スピン状態の場~時空の幾何学
話は原子スペクトル線にさかのぼります。
飛び飛びのラインとなって輝くと言う原子スペクトルの振る舞いは、ニュートン古典力学では記述できない現象でした。ボーアの原子モデルが原子スペクトル現象を上手く説明しましたが、ボーアの原子モデルに出て来る不明点(何故、決まった電子軌道しか無いのか?)を解決したのが、ハイゼンベルクとシュレーディンガーです。
ハイゼンベルクは、行列を用いて、位置xや運動量pなどの物理量を記述した運動方程式を提唱。
シュレーディンガーは、波動関数を用いた波動方程式Ψを提唱。この方程式では、位置xや運動量pなどといった物理量に、それぞれ特有の演算子が対応付けられるようになっています。
ハイゼンベルクとシュレーディンガーの提唱したスタイルは、外見は異なっていますが、中身は全く同じ事を言っています。
古典力学では、位置xや運動量pと言った物理量は、ただの数なので、xp=pxというように、数式の中で交換する事が可能です。xp-px=0です。しかし量子力学ではxp≠px、xp-px=iℏとなります。こうした交換関係を、非可換と言います。
xp-px=iℏ
この記述(非可換である事を示す記述)は、物理的には以下のような意味を持ちます:
- [位置x]と[運動量p]を同時に確定する事はできない
- [位置の測定精度]×[運動量の測定精度]≧ℏ/2・・・「不確定性関係」
ここで、改めて、原子スペクトルが飛び飛びの値を取るのは何故か――を考えてみます。
電子の持つ軌道角運動量をlとします。x軸、y軸、z軸に対応する3つの成分を含むベクトル量です。
l=r×p
この意味記述は、古典力学と共通のルールです。ここでのrやpも、x軸、y軸、z軸に対応する3つの成分を含むベクトル量です。
量子力学を支配する不確定性原理により、各成分を同時に測定する事は出来ません。この条件の中では、軌道角運動量の大きさlは、1つの成分だけ測定可能と言う風になります。ここでz成分を採用し、これを磁気量子数lzとします。
角運動量は量子化されているので、軌道角運動量lの取れる値は、0ℏ、1ℏ、2ℏ、3ℏ…という整数値のみ。
ゆえに、磁気量子数lzは、-lから+lまでの間の整数値に限定されます(lzが取れる値の数は、2l+1個である)。
以上の考え方をシュレーディンガー方程式に適用すると、「主量子数n」が出て来ます(n=1、2、3、…)。
この主量子数nがボーアの軌道番号に相当する物で、原子内部の電子のエネルギー準位は、この主量子数nで決まります。
n=1の状態が、最もエネルギー準位が低く、安定している状態。nが大きくなるにつれて、エネルギー準位も上昇。なおかつ、「軌道角運動量l<主量子数n」であります。
電子軌道が励起されることによって高エネルギー準位になり、そこから低いエネルギー準位に落ち込む時、飛び飛びの量子数に伴って、このエネルギー差が、電磁波として放出されます。原子スペクトルが飛び飛びの値を取るのは、これが理由なのです(例:水素原子スペクトルのバルマー系列、パッシェン系列、ブント系列etc)。
そして、ここで新たに浮上する謎は、ゼーマン効果。磁場中で原子スペクトル線が分裂する現象です(ゼーマン効果=スペクトル線が3本になる、異常ゼーマン効果=スペクトル線が3本超・多数になる)。
しかし、電子が持つ軌道角運動量からは、奇数個の磁気量子数(2l+1個)しか出て来ません。2本に分裂するスペクトル線は、電子の自由度に由来すると考えられました(=電子の二価性)。
この余分な自由度を「古典的記述が不可能な二価性」と見抜き、説明したのは、パウリです。この説明が「パウリの排他原理」です。
量子力学に、「電子の二価性」と「パウリの排他原理」を取り入れると、原子の安定性や元素の周期表がキッチリ説明できるようになります。ただし、「パウリの排他原理=同じ量子状態には2個以上の電子は存在できない」は、現代物理学の謎です(まだ解明されていない)。
「古典的記述が不可能な電子の二価性」が、回転の概念からどのように生じるか?――
まず、物体の回転を、一般的な座標軸の回転として数学的に記述してみます:
- 3次元ベクトルJ=(Jx, Jy, Jz)――これで、空間内の全ての回転を表現
- Jx=x軸まわりの回転
- Jy=y軸まわりの回転
- Jz=z軸まわりの回転
次に、Jの各成分について、量子力学の交換関係を適用し、許される電子の量子状態を求めると:
J値=0、1/2、1、3/2、2、…(軌道角運動量では解釈できない半整数値が含まれてくる)
ここで、
もっとも単純な半整数J値=1/2の場合、Jの持つ成分の一つ磁気量子数Jz=-1/2、+1/2
これを電子が持つ二価性の元と考えると、原子スペクトル線の分裂(ゼーマン効果)を上手く説明できるようになります。
この、電子が内在的に持つ回転成分(自転に対応するように見える成分)を、「スピン」と言います。
