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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

インドネシアの印象など

昨日、お知り合いの1人が、インドネシア(=余り聞いた事の無い国=)から帰ってきたので、「これ幸い☆」と、土産話など期待して、お話を聞きに行きました。

その人は、お仕事で行っていたので、その分、観光パンフレットとは異なるお話が聞けるのでは無かろうかと思いまして…^^;

往復共に、成田空港にアクセス。航空会社は、「ガルーダ・インドネシア航空」というところだったそうです。会社の名前を間違って覚えていなければ良いのですが…(自分の場合は、海外の経験が…ムニャムニャ)^^;

「インドネシアってどんな所だった?」

「…すごく暑かった(疲れた顔)」

…聞けば、帰国して、帰宅して、シャワー&風呂を済ませたなり「バタンきゅう」と眠りこけたそうな。…うーむ。インドネシアは常夏の熱帯(亜熱帯?)だそうで、気温差はこたえますね(同情)。

宿泊したホテルは「SANTIKA-PREMIER-JAKARTA/サンティカ・プレミア・ジャカルタ」ってお名前だったそうなんですが、チンプンカンプン…(「サンティカ」ってどういう意味だろうと思案していました。あとで調べてみましたが、サンスクリット語で「心の中の平安」だそうですね☆)…^^;

えーと。その人いわく。

ホテル周りの治安事情が安定しておらず、ホテル側でも、ホテルから出ずに一切の用事を済ませられるように手配してくれたそうです。長引く経済危機の余波なのかなあ、ホテル周りの街はスラム街になっていて、異臭(=死臭とか腐敗臭とか貧困生活臭とか=)がきつくて、近づきにくい印象だったらしいです。

更にその人いわく、「非常に驚愕し、非常に困ったのは…orz」

…やはり水問題だったとのこと。

上水道と下水道の接続インフラが混乱していたらしくて、水道に下水が混ざっているので、水道を飲むことは論外だし(伝染病のリスクを考えると、命懸けのチャレンジになる・汗)、水そのものの異臭からして、お風呂に使うのも考えてしまう…という環境だったそうなのです。

…聞いていて、鳥肌が立ちました。汗をかく熱帯の国で、これは無いわッ…^^;;;;;

遠目に…ではあるけど、貧困問題の深刻さをシミジミと実感したそうな…(スラム化問題とか)

インドネシア通貨は「ルピア」。でも、予算額は全部インドネシアで使いきったので、手元にはインドネシアのお金は残ってないとの事。そういえば、インドネシアは「インドネシア通貨危機」っていうのを経験していたような…

その人は、更に、「アメリカに仕事で行ったときの残りの20ドル札を数枚持っているんだが、何でドルがあんなに暴落するのかね。帰国する前の1日か2日間の間に暴落しちゃったし、その後もドンドン下がっちゃうし、円に換えようとしても換えられんぢゃ無いか!」と、プリプリして、のたまわれたのでありました。

えーと。脱線しました。

これは文化面の印象と言って良いのかどうか、インドネシアはイスラムの国なんですね。なので、夜中にいきなり「コーラン」の祈りの詠唱が始まったりして、夜はなかなか眠れなかったと言ってました。

(建物の防音性とか、スピーカー品質とかの問題なのかなあ。心臓に悪い環境だったらしい)

………イスラム教って、夜中にも起きて祈るんですね。知らなかったです。

うーむ。帰国して、いきなり「バタンきゅう」といったのは、これが原因?(と、想像)

大体、こんな感じのお話でした。

日本でも貧富の差が拡大しつつあるようですが、インドネシアの貧富の差は非常に大きくて、その落差が絶望的で、愕然とする、といったような印象だったようです。

水道などの技術的分野での社会インフラは、「政治とカネ」のパワーで解決できる数少ない問題のひとつですし、まあ、それなりに、インドネシアの事情に合う方向で解決が進んでいったら良いなと思います。経済危機のさなか、なかなかそういうのも、ムツカシイかも知れませんが…

