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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

華夏大陸:分裂と統合の末の完結

五代十国時代:後梁初期における各地自立勢力の出自

華北地方

  • 晋:李克用:突厥沙陀部族長⇒河東節度使(太原府)⇒895晋王:5藩23州
  • 燕:劉仁恭:廬竜軍軍校⇒廬竜軍節度使(幽州)⇒909燕王:2藩12州
  • 岐:李茂貞:神策軍軍校⇒鳳翔節度使(岐州)⇒901岐王:8藩20州(のち2藩7州に後退)

四川地方

  • 前蜀:王建:塩賊⇒軍卒⇒剣南西川節度使(成都府)⇒903蜀王:9藩48州

江南地方

  • 楚:馬殷:木工⇒軍賊⇒武安軍節度使(潭州)⇒907楚王:3藩22州
  • 呉:楊行密:群盗⇒廬州軍卒⇒淮南節度使(揚州)⇒902呉王:5藩9州
  • 呉越:銭鏐:自衛団首領⇒鎮海軍節度使(杭州)⇒907呉越王:2藩11州
  • 閩:王審知:軍賊⇒武威軍節度使(福州)⇒909閩王:1藩5州
  • 南漢:劉隠:広州軍卒⇒静海軍節度使(広州)⇒909南海王:3藩32州
  • 荊南:高李興:商家下僕⇒朱全忠部曲⇒荊南節度使(江陵府)⇒924南平王:1藩3州

《以上、資料は『世界歴史体系 中国史3 五代-元』(山川出版社1997)より》


北魏以来、鮮卑系の遊牧騎馬民族の部族連合体としての勢力図を強く残していた隋唐帝国には、中央直轄の軍隊、つまり近代的な意味で言う「国軍」が存在しませんでした。軍閥・節度使といった、地方有力者の軍事力に抑止力を依存したため、反乱や外敵侵入に対応する際、指揮系統が混乱していた事が指摘されています。

五代十国時代は、中央の権威の弱体化に乗じての、節度使の群雄割拠の時代とも言えます。五代政権は、唐の中央官制と節度使の権力構造とを折衷した物となりました。

節度使の政権運営は、各地方における、軍部(軍閥)による政権掌握であると言う事も出来ます。多極化などの時代変化に伴い、多くの令外官が設けられました。禁軍(中央直轄の軍・親衛隊)の編成は、この変化に伴う物でした。

傭兵中心の軍が禁軍その他の軍部組織(≒国軍)に繰り上がったため、兵士は「民間からの徴用」では無く、給料を出して雇う、公務員的な存在となりました(『水滸伝』に出て来る兵士は、国家から給料をもらっている存在と語られています)。

必然として、国家財政における軍事費(人件費を含む)の割合は、唐帝国のシステムに比べると劇的に増大しており、重い負担となったという事が指摘されています。

なお、五代政権の中央官制と禁軍編成は少しずつ改編しながら宋代に受け継がれましたが、宋代になると武人の権限は大きく縮小され、再び「皇帝」の下、文人支配体制に移行して行きました。

この五代十国時代に起きた重要な変化は、華北・華南の人口分布が、古代とは様相を異にしていたという事、そして共通通貨としての銅銭の重要性が増していたという事です。

華北地方は、ユーラシアとつながる西域(シルクロード)を通じて襲来して来た数多の異民族の間で揺れ動き、綱渡りのような不安な政情が続いたため、人口流出が続きました。それに対して、長江デルタにあって水運が発達し、大量の人口を支える肥沃な土地が広がっていた華南地方では、群雄割拠があったものの経済的繁栄が続いたため、更なる人口流入が生じていたのです。

代々の帝国の戸籍からの推測ではありますが、以下のような変遷であったようです:

  • 前漢末(2頃)…北90%弱、南10%強
  • 晋代(280頃)…北60%強、南40%弱
  • 隋代(606頃)…北77%、南23%
  • 唐代(742頃)…北57%、南43%
  • 北宋(1080頃)…北35%、南65%(おそらく史上初の1億人超という推測がある)

五代十国時代における十国の国境線は、宋の統一後も広域行政区である「路」として継承されました。その後、元の中書行省(元帝国の独自の地方行政区画)を経て、現在の民族自治区を除く地方行政単位である「省」の境界にそのまま引き継がれます。

