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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

華夏大陸:北魏:支配民族の交代と確執

〈後シナ文明〉の第一原理を「シナ化都市化」とすれば、第二原理は「正史の編纂」と言う事ができます。異民族による王朝乱立が続いた事は、「正史の編纂こそが中華王朝の正統な後継者の証である」と言う認識を強固にする方向に作用したのです。

(魏晋南北朝における王朝の乱立は、後々まで続く「正閏論」の争いを生み出しました。「正閏論」が最も隆盛を見せたのは宋の時代の事ですが、いずれにせよこの「正閏論」を制する事が、〈後シナ文明〉における中華王朝のアイデンティティを左右するようになったのです)


439年、鮮卑の拓跋氏族が建てた北魏が華北を統一し、135年続いた五胡十六国時代は終わりました。鮮卑の天下が確定した華北では鮮卑系諸族が定着し、鮮卑系の農耕も始まりました。その過程で多くの亡命漢人、ひいては漢の文化習慣をも受け入れてゆき、有力者層の中でも混血が進んだのです。

しかし、このような急激な民族シャッフルは、鮮卑諸族と漢族との対立を先鋭化し、情勢を不安定化させる要因でもありました。漢族が勧める儒教や道教だけでは、多くの鮮卑諸族と漢族の連合体であった北魏を安定させる事は極めて困難だったのです(北魏は、鮮卑を上位とする国家運営を望んだ)。

この王朝(北魏)の創設から終焉までを始終彩っていた歴史人類学的な主題――その都市化と文明化とシナ化との三位一体の歴史現象の展開過程に絶えず顕現していた中国農耕文明と北方遊牧文化あるいは都市的文明と放牧原野の文化との対立、端的に文明と野性との鋭い対立拮抗が、(晋・洛陽の都での抑留・滞在の間に急激にシナ文化に染まってしまっていた)太子拓跋沙漠汗殺害の伝承のうちにほぼ象徴的な形姿で物語られている/大室幹雄・著『干潟幻想』三省堂1992
(北魏・太武帝に重用されていた漢人官僚)崔浩は漢-シナ教養人の誇りにかけて仏教を嫌悪した。彼の妻は太原の郭逸の女(むすめ)だったが、生家の宗教として仏教を信仰して釈典を好んでときおり読誦することがあった。すると崔浩は怒って釈典を取り上げて焚き、その灰をご丁寧にも厠中(かわや)に捨てるほどだったと伝記は語る。仏教嫌悪に理由はそれが「胡神」、化外の異国の野蛮な神だというので、この明快単純な理由によって、妻や親戚縁者の信仰に神経質な反感をつのらせ野鄙な嘲弄を加えるのを信条としていた。 /大室幹雄・著『干潟幻想』三省堂1992

華北を統一した太武帝の曾孫にあたる孝文帝は、494年に、北魏の首都を平城(大同)から洛陽に移し、遷都と同時に遊牧民の服装を禁止し、朝廷で遊牧民の部族語を話す事も禁止して、漢人の服装と漢語の使用を強制します。また、遊牧民と漢人の融和を図るため、遊牧民に漢字一文字、二文字の姓を名乗らせ、漢人有力者の家を指定して遊牧民の貴族と同格に扱い、遊牧民と漢人の婚姻を奨励しました。

鮮卑系のシナ化・中央集権化は、皇帝の「中華宇宙論的な意味での権威を高める」という目的のもと、「憑依」的な過程を辿ったという事が、大室幹雄氏によって指摘されています。中華宇宙論の魅力に「憑かれた一革命家」としての孝文帝の姿の部分を、大室幹雄・著『干潟幻想』三省堂1992より引用:

太和20年(496)正月丁卯、皇帝家の姓拓跋を漢-シナ風に元と改め、同時に平城から移住した功臣や旧族の複姓もまた漢-シナ式に改めよとの詔が発せられた。その詔はいう、「北人は土を呼んで拓といい、后を跋という。わが魏王国の祖先は黄帝から出て、土徳を以って王となった。故に拓跋氏というのである。夫れ土は宇宙の時間と空間の中心の色であり、万物の元〔根源〕である。宜しく姓を元氏に改めるべきである。また諸功臣旧族の代〔平城〕より移住した者で、姓が重複しているならば、全員それを改めよ」

