柱を立てるということ
書籍『山に立つ神と仏 柱立てと懸造の心性史』(講談社2020年)ISBN978-4-06-519899-5
オビ文:
柱を立てるとはどういう行為だったのか。神を祀り天地の通路を探った古代人の憧憬は、高く太い柱を求め、さらに神仏の近くへと山に分け入る。山中の聖なる岩座に建てられる堂舎は懸造(かけづくり)と呼ばれ、人々が観音や顕現に伏し、籠もり、修行する拝所となる。山中の岩、窟、湧水に神仏を感じ霊験を求める日本人。形としての山岳建築に、浄所への畏敬と崇拝の心性を読む。
●古代の祭祀所
『書紀』神代巻:「吾は則ち天津神籬(あまつひもろき)及天津磐境(あまついわさか)を起こし樹(た)てて、当(まさ)に吾孫(すめみま)の為に斎(いわ)ひ奉(まつ)らむ」
⇒「神籬」と「磐境」がどのような構造物なのかは明らかではないが、幾つか歴史遺跡の事例はある。特に「懸造」は信仰対象の岩(磐座)に関係する。
古代の事例=沖ノ島(福岡県・宗像大社沖津宮)
=4世紀後半~5世紀半ば「岩上祭祀」巨岩上部の平らな部分に小石を正方形に並べて祭壇とし、銅鏡や碧玉、滑石製祭具などを置いて祭祀を行なった。
=5世紀後半以降~「岩陰祭祀」巨岩が軒のように突き出た岩の陰に祭祀場所が移る。
=8世紀ごろ~巨岩と祭場が分離、岩から離れた露天の平坦地に定着。
縄文遺跡の事例=真脇遺跡、チカモリ遺跡
=紀元前1000~紀元前350年「環状列柱」タイプ。柱を立てて山を遥拝する形式だったと考えられる。それ以前はトーテムポール状彫刻柱、ついで大型の石棒を立てる形式。
●神と人の境を示す「柱」
『常陸国風土記』
古老(ふるおきな)のいへらく、石村(いはれ)の玉穂の宮に大八洲(おほやしま)馭(しろ)しめしし天皇(継体天皇)のみ世、人あり。箭括の氏の麻多智、郡より西の谷の草原を截(きりはら)ひ、墾闢(ひら)きて新に田に治(は)りき。此の時、夜刀の神、相群れ引率て、悉尽(ことごと)に到来たり。左右に防障(さ)へて、耕佃(たつく)らしむることなし。(俗(くにひと)いはく、蛇を謂ひて夜刀の神と為す。其の形は、蛇の身にして頭に角あり。率引て難を免るる時、見る人あらば、家門を破滅し、子孫継がず。凡て、此の郡の側の郊原(のはら)に甚(いと)多に住めり。)是に、麻多智、大きに怒の情を起こし、甲鎧を着被けて、自身仗(ほこ)を執り、打殺し駈逐らひき。乃ち、山口に至り、標の梲を堺の堀に置て、夜刀の神に告げていひしく、「此より上は神の地と為すことを聴さむ。此より下は人の田と作すべし。今より後、吾、神の祝(はふり)と為りて、永代に敬ひ祭らむ。冀くは、な祟りそ、な恨みそ」といひて、社を設けて、初めて祭りき、といへり。即ち、還(また)、耕田(つくりだ)一十町余を発(おこ)して、麻多智の子孫、相承けて祭を致し、今に至るまで絶えず。其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒(あめのしたしろ)しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世に至り、壬生連(みぶのむらじ)麿(まろ)、初めて其の谷を占めて、池の堤を築かしめき。時に、夜刀の神、池の辺の椎株に昇り集まり、時を経れども去らず。是に、麿、声を挙げて大言(たけ)びらく、「此の池を修めしむるは、要は民を活かすにあり。何の神、誰の祇(くにつかみ)ぞ、風化(おもむけ)に従はざる」といひて、即ち、役の民に令(おほ)せていひけらく、「目に見る雜の物、魚虫の類は、憚り懼るるところなく、随尽(ことごと)に打殺せ」と言ひ了はる応時(そのとき)、神(あや)しき蛇避け隠りき。謂はゆる其の池は、今、椎井の池と号(なづ)く。池の回に椎株あり。清泉出づれば、井を取りて池に名づく。即ち、香島に向ふ陸の駅道なり。