現在、この「省」が、地理的条件、風俗・習慣・言語(方言)、広域経済ブロック単位として機能していますが、それは、五代十国時代に由来を求める事が出来るのです。

五代十国時代は、特に華南地方(江南地方)の経済的躍進の時代でありました。各地方に分裂した勢力が、おのおの地元の経済振興策に集中したという側面があり、各地で地場産業が成長するきっかけになりました(特産品の創出など)。生産力の南北格差の始まりです。

地場産業(塩、茶、絹、綿、製紙、陶磁器、木工・竹工雑貨等)の生産物や物資は、 新興都市である「鎮(商業の拠点となる都市)」に集荷され、付加価値のついた商品になって広域流通圏の販路に乗り、 国境を越えて流通しました(大陸全土で起きた変化ではありましたが、華北よりも華南の方が活発でした)。

このような広域流通の発達は、必然として、共通通貨としての貨幣を、より強力に必要としました。銅銭は古代の頃から、高額商品を金や絹で決済すると言う実物経済の補助として使われていましたが、安定した唐の時代を経て、華夷秩序が及ぶとされるアジア圏(朝貢諸国)での、国際決済通貨(朝貢諸国におけるハードカレンシー)としての圧倒的なパワーを持つに至っていたのです(銅本位制)。

この「共通通貨」は、後の時代、イスラム諸国を降し世界帝国となったモンゴル帝国(元)の下で、ユーラシア諸国の経済活動と更に深く結び付きました(当時の西洋はイスラム経済の影響を大きく受けており、金銀複本位制。なお、イスラム諸国では銀鉱脈枯渇・精錬用の木材の減少のため銀不足が起き、アフリカ産の金貨が多くなりました。経済発展に伴う貨幣が十分に供給できず、小切手が一般化し、銀行業が発展していたと言われています)。そして更に後の、いわゆる大航海時代においては、スペイン・ポルトガルが主導した「銀」が、グローバル経済の基準となっていました(銀本位制)。

五代十国時代の群雄たちは、財政を左右する銅銭の確保に必死になった事が指摘されています。富国強兵政策を維持するため、群雄たちは様々な経済振興策を図り、商品作物を輸出して銅銭を輸入したり(後の時代、日本が宋から大量の銅銭を輸入したのも、この銅本位制の流れを受けたため)、ライバル国の交通網を封鎖したりしていました。

自国発行の銅銭の改鋳によって貨幣価値を切り下げ、この差から生じる対外的な利(輸出有利&為替有利)を得るという事も、商業経済が成長し続ける華南の諸勢力の間では、盛んに行なわれていました(より低品位の貨幣、つまり鉄銭・鉛銭の併用もありました)。対して華北勢力は、経済規模が小さい割に傭兵への俸給は大きい(軍の規模も、華南諸勢力に比べ相対的に大きいものだった)という条件があったため、商業振興よりも農業振興に集中し、銅本位制にこだわったと言う事が指摘されています。

五代十国の間に通貨は地域ごとにバラバラになり、租税の制度や流通手続きは煩雑になりました。この過度の貨幣市場の分裂が、群雄割拠を終わらせるきっかけともなりました。あたかも古代の秦帝国のように、統一政権による共通通貨の一元化が求められたのです。宋が天下統一を成し遂げたのは、地域差を容認しつつ着実に均一化を進めたためという指摘があります。

都市の光景もまた、大きく変わりました。唐代の間、平和が続いたため商業が発展し、それまで政治中心であった謹厳な古代都市は、「不夜城」とも呼び習わされるような娯楽を含んだ商業都市へと変貌を遂げていました(特に「揚州」が有名)。

古代においては長安・洛陽が即ち首都であるという認識がありましたが、貨幣経済の発達、流通の発達に伴い、富が通過する場所も移動していました。流通の大動脈たる大運河を擁する場所、即ち「開封(汴京)」が、機能的な面から新しい首都として認識されるようになりました。

伝統的な都市構造から見ると、「開封(汴京)」は、中心部が妙に傾斜し、内城・外城の至る所に商業施設が進出した異例なタイプの都市と言えますが、同時に、今日の都市に随分近い雰囲気でもあったろうと思われます。五代十国時代から宋の滅亡まで首都であり続けた都市でしたが、金の侵攻により運河が荒廃し南北分断されると、富の集積地としての機能を失いました。その後は運河の再建はあったものの、再び首都の座に返り咲く事はありませんでした。

