天才にとっても)、基本的に苦労させられるプロセスであります……と、思います。

詩歌鑑賞:千家元麿「朝」

「朝」

朝、
清淨な火の風はよろづのものゝ上に吹き渡り
人も木も鳥も凡てのものが皆默つて戰きを感じる
非常な靜かさが空の頂天から地の底まで感じられる
棒のやうに横ふ雲も隅の方にかたづけられて
空にはあちらこちらで
白熱した星がくるくると廻轉し乍ら
すばらしい速力でかけて行く
然うして 消えるものは消えて行き
天の一方がにはかに爆發して
血管が破れたやうに空に光りが潮して來る。
自ら歡喜が人の身に生じる。
にはかに一齊のものに暖い活氣が生じて來る
かゝる時初めて見上げた空の感じは忘られない
人は空の頂天から地の底まで。
火の通じてゐるのを感じる。