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深森イラスト習作

これまでにお勉強した装束の知識を元に、制作委員会でアレコレ衣装を組み立てており、今回はエントリのタイミングが遅くなりました(知らない事ばかりだったので、1日がかりでした・汗)

看板キャラに色々着せてみた習作(=ちょっと自信のある力作=)を、3つ公開です。イラスト担当いわく、描いてみないと分からないことも色々あるし、描いてみてからの方が気が付くことが多かったと言う事で、習作を公開です。

★第1の習作は、有名な架空の人物キャラ風。

毛が無かったり(=禿げているわけでは無い=)、ピースしていたりするのはご愛敬。うむ。束帯に似てるけど、これは布袴(ほうこ)ですね。

※「笏」の漢字が間違ってるッ…^^;;;;;;;;;;;;;

…それにしても、至高の冠をしげしげと観察してみて、大人しくて目立ちたがりでは無い普通の男性の場合、至高の地位と言うのは、結構ゴウモンに近かったのでは無かろうか…と、想像してしまったのでありました…^^;;

★第2の習作は、若い女性に見立てて細長を描いてみたもの。

ウサちゃんなのは「ウサギ年」という事で、ご愛敬。

イラスト担当いわく、「細長って本当に細長かったのね」との弁。着物の帯として、細長の帯を締めるということが、普通に行なわれていた筈、と想像。この時代には珍しく、スッキリした雰囲気の装束だったのでは無かろうか…

これはイラスト担当氏の考察なのですが、細長というのは、おそらく、宮廷出仕の可能性があろう若い女性向けに、裳唐衣(=十二単=)スタイルの練習バージョンとして活用されていたんではあるまいか…

と言うのは、裳の扱いというのは、実際はかなり大変らしいのです。

イラスト担当氏いわく、自分では裳を着用した事が無いので、バスタオルを腰に結び付けて、ある程度立ち回ってみた結果という事で…(=大きなタイプのバスタオルは、幅も長さもあるので、裳に見立てることが出来る=)

立ち居振る舞いで、正式の長袴と一緒に、長い長い裳をさばくのは、かなり大変だった筈。相当練習しないと、いざと言うときに優雅にさばけないし、クルリと方向転換したときに裳を踏みつけて転んだりする可能性があるらしい…^^;;;

※実際に、自分も、裳に見立てた掛け布団(薄物)でこけて、青あざを作ったというのがあるので、一応リアルな可能性ではあるのですね。でもお蔭サマで、裳が実際にどのようにさばかれていたのか?を想像出来たような。これは後の物語の場面で、美しい姫君と一緒に、ドラマチックに演出してみたいと思います。

御所が火事になった時などは、家財道具を抱いて逃げるのも一苦労だったのでは無かろうか…と、昔の女性に同情してしまいました。

★第3の習作は十二単で、かぐや姫サマ風。

紅の表着に、「萌黄の匂い」風の五衣に、赤い単に、紫の袴と、ブルーのパターン模様っぽいのを入れた裳(唐衣はイラスト習作の都合上、省略。この感じだと多分、紫か白の唐衣が合いそうです)。

紅(赤系統のカラー)が入ると華やかになる、と言うのがよく理解できた…とイラスト担当氏の弁。

能衣装のジャンルで、うら若い女性を表現する場合は「紅入り(いろいり)」の衣装を使う、年のいった女性を表現する場合は「紅無し(いろなし)」の衣装を使う…というのがあって、赤系統カラーの有無が、役柄の演出方法を選ぶ上で重要な区別になっているそうですが、このたびの習作で、「なるほど」と納得したものでありました…^^;

