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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書覚書:明の亡命民(知識人)

資料=『世界歴史体系 中国史4 明-清』神田信夫・編、山川出版社1999

多くの読書人たちが、清軍に対して勝ち目の無いレジスタンスを続けた。明末清初の時期は、知識人にとって受難の時代であった。従来、知識人は学問をし、道徳を説いておれば良かった。しかし、この戦乱の時期には、学問や道徳では国家の危機を救うことのできない事に気付いた知識人たちは、絶望的なレジスタンスを戦ったわけであった。

《日本へ亡命した遺民》

明の滅亡前後に、「夷狄」清朝に屈従する事を嫌って、日本へ亡命した知識人たちがいた。中でも有名なのは、浙江余姚(よよう)県出身の朱舜水であろう。彼は明朝が滅亡するや、抗清レジスタンスに参加し、中国・ベトナム・日本の三角貿易に従事し、日本へも何度か来た事があったらしい。鄭成功の南京攻略戦に従軍したが、明朝復興の到底不可能な事を悟って、1659年、7度目に長崎を訪れたまま、再び帰国せず、日本に亡命した。1665年には水戸藩へ迎えられ、水戸光圀はじめ、水戸学派の学者たちと交わり、大きな影響を与えた。

浙江仁和(にんな)県の戴曼公(たいまんこう/諱=笠・りゅう)は明末の生員であったが、明朝滅亡後は戦乱を避けて医術に従事し、ことに痘科(天然痘)の治療を得意としていた。夷狄の清朝のもとにあるのを嫌って、1652年に長崎へ渡来して、日本での亡命生活を送った。周防の吉川侯にもちいられた。晩年、隠元に従って剃髪し、名を性易(せいい)と改めた。張斐文(諱=斐・ひ)も浙江余姚(よよう)県の読書人であったが、明朝の滅亡後、天下を遊歴して、ひそかに愛国の志士と交わり、明朝の復興を図ろうとしたが、結局なすところなく、日本の援助を求めようとして来日したが、成果をおさめることはできなかった。

陳元贇(ちんげんぴん)は浙江杭州の出身で、万暦年間に進士に合格したと言われる。1621年春、中国沿海における倭寇の横行に抗議するため、長崎に渡来した。1638年に再び来日したが、長崎に着いて間も無く重病にかかり、そのまま滞在しているうちに明朝が滅亡したため、帰国を断念して日本へ亡命する事になった。後に尾張藩に召しかかえられ、学問や文学の才能を発揮した。また尾張公の命で、安南風の陶磁を製作し、後に「元贇焼(げんぴんやき)」と呼ばれた。

僧・隠元は福建福州で生まれ、生地の黄檗山万福寺で出家して、臨済禅を学んだ。その後、各地の名寺を巡歴し、修行、布教を続け、明朝滅亡の翌々年に万福寺に戻ってきた。同寺に留学していた日本の僧・逸念(いつねん・長崎興福寺の住持)の勧めに応じて、1654年、多くの従僧と共に来日した。その際、彼がわが国に伝来した隠元豆は有名である。翌1655年、京都妙心寺の龍渓に招かれて、摂津富田林(大阪府)の普門寺に住したが、彼の名声は天下に知れ渡るようになった。将軍徳川家綱は1658年、彼を江戸に招いて引見した上、山城国宇治郡大和山(京都府)に寺地を与えた。隠元は4年後、ここに黄檗山万福寺を創設した。彼の郷里の寺と全く同名であった。久しくマンネリズムに陥っていた日本の臨済禅に大きな刺激を与えた。ただし、4年後には弟子の木菴(もくあん)に住職をゆずって隠棲した。万福寺の建築様式は、当時の中国の禅寺の建築様式をそのまま移入したもので、極めて異国情緒に富んでいる。

浙江金華出身の東皐心越(とうこうしんえつ)は曹洞宗の名僧で、西湖の傍の永福寺に住していたが、明朝が滅んだ後、来日の意思を抱いていたところ、長崎県興福寺の住持澄一(ちょういつ)に招かれて、1677年に長崎へ渡来した。やがて徳川光圀に認められて、1683年に水戸へ移り、天徳寺の住職となった。彼は書画・篆刻に巧みで、また江戸の仏教界に明朝式の法式(ほっしき)を伝えた事で有名である。

※以上、この部分の文章は山根幸夫・著※


《感想》・・・お味噌汁などでお馴染みの具、インゲンマメの由来にオドロキです

清朝が野蛮だったかと言うと、そうでも無かったようです(ただし、処刑などの方法は、やはり無惨なものだったらしい)。異民族の王朝成立という出来事に対する知識人の様々な反応として、考えさせられるところがあります。辮髪の風習が、なかなか受け入れがたい物であったという事も、レジスタンスが続いた理由だという話

清朝の支配は、かなり長く続いたという事が知られていますが、「漢族的なもの」とビミョウにずれ続けていたらしいというのは、すこぶる興味深いところです(明朝の支配は、比較的に武断政治的なものだったようですが、極めて「漢族っぽい」と受け取られていたらしい)

清末の洪秀全は、キリスト教に染まり「太平天国の乱」を起こした知識人として有名ですが、反乱を起こす際、辮髪を拒否して長髪に変えたと言うエピソードがあり、「社会文化の定型的なサイン」としての「髪型」の重要性に、改めて思い至るところであります

下に引用した「恐怖に対する反応」の考察を更に延長してゆくと、大陸の一般の人民は、「巨大で理解不能なこちらの思惑を解しないおそるべきもの(=異民族王朝)」に対して、辮髪などの風習を受け入れて服従のサインを示す、つまり「長いもの(恐怖の対象)に巻かれる/自分が恐怖そのものになってしまえば、恐怖を恐怖と感じなくなる」というパターンが多かったのでは無いかと考察するものです

中国料理と言えば「満漢全席」です。歴史的には色々あったようですが、流石に胃袋の方では、異文化の出会いが上手く行っていたようです


日本人的感性による「クトゥルフ神話」プレイ=http://simizuna.exblog.jp/2686614

日本での「クトゥルフ神話的恐怖」の位置づけ

…一方日本でそういった「理解出来ないものがもたらす恐怖」とか「大いなる神は害をなすことがある」といったようなものが「恐怖の対象」として成立するかというと、そもそも日本というのは中国という巨大な怪物と常に渡りあってきた(後の時代には、それは西欧諸国だったりいまだとアメリカがまさにそうですな)という歴史的経緯があるため
・巨大で理解不能なこちらの思惑を解しないおそるべきもの
というのは単に、
・理解して何とか共存すべく交渉すべき存在
として捕らえられることになり、そうやって理解されたものはすでに「恐怖の対象」として成立しないことになります。日本のこういったスタンスを現す典型的な言葉として「和洋折衷」という言葉があります。あるいは、日本と中国の折衷料理として「卓袱料理」なんてものもあります。これは日本自体の地理的状況もありますが、日本に浸透している仏教的考え方の影響も大きいと思われます。キリスト教では別の世界の神とか概念といったものはすべて「悪魔」とか「異教」とか言って排除にかかりますが、仏教の世界ではそれらは仏教の神様の一つとして組み入れられていく、というスタンスの違いがあります。
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