そして、1/2角運動量は0を除く最小の角運動量であり、1/2角運動量からあらゆる角運動量が合成できる…と言えます。
- スピン角運動量+1/2状態=上向きスピン、または右巻きスピン
- スピン角運動量-1/2状態=下向きスピン、または左巻きスピン
しかし、電子の自転(スピン)を、古典力学における惑星の自転運動と同じように考えると、光速より速い自転速度を考えなければならず、相対論との矛盾が生じてしまいます。パウリは、新たな空間を想定する事で、この困難を解決したのです。
パウリは、「スピンは、我々が認識する通常の空間内の回転では無い」と解釈しました。パウリが想定した空間は「複素2次元空間」です。これは、虚数(イマジナリー・ナンバー)の成分を併せ持つ空間です。
パウリが考案した2×2の「パウリ行列」は、電子のスピン状態を、右スピンと左スピンの2成分を持つ2次元複素ベクトルで表しています。
電子のスピンとは、複素2次元空間における回転であります。
量子力学では、スピン1/2とスピン1/2とを合成すると、角運動量1と角運動量0が得られます。複素2次元空間におけるスピン角運動量と、実空間における角運動量との間の対応関係を計算してみると、次のようなことが分かります。
実空間における1回転は、複素2次元空間における半回転に相当します。したがって、3次元空間内で1回転(360度の回転)した時、複素2次元空間内のスピンの向きは半回転、つまり逆を向いている状態(180度の回転)です。スピンの向きが元に戻るには、実空間で、更にもう1回転する必要があります(実空間において総合720度の回転が必要)。
このスピンが住まう時空は、数学的にはリーマン面で表す事ができます――通常の時空から見ると、幾何学的には、2重構造を持つ時空となります。スピンの向きを回転して、元の向きまで戻って来るには、通常の時空で2回転しなければならない事が見て取れます。
リーマン面(Wikiより)…場の理論においては「スピノル場」波動関数の幾何学的構造である
これが、電子の「古典的記述が不可能な二価性」の本質です。
電子スピンの状態量は、複素2次元空間ベクトルで表されますが、量子力学の方程式に従う特殊な変換性を持つ量なので、「スピノル」と呼ばれます。2つのスピノルから通常の1ベクトルを構成する事が出来るので、スピノルは「半ベクトル」とも呼ばれます。
粒子の持つ、この摩訶不思議なスピノル性は、ディラックの相対論的量子論(ディラック方程式)で説明されます。
ディラックは、量子力学をミンコフスキー時空で構築し直したのです。ディラック方程式を解くと、パウリの行列式と2成分のスピノルが現れます。つまり、相対論的量子力学によって、電子の1/2スピンを自然な形で導けるという訳です。
※ミンコフスキー時空は虚数軸を含む4次元ユークリッド空間です。そこでは、世界長さsは、3次元空間における距離を4次元空間に拡張した量であり、次の式で定義されます。
s2=x2+y2+z2+(ict)2
ローレンツ変換は、ミンコフスキー時空においては回転で表されます(4次元ユークリッド空間における虚数軸と他の実数軸との間の回転)。
実際は、ディラック方程式を解いて得られる解(波動関数)には、正のエネルギーの解と負のエネルギーの解があります。そして、4成分のスピノルがあります。
4成分のスピノルのうち2つは正のエネルギーを持つ電子の自由度と解釈され、残りの2つは負のエネルギーを持つ電子に由来する自由度と解釈されました。
負のエネルギーを持つ電子の海が「ディラックの海」です。そこで1つの状態に空きが出来た場合、欠けた負のエネルギーの分が正のエネルギーとなって観測されるとするのです。こうして、観測に掛かる反粒子(陽電子)の存在が予言されました。そして、後に、宇宙線の観測から陽電子が発見されました。
ディラック方程式が含む4成分のスピノルは、更に「超対称性」につながる興味深い内容を暗示しています。
相対論におけるベクトル(位置ベクトルや運動量ベクトル)は、4元ベクトルです。これはローレンツ変換の規則を満たす量で「ローレンツ共変量」と呼ばれます。複数のベクトルを組み合わせたテンソルもローレンツ共変量です。
世界長さや質量はローレンツ変換に対して不変な量で、ローレンツ不変量、ローレンツスカラー、スカラーなどと呼ばれますが、これもローレンツ変換の規則を満たしており、「ローレンツ共変量」として扱います。
ディラックの4成分のスピノルは、特殊相対論とは異なるローレンツ変換性を示しますが、それでも「ローレンツ共変量」の一種です。更に特殊相対論における種々のベクトルとは異なり、「古典的記述が不可能な二価性」を持っています。
――つまり、ディラックのスピノルは、パウリのスピノルと同様な「半ベクトル」なのであり、なおかつ、「最も基本的なローレンツ共変量」なのです。