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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

2022.08.07ホームページ更新

思うところあって、ホームページ版『深森の帝國』の内容を大幅に整理し、それに応じて、各ページ構成も大きく切り替えました。

サイトURL【http://mimoronoteikoku.tudura.com/

☆思索&雑考エッセイや、読書ノート資料のページを大幅に断捨離

☆元々は制作中の創作マンガを一括して掲載するために作成していたので、これを中心として、まとめ直し(特にライフワークとなっている、長編オリジナル和風ファンタジー漫画)。ページが増えて来て、これだけでも相応のボリュームとなり、独立した創作サイトの内容としては不自然では無さそう

☆折々のイラストのコーナーを独立化

☆「小説家になろう」サイト掲載作品のバックアップを兼ねて、過去に公開済みの小説作品コーナーを増設

他にもチマチマと変えている箇所がありますが、大きな変化としては、以上となります。

初期サイト公開の頃とは異なり、ネット環境も高速化・大容量化しました。マンガ・イラスト系の創作サイトでありますし、イラスト点数は増やしたいところ…(時間上の制約は大きいので、どれくらい出来るかは未知数。適宜、折を見てページ増設の予定)

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聞き取り【桑畑/桑林】【養蚕】

1950年~1960年の頃
空襲の標的から外れていた田舎、関東圏の山林農業エリア
WW2戦後だけど牧歌的雰囲気

自家養蚕のため、田畑の一角に桑林…樹勢が強くて、常時モッサモサ
屋根裏が大きくて広い養蚕室になっていた
蚕が葉をバリバリ食べる音、部屋じゅうに…
春夏秋が養蚕シーズン、シーズン中、年に5回~6回くらい繭を収穫
繭の近くで、孵化したての毛蚕が食事スタートしてる状態
子供は朝食前または登校前に桑畑へ出て、桑の葉を採集して養蚕室へ運ぶ
枝の整理の必要が出た時はノコギリで枝を落として、枝ごと蚕に与える※枝だけ残るので効率が良い
繭の収穫期(年5回~6回)定期的に繭を集める人が来て、目方で測り、買い取り、どこかへ…※富岡製糸の方かも
冬季、桑の木を順番に回り剪定、樹高を低く保つ
切り枝は、囲炉裏かまど風呂の燃料の足しに※電気ガス水道は無い
風が強い日は風呂を沸かさない使えない…火事の方が恐怖

余禄:聞き取りの補足
蚕の身体が大きくなり、桑の葉を食べなくなるタイミング(繭を作る段階になった時)
「あがり(動名詞)」「あがる(動詞)」と言った

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利根運河-江戸川-隅田川-神田川…と水運で上京した人物の物語、大いに感じ入るところあり

明治の末ごろ、利根川下流のどこか、貧しい(中の下くらい?)農家の生まれ。次女か三女。兄弟姉妹5~6人くらい? 田、畑、年3回の養蚕で生計。

農業メインで学業の余裕は無かったが、勉強が好きな性質で、成績優秀との評価あり。卒業したら、農業しつつ良縁があれば嫁入りするのが定番だったが、学問に理解のあった父親に頼み込んで就職試験を受ける。試験で一番を取れたとのこと。(父親が喜んでくれたとのことで、ご本人も嬉しかったそうで、思い出話にも割と出たらしい)試験の結果ささやかながら公務仕事を得て上京。この時、利根運河を経由して水運で上京。

2年くらい東京で仕事していたらしい。(多分16~17歳の前後)華やかな大正ハイカラ・モダンガールというほどでは無いけど、田舎娘の手の届く堅実な範囲で、それなりに東京の先端ファッションとか、複数ある(!)本屋さんで学問の本を眺めたりして、ウキウキしていたかも、とのこと。

関東大震災にリアル遭遇して、大火災の中を逃げ回ったとのエピソード有り。本人は、あまり詳しくは語らなかったらしく、断片的な伝聞のみなのでハッキリしないけれど、色々大変だったらしい。

震災で仕事が無くなり、社会不安や治安悪化も大きく、ほどなくして帰郷したそう。(鉄道ほぼほぼ全滅状態だったけど、利根川を含む内航船ルートは動いていた)上京した時とだいたい同じ水運。その後、良縁があって、嫁入り。

大恐慌や世界大戦が続き、田舎の農家なので食べ物はあったけど生活は苦しかった。困窮するほど、という訳では無いけど、苦労は多かったらしい。

学問への好奇心は高く、地元婦人会などで聴講や勉強の機会があると、マメに参加していた。親しい女友達と共に婦人会の中で学問サークル類を立ち上げて、活動していたとの話あり。嫁いだ先の旦那さんが学問畑の関係者で、とても理解があったそう。

身体は丈夫で、100歳ちかく生きて、大往生したとのこと。

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