霊と魂に関する論考実験
魂とは「自我の座」である。魂は体の五感、外界、思念、意思、欲望、感情その他の影響をもろに受け、「身体の悩み」とも様々なパターンでリンクする。ネットの海に浮かぶ「あらゆる情報」を処理し、評価し、意志決定し、実際の行動に移すのも、魂の機能である。その結果に、希望、絶望、様々な感情で応じるのも魂の機能である
神道系の言葉では「荒魂」「奇魂」「和魂」「幸魂」などと呼び表すやり方もあるが、とどのつまり、魂の有様は、「人間の心」や「個性」を成すものである
人は、もし鏡というものがなければ、自分の顔や背中を永遠に見ることはできない。魂にも同じことが言える。だから人は、他者の眼を通して、自己を――或いは、己の魂の姿を――認識しようとする
よく「自分探し」ということが言われるが、それは全て、己の眼で己の魂の姿を見極めようという、無謀なまでの企てなのである。「主観」と「客観」の永遠の往復が、「自我」、すなわち、その時空における刻々の魂の状況を形成するのだ。道元が「身心脱落」を重視した理由はここにある。主観も客観も、その時空における、極めて恣意的な選択による、独断と偏見に満ちたものだからだ
魂の相を見極めることは、平易に見えて実に難しい。ひとつの人生をかけるに値する学びである
こうして人間の魂は、生前のあらゆる事象を、個々の応答を通じて学習し記憶し反省し、修行を積み重ねてゆき、「死後の生(=生まれ変わりの後の人生)」にまで前世の課題を持ち越してゆくのである
魂にとっては、「普通」「中庸」という性質・立ち位置を極めるのは、もっとも難しい学びのひとつだ。人間というのは、「個々の魂の特殊性」を出す方が、ずっと簡単なのだ。極右・極左といった、著しく均衡を欠く盲目の思想、ないしシングルイシューが、最も簡単で単純な政治思想・態度である事からも、明らかである
修行を極め、成熟を極めた魂、汎世界の叡智を結ぶ強靭な心のみが、賢人の目指した「普通」「中庸」の境地に到達し得るのである。それは、世界をありのままに、深々と映し出す「明鏡止水」の心でもある
霊とは「神の座」である。「大いなるもの」「神」「地球霊(ガイア)」、世の中にその呼称は様々にあるが、その分け御霊が宿る(或いは、憑依する)座である
もっぱら依り代や御杖代が「神を降ろす」「神が憑依する」という場合は、この霊の憑依機能が関与するのである。依り代の霊と、降ろされる霊との相性が良くなければ、依り代の魂(思考、意識)に混乱を引き起こし、ひいては身体にダメージを与えることになる。霊界の扱いには極めて慎重さが求められるのである。専門の師よりその筋の知恵を学び、修行を積まなければならない
樹木には樹木の霊が宿り、石には石の霊が宿る。それぞれの神社には、それぞれの場に応じた神の霊が宿る。同じように、地球には地球そのものの霊(=ないし地球に存在する全ての霊の集合霊)が宿るであろう。霊は無限に世界の階層を構成し、宇宙の彼方にまでリンクしてゆく
妖怪や精霊は、こうした霊の濃縮した「おぼろな場」が、「この世の実物の機能」に劣らぬ高い機能(目立つ特異性)を示す場合に、この世の事象として感知される。呪術師が使うのはこうした「強い霊場」の力、すなわち「霊威」ないし「霊力」である(=ちなみに、地縛霊、幽霊、未熟霊といったような用法で使う「霊」は、きちんと意味を整理すれば「魂」の方である)
霊と魂とは、「集合無意識」という方法でリンクする。このリンク状態には無限に近い多様なパターンがあるが、我々の意識するところでは、これを一般に「精神状態/意識状態」と呼ぶのである
動物や植物の世界では、基本的には霊の方が支配的立場に立つが(これを「本能」と言う)、人間の世界では魂が霊を使役する場合が多い。これは「人間の魂(意志)」に与えられた特殊事情による
人間の魂(意志)に霊を使役する力(=欲望や執念、煩悩など)があるからこそ、生前において、思いのままに霊的に間違った行為&筋の通らない行為をしうるのであるし、死後も生前に納得せず成仏しなかった魂が「幽霊」、「未熟霊」などとして放浪することもありうるのである。こうした幽霊や未成仏霊が通行人に憑依するということは、そこには、やはり霊の憑依機能があるという事である
更に、人間の思い(魂)が、対象となった「茫洋とした霊場」を濃縮・変容・進化させる場合がある。崇められ続けた「石の霊」が「神の霊」に昇華したり、「ただの犬」が呪術工作によって強力な「犬神(=大抵は祟り神だが)」となったりするパターンである。御守袋に籠った「何か」が、実際に強力な守護の機能を示すという現象などは、その代表格と言えよう
「形を持たないもの」もまた、神ないし、それに近い存在となることがある。ただの「言葉」が、人間の魂の力(思い)が籠もった事によって強い霊威を与えられた場合、それを「言霊」と言うのである