忍者ブログ

制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

中世日本海の水運と交流

『海と列島文化2 日本海と出雲世界』(小学館1991年)ISBN4-09-627002-4


【日本古代国家成立前の日本海航路(~7世紀)】

縄文時代から続くヒスイ交易、黒曜石交易など、自律的な海上交易が活発。弥生に入ってからは土器や金属の交易も進んだと思われる。地域間の文化交流。古事記・日本書紀でも、日本海を通しての交流を暗示する記述が多い。

日本海沿岸に自然の地形のままで良港になる潟港とよばれるものが多く分布することがあげられる。潮の流れでつもった砂州がよくのびて防波堤の役目をつとめるのが潟港である。そして、淀江潟が出雲氏の拠点、神西湖と波根潟が神門氏の拠点になっていたと考えられる。
出典:「日本の海上交易は瀬戸内海航路より日本海航路が先に発達した」
https://japanmakes.com/course.html

※瀬戸内海は「瀬戸」と呼ばれる難所が多く、潮流も複雑なため、航海技術が一定以上に発達する前までは、航路が定着しなかったという説がある。

風待ち・潮待ちの港を整備する必要もあり、瀬戸内海航路の立ち上げは、おそらく古代国家の能力を超える事業であった。水先案内人の技術向上なども急がれていた。

国家事業という意味での瀬戸内海航路の本格的な整備は、雄略朝に手が付けられている(~6世紀)。

・宗像海人族をベースにして宇佐や厳島で訓練して水軍(漁民の船団)を編成
・倉橋島(広島)に渡来系・秦氏の技術による造船所の建設
・呉人(中国江南の人々)の持つ水路や港湾を作る技術を導入

⇒播磨国・吉備国・安芸国・九州諸国の繁栄につながる(宗像・宇佐・住吉など)

*****

【律令国家の成立(7世紀以降~11世紀・12世紀)】

国家は、新たに山陰道などの都(奈良/京都)~各地方国衙とを結ぶ官道=陸上交通路を整備。これを基幹的な交通手段とする方針を掲げた。

⇒『延喜式』「主税上」、「諸国運漕(うんそう)雑物功賃」=海路運賃の記録があるのは山陰道諸国では因幡国のみ。その因幡の事例も、陸路・播磨に出て内海水運によって京に輸送する事となっている(伯耆国の場合も海路輸送国としては記されていない=平城京出土の木簡)。

⇒出雲の美保関(中世日本海の水運で繁栄し、中心的な位置を占めた)=史料上、「美保関」の名前が初めて出て来るのが「宝治二年(1248年)12月日蔵人所牒写」(「真継文書」)の事例。古代の美保エリアには、海関などのような特別な港湾機能は無かったと考えられている。すなわち、「美保関」は、中世日本海の水運の成立と時期を同じくしたと考えられる。

8世紀半ば以降、官物輸送手段としての海上交通の重要性が認識され、瀬戸内、東日本海などにおいて、海上交通路が整備される(例:平清盛)。

しかし、西日本海の海上交通については、国家的な方針がハッキリと示される事は無かった(おそらく、荘園や寺社勢力による整備が進んだ)。

『小右記(しょうゆうき)』(藤原実資の日記、長元四年=1031年、八月十二日の条)

「先日、関白の消息に云ふ、隠岐の使い華洛を経ず、便路を取り遣はすべきとの由伝え示さる。もし状に随(したが)ひ海路罷(まか)り向ふべくんば、尤も枉道(おうどう)の宣旨を給ふべし」
意味=隠岐国への使者派遣に際し、海路(若狭小浜を経由?)を採る場合は、特別に「枉道の宣旨(道を曲げ、別の道を行く事を認めた天皇の命令)」が必要である

※律令制のもと、正規のルートは山陰道経由の陸路とされていた。しかし関白(藤原頼通)自身が、これを無視し、あくまでも便宜的・非公式な西日本海航路を採ろうとする意向を示していた。古代の律令制的な交通方針が終わっていた事を示唆する。

*****

《廻船ルート》

(1)山陰~北陸ルート=例:隠岐~美保関~小浜
(2)山陰~山陽ルート=例:美保関~赤間関(下関)&門司、「便商船」
(3)山陰~九州ルート
(4)九州~北陸ルート=例:筑前博多~小浜、「筑紫舟」(『太平記』、恒常的な廻船が就航)
(5)大陸との交流ルート

※陸路で、若狭小浜~九里半街道(若狭街道)~琵琶湖~京と結び付く

若狭小浜に次ぐ第二の重要拠点(中継基地)として機能したのは、地理的にも西日本海沿岸部のほぼ中間点に位置する出雲美保関であった。美保関は、隠岐との至近距離に位置し、かつ、背後に伯耆大山を控える。西日本海地域に設けられた唯一最大の海関として、中世の西日本海水運全体を統括する位置にあった。

美保関で西日本海の航路は東西に区分されつつ、複合的に結びつけられた。東側=北陸若狭方面、西側=九州・山陽方面。

『本福寺旧記』(『堅田本福寺旧記』)

「昔、堅田に有得の人は、能登・越中・越後・信濃・出羽・奥州、西は因幡・伯耆・出雲・岩見・丹後・但馬・若狭へ越て商(あきない)をせしほどに、人にもなり経回(けいくわい)もせり」

