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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

研究:中華経済の近代史(後篇)

《研究:中華経済の近代史(中篇)から続く》

《20世紀の中華経済…旧弊社会構造の打破&国民経済の建設》

上海バブルの時代、大量に流通した中央銀行券は、各地方の工業生産の国内回帰とシンクロしつつ、各地方の財源と中央財源とを、強力に連結しました。

しかし戦乱の疲弊から回復した西洋列強は再び金本位制に復帰し、為替レートが逆転しました。銀価は再び下落します(政府銀は下落、民間銭は上昇)。

これは、中国の工業・製造業にとっては生産コスト割れを意味しました。

中央政府にとっては、余剰財源の収縮によって貨幣の信用が目減りし(=つまり以前に比べて、相対的に大きな金額で信用を保証しなければならない)、借金返済で苦しくなるという事態をもたらしました。

打開策として、関税自主権の回復が主張されましたが、このためには列強と渡り合うための強力な中央政府機関を必要としました。袁世凱の死後、軍閥抗争のさなかにあって、北京政府は弱体化する一方であり、これに代わって勢力を伸ばしたのが、蒋介石の南京国民政府でした。

国民革命を標榜した南京国民政府は、経済界の期待に応え、関税自主権を回復(北伐1926~1928、北京政府を打倒し全国統一)。その後の世界大恐慌(1929)の影響で強力なデフレに見舞われましたが、中央政府は銀を国有化して一元的管理紙幣「法幣」を発行、これを地方政府に買い取らせ、その一方、兌換に関わる金銭管理を厳格に運用する事で為替レートを安定化させ、財政を立て直しました。

しかし、この動きは国民経済の確立に結びつく物ではありませんでした。国共内戦(1927~1937)や日中戦争(1937~1945)は、大陸的な視野から見れば、地方軍閥割拠、および軍閥抗争の延長線上にあったと言えます。

日本は満洲国を中心にして長江流域の経済圏を分断しましたが、重慶に立て篭もった南京国民政府を打倒できず、分捕った利権の再構築(=経済的統合)も成し得ないままに終わりました(1945年、日中戦争の終了)。

第2次世界大戦においても戦勝国となった南京国民政府でしたが、分断された長江流域の経済圏の統合という課題が残されました。南京国民政府は有効な政策を打ち出せず、更に、地方軍閥割拠の延長として、国共内戦が再開します(1946~1950)。

全国統一を成し遂げたのは、毛沢東・周恩来が率いる国民共産党(中華人民共和国)です。

南京国民政府の中央集権化プロジェクトを、共産党政府は引き継ぎました。それは、20世紀半ばにおける時代上の要請ともあいまって、旧来の伝統、すなわち「官/民」における激しい経済格差や、身分差をもって成る旧来の社会構造への挑戦ともなりました。

共産党政府による「大躍進政策(1958~1961,経済振興政策の一種?)」や「文化大革命(1966~1976)」は余りにも有名ですが、その「革命的意義」は、2点に絞る事ができます。

【土地革命】・・・階級闘争を通じて地主を打倒、土地の再分配を実施して貧富の格差を解消すると共に、地域の利権構造に介入して「官/民」権力構造を打破し、再編を促す。底辺の庶民社会への中央権力の浸透を図る。

【通貨統一】・・・南京政府は莫大な財政赤字を計上しており、ハイパーインフレをもたらしていた。いったんは押さえ込んだが、朝鮮戦争(1950~1953)が始まると再びインフレが始まったため、三反五反運動などを通じて物資・金融の両面で管理統制を強化し、新通貨「人民幣」の安定運用にもちこむ。

共産党政府が通貨統一に成功したのは、冷戦構造の産物とも言えるでしょう。

社会主義陣営に属した事で、資本主義諸国の経済的影響が低下しました。固定相場制を採用し、結果としてグローバル経済から切り離され、大陸内部で完結する、いわば「近代版・中華人民の経済圏」を現出したのです。

《21世紀の中華経済に関する私見》

共産党政府による経済統一プロセスは、明帝国の初期の頃に似ています。

そして文化大革命後の経済を立て直すため、鄧小平を中心として実施された「改革開放(市場経済への移行)」という経済政策(1978~)があり、これは現在も続行中ですが、結果として、官僚汚職の深刻化や著しい経済格差を招いている様子を見ると、戦前の地方分立の状況へと、時代的には逆行していると言えなくもありません。