昔は、「赤(紅)=色」というくらい、濃い赤系統の色は目立つものであったらしいです。

紅の色に関わる詩歌と言えば、万葉集の歌が連想されます*^^*

  • 春の苑-紅にほふ-桃の花-下照る道に-出で立つ乙女・・・(万葉集19巻4139-大伴家持)
  • 物思(も)はず-道行く行くも-青山を-ふりさけ見れば-つつじ花-匂え娘子(をとめ)-桜花-栄え娘子-汝れをぞも-我に寄すといふ-我をもぞ-汝れに寄すといふ-荒山も-人し寄すれば-寄そるとぞいふ-汝が心ゆめ・・・(万葉集13巻3309-柿本人麻呂)

資料メモ:密教の呪術

密教の呪術、その理論と哲学/空海が生涯をかけて目指した秘密瑜伽とは何か

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58796

人工知能やロボットなど科学技術など目覚ましい発展は、産業革命、イノベーションの時間的なサイクルをますます短くさせている。

そうした時代にも、古来より存在する人間の祈り、そしてその力が何らかの作用を及ぼす祈念、そして呪術は、夢幻、つまりは単なる空想の産物ではなく、世界の至る所で連綿と生き続け、存在している。

これは、一つの事実である。

空海が1200百年前に日本に招来した真言密教は特に、その力を大観、遵奉しながら秘密裏に師資相承され現在もその力は生き続けている。

祈りが憎悪に向かえば対象に悪影響を及ぼし、慈愛に向かえば病魔を追い払うといった、理屈や科学では説明できないことは、太古の昔から現在も変わらず生じている。

密教の祈り、例えば、祈念について、その理論の概略は、大いなるものと祈念者が同化することで、祈念者が人智を超えたエネルギ―を操ることが可能になるというものである。

私は、弘法大師空海が開いた真言密教の沙門である。

沙門というのは僧侶のことだが真言密教では僧侶のことを密教行者と呼ぶ。それは、顕教と密教の違いに由来する。

密教は心の状態や、その価値観といった段階を細分化し、最終段階は大日如来のレベルに到達する即身成仏をとなることを目的とする。

また、曼荼羅的な思想が中心で暗示的伝達、つまり言語などの表現に頼らない感覚的な共有により師資相承、その秘法が伝えられてきた。

*****

真言密教は、元は中国の皇帝が帰依した正統なる密教を源流としているゆえに純密といい、同じ仏教でも、真言密教以外は顕教とし一線を画している。

現代社会では、先述したように最先端技術や学問が進歩しているが世界規模で宗教を見てみると2500年前の釈尊、2020年前のイエス・キリスト、1400年前のマホメットなど古代の教えが、いまだに信じられている。

経典やバイブル、コーランなどに書かれていることが、現代の生活に合致していなくとも、科学的に矛盾していることが解明されていても、宗教は最先端科学のような、革新的な変化に歩調を合わせるように、変革を遂げることもなく、いまだに多くの人々が、古(いにしえ)から続く教えを守り続けている。

そして、いまだに信仰する誰もが、釈尊やキリスト、マホメットのようなレベルで悟ったり、信じることで悩みがなくなるといったこともなく、多くの人々は悩みや苦しみにとらわれ、往々にして、その生涯を閉じることになる。

宗教や哲学が、人を一気にかつての宗教の始祖たちのような深い覚りの世界へといざなう教えが出現しない中、昨今、周囲を見まわせば、特に伝統宗教などにおいて、宗教離れが加速している。

「墓じまい」という言葉も最近ではよく耳にする。わずか10年前には聞かれなかった言葉であり、現象である。

昨年度の日本の出生率はさらに低下し、新生児は90万人を下回った。

現在、高齢者で支えられているといっても過言ではない檀家寺は近い将来、消滅する恐れが高いことも予想され、真言宗やそれ以外の伝統宗教は、観光寺を除き、そう遠くない将来、壊滅的な状況になると私も危機感を抱いている。

