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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

私製詩歌「神無月叙情」

秋風は もみずる袖をひるがえし
梢に 陽差し斜めなり

澄み明らかなり 青き空
雲無き真昼の青空よ
果てなき空のわだつみよ

紺碧の 遥けき天(あめ)の彼方より
光は黄金(きん)と零(こぼ)れ落ち
木の葉と共に舞い降りる

…いよいよ冷たく冴ゆる季節(とき)…
白き風なり 白き風!
誰が袖ふれし 風の色!

冬近き 緑は黄金(きん)を照り返し
さらさらさやぎ しきりに揺すれ

…たまゆらの あやしき歌を 織り成しぬ…

冬を貫く 常盤(ときわ)の緑
寂静の緑の焔の 不動の悲しみ

重き荷を背負いて 傷ついて
それでも見上ぐ 《無限》の底を

…紺碧の空に白き風神…

秋風は もみずる袖をひるがえし
木の葉に 陽差し斜めなり

梢の先に 風が鳴る 風が鳴る――

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中世・伊勢熊野の海賊の研究・後篇

研究に使用したテキスト
『海と列島文化』―第8巻―「伊勢と熊野の海」/1992小学館
要約抜粋&保存の部分の著者=稲本紀昭

【伊勢・志摩の交通と交易】

続・海の南北朝=要約=泊浦をめぐる諸勢力の角逐

鎌倉幕府の崩壊は、同時に伊勢志摩の秩序の崩壊をもたらし、諸勢力の紛争が一挙に表面化した。これら諸勢力の中で、もっとも活発に活動したのが熊野海賊であった。伊勢志摩には熊野出身という伝承を持った多くの領主がいるが、彼らが伊勢志摩に勢力を拡大したのはこの頃のことであった。

泊浦には鎌倉幕府の守護所が置かれていたが、はやくも元弘2年=正慶元年(1332)、大塔宮の令旨を帯びて熊野より伊勢に来襲し、守護代宿所を焼き払った竹原八郎入道(=熊野海賊)の例がある。他にも鳥羽九鬼氏、鳥羽小浜氏、五ヶ所浦の愛洲氏などが居た。

『伊勢泊浦具書 一巻』の記録に、〝建武元年(1334)の前年7月、「阿曾宮(=懐良かねよし親王か)」から恩賞の令旨を得たと称し、「加津良嶋大夫房」なる者が泊浦に乱入し狼藉を働いた〟という事件が言及されている。熊野海賊ではないが、情勢変化に敏感に反応して行動を起こしたことが注目される。

◆補足=「加津良嶋大夫房」を動かすほどの、中世日本の情報網の発達が興味深い。熊野御師の活動は全国レベルであり、全国の情報が伊勢熊野エリアに集まってきたことを推測させるものである。また、布教活動と商業活動を同時並行で行なう新興宗教団体の信者ネットワークが出現し始めていることが報告されている。この頃から忍者の活躍も広がっていた筈=

建武元年10月、「大里住人与一五郎兄弟三人、江向住人兵衛三郎、竹内兵衛入道、大門左衛門次郎、井留賀右近允父子、蔵人父子」以下が、「有間以下所々悪党」を語らい乱入し、抵抗すれば放火すると威嚇して年貢を奪い取り、そのまま江向を占領するという事件が生じた。

◆補足=井留賀氏は、現在の南牟婁郡紀和町入鹿と関係があるらしい。入鹿地方は鉱山として有名であり、鉱山を通じて熊野神社と関係が深い。入鹿には、南北朝期に入鹿氏が来てここを支配した、という伝承があるが、その名前からすると、本来は海民であった可能性が強く、熊野海賊の一員であったと思われる=

暦応元年=延元3年(1338)、泊浦は再び悪党に襲われる。この年9月、北朝方の伊勢守護・高師秋(こう・もろあき)は神山(こうやま・松阪市)、立利(たてり)縄手の戦いで敗退し、南伊勢は、ほぼ南朝方に制圧される事となった。

この頃、南朝方のVIPであった北畠親房は、関東経略のため、義良(のりよし)親王らを奉じて、山田下市庭の権宮掌黒法師太郎家助らの協力によって、大湊を出航している。北畠親房の行動とシンクロしたかのように、泊浦に乱入していた悪党の働きは、北畠ら南朝方の戦略の一環であった可能性が強い。