「標の梲」=「大きな杖」の意味。小ぶりながら「柱」と理解する事も可能。開発に伴って、神と人の境界に柱を立てて標識とした事例が増えていた。
●「遥拝」+「神の領域の象徴として一本の柱を立てる」
諏訪大社=6年に1度、巨木の柱を立てる「御柱祭」=山を遥拝する場所に拝殿だけが存在し、それに巨木の柱を立てる神事が付属する。
地鎮祭の時に建てられる祭儀用の柱「大極柱」。屋内の柱「大黒柱」。柱を立てることが諸霊を鎮めることにつながると観念されていた。
神社建築「心御柱」(伊勢神宮)、「岩根御柱(いわねみはしら)」(出雲大社)。
●天と地をつなぐ「柱」
天武天皇七年条、十市皇女の急死事件「新宮(にひみや)の西丁(にしのまつりごとどの)の柱に霹靂(かむとき)す」
「柱に霹靂(かむとき)す」という記述は「柱に落雷した」という意味になる。過去記述、推古天皇二十六年条、舶(つむ)を造るための大木を伐ろうとした時、或る人「霹靂(かむとき)の木なり、伐るべからず」
「霹靂」=雷神が地上に降臨する神聖な事、と考えられていた。「霹靂の木」とは、天地をつなぐ聖なる道筋(※天照大神を天に送り上げた天柱を想起)。天地をつなぐ媒介としての「柱」観念の文脈上に、十市皇女を葬送する前文の「霹靂」があると理解できる。
●修験の行場/懸造建築の変遷
「かけづくり」=平安末~室町(中世)にわたって、山間に造られる寺社や僧房、隠棲の為の建物など、とくに宗教的な性格を持つ建造物に対して使われた用語。つまり、この言葉は山岳信仰(神仏習合)に関わって造成された建築を特に示していた。床下の柱を長く伸ばして支え上げられた建物、工法を示す様式的用語。当時、修験が駆ける険しい山道を「懸け路(かけじ)」と言った。
中世の修験関係の礼拝殿や礼殿は信仰対象の岩山前面に建ち、内部の間仕切がほぼ無い等、基本的な構成は共通している。
信仰対象の根底には岩や湧水などの自然物があった。懸造の作られた巨岩が古代の磐座である事例は多い。懸造という造形が日本の山岳における宗教建築の成立と展開に深くかかわると共に、その土着的な側面と重層性を体現する造形である事を示す。
歴史的に眺めれば、懸造の成立とその形式の変遷については、奈良時代以来の観音霊場で9世紀半ばに広く信仰を集めた石山、長谷、清水寺の礼堂・舞台が最も早く、平安時代の前半頃と考えられる。
9世紀後半~主に京畿周辺の建物、天台・真言系寺院の修行地や、平安後期の「聖の住所」として急速に発展した新興霊場に、懸造が見られるようになる。これら平安期の懸造では、岩などの信仰対象を内陣部分あるいは内陣床下に包摂する形式をとり、創建当初は平入(平正面)であったと考えられる。
平安後期~鎌倉初期=三仏寺投入堂など、地方も含めて、岩窟内や、険しく屹立する大岩の上・側面に、岩に取り付くように建てられた懸造(小規模な建築)が現れる。平安前期のものと同じく平入(平正面)。行場の険しい場所に建てられた懸造は、引き続き中世末まで数多く認められ、遺構の総数からみて鎌倉・室町時代がその盛期。
鎌倉中期以降~妻入(妻正面)形式が圧倒的に多くなる。造形的に見ても、妻入の方が、垂直性が際立って表出される。立地条件に応じて正面三間ていどの建物が立てられる場合が多い。特に不動寺本堂などに見られる、屋根が岸壁に直接接続するなど、大岩や岩窟に密着・密接した形式が顕著。
総じて、特に平安末から鎌倉初期に聖と呼ばれる行者が険しい行場に造成した物は、床下の柱も長大で力強く、それ以前の時代の懸造様式に比べて、垂直性が非常に強調されるようになっている。平地における摂関期浄土教の俗化や享楽主義に反発して山岳に入った験者や聖の信仰的態度と対応しており、山岳の修行者に対する摂関院政期の人々の期待から造り出されたと考える事が出来る。
鎌倉・室町時代の懸造=引き続き強い垂直性が強調されている。信仰対象の岩や岩窟といっそう密着して造成されている
⇒自然との一体化や捨身苦行を理想とした修験的な宗教観が反映。