北魏の新しい価値観として導入されていたのが仏教です。最初は鎮護国家などの呪術的効果が期待されていました。歴代の鮮卑系の皇帝は、「漢族による〈シナ文明〉の世界観を超越し、なおかつ鮮卑上位の胡漢複合を支える世界観としての仏教」への期待の元に、仏教を篤く信奉し続けたのです(三武一宗の法難を除く)。

北魏には「皇帝即如来」という国是があり、当時の都・平城(大同)の郊外にある雲崗の石窟に彫られた大仏(弥勒仏)は、皇帝に擬せられていたという事です。華北仏教は、クマラジーヴァ(鳩摩羅什、亀茲出身)などの影響を大きく受けていました。

漢族の「儒教(北シナ的・大陸的)-道教(南シナ的・海洋的)」が構成する中華世界観に対して、仏教とは即ち、中原の〈シナ文明〉を、新たに覆い尽くそうとする上位的な文明的世界観として解釈することができます。しかし、華北仏教は、中原において特権的な地位を打ち立てようとする鮮卑系諸族の王権神話に変貌を遂げて行ったと言う側面もあったのです(こうした華北仏教の複雑な性格は、後の唐・武周革命において、奇妙にねじれた影響を与える事になります)。


◆以下、大室幹雄氏の著作からの、とても長い引用になりますが(汗)、異文化間の衝突・確執の歴史として、余りにも興味深いので記録しておくのです。北魏の後、同じ鮮卑系王朝たる唐帝国の天下のもと、則天武后の時代に起きた仏教イデオロギーの席巻と比較すると、「シナ化都市化」の進行度合いも含めて、なお興味深く思えてきます◆