習近平は、袁世凱よろしく自らの帝政の宣言はしていませんが、自らの権力基盤を確立しつつも、「反腐敗運動(2012~)」を演出するなど、世論や民心の掌握に長けている事は確かなようです。当座のところは、「袁世凱よりも有能な、中央集権化プロジェクトの立役者にして支配者」という評価ができるかも知れません。

「反腐敗運動」は、かつて朝鮮戦争がもたらした急なインフレを抑えるための「三反五反運動1951~1953」の焼き直しと言えなくもありません。「三反五反」の結果、強烈な国家統制経済が確立しています。「反腐敗運動」にも、類似の結果をもたらす作用があると推察する事はできます。

では社会格差や身分格差は、と言うと、これはかつての「官/民」の格差を打破したにも関わらず、結局は、「高位の共産党員/底辺の共産党員&民」という風に、支配者層の名前を書き換えただけのレベルに留まっているようです。

従来と異なるのは、情報テクノロジー革命の影響が、プラス・マイナスのいずれにせよ、これまでは考えられなかった程の広い社会階層に及んでいるという事です。これは、20世紀から21世紀に至るまでの科学文明の急進がもたらした、「新たな事態」と言う事が出来るかもしれません。

共産党政府は、情報統制に力を入れると共に、サイバー戦テクノロジーを発達させています。

目下「万里の長城」よろしく「量の問題」レベルであり、そこで「質への転換(パラダイム・シフト)が生じるか」は、まだ未知数です。民間社会における世界認識が、旧来の中華思想を基盤とする内容に留まっている状況を見ると、習近平をはじめとする支配者層およびテクノクラート層の頭脳次第であるように思えます。

それに比べれば、進行中の「反腐敗運動」と言う名の権力闘争は、歴史の中で何度も繰り返されていた闘争スタイルであり、影響の度合いによっては、枝葉末節でしか無いと言えます。

従来、その枝葉末節の「量」が余りにも多い事が、伝統的に「質への転換」を不可能とさせて来た要因の一つであり続けた事は、確かです(他にも様々な要因があると思いますが、「中華」に余り詳しく無いので、この点のみです)。

コンピュータの演算能力の増大は、この状況に変化をもたらすのでしょうか?(大室幹雄氏の指摘する『桃園の夢想』という「認識の壁」を、超えられるのでしょうか)

…という疑問で、研究の記録をしめくくらせて頂くものであります。


《補足的な見解:天体運動を中国人は量的な数の問題と捉えた》

https://twitter.com/history_theory/status/1424902119304302594

山田慶児『混沌の海へ』朝日新聞出版 1975

中国人は、枚挙的な記述とその分類により、世界を体系的に把握しようとした。

だがそれは、世界の規則性と統一性を示しはしない。

それを把握するには別の原理が必用だった。

量的認識とパターン認識がそれである。

世界の多様性は、量への還元により一つの平面に射影される。

量的関係に何らかの規則性が発見されるならば、世界の統一的な像がその上に描き出されよう。

しかも、事物と現象の量的な把握は、国家統治や生産と流通の不可欠の手段でもある。中国人は量的な観測・観察・測定・実験・調査・計算・記録・説明・思索のおびただしい資料を残している。

正史には志(誌)と呼ばれる部分があり、そこには量的認識の氾濫が見られる。

天体の位置と運動についての、暦計算についての、楽器の音程についての、祭器や車や衣服の規格についての、人口についての、官職の定員と俸給についての、刑法の量的規定についての、貨幣や経済政策や土木事業についての。

しかも、量は事実として投げ出されているだけでなく、量を秩序づけ、様々な量の間に連関をつけ、何らかの規則性を発見しようとする志向がそこに働いている。

中国の天文学は代数的天文学であり、ギリシアの幾何学的天文学との鮮やかな対照を示している。

天体の運動は、すべて仮想的な球面上において、赤道座標系に基づいて量的に把握される。

惑星系の幾何学的な構造は問われない。

観測された量はいくつかの現象の複合であるが、その諸要素を量的に分離しながら、ひたすら計算を進めてゆく。

それだけに、計算法の発展には目覚ましいものがあり、たとえばニュートンの補間公式に匹敵する補間法が生まれたのは6世紀、隋の時代だった。

中国人は、天体運動を自然に備わる数として捉えたのである。

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