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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書ノート『存在の大いなる連鎖』

『存在の大いなる連鎖』アーサー・O・ラヴジョイ/晶文社1989内藤健二訳

端の文より:

ヨーロッパの知の歴史は、プラトンに対する膨大な脚注の歴史に他ならない。宇宙は、あらゆる生物と無生物とで充満する、連続した存在の梯子である――この「存在の大いなる連鎖」としての宇宙概念こそ、プラトンの『共和国』『ティマイオス』に現れ、ヨーロッパの知の未来を決定付けた一粒の偉大なパン種であった。
この宇宙における「充満」と「連続」の原理が、アリストテレス、トマス・アクィナス、コペルニクス、ケプラー、ライプニッツ、カント、スピノザ…らの知的エネルギーを二千数百年にわたって吸引し続け、人々に、別の銀河系宇宙のありうることを純理論的に推論させ、顕微鏡の発明以前に微生物の存在を確信させた。それは、哲学をはじめ、文学、天文学、生物学、物理学など諸学問の発展をうながし、人間の精神の地平をひらく強力な梃子であり続けたのだ。…(以下略)

「存在の大いなる連鎖」を支える三つの原理はギリシャ哲学の観念の創始から始まる:

  • プラトンのイデア説…正しく形成された概念はすべて客観的実在にしっかりした根拠を持つ。真の知識は主として「すべての表徴はその内容として個々の現象ではなくて普遍的関係を含む」。事物の分類、および概念と論証の首尾一貫した論理体系
  • 連続の原理…自然は、無生物から生物へ極めて徐々に移って行くので、その連続が境界を曖昧にする。両者に属する中間種がある。自然は感知できないほどの微細な段階的変化を含む
  • 充満の原理…宇宙は可能な限りのあらゆる種で充満しており、欠けているものは無い(欠けているものがあるように見えるとしたら、それは、我々がまだ完全な宇宙を知らない故)

☆18世紀における諸分野での観念の開花

存在の連鎖としての宇宙の概念とこの概念の基礎となる諸原理――充満、連続、階層性――が最も広がり受け入れられたのは18世紀であった。これは、はじめはいささか奇妙に思われる。
その発生をプラトンとアリストテレス、そしてその体系化を新プラトン主義者に負う観念の集合が、そんなに遅まきの結実を遂げたことは驚くべきことに思われるかも知れない――特に18世紀の初めから大体四分の三世紀の間には、これらの仮定に敵意があるものが知的な流行の中には多くあったので。勿論アリストテレスの権威は失われて久しかった。スコラ哲学とその方法とは、「啓蒙」を自慢する者達の間では軽侮と嘲りの対象であった。
思弁的なア・プリオリな形而上学に対する信仰は衰えつつあり、(厳密にはベーコン的な方法はともかく)ベーコン的気質、忍耐強い経験的な探究は科学においては勝ち誇った行進を続け、教育のある人々一般の大多数の熱狂の対象であった。
そして存在の連鎖の概念は、それを支える仮定と共に、経験より引き出される一般論ではないことは明らかであり、実際、自然の既知の事実と調和し難くもあった。
それにもかかわらず、あらゆる種類の著述家――科学者と哲学者、詩人と通俗的な随筆家、理神論者と正統的聖職者――が存在の連鎖についてこれほど語ったり、それと関係がある諸概念より成る一般的枠組みをこれ程暗黙のうちに受け入れたり、それらの諸概念から潜在的な意味または明らかな意味をこれ程大胆に引き出した時代は今までにない。
アディソン、キング、ボリングブルック、ポープ、ハラー、トムソン、エイケンサイド、ビュフォン、ボネ、ゴールドスミス、ディドロ、カント、ラムバート、ヘルダー、シラー――これらの人々すべてとそれ程偉大ではない多くの著述家がこのテーマについて詳細に述べただけではなく、それから新しい、以前には避けられていた結論を引き出した。
その一方ヴォルテールとジョンソンは、奇妙な戦友となって、この概念全体に対する攻撃の先頭に立った。「自然」という言葉に次ぎ、「存在の大連鎖」が18世紀の聖なる言葉となり、19世紀後半に「進化」というめでたい言葉が演じたのとやや似た役を演じた。
この概念が18世紀に流行したのは恐らくギリシャや中世の哲学の直接の影響に主に由るというのではなかった。何故ならその名声と影響力がその後の50年間に最大であった17世紀後半の二人の哲学者によりこの概念は主張されていたからである。この昔からの命題を繰り返す際に、ロックはライプニッツほど雄弁ではなかったが同様にはっきりしていた。

☆「存在の大いなる連鎖」という観念に伴う文章(主に詩)

