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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書ノート『テロと救済の原理主義』

『テロと救済の原理主義』小川忠・著(新潮選書2007)

2001年の同時多発テロ事件は、全世界における反イスラーム感情を決定的にした。

イタリア・ベルルスコーニ首相(当時)はドイツ・シュレーダー首相(当時)と会った後、次のように語った:

我々は人権と宗教の尊重を保障する価値体系からなる我々の文明の卓越性について意識的であるべきだ。こうした意識はイスラーム諸国には確実に存在しない

一方、9.11テロ以前から欧米による歪んだイスラーム理解を告発してきた中東出身の思想家エドワード・サイードは次のように論じる:

『イスラーム報道(1981出版)』より
欧米メディアは簡単に"イスラーム"と一括りにするが、イスラームを一枚岩的に捉えるのは間違いである。"イスラーム"という言葉が欧米メディアで使われる時、そこにはフィクション、イデオロギー上のレッテル貼りという要素が含意されている。欧米が語る"イスラーム"と、実際にアジア・アフリカで暮らす8億以上の民衆、多様な歴史、地理、文化、価値を担うイスラーム世界とは、真に意味のある直接的な繋がりは何も無い

◆イスラーム原理主義を生んだカリスマ思想家:サイイド・クトゥブ

サイイド・クトゥブ(1906-1966絞首刑により死)は、今日、スンナ派イスラームの「原理主義の父」と呼ばれる。彼の生み出した思想は、多くの若者たちをテロ活動に走らせたのみならず、クトゥブの存在そのものも、自爆テロをも辞さぬ若者たちにとってのカリスマ殉教者となっている。

実際、武力行使も辞さない急進的なイスラーム主義思想には、今なお「クトゥブ主義」という名が冠されている。それ程に彼の思想は、スンナ派イスラームにおいて、急進勢力の思想的バックボーンとなっているのである。9.11テロの首謀者とされたオサマ・ビン・ラディンもまた、クトゥブ思想に染まった一人であった。

「9.11調査委員会」は、次のようにクトゥブ思想の根幹を成すテーマを要約した:

イスラーム教徒を含めて、ますます多くの人間が「ジャーヒリーヤ」の物質的享楽の道に搦め取られ、「ジャーヒリーヤ」は世界を支配しようとしている。サタン、すなわち「ジャーヒリーヤ」に対して妥協の余地は無く、全てのイスラーム教徒は武器を取って戦いに立ち上がるべきである。この神聖な戦いに加わろうとしないイスラーム教徒は、「ジャーヒリーヤ」に与する者であるゆえ、彼らもまた打倒されなければならない。

オサマ・ビン・ラディンは、このテーマの中から、クトゥブ自身が語りすらしなかった大量殺人の論理を正当化する要素を引き出したと言われている。

◆サイイド・クトゥブを生んだエジプト、その時代背景

エジプトは古くからイスラーム圏における指導者的大国としての地位を保持し続けており、その最高権力者であったナセル(1918-1970/1958年、エジプトとシリアから成るアラブ連合共和国を建国してその初代大統領に就任)やサーダート(1918-1981/共和政エジプト第3代大統領,第2代アラブ連合共和国大統領,初代エジプト・アラブ共和国大統領)は、アラブ世界の盟主として、英米やイスラエルと渡り合った。

エジプトのアズハル学院は、970年に設立された世界最古の大学として知られており、中東のみならず南アジア、東南アジアからもイスラーム学を学ぶために多くの留学生がやって来る。そして彼らは帰国後、母国のイスラーム指導者として活躍している(例:インドネシア、アブドゥルラフマン・ワヒッド元大統領)。エジプトはアラブ世界、イスラーム世界の学術・文化の中心であるが故に、近代欧米との接触・摩擦においても、他のイスラーム諸国に先駆けて、その矛盾や葛藤を自らの内部に抱え込んで、苦しむ事になった。

クトゥブが生きた時代、エジプトは英国植民地支配から名実共に独立し、世俗民族主義による国民国家が樹立された時代であった。長らくエジプトに君臨してきた王制も廃止された。近代化への期待は高まったが、やがてその期待は、エジプト政治の汚職や腐敗と共に、失望と幻滅へと変わって行った。

1918年、第一次世界大戦が終わり、民族自決の機運が高まった。その1年後、10歳のクトゥブは、父親のカイロ移住に伴い家族と共に移動し、カイロで中等・高等教育を受ける事になった。そこでの教育は、かつての伝統的なものでは無く、近代的価値・合理性を教える近代教育機関であった。

クトゥブは、もっぱら英文学に傾倒し、後には、西洋文明、個人主義、リベラリズム、近代主義に関する論考を残した。同時に、エジプト独立を志向する穏健派民族主義政党・ワフド党の党員であった(=すなわち、世俗民族主義者であった)。長じてクトゥブは1940年代のエジプトの論壇で名声を博し始めたが、同時に、英国植民地支配下エジプトの傀儡政府の無能・腐敗に対する舌鋒は鋭かった。

