研究:中華経済の近代史(中篇)
《研究:中華経済の近代史(前篇)》から続く
《近代化を試みる(19世紀後半~20世紀:同治中興&洋務運動)中華経済》
アヘン戦争後の上海租界の繁栄は著しいものでした。現代史では不平等条約の結果として受け止められていますが、大きい意味での中華帝国から見ると、当時は、華人(私幣)経済圏のバリエーションでしか無かったと解釈できます。
しかし、「量の問題」、つまり密輸・脱税を含めて膨大な額に上った貿易取引は、無数の秘密結社や密輸専門の犯罪団体を生みました。この治安悪化を伴う変化は、清帝国に、無視できない内乱発生の因子を認識させるまでになります(太平天国の乱の発生など)。
1850年代の清は、秘密結社が関与するおびただしい内乱に見舞われ、その平定に追われました。反乱側であれば「秘密結社」であり、彼らが帝国体制側に寝返れば、「義勇軍」になりました(例:曾国藩の湘軍、李鴻章の淮軍)。別の方向から見れば、帝国内部の権力構造の再編プロセスでもあります。
義勇軍を組織していたのが省の軍政・民政を一手にあずかる総督・巡撫でしたが、これらの義勇軍を運営するための資金は清の国庫からは出ず(そもそも国庫支出という概念が無い)、総督・巡撫は大きな権限を持って経費を調達していました。
その経費は、新しい地方税「釐金(りきん)」と呼ばれ、商人からの寄付・納付という形で調達されていました。密輸を合法化してやる代わりに、上前をはねる…というスタイルで、アヘン取引もアヘンを扱う業者も、この流れに乗って、次々に合法化されていました。
※扱う商品価格の一厘(=釐,1%)の率で拠出金を課したので釐金という
清帝国は結局、内乱を平定し、新たな安定状況に入ります(これを「同治の中興」といいます)。
それと共に、地方権力者である総督・巡撫の、中央政治における立場が大きくなりました。 ここに、将来における地方軍閥割拠の原因が生まれたと言えます。
なお、この安定した時代に権力を掌握したのが、西太后と李鴻章です。
貿易取引という側面から見ると、この時代の取引量は増大しています。しかし、その品目割合は様変わりしていました。従来の江南エリア産物=高付加価値商品=中華ブランド(絹、茶、磁器)の輸出量は頭打ちになり、華北生産物である大豆、羊毛、皮革、綿花、鶏卵などの輸出が増えました。
- 1883年1億4千万両→1903年5億4千万両:20年で4倍に増加、この増分のほとんどが華北生産品
- ヨーロッパの蚕業・製糸業の回復あり、日本の生糸シェアも増加
- インド製茶業の成長により、中国茶のシェア低下
- 1870半ごろ~欧米で金本位制採用:銀価値が低下=中国銀の安値(中国にとっては輸出有利。
同時に、国内の銅貨に対しても銀価値は低下していた。これらの為替レートの変動は、銅貨決済する農村部にとっては、外来品、例えばイギリス植民地インド製の機械製綿糸を安値で購入できるようになった事を意味する
かつて江南デルタの開港場に集中していた貿易利権は、北から南に至る各地の開港場に分散します。これらの変化は、開港場を取り巻く各地方の地域ごとの経済圏の現出、地域分業化、ひいては地方分立の様相を呈するようになりました。
外国人が管理した関所税のレポートは、不完全ながらも清帝国側の輸入超過を記録しており、当時の清の官僚たちは入超による国富の流出に警戒感を抱くようになります。李鴻章のスタッフたちが提起した対策としては、西洋流の保護関税の導入、および国内での近代産業の振興ですが、いずれも利害関係が複雑に錯綜していたため、20世紀までは実現しませんでした。
- ▼保護関税の実現を妨害する利害関係
- 欧米列強は、関税自主権に伴う不平等条約の撤廃の見返りに、釐金の減免を求めたが、清帝国にとっては総督・巡撫の権力(督撫重権)を維持する経費、治安維持費の調達になっていたから、とうてい応じられるものではなかった。
- ※欧米列強は、「釐金=事実上の関税障壁」と理解していたらしい
- ▼富国強兵&殖産興業(洋務運動の遂行)を妨害する利害関係
- 日本では、国家体制そのものの近代化や産業構造の高度化といった変化の一環として、富国強兵と殖産興業があった。
- 中国では、洋務運動は督撫重権を維持するために実施されたのであり、現代中国と同様、権力側の利権構造の一環として組み込まれていた。そのため清帝国内部の経営において、異国のごとく異なる社会階層に属した底辺庶民たちのニーズを掴む事ができず、需要と供給の食い違いが長期化し、期待するほどの利益を上げられなかった。
- また、投資資金を集めて運用するルール(株式)が確立されておらず、軍需工場のような大規模工場を建築し経営するための資金の確保が困難化した。
- ※政府の公金支出には限りがあった/民間で公司(カンパニー)を設立して資金を出し合う方法では、法の監視が行き届かず、共同出資者の誰かに資金を持ち逃げされるリスクが高まっていた(民間マネーは不足しがちであり、企業投資に対する保証といった習慣も皆無だった。巨大な経済格差がもたらした、もう一つの困難であった)
近代経営のための解決策として、官辨(官督商辦)という方法が採られました。
すなわち国営企業というスタイルです(軍需工場は、ほぼ国営)。民需企業の分野では、経営実務を民間に任せ、政府はそれを監視するというスタイルになりました(故に、官督商辦)。