我々から落ちゆくもの、消えゆくもの
いまだ実現されざる世界をさまよう
ものの持つ全くの不安――
シェリー「アドネイス」
一なるものは残り、多は移り過ぎ行く、
天の光は永遠に輝き、地上の影は飛び去る
ポープ(18世紀)
存在の巨大なる連鎖よ、神より始まり、
霊妙なる性質、人間的性質、天使、人間、
けだもの、鳥、魚、虫、目に見えぬもの、
目がねも及ばぬもの、無限より汝へ、
汝より無に至る。より秀れしものに我等が
迫る以上、劣れるものは我にせまる。
さもなくば、創られし宇宙に空虚が生じ、
一段破れ、大いなる階段は崩れ落ちよう。
自然の鎖より輪を一つ打ち落とせば、
十分の一、千分の一の輪に関わらず
鎖も壊れ落ちよう。
ジェイムズ・トムソン「四季」
誰か見たか
存在の偉大な鎖が、無限な完全なるものより
荒涼たる深淵である無の瀬戸際まで降り行くを、
そこより驚きし心は、おののきて、後ずさりするを。
ヤング
私は目覚め、目覚めつつ夜の輝ける階段を
天球層から天球層へと登る。同時に誘惑しまた助け、
すなわち彼の目を誘惑し、壮大な思想を助け、
万物の目的に達するに至るために自然が置いた階段を。

《存在の連鎖の諸概念がもたらしたもの》

1.世界の配列への相反する姿勢――自然物とりわけ生物の間にするどい分類と明瞭な分化を目指す/種という観念全体は、便利ではあるが自然の中に対応を持たない区分を人工的にこしらえたものに過ぎない(例えば我々は、プードル犬と猟犬とがスパニエル犬と象と同じくらい分かれた種ではないという理由が分からない)

2.博物学者は、連鎖の中でミッシングリンクと思われるものを充たす種類を探し求めた(例えば化学分野では、周期律表で欠けている元素を探し求める研究が活発になった)

3.顕微鏡生物学による微小なものの発見と確認(充満と連続の両原理に経験的な確証を与えるように思われた)。望遠鏡による宇宙深部観測の進行は、上方への連鎖を追認する行為(「無限の数の宇宙」とその宇宙の中の天体の数が無限であると言う仮説は中世に登場済み)

4.存在の連鎖の時間化としての宇宙進化(充満の原理の時間化)理論の登場

5.創造的進化論(ロビネーの議論)…この漸進(進歩の諸段階)は終わってはいない。人間を構成する形態よりもっと微妙な形態と、人間を構成する力よりももっと活発な力があるかも知れない。なるほど活動力は物質性すべてを目に見えぬほど少しずつ除去し、新しい世界を造ることができるかも知れない――しかし可能性の無限の領域に迷い込んではいけないのだ。

6.シラーの若い時の哲学議論(以前には抑制されていた欲望や美的感受性を正当化するための手段としての充満の原理・多様性の理論的前提。漸近的進化と多様化は一致)…あらゆる種類の完成は、宇宙の充満の中で達成されなければならない。…頭脳が生み出すものすべて、知力が形作るものすべては、天地創造をこのように広く理解した時には、ケチのつけようのない市民権を持つ。無限の裂け目のような自然においていかなり活動も省略され得ないし、普遍的な幸福においては、あらゆる程度の喜びが存在する…

☆「存在の連鎖」という観念の歴史における失敗

存在の連鎖という観念の歴史は――その観念が宇宙の完全な合理的な理解可能性を前提にした限りにおいて――失敗の歴史である。もっと精密にもっと公平に言えば、それは多くの偉大なそしてより平凡な人々によって何世紀にもわたって行なわれた思想の実験の記録であり、今となってみると教訓に富んだ否定的な結果を持っていたことがわかる。この実験は、全体としてみると、人間の知力の最も大いなる冒険の一つである。しかしこの最も一貫し最も包括的な仮説の結果がだんだんと明瞭になってくるのに従って、その困難点も明らかになってきた。そしてその困難点が充分に示されたときに、宇宙の絶対的合理性という仮説はそのせいで信じられなくなってしまった。

1.「存在の連鎖」という仮説は、我々が経験する存在は「時間的」であるという事実と対立する。時間と変化の宇宙は、実在が、まさに存在の論理の中に内在する「永遠の」「必然的な」真理の体系の表現であり結果であるという過程より演繹することもできないし、その過程とも調和することもできないような宇宙である(雛形理論が成り立たない)

2.合理性が完結性として、偶然性すべてを除外することとして考えられる時には、それ自体一種の非合理性になる。何故ならば、こういう合理性は、可能的なものすべてを、共に可能である限り完全に実現することを意味してしまうので、限定したり選択する原理を除外してしまうからである。可能なものの領域は無限である。そして、充分理由の原理が含むものとしての充満の原理は、その含意が徹底的に考え抜かれた場合には、それが適用されるあらゆる領域において無限(無限の時間・空間・無限数の宇宙・無限数の個体etc)にまで及んでしまった(=人間の理性は、理性が通じないだけではなく否定されてしまうような宇宙に直面してしまった/元来、宇宙はどうしようもない矛盾から成り立つ宇宙である)

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