1948年、クトゥブは大きな転機を迎える。彼の舌鋒をもてあました政府(文部省)が、近代教育制度の習得の名目で、クトゥブを米国に留学させたのである。クトゥブは親米知識人としての成長を期待されていたのだが、結果は逆となった。クトゥブは西洋文明に対する激しい疑義を抱き始めた。

クトゥブにショックを与えたのは、アメリカ社会における「物質主義」「人種差別」「性の乱れ」であった。クトゥブはこれらの欠点を、西洋近代がもたらした政教分離の弊害と理解した。

キリスト教世界では、教会は信仰の場とされる。ところが米国の教会には全て揃っているが、信仰だけが無い。単なる娯楽施設と何処が違うのか。せいぜいのところ、アメリカ人は教会を楽しい時間を過ごす集いの場、社交の場程度にしか考えていないのだ。これは一般大衆に限った事では無い。教会と聖職者さえもそう考えているのだ。/『私が見たアメリカ』
我々自身の法の源をフランス法に求めるべきでは無いし、社会秩序の源を西洋や共産主義の理想に求めるべきでは無い。まず最初に我々が成すべきは、我々のイスラーム法にそれを求めるべきである。何故ならイスラーム法こそ、我らが原初社会の礎であったからだ。/『イスラームにおける社会正義』

クトゥブは、イスラーム法は近代的な社会を統治する機能を十分に備えていると語り、イスラームの優位性に自信が持てない、西洋に対する劣等感に縛られた同胞たちに向かって、イスラームの優位性を高らかに宣言したのであった。いわゆるイスラーム原理主義は、欧米的・近代的価値体系を吸収した、その中から発生したのである。

イスラームに傾斜してエジプトに帰国したクトゥブは、ますます欧化政策を進めるエジプト政府に見切りをつけ、イスラーム原理による社会建設を進める「ムスリム同胞団」に入団した。当時のエジプト政府は、政府方針に従わぬ「ムスリム同胞団」を反政府集団として、その創設者を暗殺していた。その「ムスリム同胞団」は、1952年にエジプト政府を打倒した「自由将校団」を率いるアラブ民族主義者・ナセルと友好関係を築いていた。

アラブ民族主義の英雄ナセルは、その後、1953年に王制を廃止、革命評議会を作り、1956年に大統領に就任する。ナセル大統領は、スエズ運河を国有化し、第二次中東戦争での政治的勝利をもって英国からの完全独立を果たし、エジプト・アラブ世界のリーダーとなった。

ナセルは軍人であり、確固たる世俗主義ナショナリストであった。宗教といえども国家に服従するべきと言う信念の持ち主であった。権力獲得のために同盟関係を結んだ「ムスリム同胞団」を、必要が無くなれば切り捨てる事を、ナセルは躊躇しなかった。1954年「ムスリム同胞団」は非合法化され、メンバーは過酷な弾圧を受ける。

「ムスリム同胞団」の有力者サイイド・クトゥブも逮捕され、15年の強制労働という重刑を受けた。1955年、刑務所内で多くの同胞団員が虐殺される事件が発生し、クトゥブは世俗国家権力への憎悪を募らせて行く。イスラーム原理主義の基本となるクトゥブ思想の、多くの著作は、獄中で書かれた物である。

その後、クトゥブは監視付きで一度は釈放されたものの、1964年、武装集団による非合法的国家転覆の容疑で再び逮捕され、1966年に絞首刑に処された。

クトゥブ思想は、「イスラームの大義から外れた政権は打倒されなければならない」と主張しており、エジプト政府は、その内容の危険性を恐れたのである。他のイスラーム諸国から助命嘆願が出ていたにも関わらず、クトゥブを抹殺すればその思想も消えるとエジプト政府は期待していた。

しかし、クトゥブ処刑の後、その非人道性に憤激した若者たちが、後年のジハード団やアルカイダを組織した。エジプト政府の期待とは裏腹に、クトゥブ思想に基づく急進的イスラーム原理主義は、その二世・三世を生み、拡大の様相を見せたのである。

◆クトゥブの代表的著作『道標』

ジャーヒリーヤ(無明の闇)に覆われ、終末の危機を迎えた世界の中で、人類を救済するための、イスラーム革命の先陣を切る「前衛」たちに示す"道標"として書かれた物と言える。過激派原理主義の特質、すなわち「終末観的世界認識と救済思想」の条件を満たす内容である。

以下、『道標』に書かれた各種の主張:

人類が危機に瀕しているのは、(核戦争による)全滅の時が迫っているからでは無い。それは単なる兆候に過ぎず、本当の危機は、実際の進歩のために必要な根本的な価値を見失っている事なのだ。人類文明の先端を行く筈の西洋社会でさえも、人類を導く健全な価値観を提起する事が出来ず、混迷を深め、没落の道を歩んでいる。

今求められているのは、新しい指導力だ。人類が未だ発見しえていない高い理想と価値を人類に与えてくれる指導力。積極的、建設的かつ実用的な生活様式を人類に示す指導力。まさしくイスラームのみが、そうした価値、生活様式を提示しうる。

現代の社会生活において、ジャーヒリーヤが色濃く覆っており、物質的享楽や高度な発明をもってしても、無知を減じる事は出来ない。ジャーヒリーヤとは、神の主権に対する叛意であり、現世において、神の主権を人間に譲り渡す事である。人間が人間を支配する事は、神の主権に対する重大な侵害だ。現代のジャーヒリーヤは、古代のジャーヒリーヤと比べるとより複雑で、神の権威への叛乱は、彼の創造物である人間に対する抑圧、という形を取って現れる。

物質主義を追求する西洋文明に対して、イスラーム文明は時代に合わせて多様な形態を取るが、その原理、価値は永遠であり不変である。イスラーム原理の中核を成すのは、「アッラー以外に神は無し」という神の唯一性への信仰に他ならない。

そして、神の唯一性への確固たる信仰、物質主義に対する人間の優越性、獣的な欲望の抑制、家族への尊敬、イスラーム法に基づく神の代理人による統治などが、イスラームの社会統治原理である。こうした原理こそが、無明の闇に漂う人類に対するイスラームのメッセージである。

人類を救うイスラーム統治原理は、具体的な形を取ってこそ意味があるのであり、まずイスラーム諸国において、その実践が行なわれなければならない。故に、幾つかのイスラーム諸国において真のイスラームを復興させねばならない。

そのために先頭を切って行動を巻き起こさなければならない。イスラーム復興の大事業は、どのように始めれば可能となるのか。

現代社会を覆うジャーヒリーヤの大海を泳ぎ切り、確固たる決意を持ってイスラームの大義の道を行く前衛たちが必要である。その過程にあっては、ジャーヒリーヤから適度な距離を取りつつも、関係を保つ事も必要なのだ。

※アルカイダは、過激派の中にあっては、イスラーム革命の先陣を切る前衛とされている※

イスラームは主体的に行動する権利を有している。イスラームは特定の民族や国家の遺産では無い。それは神の教えであり、全人類に向けられたものだ。それを妨害し、人間の選択の自由を抑圧する、組織や伝統と言う形を取って現れる全ての障害物を粉砕する権利をイスラームは有している。イスラームは個人を攻撃したり、信仰を強要するものでは無い。イスラームが攻撃するのは、人間を抑圧する組織や伝統であり、人間性を歪め、自由を侵害するその悪影響から人間を解放するためにイスラームは攻撃を仕掛けるのである。

イスラーム原理を達成するための手段は問わない。必要な新しい技術、手段は取り入れて行く(場合によっては、武力的対応でさえも)。欧米による植民地支配体制のみならず、イスラーム教徒を自称しながら国民の自由を弾圧し、個人崇拝を求めるようなナセルの如き世俗民族主義、つまり人が人を支配するような暴政は打倒し、イスラームの教え、神の主権に基づく新しい社会経済体制を樹立しなければならない。

※ただし、神の代理人は、聖職者を想定していない。世俗民主主義や共産主義のように、世俗の政府・党が神の代理人を務めるのも、「人が人を支配するジャーヒリーヤ故の統治形態」であり、間違っている。あくまでも、「イスラーム法」に基づく、イスラーム共同体からの民主的選出の代表者による統治機構を貫徹しなければならない。人が人を支配するような暴政は打倒しなければならないのである。我々は、純粋にコーランに行動指針を求め、宗祖ムハンマドの黄金時代を実現しなければならない。このようにして宗教が浄化されれば、イスラーム法に基づく健全な道徳や社会秩序が可能になるのだ。

※ムハンマド時代の後のイスラーム思想には、ギリシア哲学、論理学、ペルシア思想、ユダヤ教・キリスト教神学などが紛れ込んでいるため、コーラン理解の際の参考にしてはならない。コーランに行動指針を求める際には、「イジュティハード(章句解釈)」を用いて、時代状況ごとに、適切かつ戦略的に解釈するべきである。イスラームの敵は、イスラーム教徒を自称する者たちの中にも紛れ込んでいる。彼らも宗教の敵として打倒すべき対象である。

現世における神の支配の樹立、人による支配の廃絶、簒奪者から神の主権を奪還し、イスラーム法に基づく統治を敷き、人定法を放棄する事は、説得のみで達成する事は不可能である。神の主権を簒奪し、神の創造物(人民)を抑圧する者どもは、説得によってのみでは権力を手放そうとはしないであろう。