北魏の中で進行した異文化間の確執…シナ・イデオロギーと仏教イデオロギーの衝突/『干潟幻想』中世中国の反園林都市/大室幹雄(三省堂1992)より

北中国の統一に成功した440年、太武帝は太平真君と改元したが、この道教風の元号の選定は、即位当初は父祖以来の習俗として仏教を尊崇していた皇帝が、崔浩および彼と親交を結んだ道士寇謙之を政事と軍事に重く用いる過程で道教に深く染まっていったことを表している。つとに皇帝は崔浩たちの勧説によって天師道壇とか静輪宮とかいった、道教信仰を直接に表象する一連の建築を平城に建設してもいたのである。
崔浩は漢-シナ教養人の誇りにかけて仏教を嫌悪した。彼の妻は太原の郭逸の女(むすめ)だったが、生家の宗教として仏教を信仰して釈典を好んでときおり読誦することがあった。すると崔浩は怒って釈典を取り上げて焚き、その灰をご丁寧にも厠中(かわや)に捨てるほどだったと伝記は語る。仏教嫌悪に理由はそれが「胡神」、化外の異国の野蛮な神だというので、この明快単純な理由によって、妻や親戚縁者の信仰に神経質な反感をつのらせ野鄙な嘲弄を加えるのを信条としていた。その崔浩に仏教を徹底的に叩きつぶす絶好の機会がやってきた。
太平真君6年(445)9月、廬水の胡人蓋呉(がいご)が杏城(陝西省中部県)で民衆を集めて叛乱を起こした。翌月、長安の鎮副将元紇(げんこつ)が討伐に向かって逆に殺され、意気あがる蓋呉と民衆は渭水を渡って南山へ走ったのである。叛乱は拡大して、年末には蓋呉が天台王を自号し、百官を署置するほど強大になるのだが、翌る7年2月、自ら西伐に向かった太武帝が長安に滞在した。そのとき、ひょんなきっかけで長安の仏教寺院に弓矢矛盾といった武器が大量に蔵されているのが発見され、皇帝に報知され、皇帝は沙門たちが蓋呉と通謀している証拠であると激怒、その寺院の捜査を命じたところ、醸酒用の道具だの近辺の大官や富人による寄蔵物が夥しく現われ、屈室つまり穴蔵式の密室をつくって高貴な家の妻や女たちと沙門が淫乱を行なっていることまでが露見した。皇帝の憤激。崔浩はそれをとらえて、長安の僧侶を誅殺し、仏像を破壊焚焼する詔を発せしめ、ついで全土一円、長安の例に従って仏教を禁圧する詔を出させた。曰く「彼の沙門は、西戌の虚誕に仮り、妄りに妖孽(ようげき)を生み、政化を一斉して淳徳を天下に布(し)く所以に非ず。王公より已下、私に沙門を養う者有れば、皆く官曹に送りて隠匿するを得ざれ。今年2月15日を限り、期を過ぎるも出さざれば、沙門は身死し、容止する者は一門を誅す」――妻や知人たちの仏教信仰に向けられた崔浩の反感、嘲弄、嫌悪といった個人的な感情が皇帝の権力と権威を通過したことだけによってそっくりそのまま全領土内に拡充していった次第が理解されるであろう。
そしてこの翌月に再度下された詔も、仏教排斥のはなはだ単純な論点のうちに、崔浩の神経症的な国粋主義の心情がほぼ肉声のまま露呈している。「昔 後漢の荒君(明帝)は信じて邪偽に惑い、妄りに睡夢に仮り、胡の妖鬼に事(つか)え、以って天常を乱す。古より九州の中に此無きなり」とまず詔は宣言する。すなわち(一)仏教はもと九州=中国土産の教えではなく、(二)異国の妖鬼の幻惑であり、社会秩序を乱し、(三)その教説は誇大放誕で非現実的であり、(四)末世の闇君乱主がそれに眩惑され、 (五)結果として中国固有の伝統たる「政教は行なわれず、礼義は大いに壊れ」、「王者の法」は廃れてしまった/しまうであろうというのが批判の主論点であった。
論旨は単純きわまりないけれど、それを現実化するのは現存の国家の権力だったから、その単純明快にもかかわらず/ゆえにこの批判の効果は巨大だった。この詔が発布されるや、王国全域にわたって「胡神」撲滅が断行された。すなわち地方行政組織を駆使し、軍隊まで出動させて、沙門は少長となくすべて処刑し、仏像や仏典は焚焼し、寺院や僧房や仏塔を破壊し尽くしたのだった。
【別の章より、崔浩の人となりについて説明する文章は以下の通り】
…太武帝に仕えて仏教撲滅を敢行した崔浩である。「経史」を博覧し、卜易やオカルトにも精通して、戦略家としての己れの才能を過大に評価していた崔浩はつねづね自身を漢の張良に比擬し、学識においては彼を凌駕していると自負していたのではなかったか。加えて、これもまたすでにわれわれの知悉していることであるが、崔浩は彼が学者として古代の馬融や鄭玄らに卓越しているという、孝文帝が堯・舜より秀れているとする咸陽王の讃辞と同一の論理と心性に発する追蹤的な讃美に呪縛されもした。すなわち、太武帝の宮廷官場に、北中国残留の漢-シナ人官僚の勢力を拡張することに熱心だった崔浩は、当然彼の周辺に漢-シナ学者-官人の閉鎖的な利益集団を形成した…
この異国文化撲滅の運動にむける崔浩の位置は明白であるだろう。仏教が彼にとって憎悪の対象であるのは、それが胡神の信仰、外来の文化だったからであり、彼のうちにはそれに対抗し、それを凌駕する絶対的な文化として「政教」「礼義」「王者の法」への確信、つまり儒教の伝統があった。仏教対儒教の対立は崔浩の時代の社会にあって、漢-シナ人たち、とりわけ彼のような士大夫文官つまり知識分子にとっては多かれ少なかれ意識せざるをえない問題に違いなかった。前述のように、太平真君元年あたりを漠とした境として崔浩の現実理解に失調が生じたのは、仏教対儒教の対抗関係において、彼が儒教の側に彼自身や寇謙之など漢-シナ人だけを置くことに限定せず、もともと鮮卑族の胡人で胡神を信仰しており、現にそのライフスタイルは依然として遊牧的であり、また征服異民族たる皇帝太武帝までを儒教の側――漢-シナ人の少数者が信奉する残留博物館化の著しい中国文化の中へ取り込んでしまったことである。反対に皇帝からすれば、仏教弾圧の一事に関する限り、本来彼にその必然性はまるでないのに全国規模の大弾圧を断行してしまったのは、彼が崔浩の偏執的エスノセントリズムの中へあまりに深く引き込まれてしまったことを意味した。記録に残された太武帝の二度の詔というのが、どちらもほとんど崔浩の肉声というべき仏教嫌悪に彩られているのはその証明である。このことは早晩太武帝が崔浩の自民族中心主義の国粋的心情から自らを分離し、従前の我から望んだのでもない崔浩との強い一体化にたいする反動として、彼自らの鮮卑拓跋族の草原文化とそのエートスに回帰して、終局的に崔浩にたいして復讐的な打撃を加えることを予測させもするだろう。歴史の現実はこういうわれわれの予測を裏切りはしなかった。
全国的な仏教弾圧が行なわれた4年後、太平真君11年(450)6月、崔浩は太武帝によって誅殺された。

――中略(歴史編纂において鮮卑族を侮辱したことが原因で、崔浩は皇帝の怒りを買って殺されたらしい?)