空海の請来した高野山真言宗において、喫緊の課題はかつてがそうであったように、宗教が実際に人を救える力を取り戻すことである。

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真言密教には「事」と「理」があり「事」は行の実践、「理」は教学、つまりどのようにして人が救われるのかといった原理を解説したものを指す。

密教の核心ともいえるものは行の実践、つまり、祈ることで悪い状況から良い方向へといざなう祈り「事」であり、密教が復活するためには、かつて、始祖が、そうしたように人々を救える力を取り戻すことが急務といえる。

私が高野山大学の学生だった頃、真言宗では、まだ、加持祈祷といった人を救える力のある祈りは確かに生きていた。人を救える祈り、夢や希望を実現する祈りは、他の宗教を凌駕する密教のアドバンテージといえる。

キリスト教やイスラム教、他の仏教など、他の宗教は一般的に、祈願者が神に救いを求め救済を期待する構図である傾向がある。

つまり、神や仏の力で現在の状況からの救済を求める、といった「他力」によるものといえる。

だが、真言密教の考え方としては加持祈祷により派生する神秘の力を祈念者である真言行者がまとい、その力を操ることによって祈願者を救済するというもので、それが、密教と他の宗教との決定的な違いといえる。

密教行者が仏と一体となり祈願者の思いや願いを叶える。

それは「他力」という神仏のご利益を待つという構図ではなく、神仏と一体となることで、神仏の力を自在に操るという「自力」によって、すぐさま祈願者の悩みや苦しみを除去する、それが密教の特徴である。

私が学生の頃は真言宗の老僧はよく、「自分は真言行者」といっていたものである。

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だが、いまでは「私は真言行者だ」と胸を張っていえる僧侶を、高野山の本山でも見かけなくなってしまった。

では、真言行者とは何者なのか。それは秘密瑜伽の実践者を指す。真言密教の原点は秘密瑜伽の観法にあり、それは弘法大師空海の生涯の目標でもあった。

瑜伽とはヨガのことだが、中国の漢語では「相応(そうおう)」と訳す。

弘法大師空海は『即身成仏義』の中で「瑜伽(ゆが)とは翻(はん)じて相応という。相応渉入(そうおうしょうじゅう)はすなわち是れ即の義なり」と示している。

「相応(そうおう)」とは相応ずる、つまりお互いに応じることを指す。

瑜伽とはインド・サンスクリット語「योग」が原音で、感覚器官が自らに結びつくことを指すが、もともとの意味は馬を結び繋ぐ、という意味がある。

ヨガとは馬を繋いで、後、馬を暴れさせる。そして、それをコントロールするものである。

ではなぜ、馬を暴れさせるのか。

それはおとなしい馬は何をしても動かない。何をしても動かなければ何も成し遂げることはない。つまり、暴れるということはエネルギーそのものを示している。

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それは煩悩にも通じ、あるいは情熱ともいえる。まずは情熱を燃やす。そして、制御する。

密教に準えたならば、苦行に挑む人が、最初は情熱や意思、意欲が、やがては苦しみに覆われる。そしてしばらくすると思考や感覚の深奥から安寧が訪れる。

つまり情熱や意思、意欲がなければ、安寧の境地に至ることもなく、煩悩がなければ覚りに至ることもないのである。

秘密瑜伽の観法とは、たとえ煩悩に塗れた人間であっても、内在する神仏を自分自身に具現化させることで神仏の境地に至る。

つまり「即身成仏」とは、内なる神仏と一体化することで、生きながら人間が仏自身になることを示している。

それは自分自身に備わる人間の本質に到達するために、自身の精神を、肉体を磨きに磨き、精製し続けることで、炭素が高温、高圧で合成されプラズマ化され、やがては金剛石(ダイヤモンド)となる如く、煩悩に覆われた人間の精神や意思を純度に純度を重ね上げて精製しつづけることで、最高に、最上級に本質が顕れることを意味する。

それが弘法大師空海が生涯かけて目指した真言密教の原点、秘密瑜伽の観法である。