宋代には既に、商人活動を制限する古代の「市制」が崩壊していました。特に「瓦市(がし)」と呼ばれる歓楽街があり、酒楼、演芸場、飲食店などの店が出ており、白話文学(後の『水滸伝』や『西遊記』の元となる)や戯曲(『西廂記』、『琵琶記』)などの都市文化が育まれました。

都市の商人たちは「行」と呼ばれるギルドを作り(手工業者の場合は「作」)、多くの場合は同郷単位で団結していましたが、仏教や道教といった伝統的な民間信仰を通じて団結したり、媽祖信仰や白蓮教のような新興宗教を通じて団結したりする場合も多かったようです。これらの組織は、それぞれ固有の守護神を持っていました。

農業に関わる民衆の仲間内の団体の場合は、「社」と呼ばれていました。例えば水利施設は元々国家管理下にありましたが、おおむね唐代末期の頃、国家のあり方が古代の頃から変容すると共に、民衆が組合を作って施設を管理するようになったのです。

こうした「行」「作」「社」といった民衆の団体は、王朝交代の混乱期に際し、強力なカリスマ指導者を得ると容易に秘密結社と化し、自分たちの土地を防衛するために、或いは混乱に乗じて利を確実にするために、しばしば反乱に加わったと考えられます(勿論、情勢によっては、その逆のケースもあったと思われます)。

隋の時代の大運河の建築に始まる交通網の整備、及び流通の進展が、貨幣(共通通貨)経済の普及拡大と共に大陸の各地方を重層的に結び付け、国家そのものの変容、都市と地方のあり方の変容を促していたのです。

この変容は、「古代そのままの中華(華夷秩序)世界観の拡大」に強固に裏打ちされていた事もあって、大陸の分裂混乱期を劇的に短くする方向に作用しました。

実際、古代における分裂混乱期としての魏晋南北朝&五胡十六国時代は、300年から400年も続きましたが、唐宋変革期における分裂混乱期としての五代十国時代は、ほんの50年ほどにしかならなかったのでした。

地域ブロック単位の群雄割拠としては、五代十国・宋の時代が最後と思われます。この分裂の時代を最後に、華夏大陸は、国土としては分割不可能な広域ブロック単位として完結し、遼・金といった、陸続たる征服王朝の帝国となったと考える事が出来ます。

偶然かどうかは不明ですが、帝国の名乗りの由来や解釈も一変しました。従来は地名に由来する帝国名を名乗りましたが、新たな征服王朝である「元」の国名は、『易経』の「大いなるかな乾元」に由来していると言われています。そして、続く「明」は火徳とされ、「清」は水徳とされています。

いささかオカルト的な話になりますが、五行説で言えば、「元」から新たに始まった征服王朝の並びは、「相剋」の関係になります。この関係に従うと、どうやら「中華民国」は土徳、「中華人民共和国」は木徳のようです。古代の帝国が、王朝交代に際して「相生」の繋がりをこじつけた事と比べると、実に対照的ではあります。

「文明におけるパラダイム・シフトという側面から見ると、如何な物か?」という疑問は、無きにしも非ずです。唐宋変革において分裂と混乱の時代が続いたにも関わらず、知識人(≒士大夫)の定義や、科挙に伴う社会的・人生的成功に相当する「富貴のレイヤー」がいっそう固定された事は、重要です。中断の期間はあったものの、1000年を超えて、清帝国の末期まで強固に続くという伝統的な社会構造。それはやはり、「大いなるかな乾元」が示した、〈後シナ文明〉の文明的完結の姿であり、「一つの終わりと始まり」であったと申せましょう。

〈中華の投げ網〉に呪縛された帝国。古代都市の時代から続く、強固な華夷秩序に憑依されている世界観(及び宇宙観)と、都市に集中する富貴(或いはエリート文化)志向。

中国史上の反体制運動の指導者となった知識人として、唐末期の黄巣、清末期の洪秀全などが有名ですが、彼らが科挙試験の優秀な落第者であった事実は、「華たる者のプライド」という心理的コンプレックスと合わせて、様々に考えさせられる物があると申せます。

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