翌年、悪党(=熊野海賊)らは江向を「警固料所」として給与されたと称し、占領した。北朝方・室町幕府は守護を通じて退去を命じたが、南朝方と結んでいた悪党らは、「合戦に及ばん」とするなど抵抗し、伊勢志摩の軍事制海権に執着したため、事態の打開には数年かかってしまった。

泊浦が、南朝勢力の拠点であった大湊と並んで、伊勢・三河湾を押さえる軍事的要衝であった事を考えると、彼ら悪党の行動が、単純な略奪を目的とするような一時的なものではなかったことが理解されよう。

◆補足=当時の紀伊半島沿岸航路は、南朝方の支配を実現していた。悪党らは南朝方の一員として動いていたが、悪党ら自身の事情もあった。このあたりは各々の利益計算が働いていたものと思われる=

泊浦を占領した勢力は、当地の在地領主、三河湾を掌握した海の領主、熊野海賊の諸勢力からなり、その目的は、紀伊半島から志摩国にかけての航路の掌握にあったといえるのである。

続・海の南北朝=要約=九鬼氏の進出

その後、泊浦は一転して北朝・室町幕府方の勢力下に入り、しばしば、南北両軍の戦場となった。

在家は荒廃し、貞治5年(1366)、泊浦御厨下司越中守重朝は、「泊浦軍勢、確執」のため御贄の名吉(=鯔)、シダタミ(=きさご貝)などを減らさざるを得なかったと内宮に報じており、特に九鬼氏を名指しして、江向当給主と称して九鬼氏が御贄を抑留していると述べている。

九鬼氏が、北条氏崩壊のあとに勢力を伸ばし、泊浦に定着したという事が読み取れるエピソードである。

【追記】戦国時代の伊勢・志摩エリアの変遷=織田信長-第一次伊勢攻めについての資料
※個人運営の歴史研究サイト『織田信長-下天-夢紀行』より(アニメ有・表紙は重い感じ)
フレーム有=http://tenkafubu.fc2web.com/isezeme/html/eiroku10.htm
フレーム無=http://tenkafubu.fc2web.com/isezeme/html/eiroku10-02.htm

中世・伊勢熊野の海賊の研究・前篇

研究に使用したテキスト
『海と列島文化』―第8巻―「伊勢と熊野の海」/1992小学館
要約抜粋&保存の部分の著者=稲本紀昭

【伊勢・志摩の交通と交易】

(一)関東渡海船=要約=関東との交易品は何であったか=

伊勢湾随一の良港・泊浦(とまりうら)では、関東(=鎌倉幕府)との交易に従事し、富を蓄積する者が多かったのではないかと思われている。

◆補足=泊浦(とまりうら)は、現在の鳥羽港エリア。天然の良港として有名=

元弘元年(1331)、泊浦小里住人犬法師太郎は、「銭主」として同地住人紀内の船を雇い、東国との交易に投資したが、あいにく帰航時、三河国高松(愛知県渥美郡赤羽根町)沖で、悪止住人虎王次郎船と衝突し、沈没した。この船にはその利益31貫文が積まれていたという(光明寺古文書)。

このエピソードは、関東出立船の多さを推測させるものである。

近年の「中世都市・鎌倉」の発掘によって、多くの優れた輸入陶磁器などが鎌倉に運び込まれていた事が明らかになった。こうした、いわゆる唐物と呼ばれる輸入品は、その多くを関東渡海船によって運ばれたものと推測される。泊浦の裕福な一族の財産は、こうした唐物の売買によって築かれたのではなかろうか。

ちなみに、『氏経神事記』文明2年(1470)正月2日の条の記事によれば、ある富裕家の息子は、宇治の住人7人と博打をして銭2000貫文負け、その取立てを巡って、山田と宇治の対立にまで発展し、そのため内宮への参宮人がストップしたという。

これなどは博打上の金額とは言え、当時の関東廻船業界の富の莫大さを物語るものであり、内宮が、たとえば伊雑浦に漂着した難破船の積荷を数千貫と見積もって、その折半を在地領主に強硬に要求したと言うエピソードも、うなづけるものであると言う。