*****

【中世日本海の水運の発展/鎌倉~室町~南北朝~戦国期(12世紀以降~)】

戦乱の広域化、大規模化に伴い、軍事的な要因にもとづく水運の需要が著しく拡大。従来とは異なる活況を呈する。

出雲攻略=美保関や安来・馬潟津(まがたづ/松江市)をはじめとする中海、宍道湖沿岸部の諸港を制圧する事がポイントとなった。※永禄五年(1562)~永禄九年、毛利軍による出雲富田城攻め

因幡攻略=賀路湊(かろみなと、鳥取市)をはじめとする千代川河口部沿岸の諸港の制圧がポイントとなった。※天正八年(1580)~天正九年、織田軍による因幡鳥取城攻め

兵力や軍需物資などの調達・移動=中世における商業活動と表裏一体の関係。出雲富田城の攻略の際は、安来の港を抑えた。若狭から商人らが米・麦などを持ち込み、富田城がこれら物資を購入するのを止める為。

◆中世の海賊

西日本海エリアの海賊活動は、史料上は主に戦国期に出現するが、その実態は鎌倉末~南北朝期には成立していたと推定される。商品・貨幣経済の発展に伴って活発化。

特に因幡~但馬、丹後にかけて活発。丹後の海賊活動が特に顕著で、大永六年(1526)以降10年間ほど、丹後の海賊が若狭の浦々を襲い、資材を奪って放火した記録がある。(『羽賀寺文書』、『大音(おおね)文書』、『秦文書』など)

◆中世港湾都市の成立

いずれも、平安末~鎌倉期以来の津や市の発展の上に、内陸交通との新たな結節点として成立。

出雲国:安来、白潟、平田、杵築/石見国:波根(大田市波根町)、温泉津、浜田、長浜、三隅、益田

これら中世港湾都市は、いずれも内陸交通と一体となった地域的経済圏の中心として機能していたと考えられる。西日本海沿岸部の諸地域が、それぞれ独立した地域的経済圏としての自立性を高めると同時に、各地域間の交流が増大していた。

◆隔地間交易の発展

16世紀半ば~【北国船(ほっこくぶね)】=中世末から近世の前期、日本海海運の主役となった廻船。船底両側に刳出材のおも木を配した造りで、丸い船首、波除けの蔀(しとみ)、垣立(かきたつ)を設けない点などに特徴があったと言われる。また櫂を操る多数の水夫(かこ)を必要とした。

従来のような米・麦などの日常的、一般的な商品ではなく、主として地域の特産物が交易対象になって来た。例えば出雲・宇竜港に北国船が来航した時、奥出雲産の鉄が取引された。特に、出雲鉄と石見銀の需要が増大し、空前の活況を呈する。

西日本海地域の特産物:伯耆・出雲…鉄/石見…銀、銅/隠岐…海産物

石見銀山周辺の港:波根、刺鹿(さっか、大田市久手町)、大浦(大田市五十猛町)、仁万(にま、邇摩郡仁摩町)、鞆(とも、邇摩郡仁摩町)、温泉津etc.

※近世に活躍した廻船問屋の多くが戦国期に操業を始めたという伝承を持っている。

※小浜の商人などを仲立ちとして、西日本海と京・畿内の商人とが、商業活動における信用関係を広範に成立させ、結合を強めた。⇒商取引の際に割符(さいふ)が組まれた。割符は為替を組む時に用いる手形。

*****

【中世日本海の水運の繁栄/中世から近世への転換~17世紀ごろ】

◆西回り航路の成立、北前船の就航=江戸、大阪への幕府諸藩の年貢米輸送を目的として開発される。中世の枠組みを超え、東北、北海道、九州、瀬戸内、畿内を結ぶ恒常的な水運ネットワークが成立する。

◆隠岐の焼火(たくひ)神社信仰の広がり

宮城、岩手などの東北地方太平洋沿岸の漁船の間で、19世紀後半まで、沖で夜を迎える時の作法として「日の入りのオドーミョー」と呼ばれる儀式が行われていた。

儀式の時の呪文「お灯明(どうみょう)!お灯明!お灯明!隠岐の国タクシの権現様にたむけます。よい漁に合わせ、よい風(アラシ)に合わせてくれなはれ。千日の上日和!」

「タクシの権現様」=海上の守護神として、古来、大きな信仰を集めて来た焼火神社の事であり、元は弁財船(北前船)の伝統儀式だったとされている。

焼火神社が、古代以来の伝統の上に改めて海上の守護神として明確に出現して来るのは、中世末~戦国期の頃。戦国期における水運の飛躍的な発展の中で、隠岐の焼火(たくひ)神社信仰が盛んになり、北前船の就航に伴って東北地方まで広がったと考えられる。

※天文九年(1540)「焼火山雲上(うんじょう)寺造営勧進帳」(「焼火神社文書」)、沙門良源は、海上の船が闇に迷った時、焼火山に灯がともり船を安全に浜辺に導いてくれると、その神力を称え、勧進を行なった。

◆海賊の消滅

近世水運の発展=航海技術、造船技術、航路整備、特に「海賊消滅」が大きな要因。

PR