(けれども)北人鮮卑人の反感の歴史的かつ文化的な諸要素はほぼ明らかといってよかろう。端的にいって、それは崔浩と彼が宮廷官界へ呼び込んだ漢-シナ人の廷臣による都市化、文明化、この場合ならとりわけシナ化に向けられた土着の草原遊牧文化の反動であり反撃にほかならなかった。歴史家たちが指摘するように、漢-シナの士大夫の出自を絶対とする崔浩は、たとえば国史撰述を総監した2年後に、笵陽の廬玄、博陵の崔綽、趙郡の李霊、河間の邢穎、勃海の高充、広平の游雅、太原の張偉など、彼同様に北中国の漢-シナ人社会で高門著姓として認められている貴族たちを太武帝の宮廷に引き入れた事実が示すとおり、魏・晋の時代に彼らの父祖が享受していた門閥貴族が支配する社会と政治の復興を企図したのでもあろう。だが、こういう崔浩の願望や企図は、主君太武帝が国家建設にかけた意志とは当然食い違っていた。皇帝の意図は漢-シナ文化を摂取しつつ、鮮卑拓跋部族が主人であり、彼らを中心に構成された独自の新しい国家を作り上げることにあったらしいからである。これもまた歴史家たちが指摘しているように、けれども老年に入って、崔浩は自分が魏王国の牧童頭の倅に過ぎなかったこと、功績を挙げて王国の頂点近くに攀じ登りはしたものの、彼が招致した同胞の高門貴族たちとひとしく、彼自身も騎馬遊牧民の制服王朝にあっては宿生木でしかなく、宿生木が大輪の花々をにぎやかに樹冠のあたりへ咲かすわけにはいかないことを失念してしまったのに相違ない。さきに崔浩は彼の教養と文化によるシナ化の効力を過信するあまり、北魏王国の文明化や平城の都市化をただちにシナ化と思いなして絶対視したと記したゆえんである。拓跋族北人たちの崔浩たちへの反撃が数年前の、崔浩の発議にかかる仏教弾圧にたいする怨恨によって助勢されたであろうとは容易に想像される。こうして太武帝に見捨てられた崔浩は、70の高齢で彼の一族、清河の崔氏一門ともども誅殺された。崔浩一族の誅滅が彼個人に向けられた怒りや怨みの直接的な帰結だったのはむろんだが、それ以上に、彼を代表とする漢-シナの士大夫たちとその文化にたいする北人たちの反感と敵意の表出であったことは、皇帝により族誅されたのが崔氏一族に限定されなかった事実によって知られる。すなわち崔浩と婚姻の縁があるという理由で、笵陽の廬氏、太原の郭氏、河東の柳氏といった大姓が族滅され、また崔浩の勢力下で働いていた属官や下級吏員までが五族に及んで夷滅されて、記録は、こうして粛清されたものは128人に達したと伝えている。
だが、歴史の可笑しさというべきか。崔浩による崔浩風のシナ化を圧しつぶした皇帝、太武帝も無事では済まなかったのである。父明元帝、祖父道武帝と同じように、その王国の文明化の過程で、彼もまた文明の害毒によって生命を奪われてしまった。ただしその害毒には、父祖を中毒死させた寒食散が文明の腐敗の一小部分でしかなかったのと違って、中華の文明の堕落であるのか、それとも精粋であるのか、いちがいには判定しがたいようなところがあったのである。すなわち、彼の王国もシナ化の一環として王宮制度の内部に宦官組織を組み込んだのだが、太武帝は自身が寵愛して中常侍に引き立てた宦官宗愛に弑殺された。崔浩を粛清した翌々年(452)、そのとき皇帝は45歳であった。
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