※合股=民間で新しく広がった企業経営の習慣。出資者が利権を一定額ずつ等分し、1年ないし3年の年限で運営する。出資者はほとんど地縁・血縁・知友で、連帯無限責任を持ち、外部の専門の経営者に経営実務を担当させた。経営者は、経営利益とは無関係に、限られた年限の中で出資者に利益配当や貸付利息を支払う義務を負った。これは企業経営において大変な負担を強いるものであった。従って、大規模化した国営企業に対して、民族資本は零細企業の規模に留まった(紡績業が多い)。ちなみに浙江財閥は巨大な民族資本であるが、これは買辦企業から発展したものである。
しかし、当時の官僚登用システム(科挙制度)は経営実務能力を問うものでは無く、必要な手腕を持つ人材に欠けていた事は確かです。李鴻章らは、洋務運動の一環として、科挙とは別の教育機関や留学制度を試みていますが、余り効果は無かったと言われています。
それ程に、伝統的な「官/民」の身分差は大きいものでした。能力のある庶民が専門知識や技能を修得したとしても、身分差という障害があったため、「末は博士か大臣か」といったような立身出世は不可能だったのです。また、官僚子弟たちにとっても、科挙に比べると処遇上のメリットは薄かったようです。
洋行帰りや留学生が優遇された明治日本の人材登用システムとは、非常に異なっていたと言えます。
日清戦争(1894~1895)の後、事態は急展開しました。
多額の戦費および賠償金の調達のため、従来とは桁の違う莫大な金額が動きました。これらの費用は、民間からの更なる収奪の他(=この収奪で民間は更に困窮し、義和団事件などの暴動が相次ぐ)、主に列強からの借款によってまかなわれました。その担保として、列強は、清帝国から、関税収入の他、鉄道や鉱山の利権を獲得します。
ここには、清帝国内部の構造に対する誤解があったらしい事が指摘されています。当時の清は、各地方の関税や鉄道、鉱山の管理に関しては直接にタッチしていません。これは地方官僚(地方政府?)の税収権限であると共に利権であり続けてきたものです。中央が関与したのは、地方の表面的な「国富」を動かす事だけでした。
しかし、各地方の関税や利権が「担保」と見なされた事により、存在しなかった筈の「清の中央政府」が実体化しました。「清の中央政府」は、地方官僚から各種の税収権限を没収し、中央財源としたのです。地方にとっては、「中央による収奪」でした。
これまで曖昧だった国富管理の権限の明確化・差別化は、中央と地方との間に、深刻な対立を生じるようになって行きました。清帝国内部は、地方軍閥割拠という様相を呈しました。
※最も典型的だったのが満洲の軍閥政権です。満洲では大豆が貿易取引の主力商品になりました。華北各地の開港場で起きていた貿易取引量の増大と共に、著しい経済成長を遂げます。中央からの分立状態は大きく、満洲の実質的支配者として権力を振るったのが、張作霖でした。張作霖政権は、100種以上の民間私幣を整理統合し、「奉天票(紙幣)」という満洲共通通貨を発行しました。
当然、清朝末期の中国知識人は、この有様について「中央集権的な統一国家、国民経済の進展に逆行する」と批判はしましたが、彼らもまた地方有力者の一であり、その行動は、在地権力の支持に向かいました(=つまり、「地方の群雄割拠をいっそう固定化する」事につながっていました。発言と行動が、互いに逆だったのです)。
孫文が主導した辛亥革命(1911)は、この「群雄割拠に向かうベクトル」の一つだったと言えます。実際、辛亥革命の後、13省が相次いで「独立」を宣言しています。
清朝末期の混乱を彩り、そして清滅亡に結びついたのは、こうした中央と地方の対立でした。
元・李鴻章の部下であった袁世凱は、清朝政府の中央集権化プロジェクトに協力しつつも、多くの政変を切り抜けて独自の権力基盤を構築し、辛亥革命においては、清朝の弱体化を見越して、孫文と手を結びました。袁世凱が予期したとおり、孫文をリーダーとする中華民国は支持基盤が弱く、清朝・宣統帝(最後の皇帝)の退位と引き換えに、袁世凱を孫文の後任として迎える事になりました。
しかし、多くの地方軍閥は袁世凱政府という新たな中央集権プロジェクトに反発し、第三革命(1916)を起こしました。袁世凱は失脚、および死亡し、その後は、地方軍閥の抗争の時代となります。
(1914年、第1次世界大戦が勃発すると袁世凱政権は中立を宣言したが、日本はドイツ基地のある青島を占領、翌15年に袁世凱政府に対し「二十一カ条の要求」を提出。5月、最後通牒を突きつけられた袁世凱政府は要求を受諾、激しい非難を受ける。袁世凱は帝政宣言を発して乗り切ろうとしたが、反・袁世凱運動として第三革命が発生、日英露仏の列強も帝政を支持しなかった)
袁世凱が清朝から引き継いだ形となった中央集権化プロジェクトの一つに、大陸全土の共通通貨(国幣national currency)「袁世凱銀元」の発行があります。これは、雑多な地方通貨の整理統合を目論むものでもありました。
袁世凱の死後、この「銀元」を兌換紙幣として、中国銀行券(中央銀行券)が継続的に発行されました。皮肉な事に、袁世凱の死をもって葬り去られる筈だった、この中央銀行券が地方通貨を駆逐し、ひいては地方軍閥割拠の状況を打開する事になります。
※第一次世界大戦で莫大な国費を失った西洋各国は、財源枯渇により金本位制を放棄。それまで下落が続いていた銀価は一転して急騰し、中央銀行の財源(元は関税など、金額がハッキリしている部分)に余剰金が生じ、中国では政府銀上昇、民間銭下落という状況となった。従って、中央政府発行の銀行券は財源余剰によって信用の裏づけが強化され、中央政権が起こした国債が成功するという画期的な結果をもたらした。折りよく、上海を中心とした内地で、民族資本の黄金期と言って良い程の活況(バブル経済)を呈したため、この中央銀行券は大量に流通した。