・・・神の主権を樹立する事は、単に理論的、哲学的、消極的な宣言を発する事では無い。それは、神の法をあまねく天下に行き渡らせ、人々を圧政から神の御許に解放する積極的、実際的、ダイナミックなメッセージである。説得と運動なくして、これを実現する事は不可能である。それゆえに、あらゆる実際の場面において、適切な手段が講じられるべきである。

イスラームとは、神を除いて、この世のあらゆる権力から人間解放を宣言する宗教であるが故に、人間の歴史のあらゆる局面、過去、現在、未来において、信仰の妨げとなる思想、物理的権力、政治・社会・経済・人種・階級体制に対決するのである。

◆日蓮主義とイスラーム原理主義の比較/血盟団事件に底流する思想

ウィキペディア「血盟団事件」より:
血盟団事件は、1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した連続テロ(政治暗殺)事件。当時の右翼運動史の流れの中に位置づけて言及されることが多い(※1932年の五・一五事件も、この流れの中にある)。
茨城県大洗町の立正護国堂を拠点に政治運動を行なっていた日蓮宗の僧侶である井上日召は、1931年、彼の思想に共鳴する近県の青年を糾合して政治結社「血盟団」を結成し、性急な国家改造計画を企てた。その方法として彼が考えたのは、政治経済界の指導者をテロによって暗殺してゆくというものであった。「紀元節前後を目途としてまず民間から血盟団が行動を開始すれば、これに続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」というのが井上の構想であった。井上日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名を、「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」として標的に選定し、配下の血盟団メンバーに対し「一人一殺」を指令した。
血盟団に暗殺対象として挙げられたのは犬養毅・西園寺公望・幣原喜重郎・若槻禮次郎・団琢磨・鈴木喜三郎・井上準之助・牧野伸顕らなど、いずれも政・財界の大物ばかりであった。

中野孝次・著『暗殺者』岩波書店より(小説を通じて心理考察)

非人間的行為を非人間的と名づけるのは、何ら積極的な行為ではない。それはしばしば、ニヒリスティックな自己憎悪に対するアリバイ以外の何物でも無いからだ(ドイツ小説家ノサック)。
彼らのあの「暗い偏執の匂い」は一体何に由来するのか。・・・
わたしは思い浮べる。かれらが生れ育った土壌を。かれらが突きだされていった先の社会を。そのなかでかれらをとらえた思い、絶望、怒り、無力感を。そこからかれらが脱出原理として縋りつくにいたった思想を。かれらを支えた誇りと狂信を。それは決して別の世界のことではない。わたしやわたしの肉親や友人たちが生き呼吸していたと同じ状況の中にあったものであって、かれらもまたただふつうの生活者の一人だったはずである。

血盟団の一行を狂信的な日蓮主義者として済ます事が出来ないのは、彼らを支援したのが決して一部の軍人たちだけでは無かったからだ。彼らの裁判が始まった時の世論には同情論が強く、30万の減刑嘆願書が寄せられている。

昭和初期の当時は、世界大恐慌に発する長期不況、農村の疲弊、貧富格差の増大と労働紛争の激化など、社会の激変と混乱が続いていた。血盟団の思想的指導者・井上日召は、「昭和維新」という世直しにより民衆を救済する、命をかけた「不惜身命」の行動こそ宗教的実践と説いた。血盟団が唱えた右からの革命は、借金による一家離散や口減らしのために娘を売りに出すと言った苦難にあえいでいた農民たちにとって、声を発する事が出来ない彼らの声を代弁する物だったのである。

作家・岡村青氏は、井上日召に焦点を当てた著作『血盟団事件』の中で、次のように考察している。

戦前の日本において日蓮主義者から多くの国家主義者が出た宗教的背景として、日蓮主義者の殉難・殉教の精神が挙げられる。つまり仏の永遠性は、現実社会の中で苦悶する民衆を救うという「菩薩行」、その実践を通してその真価が問われる、と日蓮主義者は考えた。己の誇りと信念をかけて、仏の慈悲・利他的感情に基づく「一殺多生」を奉じた国家主義者の心情は、その実、自爆テロリストと変わらない物であった。

※大正~昭和初期は、高等教育を受けた近代的中間層・テクノクラートが大量に形成された時代でもある。社会混乱と不安が続く中で伝統的な尊厳や位置を見失い、孤独に漂流する多くの若者たちが、「国家とは何か/社会とは何か」について考え出し、「善く生きたい」「人のために生きたい」という、責任感や公共善の意識を高揚させていたのも、また事実であった。

◆近代の影を直視した夏目漱石による著作『こころ』より

「かつてはその人の膝の前に跪ずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
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