(二)海の南北朝=要約=熊野海賊の志摩進出=

永承4年(1049)、斎宮寮寮頭平雅康が、外宮領伊志賀所所見御厨を斎宮寮領麻生浦内と称して押領し、訴えられたケースがある。漁場の境界線(縄張り)の争いであったと考えられている。

建仁3年(1203)、麻生浦住人壱志守房が、麻生浦に漂着した塩木を積んだ相佐須(鳥羽市・相差オウサツ)住人の船=国崎神戸船を借船したもの=を積荷と共に盗み取ったほか、国崎神戸船の奪取、神戸内の山木の伐採、神人の凌轢、海路・陸路の通行妨害などと多岐にわたって、国崎神戸から訴えられている(太神宮諸雑事記)。

塩木という有力商品の供給地支配、輸送、航路、港の支配、難破船の帰属など、こののち、問題となる殆どすべての問題がこの紛争に凝縮されていると言ってよい。鎌倉末期には海産物の商品化が進み、交易も活発となり、漁業・航路をめぐる争いがより広域的なものになるのは、当然でもあろう。

文永5年(1268)、国崎神戸神人は、「国崎神戸狼藉人注文」を神宮に提出している。狼藉の内容は不明だが、権益の支配の紛争に関わるものであったらしい。

本注文 国崎神戸狼藉人注文
一人太郎検校国貞 一人同子息宮石次郎(不知実名)
一人太郎大夫末弘 一人石熊大夫末宗
一人毘沙検校家次 一人石王次郎検校重弘
一人小井太郎検校(不知実名) 一人三郎検校(不知実名)
一人宗五郎検校家高 一人房太郎検校
一人与一為弘 一人得石検校(不知実名)
一人左近将監国沢 一人伊良胡大夫文貞
・・・・・・・・・・右注文如件 文永五年四月 日

および

今度狼藉張本
一人三郎検校子息利王四郎(不知実名)
一人宗五郎検校家高之子息(不知実名)
一人預次郎(不知実名)
一人千熊次郎(不知実名)

これらの狼藉人の数々は、熊野海賊の志摩進出の先触れであると言える。彼らの狼藉行為の背景には、航路・寄港地の確保という、交易にとって必要不可欠の問題があったと思われる。

鎌倉時代、東国における熊野御師の活動はめざましく、道者も多数にのぼっており、そのなかには金窪、安東といった得宗御内人の名も見られる。熊野社領も三河国竹谷・蒲形(愛知県蒲郡市)、駿河国足洗荘(静岡市足洗)、武蔵国豊島郷(東京都)、上総国畔蒜荘(千葉県君津市)、下総国匝差南荘(千葉県匝瑳郡野栄町・同郡光町)などがあり、これら社領支配にとっても関東航路の比重は高まりつつあった。

推定・弘安元年(1278)7月、「熊野凶徒」が伊雑浦深く伊浜まで侵入し、住民の防戦によって一時退却したものの、翌日再び来襲し、伊雑宮鎮座地上村をうかがう気配を見せ、「今之暴逆、かつて比類無」しと住民に言わせる事件が勃発した(神宮文庫文書)。

住人たちは内宮に急を告げ、内宮はただちに守護代の出動を要請している。熊野海賊は以前にも名切、阿曾、鵜方、二見郷に来襲した事があるが、それは、反平氏方としての軍事行動といった性格が強いものであったのに対し、この時は、志摩半島の天然の良港・伊雑浦の掌握にその目的があったのではないかと思われる。この事件の結末は不明であるが、その後、この海域は俄然騒がしくなった。

連続して熊野海賊・守護代(=北条氏の有力一門であった金沢氏)双方の乱暴狼藉が続いていたが、これには、伊勢・熊野の航路をめぐる争いがあったと推測されている。

網野善彦氏が指摘しているように、鎮西(九州)―瀬戸内―紀伊―鎌倉の海上航路を確保する事は、鎌倉幕府を掌握していた北条氏一門にとっては、重要な意味を持っていた(※泊浦に鎌倉幕府の守護所が置かれていた。南北朝には「守護代」の城が置かれた)。

この時期、鎌倉幕府は、伊予守護河野氏に西海における熊野海賊の誅伐を命じているが、伊勢志摩海域においては、神宮神人、供御人、島々の海民、在地領主、熊野海賊、金沢氏と、諸勢力が、航路・港・漁場をめぐって相争う場となっていたのが現実であった。