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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書覚書:中国の中間層:民変と士民公議

資料=『世界歴史体系 中国史4 明-清』神田信夫・編、山川出版社1999

明末清初の税役問題の処理には、国家権力ないし中央の一方的意思のみによっては決定しえず、地方の世論が様々な形で提起され、政策に影響する状況が看取される。特に不当、あるいは不平等な負担が強いられる場合、抗議・要求する民衆が実力行使に出るのを「民変」と言う。

明末、直接に経済的利害をめぐって発生した大規模な民変としては鉱税の賦課、およびその徴収にあたった宦官以下の誅求に抗議して運河沿岸や江南の諸都市で起こったものが有名である。

このような大規模なものの他に、税役負担をめぐって、府県レベルで小規模な民変が発生している。とりわけ、郷紳の優免特権による負担の甚だしい不平等に起因する徭役問題=「役困」の解決では、均田均役と呼ばれる改革が明末清初に進行するが、湖州府などで民変が発生している。

このような民変は、負担が集中する中間層、つまり或る程度の資産を有し、担税能力ありと認定されているが郷紳身分を持たない庶民身分の階層がリーダーシップを取っていたと思われる。このような中人層は、実際において、下級読書人層、特に官僚身分を獲得してはいないが科挙の第一段階を通過した「生員」層と、重なり合う存在であった。

士大夫の末端に位置する生員層には、わずかながら優免が与えられていたが、雀の涙であった。生員層にはかろうじて「館師」=住込家庭教師で生活を支えている者も少なくは無かったが、やはり貧困の細民は少なく、相当の資産を有する者が多かった。従って、重い役負担に悩む者が少なくなかった事は、史料にしばしば見出されるところであり、徭役改革を求める運動の主導者となるのである。

このような階層が展開する運動は、必ずしも実力行使の形を取るとは限らず、むしろそれは事態が順調に進行せぬ場合の例外的状況であったと考えられる。むしろ彼らは、公開の場に会同して問題を検討し、解決策を形成する方途を追求する。それは主に府学・県学、時には城隍廟や大寺院を会合場所とする、知府、知県など官憲との会議として現れる。

往々にしてそこには郷紳が出席し、更に古風に「耆老(きろう)」或いは「父老」と表現される、庶民身分の有力者も出席する。全国については確認できないが、少なくとも江南デルタはじめ華中・華南の相当の県でこのような慣行が定着しつつあり、「士民公議」或いは「地方公議」と呼ばれるようになる。

このように明末には、中央集権的権力の一方的な統治・支配には収束されぬ、県を単位とする地方政治の場が成立しつつあった。それは一面、経済力を背景とする「地方」の「中央」に対する成立と見る事も可能であろう。

「士大夫」と概念的に区別される社会存在としての「郷紳」層の成立も、このような県を場とする政治社会の形成と相関していた。このように、「郷論」が形作られる場のヘゲモニー(人々の合意に基づく指導権)を握ったのが、郷紳層であった。彼らのうち東林派に表現される開明派は、変動する社会・経済に対応して、安定しかつバランスの取れた秩序を極力維持すべく(端的には民変などの生起を防止すべく)、理不尽で恣意的な収奪や特権享受を自制すべき事を説くのである。

明末の著名な思想家・顧炎武が「封建論」=地方分権論を説いて、財政・人事・立法などの権限の地方分与を主張し、また黄宗羲が「学校論」=地方公議論を説いて、天下・地方の大事は宰相・地方長官が国子監・府県学に学生を集めて検討すべき事を語ったのも、決して彼らの思弁のみの空想の産物ではなく、当時の社会の現実を反映していたのである。

清初、生員層が政治を談ずる事は厳禁された。統治能力を喪失しつつあった末期の明朝と異なり、精気に溢れていた初期清朝は、このような地方公議の芽を摘んだのである。しかしともあれ、郷紳、或いは紳衿層の合意の上で知県の治政が実現する構造は、明末以降の大勢となっていたと言えるであろう。

※以上、この部分の文章は奥崎裕司・著※


《感想》・・・明末期にちらほらと現れていた地方公議システムが、文明を変容させる力を持っていたかどうかは不明ですが、こうした民間の変容は、「清の登場がもっと遅かったら?/清がもっと無能で弱小な支配者だったとしたら?」という可能性を感じさせるものでした

清は秘密警察を使って地方の実情を探っていたと言う話があり、秘密結社のルートを使ったとしても、明末期に続いて地方公議が発展してゆくのは難しかっただろうと思います

長く続いた支配にも関わらず「漢族っぽくない」という違和感が清帝国に付いて回ったのは、このような、人民の間での自然な変化を強力に弾圧し続けたと言う行動のせいだったのであろうか、と想像しました

地方分権については、清末期に二度目のチャンスがあった筈でしたが、その時にはもう、西洋列強や日本との渡り合いで、それどころでは無かったのだと考察するところです

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