近世期(戦国期~江戸期)、山岳修験が里に定着し、里修験・里山伏が増える。庶民向けの布教活動が盛んになる。それと共に、懸造も形式化してゆく。
近世期の懸造の構築の例:
石垣積と縁通りの柱のみが懸造形式(知恩院勢至堂など)。
大岩や岩窟から離れた平入の懸造形式(広島県尾道市千光寺本堂、石川県那谷寺本堂、岐阜県日龍峯寺本堂など)。
岩に関係しない懸造と本堂(兵庫県豊岡市観音寺宝楼閣、赤穂市妙見寺観音堂など)~建物の大部分は、整地され石垣の積まれた平坦地に建ち、前面一間通りあるいは最前列の縁束柱だけが懸造で造られている。
古代・中世の懸造の在り方から見れば、整地され石垣の積まれた地盤上に建ち、前面一間通りあるいは最前列の床束柱だけが懸造の形式は、古代・中世のものを形骸化して模倣した形式と言える。立地も、山岳から平地への移動が多くなる。それに伴い「舞台造り」という用語も現れる(懸造の前面吹き放ち部分を、単に「舞台」と呼ぶ捉え方が増えて来ていた)。
近世における懸造の垂直的な表現の退行には、中世の巣直的な意匠を水平的な意匠へ変容させようとする志向がはたらいていたように見える。(中略)市中や庭園の懸造は、産学の自然と険難で信仰的な関係を持っていた中世までの懸造を、鑑賞的で優美な水平的に展開する平地の諸建築へと融合する試みであり、その結果、山岳の垂直的な意匠には、平地の水平的な意匠に対する好みが反映する事になった(中略)このような経緯は山岳に建てられた懸造でも同様で、山岳とは言っても、中世までの懸造が人里はなれた山間にあったのに対して、近世の懸造は集落の近辺に建てられたものが多くなり、そこでは中世に見られた行場の厳しさは姿を消してしまう。すなわち、そこでも平地の鑑賞的な態度が支配的になったのであり、それによって中世の垂直的な意匠は退行し、平地の水平的な志向が反映するようになったとの考察が有効であるように思われる。
●象徴としての垂直性、柱の象徴性/柱を立てる行為は魂を揺り動かす
柱と梁で構成される日本建築はまず、一本の柱を立てることから始まる。立てられた柱の垂直性は、おそらく山の神と人をつなぐ象徴と捉えられ、その造形は縄文時代の巨大列柱から「岩根御柱」「心柱」「心御柱」へと引き継がれる。
そして修験者が山に入り、常設の建築を造ると、建物は自然の信仰対象に密接密着して床下柱が長く伸びる懸造をつくる、その柱の垂直的表現は自然と一体化しながら見る者、使う者を魅了する。懸造の代表的な遺構である三仏寺投入堂が見る者を引き付けて離さない理由はここにある。
険難な行場を登り、はじめて投入堂に出会った人々が涙を流す訳は、懸造という造形の中に、緑深い山への信仰、柱立てから始まる日本建築の原像が反映しているからである。
【柱立てが関わる修験道の神事の例】
◎「柱松」=屋外の儀礼。高い柱を立てて山伏がこれに駆け上り、火打石で火を付けて人々の煩悩を焼き尽くす。山伏の験力を競う験比べとしての側面があった。おそらくお盆の頃の儀礼。
◎「柱源」=屋内の儀礼。供養法、護摩とも。口伝で伝えられる秘法中の秘法とされる。十界修行の後、最後に正灌頂と合わせて授けられる。中央の壇板の上の奥に鼎状の水輪を置き、その中央の穴に閼伽札(修法者自身を示す)、その両脇に黒布に包まれた乳木二本(柱、金剛界・胎蔵界)を立てて儀式を行う。
柱源の「柱」は宇宙万物の柱を指す。「源」は天地陰陽和合の本源を指す。宇宙の形成や修験者を、天と地を結ぶ柱として、生命の再生を表している。つまり修験者自身が天と地を結ぶ柱になることを意味する儀礼と考えられる。
◎峰入りの通常の儀式
修験者が集まって儀式を行う建物(長床など)では、修験者の最高位である大先達は必ず、祭壇に最も近い柱を背に座る。
※修験道と建築の柱、懸造の柱との関連についてはまだ研究の段階ではあるが、山岳信仰における「柱」の重要性は疑いを入れない。